第22話 恵み
島に降り立って間もなく、未久たちの目の前に小さな少女が立っている。それも何かに怯えるように顔を歪めながら、少女は腕の中にあるぬいぐるみを抱きしめていた。
島の外の人間である二人に放たれた「すぐに逃げろ」という言葉は、二人に混乱しか与えなかった。様々な考えや感情が波の音にかき消されそうになりながらも、未久は必死に言葉を頭の中に留まらせた。そして無理矢理形にした言葉を少女に投げかけようとした時だった。
「ヤチ、アパヤンデルジェディ?」
少女がやって来た方角から声が聞こえ、少女はハッとして振り返り、その声に答えた。
「ティダアダ! サヤペルギセカーラン」
少女は再び二人に顔を向け軽く会釈をしたら、そのまま声のした方へと駆けていった。二人は呆然とその姿を見送り、さざ波の音の中にぽつりとカエルムの声が浮かんだ。
「……なんだって?」
「……さあ?」
波の音に取り残された二人は、しばらくの間そこから動けなかった。
しばらくして話し合った結果、二人は島を少し散策することにした。散策するにあたっての注意点は、誰にも出会わないようにすること。もし出会ってしまっても深入りはせず、島とデウスの情報を軽く探り、すぐに撤退することであった。
波の音を背中で聞きながら、木々の生い茂る方へと足を踏み入れた。三、四十メートルもの高い木があると思えば、十数メートルと小さな木まであり、どれもカツラを被ったように頭だけ青々としている。シダやコケなどで足元まで草木が鬱蒼としながらも所々刈り取られ、人が通る道が整備されていた。二人はその道から離れて歩き、しかし人を見つけられるよう沿うようにして進んでいった。
目の前の草木の隙間を縫い、かき分けながらカエルムは後ろにいる未久に訊ねた。
「そういえば、未久は何ヶ国語話せるの?」
未久はカエルムの作った道を進みながら、さらりと答えた。
「四、五ヶ国語くらいですかね」
カエルムはその言葉に驚き、どかしていた木の枝を手から離した。その反動で後ろに戻ってきた枝を未久は寸でのところで避け、眉をひそめながら続けた。
「わかってはいないと思いますけど、今私たちが話している言葉は世界共通語ですからね」
口をあんぐりと開けたままのカエルムの横を通り過ぎ、未久はその先へと進んだ。カエルムはその背中を追いかけ、感嘆の息を漏らすように呟いた。
「未久って歳の割に大人びてるなって思ってたけど、頭までよかったとは」
「生活する上で必要なことだっただけですよ」
カエルムはその背中をじっと見つめた。未久はその視線に気がつきながらもそのまま前を歩いた。すると後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、未久」
「はい?」
それに応えるように振り返ると、その金色の瞳と目が合った。それと同時に、肩から伸びた人差し指が未久の頬に突き刺さった。
「また敬語に戻ってる」
「あ……!」
未久の頬は見る見るうちに赤くなり、それを見たカエルムは金色の瞳をより輝かせた。
「これでそんな反応してもらえるなんて、すごい久しぶり! かわいいなぁ、未久は」
「やめてくだ……やめてよ!」
はしゃいで抱きついてくるカエルムを未久は必死に手で押しのけながら、赤くなった頬を隠そうとした。
そんなことをしていると、遠くから子どもの声が聞こえてきた。それに気づいた二人は身を屈め、その声へと近づいていった。するとそこには三人の少年と先程出会った少女がいた。少年の手には少女が持っていたはずのぬいぐるみがあり、何か言い合っている。しかし島の言葉で言い争っているらしく、何を言っているのかさっぱりわからない。
「どうする?」
イーチェで勝手な行動をしたせいで問題が起きたことを気にしたカエルムは、未久の顔色を窺うように横を見た。しかしそこには未久の姿がなく、いつの間にか彼らの背後にいた。
少年たちは未久の気配に気づかず、未久に気づいた少女だけが言い争いを忘れ呆然とした。それを少年たちはまた小馬鹿にしようとして、ぬいぐるみを高々と上げた時だった。未久はその腕を掴み、ぬいぐるみを奪った。突然のことに驚いた少年は腕を振り解こうともせず、未久を見上げて呟いた。
「……シアパ?」
未久は少年の視線など気にもせず、奪い取ったぬいぐるみを少女に渡した。そこにカエルムが駆けつけ、顔を青くしながら小声で叫んだ。
「何やってるのよ、未久! そんなことしたら目立っちゃうじゃない」
そこで我に返った未久は思い出したように顔を青くし、あたふたしながら言い訳をした。
「いや、でも、なんかほっとけなくて……」
二人が小声で話していると、目の前にいた少年たちはだんだんと瞳を輝かせ、二人に詰め寄ってきた。
「外の人?」
「パーティー?」
「今夜はご馳走だぁ!」
少年たちが二人にもわかる言葉で話し出したかと思えば、急にはしゃぎだして二人はどうしたらいいのかわからなくなった。戸惑いながら横を見ると、いつの間にか少女の姿が忽然と消えていた。少女を探そうにも二人は少年たちに手を引かれ、どこかに案内されることになった。
三人の少年のうち一人は「島の人に知らせてくる」と言い、先にどこかへ行ってしまった。歩いている間、残りの二人に話を聞こうとするも、どこから来たとか、何が食べたいとか質問攻めにされ、何も聞き出すことができなかった。しかし途中で少年が気になることを口にしていた。
