Chapter 3: When the Flowers Listen
その声と同時に、俺より先に安西のハンカチが、泥だらけの俺の左足をそっと拭った。
女子らしい薄桃色の布地に、灰色の泥水がじわりと染み込んでいく。
思わず足を引こうとしたが、動けなかった。
安西の手がそっと、だけどしっかりと、俺の足を押さえていた。
「ねえ。佐々野くんは、雨が嫌い?」
同じ問いが、今度は足もとから静かに投げかけられた。
安西が上目遣いに俺を見上げている。
思わず、視線をそらした。
なぜだかわからない。
……ただ、その目を見つめ返せなかった。
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
雨の音が、少しだけ大きくなった気がした。
「……嫌いだ。濡れるし、じめじめするし。外に出るのも億劫で、出ればいいことなんてない」
つぶやいた瞬間、さっきの場面が頭をよぎる。
「見ただろ、おまえも。あんな目に遭うんだ。……鬱陶しいに決まってる」
「……そっか」
安西の視線が、そっと下へと落ちる。
まつげの陰が長く落ちて、表情が読み取れなくなる。
「うん、そうだよね。わかる気がするよ。雨は嫌いだって、みんな口を揃えて言うからね。だから、きっと佐々野くんも……そうじゃないかって思ってた」
ぽつりと、言葉を落とす。
最後の一言は、雨音に紛れてしまいそうなほど、小さくて淡い。
「……わたしは、ちょっと寂しいけれど」
傘の先から落ちた雨粒が、俺の靴先を濡らす。
その一滴を見て、ふと――安西は泣いているのかもしれない、と思った。
気づかれないように、少しだけ腰を屈めて、彼女の顔を覗き込もうとする。
……と、次の瞬間。
安西が、ぱっと顔を上げた。
近すぎた距離に思わずたじろぎ、俺は慌てて腰を反らす。
安西は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
……なんだ、泣いてないじゃないか。
安心と気恥ずかしさが入り混じったまま頬を掻くと、安西はゆっくりと立ち上がった。
そして、すぐそばにある花壇へと視線を向ける。
揺れる花を見つめるその横顔は、なぜだか微笑んでいるように見えた。
俺はほんの少し目を細めて、口を開いた。
「おまえ、いつもここにいるよな。晴れでも雨でも関係なく、ずっと。一体なにをしてるんだ?」
問いかけると、安西は目を丸くさせ、俺を見た。
ぱちぱちとまばたきをして、小さくつぶやくように言う。
「……驚いたな。佐々野くん、気づいてたんだ」
「そりゃあ気づくだろ。毎日のことだぞ。雨風吹く中、外に出てるのはおまえだけだ。嫌でも目に入るさ」
「へえ。よくまわりを見てるんだね。佐々野くんって、普段はぼうっとしてるから、あんまり他人に興味がないものとばかり思ってたよ。でも、そういうわけでもないんだね。なんだか意外だな」
つらつらと、よくもまあ、舌が回る。
なんだか、けなされている気分だ。
……いや、けなされているのだろうな。
おとなしいやつだと思っていたら、見た目に反してなかなか口が達者だ。
騙されたような気持ちになる。
眉をしかめる俺を見て、安西はまた小さく笑った。
「……ねえ、佐々野くん。さっき、わたしに聞いたよね。『いつもここでなにをしてるんだ』って」
問いかけるような声。
その目にふと、雨粒の光が滲んだ気がした。
「答えてあげる」
そう言って、安西は花壇の前へと歩み出る。
雨音が、耳もとで優しく囁くように降り続いていた。
スカートの裾を気にしながら、ゆっくりとしゃがみこむ。
その視線の先には、色とりどりの花たちが――雨に濡れながら、静かにたゆたっていた。
水滴が落ちるたび、花たちは小さくうなずくように揺れて、まるで返事をしているみたいだった。
安西は静かに微笑む。
そして、秘密を打ち明けるように言った。
「わたしはね――花とおしゃべりができるんだ」