第三話 彼女は秘密と共に
僕は今まできつく首を絞めていたネクタイを外して、その部屋に入った。中にはあの少女とテーブルの上に豪勢な世界中の料理が広がっていた。
少女はそれに我を忘れてがっついていた。とても女子高校生には見えない。テレビでよく見る大食い選手の食い方だ。その小さな口にあれよあれよと料理が吸い込まれていく。
「おーい、まだ食事中か?」
僕が話しかけるとやっと気付いたのか慌てて手を止めた。口の周りにソースやらなんやらがべっとりとついている。
「…………」
何事もなかったかのように少女はそこに座った。その間にも隣の部屋からスタッフが料理を運んでいる。僕はそれを止めた。
「…………」
すると彼女はまた寂しそうになった。いや、やっぱり顔は無表情なんだけれど。僕も彼女の本当に微妙な気持ちの変化が少し分かってきたのかもしれない。
「……まだ、食べたいのか?」
小さくうなずく少女。僕はそれを見てまたスタッフを呼んだ。また次々と料理が運ばれてくる。
「……満足したら呼んでくれ」
そういって手に持っていたノートパソコンを少女の正面の席で開いた。彼女は再び、食べる手を動かしていた。そのスピードは留まることを知らない。
「…………」
化け物だ。……いろんな意味で。
結局彼女の壮絶な食事は一時間近く続いた。この子が食べた量の食事を僕は一か月近くで消費できる自信があるね。……今夜のキッチンは戦争だっただろう。
「満足か?」
少女は口の周りを拭きながら頷いた。僕はスタッフに合図を送る。スタッフは苦笑いしながら礼をして部屋から出て行った。
「さて……」
僕はやっと綺麗になったテーブルの上にパソコンを置いて彼女と向き合った。
「君についてちょっと訊いておきたいことがあってね……いいかい?」
また小さく頷いた。
「……君の名前は?」
「…………」
答えが無い。僕は画面から彼女に視線を変えると彼女はまた無表情でソファに行儀よく座っていた。返事が無いのでもう一度聞き直す。
「君の名前は?」
「……エリ」
小さく呟いた。僕はキーボードに”エリ”と打つ。
「……うえは」
「ナナジュウハチ」
……珍しい名もあったもんだ。僕は”ナナジュウハチ”とまた打つ。
「ナナジュウハチエリさん……でいいのか?」
今度は首を横に振る。……あれ、聞き間違いかな?
「私はエリ」
あの二十人前の料理を食べ散らかした口から小さく漏れた。
「うん。苗字は?」
「…………」
今度は答えない。コイツと話しているとなんかイライラしてくる……。なぜ答えない?
「苗字は捨てた。殺した時に」
この殺したは……両親のことか。
「じゃあ、さっきのナナジュウハチっていうのは?」
「……うえ」
「はぁ?」
全く話が合っていない。苗字はないのに、苗字はナナジュウハチって意味分かんないのだが。
「なにを言って……ん?」
うえ……上……ってなんだ?
