第7話 歩幅
暗闇に包まれた静かな街に賑やかな光が漏れ出す。その遠くでは小さな砂粒の地の上を流れていく音が聞こえた。そんな小さな音を耳にしながら、二人の少女は大きく開かれた瞳を見合わせていた。
「た、び……? 何を言っているの?」
カエルムはやっとの思いで言葉を口にしたものの、その声はどこか震えているように聞こえた。未久自身も自分の言葉に動揺し、口をパクパクさせるばかりであった。カエルムはそんな彼女の姿を見て、急に吹き出した。
「アッハハ! この私に冗談を言う人がいるとは思わなかったわ。さすが世界を旅している人は違うわね。十分笑わせてもらったことだし、もう帰らせてもらうわ」
カエルムが踵を返そうと片手を上げかけた時だった。
「冗談なんかじゃないです!」
少女の必死な声が彼女の背中に向けられた。振り返ると真剣な眼差しをした小さな少女が立っており、彼女は服の裾を握りしめていた。彼女は服によりしわを寄せて言った。
「正直、私自身も何を口走ったかわかってないです。でも……、でも私が言ったことはすべて私の本当の言葉です。心にもないことを口にしたりしません!」
少女はキッと睨みつけるようにカエルムを見た。その瞳を見たカエルムの心臓は妙な脈を打ち始めていた。
(な、に……?)
今までに向けられたことのない真剣な眼差し、真っ直ぐな言葉――それらから彼女は目を背けることができなかった。鼓動が激しく動き出す。酒場の喧騒が彼女の耳から遠のき、胸の奥で恐怖にも似た高揚を知らず知らずのうちに感じていた。体中に血が激しく廻り、共鳴するように体中で脈を打った。何かが始まる、この先に何かがある――そんな予感をカエルムは体中で感じていた。この手を伸ばせばそれに出会える――彼女が手を伸ばしかけた時だった。
『ごめん、なさい……。もう一緒には――』
『ダメよ。あなたには身分相応の――』
彼女の頭の中でいくつもの言葉が木霊する。その言葉の先には人影があった。その人影に向かって小さな手が一生懸命に伸ばされていた。しかしその人影は手から一歩下がってこう言った。
『だって、カエルムは女王陛下だから』
カエルムは弾かれたように伸ばしかけた手を引っ込めた。彼女の手先は徐々に冷たくなり、背中には冷汗が流れた。それを見た未久はおずおずと彼女に近寄った。
「あ、の……、どうかしましたか?」
未久が彼女に触れようとすると、彼女はその手を払い除けた。目を丸くする未久から顔を背け、彼女は口早に言った。
「……何でもない。それに旅にも行けない。だからここでお別れよ」
彼女は踵を返し、少女から逃げ出すようにその場を去っていった。少女が悲しそうな瞳をしていたことを知りながらも、彼女は唇を噛みしめ、城へと早足で帰っていった。その姿を一人の男が酒場の外壁に背を預けながら眺めていた。
翌日、未久はいつも通り朝早くに起きると、その横にはうなされながら未だに寝ている男がいた。彼女はその男に軽蔑の眼差しを向けながら彼の肩を叩いた。
「……衛次さん」
「う、うーん……」
「衛次さん! 朝ですよ!」
「うっ……!」
彼の耳元で大声を出すと、彼は余計に丸くなって布団の中へと潜っていった。しかし彼女は彼の逃げ場をなくそうと、その掛布団を彼から奪い取った。すると彼はやっと目をうっすらと開き、彼女の顔を見た。
「昨晩の飲みで頭が痛いんだ……。だからせめて大声を出すのは止めてくれ……」
掠れた声でそれだけ言うと、彼は再び目を閉じた。それに怒りを感じながらも、彼女は平静を装って静かに訊ねた。
「……今日はどうするんですか?」
彼は彼女の怒りなど露知らず、目を開けずに片手をひらひらと振った。
「今日は、情報収集はなしだ。ここの人たちは大丈夫だとわかったから、一人で外を出歩いてもいい。外へ行くなら迷子になるなよ」
そして再び寝息を立て始めた彼に少女はため息を吐いた。
未久は部屋を後にし、街へと出掛けた。街の人々は昨晩のパーティーとは関係なく、いつも通り賑わっていた。その中を通り抜けようと歩いていくと、彼女は呼び止められた。
「未久じゃないか! 衛次さんはどうしたんだい?」
「あ、えっと、ハフサさん、おはようございます」
彼女が振り返ると、そこには相変わらずふくよかな体をしたハフサがいた。ハフサは店を切り盛りしながら、未久を手招きした。少女はそれに従うがままに人混みをかき分け、彼女に近づいて答えた。
「衛次さんなら二日酔いで、宿で寝てますよ」
「やっぱり。あの男、弱かったからねぇ」
