第20話 存在
ただいま挿入歌を制作中です。
話は書き終えていますので、よろしければ先にご覧ください。
空はいつの間にか薄暗くなり、真っ白な道に小さな陰がいくつも落ちた。エフィムの家を後にしたカエルムは当てもなく歩き続け、村全体を見渡せる崖の上に辿り着いた。
家はある一点に集まり、周りは雪を被った針葉樹林が広がっている。その林の間に村からただ一本の細く、長い道が遠くまで続いていた。その道はおそらく村と村を、人と人をつなぐ大切な道なのだろう。それをカエルムはただじっと見つめた。
(つながり、か……)
たった一本のつながりをエフィムは迷いもなく断ち切ろうとしている。それがどんなに大切なものか、おそらくまだはっきりとわかっていないのだろう。
カエルムの鼻に白く冷たい結晶が降りてきた。雪だ。結晶は肌に触れるとすぐに融け、丸い雫となって下へと滑り落ちていった。空から舞う雪は辺りに積もり、カエルムの足跡を徐々に消していく。それを見て、あの細い道が塞がってしまわないかという不安がカエルムに浮かんだ。それと同時に、不意にオラティオを出る時の未久の姿が脳裏を過った。
未久は後ろを振り向き、手を伸ばそうと、今あるつながりをつなぎ止めようとしていた。しかし涙を飲みながら、たった一本の大切なつながりを断ち切った。
それを思い出し、カエルムは目を見開いた。
(そうだ、不安だったんだ)
大切な人から初めて離れ、自身を守れる者は自分以外どこにもいなくなる。そのような状況でどう生きていくか、そのことでいっぱいいっぱいであったのに、カエルムが考えもなしに一人で動いてしまった。
カエルムは自責の念に駆られていると、ふと未久の言葉が蘇った。
『私が、今までどんな思いをしてきたと思ってるんですか……』
あの悲痛な声がカエルムの胸を締めつけた。初対面の人には怯え、自分を偽る――あの小さな少女をそうさせる程、彼女が生きてきた世界は辛く、厳しいものだったのだろう。
自分の知らない恐怖を知っている未久のことを、カエルムはしばらく考えていた。
一方その頃、未久はカエルムを探して針葉樹林の中を歩いていた。ルクスから離れる時、彼が言った「あいつなら、きっと高いところにいますよ」という言葉を信じて、未久は上を見上げながら歩いていた。
高いところだったら木の上だろう、と未久は真上を見上げていたが、どこにも見当たらない。むしろ首が疲れるばかりで、一度視線を前方へ戻した。すると、遠くにある崖の上に金色に光る人の姿を見つけた。
その人影を頼りに未久は坂道を登っていった。そして、その人影を目の前にし、深呼吸をしてから声をかけようとした。その時、不意に黄金色の少女は息を深く吸い、高く美しい旋律が流れた。
カエルムの胸元でシャルムの羽根が雪と共に舞う。そして唄が終わると、カエルムの口元から小さく白い息が漏れた。それを耳にした未久は我に返り、ゆっくりとカエルムに近づいた。
「今の唄って……」
その声にカエルムはゆっくりと振り返り、力なく笑った。
「これは私の唄、孤独の唄。誰かに教えられたものじゃなくて、いつの日からか私の中にあったものなの」
カエルムはそのまま再び空を仰いだ。そんなカエルムを目の前にし、未久の口はひとりでに動いた。
「……知ってる」
その言葉にカエルムは目を見開き、再び未久に振り返った。そこには自身の言葉に驚き、口を押えている未久がいた。未久はそのままカエルムから目を逸らし、しどろもどろに言った。
「知ってるというか、えっと……。どこかで聞いたことあるなって。うまく思い出せませんけど、とても……、とても大切な唄だったような……」
それを聞いたカエルムは、どこか寂しげにふっと笑った。
「ゆっくり、ゆっくりと思い出せばいいよ。あなたには、そうであってほしいから」
カエルムは視線を落とし、未久の手首へと向けた。未久はその視線の行方など露知らず、カエルムを見て口を開きかけた。言いたいことが、言わなければならないことがある。しかし、カエルムの目を見たら言葉が未久の喉の奥に突っかかり、口を開くことさえもできずにいた。
「あ、の……」
