三、堂々巡りファイト
「夢ーーか」
安アパートの一室で、今しがた泥の海から掬い上げられて、やっつけ仕事でくっつけられたような、気怠い身体を起こした。蛍光灯のスイッチの紐が揺れている。付け焼刃のよう、と言うとさらに暑くなってしまうからーー焼け石に水と言ってもさらに暑くなるから、そうとしか形容のしようがない扇風機が回っていた。
ぐっしょり汗で濡れたTシャツ。
嫌な夢。まるで天国の雲の上のような、まるで地獄の闇の下のような、よくわからない空気感。とてもあやふやな言い分でも、その通りだったのだから仕方がない。普通は忘れてしまいそうなそれが、その切実とも言える倦怠感からか、ハッキリと残った。それは単なる感覚でしかない。ーーハッキリとしたあやふやさ。
「俺ーー疲れてるのかな……」
独りごちて、服をすべて洗濯機に放り込む。洗面所にある時計が、五時を指していた。
いつもより一時間は多く寝られた。
脳が整理できる情報量が多かったのか。夢は脳による記憶の整理だと言うが、記憶の整理と言うには考え過ぎ、同時に漠然とし過ぎていていた。
シャワーを浴びる。気持ちの悪い汗を落として、気持ちを入れ変える。その程度で入れ替わるなら、毎日もっと楽なはずだ。シャワーを終え、タオルも洗濯機に放りこめばスタートを押す。洗濯機は心地良く発進した。簡単な朝食をとれば、俺の発進時間もすぐ。
時刻は午前六時。
「いってきます」
何の返答も帰って来ないルーチンワード。玄関を開ければ、うだるような夏の日差しが襲い掛かる。いつもと変わらない朝の風景には、何かが起こる気配も予感も存在しない。
ありきたりの日常。
ありふれた日常。
代わり映えもなく木陰を提供する、代わり映えのない並木道ーー。
いつもの通勤路の似たような顔ぶれは、まるで蟻の行列。本物と違うところは、統制がとれていない点に収斂する。もしくは分岐。歩いているだけで汗が噴き出る都会の夏は、ヒートアイランド現象どころかメルトダウン現象。破滅に向かって高温にひた走る。もしかすると、身体か心のどこかは軋みをあげて、見えない聞こえない悲鳴をあげたのか。
だからあんな夢を見たのだろうか。夢の……可能性……。
ーーそうーー可能性、それは可能性の問題に集約されていた。
疑義が呈される。
しかして黙殺される。
夢の忘れ物が浮き上がる。だがそれはすぐに泡のように弾け、空っぽの伽藍の堂を、ぐるぐると堂々巡りする。まるで俺の思考ではないよう。言葉だけが独楽鼠のように脳みそのひだひだを走り回り、俺というものはまるっきし空白のエクセルみたいで、その言葉たちが升目に埋まっては思考として計算されて行く。
ーーそんな感覚。
しかし俺と言葉との付き合いは、売上やら商品の発注数やらの、数字とのにらめっこ以外では、部下に代わって上司やお得意さまに謝る文面を考えるだけだったから、むしろ気持ちが悪くはなかった。むしろ心地が良い。自分の脳みそが勝手に動いているようで気持ちは悪いのだが、新鮮味と言う意味では、むしろ爽快感を覚えた。
俺は形が欲しいのか?
欲しいのなら、どんな形?