ハフサは腕を組んで眉を下げた。そうは言っても、未久は昨晩衛次がジョッキを十五杯飲んだところで数えることを止めている。何杯飲んだらお酒に強いというのか、と顔をしかめていると、少女の目の前に袋が差し出された。
「これ、彼に持ってってやんな。新鮮な果物を食べて、さっさと復活しなって」
差し出された袋の中には色とりどりの果物がぎっしりと入っていた。それを見た未久はたじろいだ。
「えっと、お代は……」
「そんなのいいって! ちょっとしたサービスだよ」
ほら、とハフサは袋を差し出した。未久はおずおずとそれを受け取ろうとした時だった。急に人混みを勢いよくかき分けて走っていく人が見えた。未久はその騒ぎに目を奪われていると、その人の顔が一瞬だけ見えた。その人物はなんとカエルムであった。顔が見えた時ちょうど二人の目が合い、カエルムはヤバい、と苦い顔をした。そのまま逃げ去る彼女を未久は咄嗟に追いかけた。後ろからハフサの声が聞こえたが、未久が振り返ることはなかった。
カエルムは路地に入ったり、人混みに紛れたりを繰り返していた。今は路地を走りながら一人で小言を並べていた。
「追手がいるってだけでもヤバいのに、なんで今一番会いたくない人を見かけちゃうのかな。これであの子まで私を追いかけてきたら――」
「カエルムさん!」
その声を聞いた彼女の背中が凍りついた。ゆっくりと振り向くと、約百メートル後ろに未久がいた。未久は息を切らしながらカエルムに声をかける。
「一体、誰から……逃げてるん、ですか?」
カエルムの顔は青ざめ、彼女を罵るように言葉を吐き捨てた。
「誰に追いかけられていようがあなたには関係ないでしょ! というよりも、なんであなたまで私を追いかけているのよ?」
「……私を見て逃げ出したように見えたので、追いかけなくては、という使命感に駆られました」
「あんたは獣か!」
未久の素直な感覚にツッコミが入る。カエルムは前へ向き直り、より細い路地へと入っていった。そこで彼女は指笛を吹いた。そこで未久もその路地へと入っていったが、何も起こらなかった。カエルムは小さく舌打ちをして呟いた。
「相棒だっていうのに、この危機を助けてくれないのかよ」
未久はその言葉に首を傾げた。カエルムが一瞬後ろを振り返ると、未久の後ろに追手の影が微かに見えた。彼女は目を見開き、逃げ足を速めた。未久はそれに追いついていこうとするも、彼女との距離が開いていくばかりであった。それもそのはず、十歳になる前の少女が何歳も年上の足に追いつくはずがなかった。
彼女が自分の無力さに涙目になりかけていた時、カエルムは路地の角を曲がっていった。未久も彼女を追いかけて角を曲がった。しかし、そこには彼女の姿がなかった。未久は呆然とし、恐る恐る前へと進んでみた。すると、急に横から手が伸びてきて、やっと人一人が通れるくらい細い路地に連れ込まれた。声を出そうにも、大きなゴツい手が口を押さえて込んでいて小さな音しか漏れ出さなかった。しかし後ろから「しー」という声が聞こえた。未久はその言葉の通り、黙って息を潜めた。するとその数秒後、カエルムの追手らしき人たちの足音が横を通り過ぎていった。その音が聞こえなくなると彼女の口から手が離れ、後ろと横から大きなため息が聞こえた。彼女が驚いて横を見ると、そこにはカエルムがいた。
「はぁ、助かったぁ。毎度毎度悪いね、ラドメス」
「本当、あんたの世話をすんのは心臓に悪いよ」
未久はラドメスと呼ばれた人の顔を見ようと後ろへ振り返った。するとそこには見覚えのある顔があった。
「骨董屋さん!」
ラドメスと呼ばれた男は、カエサルに初めて会いに行く早朝に会った男であった。彼は手を軽く上げて挨拶した。その横でカエルムは膝に手をついて立ち上がった。
「さてと、自由の身になったことだし、私はそろそろ行くわね」
その場を去ろうとする彼女の手をラドメスは取った。彼女は振り返り、冷たい視線を彼に向けた。
「何?」
しかし彼は動揺一つせず、逆にニヤリと笑った。その笑みに彼女は眉間にしわを寄せた。
「俺は十何年もの間あんたを見続けてきた。だから今あんたが何から逃げようとしてるのかもお見通しなんだよ」
握りしめられた彼女の手に力が入る。彼は手に少し力を込め、真っ直ぐと彼女の瞳を見て言った。
「逃げるな。ちゃんと向き合え」
彼の真っ直ぐな瞳には歪んだ顔をしたカエルムが映った。彼女の何かに怯えた瞳が未久に向けられ、じっと彼女を見つめた。その瞳の奥に何が潜むのか、未久は知ることになるのであった。
次話「黄金色の少女」は2018/4/7(土)に更新します。