先程まで出ていたはずの声がなぜか掠れる。未久がその声を何とか振り絞ろうとした時だった。
「ごめんね、未久」
カエルムの声がするりと滑り込んできた。未久はそのことに呆然としていると、カエルムはそのまま続けた。
「私は本当に無知で、オラティオ以外の世界なんて想像したことがなかった。『好き』もあれば『嫌い』もある、そんなこと当たり前なのに、想像したこともなかった」
カエルムは真っ直ぐと未久を見て話した。二人の間には小さな雪がふわりと舞い、彼女らの肌を赤くする。白い息は風に乗り、村の方へと流れていった。
「未久はそんな世界をずっと生き続けてきて、その素晴らしさも怖さも知っている。そしてこれからは、そこに独りで行かなければならない恐怖があったはず、なのに――」
「違う!」
何も言葉をできずにいた喉から大きな声が出た。そしてそれを追うようにして小さな声が漏れた。
「違う……、そうじゃないです。確かに怖かった、衛次さんと別れることが。でも、一番怖かったことはそんなことじゃないです」
「カエルムさん、あなたを失うことが一番怖かったんです」
灰色の空は白い雪を降らせ続け、足跡を消していく。深い溝は埋められ、新たな道を作り出していった。カエルムは未久の言葉に言葉を失い、呆然とした。未久はそんなカエルムに頭を下げた。
「私こそ、ごめんなさい。どうしたらいいのかわからなくて、正直パニックになってました。それに、私……」
未久が最後に口籠っていると、カエルムは未久に抱きついた。未久が驚いていると、カエルムはそのまま言った。
「もういいよ。未久がそんなこと、思っててくれているなんて思いもしなかった。それが聞けただけでも十分だよ」
二人の触れた肌はとても冷たかった。しかしそれがなぜだか愛おしく、しばらく二人は離れることができなかった。
しばらくした後二人で村の方へ下りていくと、途中で息を切らしたエフィムと出会った。エフィムは首の汗を拭いながら、カエルムに近寄った。
「よかった。ここにいたんですね」
安堵と焦りの混ざった表情をエフィムはカエルムに向け、それを見た彼女は一度口をつぐんだ。カエルムは一度何かを考え、再びエフィムに向き直って言った。
「エフィム、悪いけど今回の話はナシにしましょう」
その言葉にエフィムは顔を強張らせた。そしてカエルムに掴みかからんとばかりに、彼女に詰め寄った。
「な、なんでですか! ボク、何か気に障ること言ったりしましたか? もしそうだったら謝ります!」
「そうじゃないのよ」
気の荒ぶるエフィムにカエルムは落ち着いた声で返した。
「今のあなたはただの反抗期、そうしか見えないわ。本当にこの村がおかしいって思うなら、それを伝えて皆の心を動かしてみなさい。それでも村を出たいって思ったなら、その時は私があなたを連れ出してあげる」
エフィムは希望を失ったように、膝を地に落とした。そこへルクスが空から舞い降り、未久とカエルムの後ろに降り立った。カエルムは未久の手を取り、ルクスの背へと導く。しかしエフィムが気になり、未久は振り返った。未だに下を向き続けるエフィムにカエルムも気づき、彼女は思わず声をかけていた。
「あなたの大切なものをちゃんと見つけなさい。一本の糸を切ることは簡単でも、紡ぐことは大変なの。その糸を切る前にそれが大切なものかどうか、ちゃんと見極めなさい」
その言葉に未久も振り返った。それに気づいたカエルムはいたずらっぽく未久の腕を引き、無理矢理ルクスに乗せた。
ルクスは翼を大きく広げ、雪を舞い上げ飛び立った。エフィムの姿が小さくなり、村も小さくなっていった。
風がより冷たくなり、頬を赤くする。未久はカエルムの顔をそっと覗き、呟いた。
「カエルムさん……」
それを耳にしたカエルムは振り返って笑った。
「『さん』付けじゃなくていいよ。敬語もなくしてさ、もっと気軽に話しかけてよ」
その笑顔で頬が緩んだ未久は、カエルムの服の裾を引っ張って呟いた。
「カエルム、ありがとう」
雪がふわり、ふわりと舞い落ちる。白い想いは二人の胸に触れ、雫となって広がっていった。
イーチェ編はこれにて終わりとなります。
次話「鈴の音」は2018/10/6(土)に更新します。