四、産みの苦しみ
パテを片手に立つ。
いいや、もしかするとパレットだったかも。
左手にはパレット、右手には彫刻刀。
筆は口に咥えた方が、ぽい。鉛筆は耳に挟んで、足で電卓を打つ。もしかすると、造形比率を理論的に分析しなくてはなんないかもしんない。
前にはまっさらなキャンバス。もしくは石膏像を作るための土台。あるいは白紙の本。私が物語を書き終えるまでは、決してページが尽きることはない。
「ネェ。カタチヲチョウダイ」
まるでラジオのノイズのようなーー同時に私を求める切実な声。
この部屋はいわゆるアトリエ。様々な道具があった。
パテ、パレット、彫刻刀、筆、鉛筆、電卓、キャンバス、画材立て、石膏、白紙の本、原稿用紙。それらだけではなくて、もちろん色鉛筆、岩絵の具、水彩絵の具、油性絵の具、パンの耳(これはお腹が空いた時にも有効だ。ただしそこについた色彩には目をつぶらなくてはならない)、消しゴム、小刀、刷毛、ハンマー、定規……。見つけたものを洗いざらいに列挙していけば、キリがないくらい、見つけられた種々雑多なものがそこにあった。
電子機器に詳しくはなかったから、デジタルな創作手法に少しでも造詣があれば、デジタルな道具類も揃えてもらえたろうけれど、残念ながら それに何よりアナログの方が好きだったから、この部屋に用意されたものはアナログに限られた。デジタルに挑戦してみたいともう少し念じれば、きっと現れてはくれただろう。けれど私の貧弱な妄想力には過ぎた代物。故障しているかネジが足りなくて動いてくれないと言うオチに違いない。
ーーまあ、つまりはそんな風。
だからなのか、ラジオだって、戦時中のものと言ってもいいくらいに旧式だ。それはさすがに笑ってしまう。戦時中なんて知らない。単語も資料も知ってはいるけれど、実際にその場にいたわけではない。
それでも、戦時中超旧式ラジオを見ていれば、その時に流れていた放送が、時空を越えて聞こえてきそう。
でもーーそこから流れてくるのはあの声。
「ネェ。カタチヲチョウダイ」
前のものとはまるで違っていて、無機質な、合成された、チグハクの電子音。そんな音声、今時分聞かない。いくら私が電子機器に疎くても、さすがにそれは馬鹿にし過ぎ。
それかーー、その音声はやっぱり今時の合成された立派な電子音だったのか。この戦時中超旧式ラジオの電子回路を通ると、過去を中継した未来の音声は、過去にチューニングされて現在に反響する。
「ネェ。カタチヲチョウダイ」
声が急かす。
しかし無機質だから、それは単なる私の受け取り方。
何せ、何をすればいいのかわからない。
これからーー何をしようとしているのだろう。
正直なところ、自分でも分からなかった。
ここがどこなのかはまず不明だし、次に今が西暦何年の何月何日かもまったくもって不明。確かなこととしては、この声の主の彼 彼女かもしれない、もしくは彼でも彼女でもない性別不明年齢不詳住所不定無職の某さまかもしれないーーに、カタチを作って欲しいと請われていて、あれよあれよと言う間にこのアトリエに連れ込まれたということ。いや、あれよあれよと言う間もない。無拍無拍子でここに連れ込まれ、知らないままにこうして創作の道具を手に取って、これからどうしようかと、暗中模索していると言う次第。
これがナニであって、ナニを目指すのか、皆目見当もつかない。
目の前には視認不可な某か。
何かわからない、“何か”が横たわる、立ち尽くす、佇むーーとにかく存在していた。
そう、存在していた。
しかし請われて請け負ったからにはやらなくてはならず、正体不明の某さんには義理も義務もそもそもの関係性も人情もなくとも、解不明であっても取り組まなければ……。
さて、と腕まくり。今までもずっと考えていたけれども、それでも何も進まないのだから腕まくりをしてみて状況に変化をもたらそうと考えた結果だ。そうして腕まくりをしてみたいと考えたら突如として現れてくれた袖の神秘に心を奪われそうになりながら、どうにかこうにか手に取った筆で、何もない空中に一本の線を引いた。
