ちゃんみー
主人公:狐木 修輔(こぎ しゅうすけ)
ちゃんみー:羽山 水月(はやま みづき)
「そう。じゃあ、やめてあげる」
意外にも素直にストラップを鞄の中にしまう羽山。
ピーター君の貞操は守られたのだ。男の最後の城壁を崩されなかったことに、安堵の念を抱く。
だが、これで終わりではなかったらしい。羽山は俺の目を真っ直ぐ見つめながら、
「そのかわり、溢れんばかりの愛情を持って、みーちゃんって、呼んでよ」
なんて、言い出した。
「……はぁ?」
「狐木君には、私のことをみー様なんて呼ばせるより、みーちゃんって呼ばせた方が屈辱的だと思ったの」
「なんだよ、それは」
「シンプルに責めた方が弱いんでしょ? これが、私のぷんすかポイントを見事に十ポイント貯めることができた景品ね」
「ぬぐぅ」
確かに、羽山のことをみーちゃんと呼ぶなんて、かなり恥ずかしい。だったらまだこの場で全裸になってマンドラゴラごっこをやる方がマシだ。
「私のことを何とでも呼んでくれるって約束、破るの?」
羽山の手が再度鞄に伸びる。一難去って解放感に包まれたピーター君をまた地獄に叩き落とそうというのかこの女は。
「……恐ろしいぜ」
「ねぇ、呼ぶの? 呼ばないの?」
ピーター君が鞄から出たり入ったり。かろうじて糸で繋がっている右肩がぶらんぶらんと揺り動く。
こいつ、自分で作ったストラップに対してなんてことを!
「こぎくーん、お願いだ、オイラを助けてけろー」
ベタな裏声でピーター君の心の声を代弁する羽山。なんでピーター君、田舎弁なんだよ。
「言うだけはタダなんだがら、はよ言えってこのグズが」
ピーター君毒舌だよ、めっちゃ怖いよ。
しょうがない、俺は一度した約束は絶対に守る性格だ。深呼吸を一つして、羽山の瞳をゆっくりと見据えた。
「みー、ちゃん」
「…………うん。ちょっとつっかかったから、もっかい言って」
「ちゃんみー」
「業界用語みたいに言わないで。もっかい」
「みっちゃん」
「柑橘系缶ジュースみたいに言わないで。もっかい」
「ちゃみーん」
「さて、もうよくわからなくなってきたから、そろそろ縊り殺していいかな」
「みーちゃん」
「……もっかい」
「みーちゃん」
羽山はピーター君を鞄にしまい、にっこりと笑った。
「なぁに? 狐木君」
それは、今まで見たこともないほど自然体の笑顔で、不覚にも心臓がぐさりと突き刺さるような衝撃を受けてしまう。
「なんだ。お前って、意外と可愛いじゃないか……」
「えー、その言い方だと、今までは可愛いと思ってなかったって聞こえるんですけど」
「全くその通りだ」
「ひどっ!」
羽山……もとい、みーちゃんは、俺からしてみれば本来なら恐怖の対象でしかない。
偽りの仮面で周りを味方につけ、欺瞞に満ちた笑い声を周囲に浸透させる。
それが世の中なのだと知った時、俺は世の中の仲間に入ることをやめた。
だから、彼女のように、自分を作り出して他人に大きな影響を与える人は苦手だった。
「ねぇ、狐木君。下の名前を教えてよ」
「なんだ、まだ気にしていたのか。どうしても知りたいのなら、隣の奴にでも聞けばよかったじゃないか」
「隣の人に聞いたって、偽名かもしれないじゃない」
偽名ってなんだよ、俺はどこぞの有名人か。
「だったら俺の出席簿を先生に見せてもらえばいい」
「駄目。私は狐木君の口からじゃないと信じない」
「俺にそんな詰め寄っていいのか。彼氏が泣くぞ?」
「……泣いたからどうなの? 興味のない人間がどうなろうと、私の心は痛まない」
おいおい、お前は興味のない人間と付き合うことを決めたのかよ。とんだあばずれ女である。
このまま言わないでいるといつまでも絡んできそうだったので、観念して自分の名前を教える。
「修輔だ」
「修輔……だったら、修君だね!」
天真爛漫という言葉を抜き出したかのようにきゃらきゃらと笑う彼女の顔に、幼い日の夕海を思い出し、懐かしい気持ちになるのだった。