奇妙な思考が這入りこむ。そうして、ふと我に返る。
馬鹿馬鹿しい、というのが第一声。
馬鹿ヤロウというのが第二声。
どちらも心の中の言葉。
しかし第二声は、口を突いて出た際に変換されていた。
「すいません」
見知らぬ少女にぶつかっていた。彼女はジロリと睨みつけて来た。
「気をつけてください」
と一言。そのまますたすた歩き去る。制服のスカートをひるがえすその後姿は凛々しく、羨ましいもの。俺にもあんな時代があったっけ。自信を持っていて、自分が間違っているなんて露とも思っていない、もしくは噛みつくことこそが認めてもらう唯一の方法だと思っていたかのようなーー。
と、しかしそれは捏造でしかなく、そんなものは、現在はもちろん過去にも存在はしない。業績の捏造が難しくとも、記憶の捏造に走ってはそろそろ危うい。
それに彼女の後姿を眺め続ければ、見咎められ通報されるという杞憂が存在した。いかがわしくない羨望にも、自重が必要な昨今。だが辺りを見回しても、気にする人は皆無。
それに安心と物寂しさを感じつつ、再開される歩み。孤独な蟻の行列には、俺は過ぎ去る景色にも過ぎない。木陰を提供している並木の方が、まだ自己主張は強い。負けた気になって、歩みは速まる。
列車の車窓のように過ぎ去るはずだった景色で、道路を挟んだ向かいに、一心不乱に絵を描く老人。彼が目に留まった。
その風貌はよく言えば芸術家、悪く言えば浮浪者然。
こんなにも厭らしい暑さにもかかわらず、クタクタのジャケットに、目深にかぶった帽子。いかにも悪そうな目を細め、鉛筆を立てて縮尺を測る。通り過ぎる人はチラとキャンバスに目を向けるが、すぐに顔を背けてしまう。
朝の通勤時間、いくら素晴らしい絵を描いていても見向きもされずーーそれが素晴らしい絵なのかはわからなかったがーー、立ち止まる人間はなく、老人こそがまるで描かれた風景のようで、それが少しだけ羨ましい。絵描きに没頭した、時間の止まった一枚。それは天国なのか地獄なのか。
もう少し眺めてもいたかったが、やはり俺も止まらず、過ぎ去って行く。
ーーその日の仕事もいつもと変わなかった。
いつものように椅子に座り、いつものようにメールをチェックする。いつものように自分のミスでもないのに上司に怒られ、いつものように自分のことばかり話す同僚の愚痴を聞く。いつものような残業。いつものように帰路。
朝とは質の違う、それでも同じように気怠く蒸し暑い夜の帰り道。
取り立てて語るようなドラマもなく、取り立てて語るような感動もない。だと言うのに、疲労というサビが、俺という機械に沁み入る。機械ならば油を、成人ならば酒を入れたいところだが、あいにく飲んでしまえば明日起きられる気がしないので、油もささないくせに脂ぎったまま、この機械を動かさなくてはならない。それが課せられていた義務で、義務であるならば果たさなくてはならない。
労働基準法に抵触しても。
昔は星を見ることが好きだったが、あいにく今日は曇っていて空は見上げるまでもない。たとえ晴れていても、濁った街の空に、見たいものは見えない。
疲労は汗となり、更なる疲労を体に蓄積する。
まるで話に聞く賽の河原のよう。ただし疲労を崩す鬼はなく、自分で疲労を崩すことは、それは木端微塵を意味していた。或いは粉骨砕身。真っ平御免だ。それは生きながらに死んでいる。だがまあ、それなのだ。
あの逸話は、子供の時分に聞かされて、夜通し蒲団を被って震えていた。
親よりも先に死んだ子供は、親を悲しませた罰として、地獄にある賽の河原で積み石をさせられ続ける。そうしてようやく積み上がるその時に、怖ろしい鬼がやって来て壊してしまう。親が長生きするようになった昨今では、そうなると大分年のいった子供が石を積み上げることになってしまうのだがーーその光景を想像するとシュールだ。シュールなのだがーーその鬼を人の功績を取っていってしまう上司に置き換えれば、いたく現実的なシュールレアリズム。現実を越えて、どこまでも現実的な超現実。
生きていても死んだ後も変わりのないこの世界に、何か思わないこともなかったが、生きていられるのならば生きていようと思うことにして、夜の道を歩き続ける。
闇色の濃くなる夜にもうだるような暑さ。ジトジトと自分の汗で張りつくシャツ。そうして背を丸め、鞄を抱え、見慣れた道を歩く。
すると、聞きなれないリズムに、聞いたことのない歌詞が耳に届いた。
夜の路上で、鬱陶しい熱気の中、たった一人、ギター片手に歌う少女がいた。まばらな人通り、彼女のために足を止めるものは誰もいない。
然もありなん。控えめに言っても、耳を傾けて聞きたいモノではなかった。まるで、湧き上がる激情をただ叫びにして放っているだけのよう。もうちょっと練習してから歌ってくれ、と誰かに言って欲しい。自分で言える度胸はない。それでもその有様に、頬のあたりがムズムズとした。
そうしてその顔を見て驚いた。
ーー今朝ぶつかった少女。
慌てて顔を隠そうとするが、それは遅すぎた。彼女は俺に気がついたようでーーくたびれた俺を、まるで嘲笑うかのようにーーいや、
『お疲れ様、兄弟。これからは攻守交代だ』
それが彼女の歌だった。
歌詞は酷いもので、歌声も酷いもの。思わず耳を塞ぎたくなるよう。でもどうしてだか、それは肌を通して骨を震わせて、心の奥の底まで響いた。
ドンドンーー。
ここからーー出してくれ。
あんたーー分かってんだろ。
そこにーーいるんだろ。
俺はーーいるんだろ?