すると、
空中を筆がただ通っただけで何も起こりはしなかった。しかし今度はそれだけの試行では何も起こらないと言うことがわかったということがまず最初の収穫で、それならばとなにか怒れと思いながら空中に線を引いた。
すると、
ラジオから怒り狂った爆音が流れた。
あまりの音量に、思わず耳を塞いでしゃがみこんでしまうけれど、耳を塞いだところで、まるで脳みその中に直接流れて来るノイズは、ひたすらに頭を揺すぶった。
「止めて!」と、本気で止めて欲しくて叫べば、本当に止まってくれたのだから儲けもの。痛んで歪んだかもしれない頭を、抱えてゆする。
なんだか無数のアリが這い回った後のよう。酷く気持ちが悪かった。あんなノイズを聞き続けていたら、きっと健常で精神力の強い人でも、すぐに根を上げてしまうに違いない。
もしくは、ありもしない願望を抱く。
私はその無数のアリさんに食い荒らされたような頭を抱え、すると先ほどまでよりも頭が冴えているような気がした。
ーー気がしただけだ。
しかしノリというものは大事で、その勢いのまま考えなしに空中に筆を走らせた。そこに一本の線。それは真っ青で、まるで空のようでも、海のようでも……。その二つは決して交わらない平行線のようだけれど、その線は、まさしくそうとしか表現できなかった。
と言うのも、これは、この線は、その色合いはーー。
私の望みによって、どちらにでも転んでくれる。
と言うことはーー、と私は私が作らなくてはいけないまだ何も存在のしていない“何か”に、うんうんとうなずく。
「ネェ。カタチヲチョウダイ」
と、それに応えるように、戦時中超旧式ラジオからは声。
私は合点承知とばかりに次から次へと筆で線を走らせる。それは考えなしの行為に過ぎなくて、それでもそうこうしているうちに何かが出来てくれるのだと信じた。それは私が信じるしかないことで、それでも、信じる分には本当で、信じなくては本当にはならない。
調子にノりまくって、空中に書いた何本もの無茶苦茶な線に石膏を投げつける。それは線に沿って拡散し、まるで宙で咲いたまま凍りつく花火。その花火に石膏を次から次へと投げつける。
頭の片隅に残る、ほんの少し冷静な私の部分が、自重しろと言っている気がするけれど、私はむしろそいつを自嘲して(そいつがほんの少しでも冷静な私の部分であるのなら、そいつを笑うのは私を笑うことには違いない)、私自身も危険な躁状態に突入し、そのまま葬になるかと危惧する部分は在るのだけれど、こいつはこのままノリでなければ乗り越えられなさそう。
だから、戦時中超旧式ラジオに、ノリのいい曲を頼む。
リクエスト! と、ヒッチハイクのノリ。
ラジオから流れてきた曲は、まるで調子っぱずれで、そのリズムも歌詞も、まるで聞けたものじゃあなかった。けれど、ただ、何かものすごく訴えたいことを、それを激情に急かされるままに叫んでシャウトしていることだけはよくわかった。
頭が割れそうなくらいに。
私はノせられるがまま、まるでブレーキの壊れた自動車のように(タチが悪いのはソイツがアクセルまで壊れていて、無事なものと言えばウオッシャーくらいのものでして)、坂道しかないコースを、何かにぶつかって壊れてしまうまでは走り続けなければいけないことを悟りつつ、人力で走り続けてみた。
やがて私の人工的で作為的な激情に駆られた造形は、見るも無残で、それでもその幾重にも雑で荒々しく編み込まれた隙間の向こうに、“何か”が透けて、透かしてこちらを覗きこんでいた。
そうした意図を持って作り上げていったわけではなかったけれども、それは卵か繭か蛹か、いわゆるそうしたものの体裁を取るに至り、そこに何が潜むのか、それを推測するのも考察するのも、怖ろしいことのようで、それでいて私は、何を作り上げてしまったのか、まるで私の内面のすべてがそこに閉じ込められてしまったような印象を抱くのだ。
ーーその何かは胎動していた。
「ねぇ、形をちょうだい」
ハッキリとした声。