「……バスト」
僕の疑問をくみ取ったように疑問を解消してくれた。
「……なんで名前を訊いているのに急に胸の大きさを訊くんだよ……」
こいつ、意外と抜けている所がある。少なくとも金額を釣り上げるだけで、オーナーを裏切ってしまうほど金が大好きなのだ。
「ごめんなさい」
「まぁいいや。次、なんでそんなに金にこだわるんだ?」
あの時、僕が倍の金額で雇うと言っただけでこの少女は月一千万で雇ってもらっていたオーナーを裏切ったわけだ。きっとそこにはなにか特別な理由が……。
「……貯金」
無かった。まるっきり、何か複雑な理由とかなかった。でも、なんでそんなに貯金にこだわるのかは教えてくれなかった。
その後も彼女にお得意の質問攻めを行ったが、分かった事と言えば、彼女のあくまでコードネームが「エリ」なだけで、本名ではない事。僕と同じ十八歳だという事。でも高校には通っていないという事。着ている制服は相手を油断させるためのカモフラージュらしい。あとバストが七十八……それくらいだった。
少しでも個人が割り出せそうな情報を聞き出そうとするとだんまりを決めて口を割ろうとはしない。この子からわが社の情報が漏れだず心配だけは無さそうで、そこだけは安心だ。
「……まぁ、仕方ない。殺し屋にも色々あるんだろう。これぐらいの情報があれば、社員登録は可能か……」
エリは不要な会話は一切しなかった。僕の質問に答えるだけでエリから話す事はなかった。
「じゃあ、これにサインと拇印だけしてくれ。……サインはまぁ、エリとかでいいよ」
僕はエリに会社の契約書を差し出した。
「私は……」
エリは急に口を開いた。
「何?」
「この会社に入った覚えはない」
……え? まさか、気分が変わってまた僕を殺すとか……? ふと彼女の横を見ると執事に預けた筈のあのノコギリの入ったバッグが置いてあった。僕はすぐに逃げ出せるように身構えた。
「それってどういう……」
「私は貴方と契約を結んだ。貴方の会社に入った覚えはない」
ああ……そういう意味ね。驚かさないでよ、全く。
「……分かった。君がそういうなら僕個人との契約と言う事にしよう」
今、エリに歯向かったらあのノコギリと刃向う事になるだろう。僕は仕方なく、特例を認めることにした。
「じゃあ、これで今日はおしまい。取り敢えず帰っていいぞ」
エリの人事はまた今度考える事にしよう。明日も学校あるし。
僕がパソコンを閉じるとエリは小さな紙を僕に差し出してきた。受け取ってちょっとした好奇心と共にそれを開くとそこには女子らしい可愛らしい字で大手銀行の名前と口座番号が記されてあった。
「なに……これ?」
僕がまた質問をすると、いままでとは打って変わって無垢な瞳で答えた。
「そこに給料いれて……」
僕は彼女のがめつさに一種の関心を抱きながらエリを玄関に送ろうと立ち上がった。
「分かった。明日は二十五日だし、丁度いい。前払いという事で二千万、口座に振り込んでおく。確認しておいてくれ」
エリは頷いて立ち上がった。それとほぼ同時にゲストルームのドアが開いた。
「ご主人様。就寝のご準備、完了いたしました」
あれ? 僕は頼んだ覚えはないけど……。まだ食事もとってないし。
「私……今日ここに泊まる」
「……は?」
「貴方と同じ部屋で」
「……え?」
そう二言だけ言って、執事と一緒にゲストルームから出て行った。だだっ広い部屋に一人残される。
「……ここ、僕の家だよな……」
とにかく彼女の横暴についていくのがだんだん面倒臭くなってきたし、取り敢えずあの子には今晩だけ付き合う事にしよう。自分の命のためだ、うん。
そう自分に言い聞かせて、僕は浴室に向かった。
このマンションを作る際に一番僕の願望を詰めたところが何を隠そうこの浴槽だった。それは毎日学校と会社を行き来するのが日常の僕にとって唯一、安心して過ごせる時間だったからに他ならない。
……でも今日に限っては、僕のささやかな安らぎの時間すら遣ってこないようだ。
「なんで」
浴室のドアを開けた。そこには全面オーシャンビューの大きな窓とジャグジー付の丸い湯船が広がっている。白い湯気が立って、気持ちよさそうだ。
「君がここにいるんだ?」
そこにはタオル一枚巻いただけと言う軽装備の色白の女性が立っていた。なんとなく見てはいけないような気がして目をそらす。
「私は貴方を守る」
「…………」
ここには掃除係以外、スタッフですら入れたことが無いのに。なんて簡単に侵入されてしまうんだ、僕の根城は!
