Chapter 8: The Way You Look at Me
次の日の朝。
教室の扉を開けた瞬間、真っ先に安西の姿が目に入った。
俺の足音に気づいたのか、安西はくるりとこちらを振り向くと、目が合った途端にぱっと顔をほころばせる。
それから、まるで家に帰ってきた飼い主に駆け寄る犬みたいに、嬉しそうに小走りで近づいてきた。
「佐々野くん、おはよう」
「ああ、おはよう」
「今日も雨だね」
「ああ、雨だな」
「花が喜ぶね」
「ああ、喜ぶな」
短い言葉を交わしているだけの、他愛もないやりとり。
だけど、安西はまるで特別な秘密を共有しているかのように、頬をほんのり染めて、うれしそうに笑っていた。
なにがそんなに楽しいのかわからない。
会話の中に笑えるような内容はないのに。
……それでも、なにかがうれしくてたまらないとでも言いたげに、安西はずっと、春みたいにあたたかな表情で笑っていた。
「あ、そうだ」
はたと思い出したように、安西が言う。
「佐々野くん、昨日はちゃんと傘を持って帰った? 雨に濡れずに済んだかな」
ふいにそう尋ねられて、わずかに肩が跳ねた。
傘は、言われたとおりに持ち帰った。
だけど、本当に降り出した雨に呆然としてしまい、差すことを忘れて……結局濡れることになったんだった。
鞄の中には、開かれなかった折りたたみ傘が、まだそのまま入っている。
どこか後ろめたさを感じながら、思わず鞄を背中にずらした。
「ああ、安西のおかげでな。助かったよ、ありがとう」
目を合わせられないまま、礼を言う。
安西は、どこか照れたように視線をさまよわせた。
それから、ちらと窓の外を見やる。
「わたしのおかげじゃないよ。花たちのおかげ」
「……花たちの」
「そうだよ」
安西は振り返り、ふわりと笑う。
「あとでお礼を言ってあげてね。佐々野くんが来ると、花たちが喜ぶんだ」
頬を掻く。
少しの間を置いてから「わかった」とうなずくと、安西は満足げに微笑んで、自分の席に戻ろうと俺の前を通り過ぎていった。
……と思ったら、
「あ」
と、小さく声を漏らして足を止める。
それから二、三歩後ろ歩きで戻ってくると、きょろきょろとあたりを見まわし、背伸びして俺の耳もとへ顔を寄せた。
言いたいことがあるらしい。
俺も自然と身をかがめる。
「……あのね。本当は、花だけじゃないよ。佐々野くんが来てくれると、じつは……わたしもうれしいんだ」
囁きはくすぐったいほど近く、どこか秘密めいていた。
その一言に、胸の奥が、ふっと熱を帯びる。
どう返せばいいのかわからなくて、ただ目を瞬いて安西を見ると、彼女は逃げるように席へと戻っていく。
そんなに急がなくても、机と椅子は逃げない。
置き去りにされたままの俺は、その背中を見つめながら、ほんの少しだけ、ため息を漏らす。
――まったく、妙なやつだ。
そう思いながらも、自然と口もとがゆるんでいる自分に気づいて、慌ててきゅっとくちびるをつぐんだ。
「花が喜ぶ、ねえ……」
ぽつりとつぶやく。
窓から花壇を見降ろすと、小雨に濡れた花々が風に吹かれて静かに揺れていた。
それをぼんやりと眺めているうちに、なんだか花たちが俺に手を振っているように思えてきて……思わず、小さく笑ってしまっていた。
まあ、確かに、喜んでいるように見えなくもない。
数秒して、我に返る。
慌ててかぶりを振った。
これはいけない。
完全に影響されている。
俺まで電波になったら、さすがに笑いごとじゃ済まされない。
席について、そっと息を吐いた。
ふと、なにかに引かれるように顔を上げる。
……目が合った。
教室の向こうで、安西がこっちを見ていた。
ぱち――と瞬きをした次の瞬間、彼女の肩がぴくりと揺れる。
そして弾かれたように視線をそらし、慌てて前を向いた……かと思えば、机の上の教科書やノートが勢いよく崩れ落ちた。
それに気づいて、両手で一気にかき集めるけれど、うまく拾えずにプリントが数枚ぺらぺらと床に舞っていく。
なにしてるんだ、あいつ。
遠目から見つめ、思わず笑みがこぼれそうになって――ごまかすように前を向いた。
安西と関わるようになって、数日。
印象は、やっぱり「変なやつ」のまま。
だけど……悪いやつでは、なさそうだ。