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彼女は嘘と共に  作者: 市ノ川梓
第一章 出会いは痛みと共に
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第零話 彼女は笑みと共に

それが最後に見た彼女の笑顔だ。

繁華街を少し抜けた灯りの少なく細い路地の暗がりの中、僕は道を塞いで微動だにしない女を見つめて、話を切り出すタイミングを窺っていた。その街灯に照らされてぼんやりと暗闇に浮かぶ表情でさえピクリともしない。

この女が何のためにこんな狭い道で僕の行先を止めているのか、さっぱりだ。

この路地を抜ければすぐそこには繁華街が広がっていて、この時間帯なら帰路の大人たちがわんさといるだろう。この繁華街はここら辺でも随一の賑わいを見せる通りだ。しかしその通りを一本抜けたこの裏道には僕と彼女以外の通行者はおらず、完全に二人の世界になっていた。

僕らの頭上には白色のぼんやりとした明かりが一つ、弱々しく光っている。そのおかげでネオンの光の届かない路地でも彼女の表情を伺い知ることができた。

彼女は僕と目を合わせてからと言うもの、一切表情を変えずにただそこに立ち尽くしていた。僕に用があるのか、それとも本当にただそこに立っているだけなのか。

しかし彼女はやっと僕と目を合わせて笑ったのだ。あれは間違いなく、笑っていた。真っ直ぐだった薄ピンクの唇がゆっくりと曲がり、頬は微かに赤みを帯びて、僕に優しく微笑みかける様だった。

僕もそれに応えるべく、いつもの建前スマイルを見せようとした瞬間、その唐突な彼女の言葉に僕の顔は完全に引きつってしまった。

「殺す」

 そう一言、少女の唇の間からこぼれると、彼女は後ろに背負った何の変哲もない学生バッグからそれはもう完全に僕の日常からはかけ離れた物体を取り出した。

「それ、ちょっ……一体何を……」

 いくら社内では冷静沈着な社長で通っている僕でも、その状況には動揺を見せざるを得なかった。

 この平凡な街には似合わないソレを彼女は片手でいとも簡単に扱って、もう片方の手で、バッグから垂れる紐を下に引っ張った。

 その瞬間、辺りに爆音とも比喩できる機械音が地面に轟々と響き渡った。それと同時に彼女のソレは勢いよく動き始める。無数に鈍く輝いていた刃は回転を始め、それにかかればどんな物体をも跡形もなく切断どころか粉砕してしまいそうだ。

 しかし少女の表情はあれ以来一切変化することなく元気よく回転するソレを見つめている。

 これはついにきな臭くなってきた。全身からは未だかつてかいた事のないような気持ち悪い汗が流れ始め、心臓の鼓動も新企画プレゼンテーション前夜よりもうんと早い。カラカラの喉は液体を欲して嗚咽を吐く。

 僕はゆっくりと彼女と間を取るべく、半歩後ろに後退った。しかし彼女もその分だけ僕の方に近づいてくる。

彼女と僕の距離は全く変わらない。

彼女も彼女で不気味な笑みを一瞬たりとも壊さず、虚空を見つめたまま電動ノコギリを握ったまま、また動かなくなった。しかし彼女が僕にのっぴきならない用があるのは間違いなく、どうしたら良いものか。脚の震えを相手に悟られないように冷静な振りを続けた。

取り敢えず額から流れる気色悪い汗を見慣れたハンカチでふき取って、上ずった声で彼女に尋ねた。

「あの、僕に何かご用でしょうか?」

 完全に馬鹿の質問だった。彼女のさっきの発言とこの行動からしたら彼女の目的は一目瞭然。しかしもしも、という可能性もある、かもしれない。そんな淡い、というか希望的観測に僕はすがった。

「…………」

 しかし、いくら待っても彼女は一向に口を開こうとしなかった。辺りに響くのはノコギリの歯が無骨に回る音だけ。

「用が無いなら僕、帰りますね……明日も学校あるんで」

 気を誤魔化す為、それっぽい言い訳と一緒にまた後ろに引き下がった。でもやっぱり彼女は僕が移動したのとほぼ同時にまた僕との距離を同じ分だけ縮める。

逃げられない。

「私は頼まれた」

 唐突に目の前の少女は口を開いた。僕は彼女が放つ何とも名状しがたい不気味なオーラに戦慄を覚えながらも、彼女の言葉に耳を傾けた。

「……貴方を殺すように」

 殺す? 僕を? なんで? 冗談だろ。僕を殺して何の利益があるっていうんだ。僕は全国津々浦々どこにでもいるごく一般的な男子高校生だぞ? 何が目的なんだ、この行動は?

