Chapter 7: When the Flowers Whisper
ちらと安西の横顔に目を向ける。
それから、ひとつ小さく咳払いをして口を開いた。
「なあ、安西。……少し、聞いてもいいか」
「うん? いいよ。なにかな」
「おまえ、いつもこうして一人でいるけど……」
――寂しくはないのか。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
尋ねるだけ無駄なことだと、すぐにわかったからだ。
本当は寂しくても、きっと彼女は「寂しくなんかないよ」と笑ってみせるだろう。
たかが数日話したくらいの相手に、本音なんて明かすはずがない。
息をひとつ、胸の奥で落とす。
そして、静かに首を横に振った。
「……いや、いい。やっぱりなんでもない」
言葉の続きを打ち消すようにそう告げると、安西はきょとんとした顔でこちらを見る。
けれど、それもほんの一瞬で。
すぐにふわりと微笑みを浮かべ、「わかった」と素直にうなずいた。
「……まあ、あんまり変な目で見られないように、ほどほどにしておけよ」
すでに『変わり者』のレッテルを貼られている安西に、これ以上奇行を広げないよう忠告してやったつもりだった。
だけど、当の本人はそれを冗談だと受け取ったらしく、いつもの調子で軽く笑って流してくる。
まったく、のんきなやつだ。
俺は小さく息をついて、踵を返す。
「じゃあ、俺は帰る。お先に」
「あ、待って」
背後から声がかかる。
足を止めて振り返ると、安西はすっと立ち上がり、スカートの裾を手で払った。
そして、こちらを見上げて問いかけてくる。
「佐々野くん、今日は傘を持ってきてるかな」
「……は?」
間の抜けた声が漏れた。
傘?
……安西は今、傘と言ったか?
俺は、ちらと空を見上げる。
「今日は晴れだぞ」
「うん、知ってるよ」
すぐに返ってくる肯定の言葉。
知ってて言ってるのか。
「……今日は、持ってきてない」
「じゃあ置き傘は?」
「折りたたみ傘なら、教室にある。……それがどうした」
「持って帰ったほうがいいよ」
なんの冗談だ?
眉をひそめると、安西は相変わらず柔らかな笑みを浮かべたまま、まっすぐにこちらを見てくる。
その視線に、なんだか居心地の悪さを覚え、思わず言葉を返す。
「おまえ、見えてないのか? ほら、そこ。太陽が出てる。もう一度言うが、今日は晴れだぞ」
「わかってるよ」
「晴れなら、傘はいらない。俺は、日傘は差さない主義だ」
「それもわかってる」
「だったら、なんで……」
食い下がるように問いかけた、その瞬間。
安西は少しも迷うことなく言った。
「――雨が降るよ」
雨が? 今から?
……まさか。
「こんなに天気がいいのにか」
「そうだよ。今、花たちが教えてくれたんだ。もうすぐ雨が降る、だから傘を持っていけって」
花たちが……ねえ。
目を細めて安西を見やる。
俺の懐疑的な視線に気づいたのか、安西はぱちぱちと瞬きを数度繰り返し――それから、ほんの少し困惑したように眉を下げた。
「……嘘じゃないよ」
不安そうな安西を見て、ため息をつく。
わかっている。
誰も、嘘をつかれているとは思ってない。
俺はひらひらと手を振った。
「ああ、そうだな。おまえがわざわざそんな嘘を俺につくとは思えないし、意味もない」
そう言って、ひとつ肩をすくめる。
それから少し間を置いて、もう一度空を見上げた。
雲ひとつない、よく晴れた空。
「……雨が降ると、花が言っていたんだったな。信じるよ」
その言葉に、安西は一瞬だけ目を見開いた。
そしてすぐに、ぱあっと頬を緩めて、安心したように笑った。
それはまるで、曇り空のあとに差し込んだ光のようで――花がほころぶ、という表現が、ふと脳裏をよぎった。
そんな顔を見せられたら、こっちまでつられてしまうじゃないか。
俺はわずかに口もとを緩めた。
「ばいばい、佐々野くん。また明日」
幼い子どものように、両手を大きく振る安西を背に、俺は教室へ引き返し、素直に置き傘を手に取った。
あれだけはっきり言われて、知らんふりするのも気が引ける。
それに、あんなふうに「嘘じゃない」とまっすぐに言われたら……信じないわけにはいかなかった。
とはいえ——。
「……どう見ても、降りそうにないよなぁ」
電車を降り、改札を抜ける。
階段を上りながら空を見上げれば、まだ青空が広がっていた。
雲はあるが薄く、風もない。
湿度も感じられず、雨の気配なんて、どこにもない。
――やっぱり、安西の言葉はただの思いつきだったんじゃないか。
そんなことをぼんやり考えながら、駅の出口を出た、その瞬間だった。
ぽつり。
頬に、冷たいものが触れた。
指先で拭って、空を睨む。
まさか、と思った瞬間——再び、ぽつ。ぽつ。
額に。
襟に。
地面に、葉に、世界中に。
小さな音が落ち始める。
それはやがて、連続する音へと変わった。
気づけば、肩も髪も、しっとりと濡れている。
「……嘘だろ」
それは、天気雨だった。
傘を差す間もなく降り出した雨は、一瞬のうちに止み、空には嘘みたいにくっきりと、大きな虹がかかっていた。
俺はただ、立ち尽くしていた。
言葉もなく、動くこともできず。
頭の中で、あの少し幼さの残る声が蘇る。
『――花たちが教えてくれたんだ』
最初から否定していたわけじゃない。
でもどうせ、これは冗談だ、気まぐれのひとことだと、心のどこかで思い込んでいた。
……それはたぶん、俺が安西のことを「変わったやつ」だと思っていたから。
クラスに馴染めず、どこか浮いているやつ。
そう思って、なんとなく一線を引いて見ていた。
突拍子もないことを言うのだって、きっと寂しさの裏返しなんだろうと、自分を納得させていたのかもしれない。
……安西という人間を、俺はろくに知りもしなかったくせに。
「……明日、ちゃんと礼を言わないとな」
つぶやくと、濡れた前髪からひとしずくの雨が滴った。