以前聞いたような、年齢不詳性別不明の声や、イカれた電子音なんかでもなく、それは、紛れもなく私の声だった。
私はその卵(?)のなかの私(?)に尋ねた。
「あなたはもう形が出来たのではないの?」
「ねぇ、形をちょうだい」
「あなたにはまだ形はないの?」
「ねぇ、形をちょうだい」
何か益のある会話は出来なかった。だと言うのに、それは私の声。
「ねぇ、形をちょうだい」
ジィッと、その繭のようなものの隙間から視線。
気味が悪い、とは思えなかった。
瞳は見えないけれど、何か、そうした視線だけが向けられていた。
「ねぇ、あなたは誰?」
「ねぇ、形をちょうだい」
「ねぇ、あなたは私なの?」
「ねぇ、形をちょうだい」
「ねぇ、ったら」
「ねぇ、形をちょうだい」
それは一言だけ、まるで録音されたテープのように、変わらない調子。もしかしたら、そこには何もないのかもしれない。だけれども、そこに“何か”がいるのは確かで、それはそう言うものであるらしかった。
私はなんだか疲れてしまって、どたりと尻もちをつくように座りこむ。
それはぐるぐる回る卵の殻で、ぐるぐる回る繭で、視線だけでジィッと私を見ていた。
作り方、間違えたかな。
育て方、間違えたかな。
生み方、間違えたかな。
もし間違えていたとしても、それは私のせいじゃない。
私だけのせいじゃない。
私と、まわりのせいなのだ。
そんなことを、ボンヤリと思った。
ーーだからかもしれない。
きっと、それは、私がそんなことを思ったのがわかったのだ。
それはーー酷いこと。
たとえ私のせいではなくとも、
たとえ私だけのせいではなくとも、
それをそういう風にしたのは、間違いなく私だったのだからーー。
それはわだかまっていた空中から、ビュンと私の方に向かってきて、口の中にめり込んだ。めり込んで、咽喉を通って腹に収まった。私が作った、そのーー卵の殻ごと。
私は目を剥いて吐き出そうとした。喉に指を突っ込んで、なんとか吐き出そうとした。
でも吐き出てはくれなかった。そもそもあんな大きなものがどうして私の口から喉を通っていったのかもわからなかったのだから、それが再び喉を通って、口の中からキュポンと飛び出していってくれる様など、どう考えても思い描きようがなかった。
だからそいつは、私の中から出て行ってはくれなかった。
そうしてまんまと胎内に居座られて、ようやく気持ちが悪くなる。何が気持ち悪いかって、そいつが入ってきたことじゃあなくって、そいつの視線が、腹の中から向いていたからだ。
ーーお腹の中から見つめられる。
それはなんという異物感。
今となってはそれの視線は感じなかったけれども、それを思うだけでどうにかなってしまいそうだった。そいつがまるでエイリアンのように、腹を破って出てくる可能性というものも十分に考えられたけれども、出ていってくれるのならそれでもよかった。
そうっと自分のお腹を触る。
するとどうだろう。
ーー私のお腹は膨らみ出した。
今にも割れるのではないかと心配しても、それはただただ膨らむばかりで、一向に割れそうな気配はない。だと言うのに、“それ”はまるで潮が満ち引きをするように、膨張と収縮を繰り返す。
私に痛みはなくーーそれでもーー、“何か”、何かが蠢いているという、快感とも嫌悪とも取れない感触が蠢いていた。
そう、感触、感触だった。
私のお腹はグロテスクな風船のように膨らんだり萎んだりしていて、まるで生まれるタイミングを計っているようだった。だからと言って、割れる気配は一切ない。
きっと、それが私から出てくる時は、生まれるのにちょうどよくなって下から出てくるか、それともその成長に耐え切れなくなって、上から吐き出されてくるかのどちらかなのだ。
ーーもしくは私が死んでしまうか。
そうしてようやく腹を決めた。
腹に居座られて、ようやく腹は決まってくれた。
私はこの“何か”に、形をくれてやろう。
私の腹に宿ったこの“何か”は、私の想いに呼応したかのように、ドクンと一つ、大きな胎動を寄越してきた。
そして、
「ねぇ、形をちょうだい」
そんな、私の声が、腹の底から響いた。