「いまや貴方はこの国の文化を背負っていると言っても過言ではない。ならば貴方の席を狙う者もいて当然の事象。私はそのうちの一人から貴方を消す様に頼まれた」

 急に饒舌になってご丁寧に僕の今置かれた状態について説明を始めた。急な場面変換とこの空間に頭が上手くついていかない。

「その人っていうのは?」

「それは言えない。我々はクライアントの情報を地獄でも漏らさない、それが信頼関係」

冷酷に、淡々と彼女は言葉を吐き出していく。相変わらずノコギリの電源は入ったままだけど。

「なるほど」

 敵ながら感心してしまった。いままでの話から推測するに彼女は殺し屋に近い仕事についている様だ。別にあり得ない話でもなかった。現に自分が本来、この年では就く事の出来ないような地位に立っているのだから。

「……質問」

「は?」

「質問、もう大丈夫?」

意外にも僕の質問に答えてくれていたらしい。秘密主義のくせに結構喋ってくれたな。

「これから死ぬ人に何を話しても同じ」

「なるほど、ってえっ?」

 僕が次に彼女の姿を見たとき、それはまさに殺人鬼だった。その華奢な身体つきからは想像もできない程の大きな重機を振り上げて、さっきまでとは打って変わってその鋭い眼光は、さながら獲物を見る鷹の様だった。辺りには普段感じることのない、肌に突き刺さるような殺気。

「本当に僕を殺す、のか?」

 と頓珍漢な質問をする男子高校生と、宙を見つめたまま首を縦に振りおろす少女。

「き、君はこれから法を犯すんだぞ、分かっているのか?」

 声が完全に裏返って震えていたが、なんとか隙は作れぬものかと文字通り必死の説得を試みた。しかし彼女との心の距離はさておき、彼女と僕の距離は縮まる一方だった。そこに猶予はない。

「誰も私を、捕まえる事は出来ない」

 彼女は静かにそう呟くと、もう一度凶器のエンジンを入れ直した。勢いを取り戻した刃。逃げようにもあまりの恐怖に脚が根を生やしたように全く動かない。これが本職の狂気――。

「君……怖くはないのか? 罪を犯すことが」

「他人の作ったルールになど興味はない……。我々はクライアントの指示に従うだけ」

「悪いことは言わない……誰にも言わないから、こんな事はよせ……な?」

「刃のサビにしてあげる」

 その彼女の言葉に、突如魔法が解けたように僕の足は軽くなった。彼女に背を向け、我を忘れて狂気の殺人鬼から逃げ出した。細く、うす暗い建物の間をすり抜けて、とにかく人の多い大通りに出ようと呼吸も忘れて走った。彼女が一端の“殺し屋”であるのなら、人目に着く場所では事を起こさないはずだと、そう判断するしかなった。

逃げ出してすぐに胸が苦しくなった。こんな事なら普段からちゃんと運動してれば良かったといまさらながら後悔する。

足はまだ恐怖で思うように動かないけど、後ろから彼女が追ってくる気配はない。

暗くてよく見えなかったが、あのノコギリの刃……血で真っ赤に染まっていた様な。あんなモノで切られていたら……そんなおぞましい事を考えていたら身震いが止まらなくなってしまった。明日からは屈強なボディガードをつけようと心に誓いながら、迷路の出口を目指す。

「あ、あれ……?」

 暫く走っていると異変に気付いた。いつもならすぐに大通りに抜けるはずなのに今日に限ってそれの明かりすら見えてこない。目の前に広がるのは、薄気味悪い路地だけ。

 でも止まる訳にもいかない。なぜか一瞬でも止まればすぐに彼女が後ろに現れるような気がしてならなかったのだ。異様な雰囲気に気づきながらも僕は疲れで絡まる足を必死で動かした。

 しかし、必死の逃亡も長くは続かなかった。

「行き止まり……?」

 これはおかしい。この路地を三年近く使ってきて、こんな行き止まりは未だかつて見たことがない。こんなの……おかしい!

 必死の否定空しく、その壁は僕の行く手を阻むようにそこに立っていた。

 でもまだ何とかなる……。彼女と僕の距離はある程度、稼いだ筈なんだ。まだ引き返せば追いつかれずに大通りに出ることができる。僕は生きて家に帰ることができる、きっとまた明日から普段通りの生活を送ることができる。そんな根拠のない自信が唯一、僕を生きた心地のしない現世にとどめていた。

 やっと自分を奮い立たせて、来た道を引き返そうと振り返ると鼻先十センチに鉄仮面女の顔があった。

「うわああぁぁああ!!」

 あまりの衝撃に思わず後ろに倒れこんでしまった。僕は肩で息をしているというのに彼女の顔色一つ、息一つ乱れてはいなかった。なにも変わっちゃいない。もちろん、右手にはあの無骨な電動ノコギリ。

「なっ……なんで! ぼ、ぼくは……」

 口の中はすっかり水分を失って、思うように声を出すことすら難しくなっていた。彼女の冷徹で無機質な眼は僕の瞳を離してはくれない。

「……私からは逃げられない。一度狙った敵は必ず殺す……。それが私の良いところ」

 電源の落ちたノコギリのエンジンをまた入れなおして、彼女はそれを振り上げた。その顔、姿は実に慣れた様子で、これが最初の殺しとは到底思えない。僕は立ち上がる事すらできない。華奢な腰からたれた赤い紐を下に引くとノコギリの歯はまた大きな音を立てて回転を始めた。

 死ぬ。

「……さようなら」

 僕は、ここで死ぬ。

「死体は、どこか見晴らしの良いところに埋めておく」

 そんなの気休めにもならない。

あの人の後ろ姿すら僕は見ずに死ぬんだ。

「形が無くなるまでぐちゃぐちゃにする……」

 さようなら、僕の世界。


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