「じゃあ、なんで君も裸なんだ?」
「……エリ」
彼女の小さな声が浴室に響き渡る。
「私の名前はエリ」
「それはさっき聞いたが?」
「…………」
彼女はまた黙ってしまった。彼女は何がしたいのだろう? 殺されかけた時もそうだが彼女は進んで自分から話そうとしない。こっちが彼女の心中を汲み取ってあげないといけない。
それに君がそこをどいてくれないと、浴槽に入れないんだ。
と心中で悪態を放っている場合ではなかった。なんとかして彼女をここから追い払わないと。
「だから……なに?」
「私の名前はキミじゃない」
「そんな事は分かっている。しかしそれも本名ではないのだろう?」
身体がだんだん冷えてきた。目の前に暖かそうな湯船があるのにここでお預けってどんな拷問だ、これ?
「……でも私の名前」
「うん。だから?」
やっぱりこいつにはコミュニケーション力が著しく欠けているとしか言いようがない。いままでいろんな人間と会話してきたが、ここまで非効率で非生産的な会話があっただろうか。
「だから……」
なにかゴニョニョと言ったのが聴こえたが、それは虫の羽音レベルで小さく、僕の耳には全く入ってこなかった。
「なに? 聞こえないよ」
なんとなく自分の言葉にとげがあるような気がしたが、もうこの際、僕はどうでもよかった。彼女の姿を横目で見る限りここで血を見る事は無さそうだし。
「私の事……」
「エリと呼んでほしい」
僕の耳には彼女の震える声でそう確かに聞こえた。
結局、彼女はそこから微動だとしないし、彼女も冷えてしまうとまずいので浴槽に入ることを許可した。僕の風呂がでかくて本当に良かった。若い男女が一緒の湯船に使うのは世間的にはどうなのだろうかと、僕はいらない心配をしていたが、僕もエリもそういう気は全くないようなのでその心配はもうしない。
彼女としてはいついかなる時も僕の近くにいるという、信条の元で動いている様だった。有り難迷惑もいいところなんだが。
とにかくそうして今、気まずい空気が浴室内に流れている。折角の僕の安らぎタイムが台無しだ。
「…………」
ちらりとエリの方を見ると、不意に彼女と目が合ってしまった。すぐさま目を逸らす。
「あの……なに、かな?」
思わず、質問してみる。どうせ、彼女から話す事はないのだから。
「私……お風呂って久しぶりだったから」
「……そうなのか? 普段はシャワーだけとか?」
しかしもう秋も深まるこの季節にシャワーだけ、と言うのは如何せん寒くてたまらないだろう。
「ううん。身体を洗うことがもう二週間ぶりくらい」
「……そうか」
汚い。率直な感想。流石に本人に向かってはいわないが。いくら僕でも年頃の女の子に向かってそんな事はいえない。殺し屋の彼女ならなおさらだ。
気まずい空気の中、僕は窓から見える波の少ない夜の海を見ていた。青空の下の真夏の海も嫌いじゃないが、人一人いない冬の海もどことなく寂しそうで好きだ。
エリの事は完全無視だったけど、こんな場所で女子の顔を見れるほど僕は勇者じゃない。
「……ここの料理、すごく美味しかった」
「えっ?」
それが彼女から振ってきた初めての話題だった。
「あんなに食べたの、久しぶり」
だろうな。普段からあんな量の食事をとっていたら、あの体系を保つのは不可能だろう。
「ならよかった。僕が日本中を回ってヘッドハンティングした自慢のコックだ。勿論、食材も――」
「カップ麺」
僕がうちの料理人の自慢をしていると、エリは無理やり話に頭を突っ込んできた。こいつは人の話を聞くという事が出来ないんだろうか。よほど、出が悪いと見える。
「食べたことある?」
これが彼女からの初めての質問。
「ない……な。そんな下賤な物は。そもそも、即席麺など――」
「……そう」
また自分から訊いておいて他人の話を遮った。彼女はこの会話から何が知りたいのだろう、なぜそんな質問をしたのか。
僕には彼女の質問の意図がまるで判らなかった。
それからというもの彼女との会話はなく、結局エリは僕と同じ部屋で一晩を過ごすことになった。
……僕が寝るまで彼女はずっと僕の枕元に立っていたけれど。




