二、 仮面を捨てて中を眺めよ
翌日、学校に行くと木野は先に着いていた。俺と木野は座席が隣同士のため、朝に互いに軽い挨拶を交わすのが日課であった。しかし今日はどうだろう、木野は挨拶をしてこない。席に着いた俺の方を急に向くなり、彼はいきなりこんなことを言い出した。
「昨日のことはもういい。忘れてくれていい」
「なぜ」
突然昨日のいかにも青春らしい会話のすべてを投擲した彼に少し腹を立てつつ、俺は冷静を装って彼にその理由を問いかけた。
「やっぱり恋はやめたんだ」
「やめるやめないの問題じゃない。君の心が彼女を欲しているなら、嫌でも諦めることはできんだろう」
「そうなんだけど、ほら、恋愛ってものすごく精神に負荷をかけるじゃないか」
木野らしくない発言であったのは明らかであった。毎朝の挨拶を省く上にこの意気込みの無さである。
「君の口から発せられた言葉とは思えないな。なぜそんなに消極的なのさ」
「消極的というか・・・冷めたといった方が適当なんじゃないかな」
木野の冷めたという発言には理解に苦しんだ。日頃から、ありとあらゆるものに好奇心を示し、熱中し、周りが見えなくなるような人間、ましてや消極的で冷血漢を思わせる言動を表へ出すなんて一切ありえないこの木野には、冷めたという言葉は気持ちが悪いほどふさわしくなかった。
「昨日お前と別れた時、何かおかしな気持ちになったんだ。僕の長瀬さんへの好意は結局のところ、一時的な思い上がりによるものじゃないのかなって」
「だが、去年から好きなんだろう? 彼女への好意が一時的なものでないことは明白だ」
俺はそう言い返した。なぜ木野の恋に、当事者でもない自分がここまで固執しているのか分からなかった。きっと昨日あんなに真剣に相談しておいて、急にそれを皆否定するような結論に至ったその事実自体が俺にとっては腑に落ちないものなのだろう。そう思うと、自分は些かわがままな人間なのかもしれない。勿論、木野がわがままであることも事実だが。
長瀬さんは欠席した。実を言うと今日で三日目である。時々懸念に満ちた眼差しを長瀬さんの空っぽの机に向けている木野が滑稽であった。その行為が自由意思によるものなのか、はたまた無意識なものなのかは本人に尋ねない限り知る由もないことだが、意思の有無に関わらずその行為自体が重要なことを意味していると、何となく直感で思った。
長々と続く七時間の授業が終わると、木野は一緒に帰ろうと俺に言ってきた。別段断ったり拒んだりする真っ当な理由があるわけではないのでうんと頷いたが、今日の木野と二人で帰るのはどこか気乗りしないところがあった。通常の木野ではないという不思議さや不気味さから来ているのだろうと思う。
「またここでいいよね」
昨日訪れた公園の前に着くと、木野はあの長椅子に座ろうと提案してきた。俺は良いと言ってその長椅子の方へ歩き出した。木野も一拍置いて俺の後をついてきた。
「色々悪かったよ。別にお前をからかうために急に恋を諦めたわけじゃないんだ」
長椅子に座るや否や、木野はいきなり謝罪をした。
「いや、気にせんでいい。俺も真剣に相談に乗ってたとは到底言い難いしな」
「でも、昨日のお前の親切を無駄にしてしまったのは事実だ」
木野がここまで律儀というか、人に対する礼儀を弁えた男だとは思わなかった。そんな真っすぐな心を備えた者を友人として持てて幸せと思うのが通常だが、俺は少し違った。
「君は、僕を友達だと思うかい?」
俺は唐突な質問を木野に投げかけた。
「当たり前じゃないか。だからこうやって相談をしたんだ」
「そうか。それはありがたい言葉だが、同時に俺にとっては痛い言葉でもある」
「どうしてさ」
「俺は・・・面白半分で昨日の相談を受けていたと言っても言い過ぎではない。君と長瀬さんがくっつく景色を眺めたいがために、真剣を装って君の話を聞いたんだ」
俺の自白を聞いた木野に驚嘆の様子は窺えなかった。
「まあ、その事実を予想していなかったわけでもないから、大丈夫さ。何もそれが僕たちの友情の薄さを物語っているわけではない」
「だから、その言葉が痛いんだ!」
俺はついに感情的になった。と言っても、前々から感情的になる予定もないし、予期していた訳でもないのだから、ついにという語を置くのは相応しくないのかもしれない。さすがに俺の取り乱した様子には木野も驚きを隠せないようだった。
俺はここまで友情や友達という言葉に敏感だったとは思いもしなかった。
「すまん、大きな声を出してしまって。驚いたのも無理はない」
「いや、僕こそお前の気も知れずに、軽率な言動を起こした」
「俺は、今までませていたんだと思う。ただ無口で、無気力な見た目の人間が格好いいと思い込んでいた。難しい言葉や構文を並べれば知的に見えると誤解していた。人に冷淡な態度で接することで大人びて見えるのだと勘違いをしていた。君に思い知らされた、俺は痛い人間だったと。大人という状態をはき違えていた。苦いブラックコーヒーを無理して飲んで自慢する子供のように。煙草を吸っていい気になる育ちの悪い未成年者のように」
俺の思い切った告白はその場に沈黙をもたらした。そこに時間が流れていることさえ疑わしくなってしまう程の強力な沈黙を。
「な、なあ、そんなに自己嫌悪に陥ることはないよ」
木野は自分を責める俺に対して慰めの言葉を贈ってくれた。
「・・・だから、俺は、君を友と呼ぶことに抵抗を感じる。限りなく後ろめたい心持になる」
「何言ってるのさ。親身になって、自分のことのように恋愛相談に乗る友達なんか、僕は会ったことがない。気休め程度の助言をもらえれば、それでいいと思っている。友達なんて結局のところ、そう言うものじゃあないのかな」
「あ、ありがとう」
生まれて初めて本気で言った感謝の言葉かもしれない。記念すべき第一回目としては少々ぎこちないが、俺は何か人間として重要な物を自分に積めた気がした。
「君は、俺の友達だ」
俺は真剣な眼差しを木野に向けながらそう言った。木野は照れ隠しか下を向き、またこちらを向き直したと思ったら澄んだ笑みを見せてくれた。
「僕が話したいことは、まだ始まっていない」
この暖かすぎる状況を一新するように、木野は話を転換した。よく考えると、木野が俺に話したい内容がこのようなことではないのは明らかであった。俺が寂しい人間であるがために、話が脱線してしまったのだ。