還る者、還らぬ者
薄明かるい世界にセレナはいた。
ぬかるんだ泥のような。
よどんだ沼のような。
どうしてこんな場所に居るのか、何をしているのか、そんな疑問は浮かぶ前から泡となって消えてゆく。
自分がゆっくりと溶けていく、そんな感覚。
このまま。
このまま消えてもいいな、とセレナは思った。
「‥‥‥ナ」
セレナの耳に、何かが届いた。閉じかけていたセレナの目がピクリと上がる。
奇妙に、なつかしい感じがした。
同時に頭に痛みがはしる。
「っ‥‥」
「‥‥レナ‥」
何かを、何を。
何を忘れているのだろう。
セレナは、ぼんやりと光の見える方向に手をのばす。しかし、その体は、底へと、よどみへと引きずり込まれ始める。
「あっ‥‥」
周囲の、水とも粘着質の空気ともつかない空間をつかもうとするが、その手は勿論、何をもつかめない。
光がどんどん遠ざかっていく。
「‥‥‥ぁ」
セレナがのばした手を戻そうとした時。
「セレナ!」
セレナの体を支える手。
その大きな手に、セレナは全てを思い出した。
「セレナ、時間が無い、よく聞け。俺とお前は即死の魔術をかけられた。そいつにアタックの駒らしき物を奪われた。お前は、まだ戻れる。俺は‥戻れない」
トン、と押されたセレナの体は、光の方向へ昇ってゆく。
セレナの視界に、黒いコートの裾がわずかに映った。
「ま‥‥待って!行かないでっ‥カザハヤーーーーーー!」
手をのばして、セレナは目覚めた。
そこは。
マゴール邸の廊下。
カザハヤに待機するよう言われたのだ。
そう。
そうだ。
「カザハヤ‥?」
戻れないと言ったカザハヤの声がよみがえる。
セレナは部屋へと入った。
暗い。
窓からの夕陽に、部屋の中は全て陰になっている。
不吉なオレンジ色をたたえたその部屋に。
カザハヤは、居た。
いや。
カザハヤは既に冷たくなっていた。
「うふ‥‥ご苦労様、シキ」
妖艶な声で女は笑う。
その手には、カザハヤがアタックの駒だと考えた金属片。それを玩びながら、女は反対の手で金貨の入った袋を投げる。
シキは、片手で受け止める。
白髪がさらりと動いた。
「‥あの穢らわしい闇は何処にいるのかしら?」
「金鶏亭に戻ったかと」
しばらく黙った後、女はそう、と呟く。
赤い唇がわずかに吊り上がる。長い前髪のせいで見えないが、目元もわずかに吊り上がっていた。
「どうされるのです?ヤオ様」
「今は、何もしないわ。アレにはまだ利用価値がある。これの実験体になってもらうのも面白そうね」
わずかに。
わずかにシキの表情が凍り、目つきが鋭くなる。
しかし、すぐさま美しい笑みを浮かべた。
「そうですか。‥‥俺も、実験体になりましょうか?」
「あなたが自殺志願者だとは知らなかったわ」
女はシキの服の襟元を掴み、引き寄せる。鼻先が触れそうになる程その距離は近い。
シキは美しい、しかしどこか病的な微笑で女の瞳をのぞく。
「うふ‥‥」
女はシキの頬を指でなぞる。女の指が顎先に至ろうとした時、シキは身をひいた。
「ヤオ様、俺は帰りますね。お楽しみは、また今度といたしましょう」
女の前から消えたシキは、夜道を急ぐ。
路から路へ。
闇から闇へ。
やがて、金鶏亭へとたどり着く。
金鶏亭の表の顔は善良な海運業者、しかしその実日の下を大手を振って歩けない者達を泊める宿屋である。
誰もいない宿の裏口から、シキは静かに宿へと入った。
廊下は暗い。
これは、宿側の配慮だろう。
宿泊客どうしが互いの素性を知ることが無いように。そうしなければ、この宿屋で死人が出ることになる。
シキは部屋のドアを開けた。
暗い。
「スール、いるか」
シキの声に、闇が動いた。
ドアの閉まる音。
声は、シキの背後から答えた。
「仕事なら、聞く。それ以外なら、話すことはない」
「報酬が出たのでね。少し明かりを点けさせてもらうよ」
返答を待たずに、シキは起動式を唱える。
「〈明るきもの〉」
直後、漆黒の闇が薄闇ほどへと変化する。
目の前で光量の変化に目を細める少女に、シキは金貨を数枚手渡す。少女は無表情に受け取った。
「セレナとカザハヤは死んだのかい?」
「さあ」
どこまでも感情の見えないその声に、シキは苦笑した。
勿論シキは、その感情の薄さが何に起因するものか知っている。
シキはさらりと少女の黒髪をすいた。少女はされるがまま。
どうにも哀れでたまらない。
なぜ、この少女は。
殺人機械とならなければならなかったのか。
どうして、この少女だけが。
いや、本当は分かっている。
知っている。
知ってはいるがーーー
「スール、俺が真実大切に思っているのは、君だけだ。それだけは忘れないでくれ」
少女は、シキの手を払いのけた。
「それは、〈嘘〉だ」
それは、少女に残されたわずかな感情。
静かで、薄っぺらい、怒り。
決して我を忘れることの無い怒り。
ああ。
ああーーーやはり。
哀れだ。
どうすればこの少女は理解するのだろう。
全てが〈嘘〉では無いということを。
この世には〈真実〉があるのだということを。




