一、闇の底で
これはきっとーー私への罰なのだ。
そして、私に与えられた、贖罪の機会なのだ。
「ねぇ、形をちょうだい」
と声が聞こえた。
少年のような、少女のような、いやいや、子供じゃなくって、大人……? もしかすれば、いいやしなくとも、生まれる前の赤ん坊。そんなものを聞いたことはないけれど、もしかしなくとも、それだったのかもしれない。それが、直接鼓膜を震わせる。
目隠しされて、耳元のささやき。
逃れようとしても、その手はしっかりと眼を塞いで、引き剥がすことなんて出来やしない。
ーー誰だ、止めてくれ。
なんて言いたくても、それも許してはもらえない。
「ねぇ、ねぇ。僕(私)のこと忘れちゃったの?」
そんなことを言われたって、目を塞がれたままの、こんな真っ暗闇じゃ、判別のつけようもない。声だって、覚えがないし、やっぱりどんな声なのかも聞きとれない。だって言うのに、ただ、“それ”の手の平は冷たくて、あんまりの冷たさに、私の眼だけが凍りついたよう。
狂騒になりそうで、いっそ狂ってーー壊れてもしまいたいのだけれど、許してはもらえない。
私に許されることは、ほとんどない。
声は続きーー、
声は重なる。
幼稚園の賑やかさ。
通勤ラッシュの駅の改札。
或いは、カラスの逸る、夕暮れの森。
はたまた、発酵を続ける味噌のツボ。
そう考えて可笑しくなる。そうだ、味噌のツボだ。その表現がピッタリだ。ここは味噌のツボで、私が手だと思っているのは味噌になりかけの豆の鼓動。声だと思うのは、発酵していくガスの泡……。むっちりと膨らんで、まるで蛹になった芋虫が、その中でドロドロと溶けていくかのよう。
そうして私も溶かされるのだろうか。多分、そう
それとも、私は味噌漬けにされている途中なのかしらん。
でもーー、と不思議に思うことがある。
私を味噌漬けにしてどうするつもり?
食べる?
保存する?
どっちだって、そんなこと、する価値ない。
「現実逃避もいいけれど、そこにいれば夢の中だって現実になる。逃げた先も現実。現実からは、どこまで行ったって、どれだけ経ったって、逃げられない」
誰だ!
叫び声は出ない。それに、私が立っているのかどうかもわからない。
これは夢? 現実? 薬の量を減らした影響かしらん? それにしては、いやに冴え冴えと自分がわかる。冷静で、ワケのわからないところにいる自分が……。
ーーこれは現実逃避?
「これは私の夢だ。君が見ている夢が私だ」
哲学っぽいようで、ただそれっぽく混線させているだけだ。混濁、混在。まるで私みたい。そっか。つまるところこれは、私なのだ。これが、私。
私が見ている、夢。
それなら確かにここは現実に違いない。起きていても眠っていても、馬鹿みたいに微睡んでいる。だからーー
どうでもいい。
お先真っ暗。
ホラ、目隠しされていようがされていなかろうが、コイツが私だ。
ーー心底どうでもいい。
「僕(私)たちはどうでもよくない」
恨みがましい声? うぅん、懇願、だけどごめんなさい、私はもう……、
ーー諦めている。
何を?
「あっははははは」
けたたましい笑い声は、怪鳥の嘶き、青天の霹靂。うぅん、そんな御大層なものじゃない。昔ながらの黒電話の喚き。
それだ。
「あっははははは、ははははははは」
やめろ、やめてくれ、やめてください。
私は耳を押さえる。
でも、私の耳ってどこだっけ? それに、手も……。目隠しされてるだけなのに、すべてが、ない。
私は私なのに、“いない”。
「無駄ーー、ムダ、 ーー。 むだ。夢、堕 夢荼ーー 」
まるでポロポロと櫛の歯が抜け落ちて行くような喪失感、虚無感、無力感ーー。
私はいないはずだというのに、どうしてこうもーー、
空しい?
「つまりはそういうこと。これは君の夢で、君はこれを望んでいる」
私は凍結。否崩壊。
どうしようもなく終わっていると言うのに、どうしようもなく終わりがない。ずっと、虚無。私はなにもないまま虚無を、絶望を感じ続ける。
これは罰なのだろうか。
私と言うものはないのに。
「君がそう思うのならばそうなのだろう。君がそうじゃないと思うのならそうじゃないのだろう」
どっちだよ。
「それは大切なことなのかな? だって、」
なにもないのだろう?
と、声は言う。
そうだ、どっちでもいいのだ。
だって私はなくって、そんなものを定義も見極めもする必要はない。
「そうかな?」
どっちだよ。
私は叫んだ。声なんてもちろんなかったけれども。
だけど、今ばっかりは声は無言だった。
無言、無音。変わらないと言えば変わらない。だって、そもそもの問題、その声を聞いていたはずの私と言うものは、“ない”のだから。
だけど私はどうしようもなく仰向けになりたかった。
どうしようもなく、天を仰いでみたかった。仰天、吃驚仰天。
何もないクセに。
どっちが上で、どっちが下?
右も左も縦横斜め、たてたてよこよこ丸書いてチョン。
自暴自棄、無我夢中、五里霧中。
だって言うのに、はじめっからなにもなけりゃあ、どうすれば良い?
お先真っ暗だ。
今だって真っ暗だ。
「あは、あはははははは」
けたたましく声は喚く。そして問いかけてくる。
「ねぇ、ねぇ。僕(私)のこと忘れちゃったの?」
それにどんな意味があるのか。
それとも意味はない?
押し寄せる波、
引いていく波、
止まらないで流れ続けていく鼓動、血潮。
ーー眩暈だ。
世界の全体が渦を巻く。回っているのは世界か、それとも私か?
「僕(私)が誰か知っているくせに、どうして知らないふりをするの?」
さざなみのように、声がひしめく。
喚き立てる。
「いつまでそうしているの? 気づかないふりをして」
回る。
回っているのは世界か私か。
それは両方だろう。どっちかから見ても、どっちかは回っている。
「ふぅん、そんな態度なんだ。それならいっそ壊れてしまうといい」
あんまりにも世界は回る。あんまりにも星は巡る。
「バイバイ」
「バイバイ!」
「バイバーイ!」
「嫌! 待って!」
誰だ⁉
私か、君か?
誰でもない。
なにせここには誰もいない。私の“いない”、私しかいない。
いない、
いない、
いないいない、バァ!
バァ!
バァ!
ばぁか。
そっか、いないのに、“いる”んだ。
「そうだよ。だったら、どうしたらいい?」
声が問いかける。
「形を……作る」
「そう」
声が言う。
私そっくりの、誰も“いない”声が言う。
「ねぇ、形をちょうだい」
「いいよ、あげる。あなたに形をあげる。上手く出来るかわからないけれど、私はあなたに形をあげる。だから、ーー覚悟して頂戴」
私は“そいつ(私)”に宣戦布告する。
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