「ここはベネディっていって、恵みの島なんだよ」
それを聞いた未久は目を見開き、しかしその場では何も悟られないように心掛けた。
人が集まる集落に着くと、彼らは何十人もの人々に出迎えられた。
「ようこそ、ベネディへ!」
それから二人はとても温厚で陽気な人々に囲まれ、手厚い待遇を受けた。日が沈むと、少年たちが言っていたように歓迎パーティーが開かれ、たくさんのご馳走が目の前に並べられた。
戸惑いながら食べていると、カエルムが未久の耳元に口を寄せてささやいてきた。
「ねえ、おかしいと思わない?」
その言葉に未久は前を向いたまま頷いた。
「私も今、そう思っていたところ」
辺りを見渡すとずらりと料理が並び、楽器が奏でられ、真ん中には大きな火が立ち上り、その周りでは人々が踊っている。十分過ぎるこの歓迎は、少しの恐怖を覚えさせた。
「あの女の子、すごい形相で『逃げろ』って言ってたけど、この待遇。私たちを悪くしているようには思えない。でも女の子が言っていたことも嘘だとは思えない。あれはどういう意味だったんだろ?」
顔を強張らせていると、身体ががっちりしたおじさんが後ろから二人の肩を抱き寄せた。
「なぁに辛気臭ぇツラしてんでぃ。あんたら譲さんの歓迎会なんだ。今夜はパァーッといこうや!」
ガハハと笑う息からはアルコールの匂いが漂い、二人はより顔をしかめた。それを見兼ねたおばさんたちがおじさんを茶化す。
「そんなむさ苦しいオヤジとはパァーッとできるわけないでしょ」
「女には女の話があるんだから、さっさとどっかへ行きなさい」
やんややんやと周りが騒ぎ、結局二人はおばさんたちに囲まれた。
「ねえ、あなたたち。ずっとフード被ってるけど、脱いじゃってもいいんじゃないの?」
唐突な投げかけにカエルムは体を強張らせ、目を泳がせた。そこで未久は慣れたようににこりと笑いながら言った。
「これはちょっと、あることと関係しているんですよ」
「あることって?」
おばさんたちは興味津々に身を乗り出してきた。この年代のおばさんたちの情報網の凄さを知っている未久は、その情報を引き出そうと餌にかかるのを待った。
「私たちが旅をしているのには理由がありまして」
言葉を区切る度におばさんたちは身を乗り出し、瞳を輝かせた。ここだと思った未久は声を潜めながら言った。
「デウスに関することを聞いたことありますか?」
何か反応があると思った未久は周りを見回すが、その言葉を聞いたおばさんたちはキョトンとした顔で未久を見るだけだった。思いもしなかった反応に毒気を抜かれた未久は次の言葉が見つからなかった。そんな中、おばさんたちは口々に言った。
「デウスって何だね?」
「何か昔話かなんかで聞いたことあるような気がするけど、覚えとらんなあ」
パッとしない返答に、未久は畳みかけるようにして訊ねた。
「じゃあこの島の名前は? なんで恵みの島なんて呼ばれてるんですか?」
「そりゃあ、この島は食糧に困ることなんて滅多にないからねえ」
呆然とする未久にカエルムがそっと耳打ちした。
「ちょっと、大丈夫?」
カエルムの言葉は未久の耳には届いていないようで、未久は目の色を変えて呟いた。
「カエルム、何かあったらすぐに逃げて」
「え……?」
未久は言い終わるなり静かに立ち上がり、おばさんたちの視線はそこに集まった。未久は頭に手を伸ばし、静かに言った。
「じゃあ、これを見ても何とも思わないですか?」
「ちょっ……!」
カエルムが制止する前に、未久の手は自身のフードを頭から払った。そこに注目が集まり、周りがざわめく。未久は口を固く結び、周りを窺った。
「か……」
一人の声が小さく漏れる。二人はその先の言葉を固唾を呑んで待った。すると、おばさんたちは瞳を輝かせて未久に飛びついてきた。
「かわいいじゃない! なんでそんなかわいい顔を今まで隠してたのよ!」
その言葉を発端に、未久はおばさんたちにもみくちゃにされた。カエルムは未久の言葉通り未久を騒ぎの中心に置き去り、遠くからその状態を観察した。
騒ぎが落ち着くと、カエルムは未久の元に戻り、話を再開した。
「じゃあ、本当にデウスのことは何も知らないんですね?」
「ええ、何も知らんよ。島の人全員に訊いても同じだと思うよ」
一人の言葉に周りも首を縦に振る。そこで今まで黙っていたカエルムがじゃあ、と手を上げた。
「ある女の子のこと、知らない? 未久よりも小さくて、髪を一つの三つ編みにしている子なんだけど」
その言葉におばさんたちは「あぁ……」と苦い顔をした。その反応に眉をひそめていると、おばさんたちの間から先程の少年たちが顔を覗かせて言った。
「そいつ、ヤチだよ、ヤチ。パルス姉妹の妹、ヤチ」
「パルス姉妹?」
その言葉におばさんは少年の頭を軽く小突いた。しかしその顔は少年たちを叱る顔ではなかった。違和感を覚えた未久はおばさんに訊ねた。
「パルス姉妹とは?」
しかしおばさんが答えるよりも先に、少年が小突かれた頭を押さえながら答えた。
「嘘つき姉妹、リナとヤチのことだよ。あいつらの言うことは信用しない方がいいぜ」
その言葉に思わず二人は顔を見合わせた。楽器の弦が弾かれる度に、火の粉が踊るように弾く。心躍るこの場所では何か見えぬものも動き始めていた。
次話「キャロル」は2018/11/3(土)に更新します。