「うるっせぇ!」
近くを歩く酔っ払いが怒鳴りつけた。だが彼女はそんなこと気にもせず、ギターをかき鳴らし、歌い続ける。酔っ払いは彼女を睨みつけ、しばらくして、諦めたように去る。
彼女の歌が響いたのか、それとも、単に酔っ払いの気まぐれでしかなかったのか。それを確かめるすべはないが、それは攻撃に出た彼女の、紛れもない勝利だった。
柄にもなく親指を立ててみせれば、舌を出された。年若い少女の、赤い舌。俺は白旗ならぬ白い歯を見せ降参し、そのまま退散する。もしも明日彼女に会ったなら、変な目で見られるだろう。だが構いやしない。
彼女と言葉を交わせたと思う、まるっきりの一人合点。
でもそれでよかった。
ーーそれがよかった。
彼女に声をかけたら通報案件でも、ただそう思うだけなら問題はない。彼女と俺が変わりばんこで攻守を担当していることに、変わりはない。
『頑張れよ、兄弟』
そう心の中でハイタッチを交わすくらいなら許される。
鍵を開けて家のドアを開けた。籠っていた熱気が間欠泉のように一気に噴き出し、たまらなくなりながらドアを閉める。
「ただいま」
というルーチンワードに、返す者はない。
思い切って冷蔵庫を開けた。暗い部屋に差し入る、冷蔵庫の冷たく青白い光。いつ買ったかも分からないビールを取り出して、久しぶりにアルコールを摂取。
舌を刺す炭酸に顔をしかめ、苦味を無理矢理喉に押し込んだ。喉を炭酸の泡が弾けて通り過ぎ、胃の底に溜まっていた悪気がゲップとなって噴き出す。
冷蔵庫の前に座っていた。ーーまるであの絵描きの爺さんのように。
ビール一缶くらいのアルコールで酔わなかったはずなのに、疲れ切った身体は耐え切れなかった。俺の役立たずな肝臓は素通りされ、アルコールは直接脳に進撃を開始した。
空になった缶といっしょに、えへらえへらと笑い、ビールの入っていた冷蔵庫の隣の冷蔵庫に手を伸ばす。
もう一つの冷蔵庫。
もうすいぶんと開けてはいない。
今、それがどんな風になっているのか、怖ろしくて目も当てられない。しかし、今を逃せばチャンスはない。
今攻勢に出ているのは、あの歌っている彼女の方で、今の防御担当は俺。自慢じゃないが、打たれ強さには定評がある。
だからと調子に乗って、その長いこと開けていない冷蔵庫を開ける。
ーーそこにはユメが詰まっていた。
ユメが、忘れられないままの夢が詰まっていた。
今、どんな形をしているのだろう。
今、どんな風に成長しているのだろう。
俺は酔いの勢いに任せてそいつを開けてやる。
ぶわぁ、っと。
勢いよく無数の蠅が飛び出して来た。
奴らで窒息してしまうんじゃないか、って有様。
蠅が湧いているからには、奴らが好きそうな腐敗臭が漂って来た。酸っぱくて苦くて、思わず吐いてしまいたくなるようなもの。しかしそいつをそんな風に放っておいたのは俺の方で、俺は怖気づくことなくそれに手を伸ばした。
感触はぐずぐずと、ねとねと粘つき、不快の二文字以外では表せそうにない。今スグにでも手を放してしまいたかったけれど、歯を食いしばってそいつ引っ張り出す。
ーー防御担当を舐めんなよ。
引っ張り出せば、腐っていた部分はまるで夢だったかのように、泡と弾けた。そうして下から出てきた何かは、ツヤツヤとまぁるくて、どうとでも形を変えられそうだった。
ああ、これが俺のユメなのか。
ようやく見つけたそれは、宝物のようだった。
ーーなんて事はない。
ユメってもんは、引きずり出したのなら、手に入れたのなら、飾ってなんぼ、見せびらかしてなんぼ、使ってなんぼ、壊してなんぼなのた。
それを食べちゃったって構わない。
俺はまるで12ラウンドをドロドロになりながら戦いきって、僅差で判定勝ちしたボクサーのように、そいつをヘロヘロになりながら掲げてやる。
見せびらかす相手が誰かは決まっている。
あのーー攻撃担当。
防御担当はやりましたよ、と思いつつ、もはや完全に酔いが回っていた俺は、ユメを握りしめたまま倒れ込む。
明日がやって来るかどうかなんて、もはや考えることもなくーー。