Chapter 2: I Got Caught in the Rain
「……安西?」
口をついて出た名前に、わずかに遅れて記憶が追いつく。
同じクラスの――そう、安西だ。
下の名前は……思い出せない。
けれど、苗字だけははっきり覚えている。
安西といえば、いつも一人でいる印象だった。
べつに暗いわけじゃないが、誰かとわいわい話している姿を見たことがない。
たぶん、友達付き合いが得意なタイプじゃないのだろう。
考えてみれば、俺もこれまでまともに話したことがなかった。
あっても、せいぜい軽いあいさつ程度だ。
なのに――なぜ、今、安西は俺に話しかけてきたのだろう。
不思議に思いながらまばたきをすると、安西は、にこりと微笑んだ。
肩先が少し雨に濡れていたけれど、その表情はどこまでも穏やかだった。
「おはよう、佐々野くん」
まっすぐな声だった。
思わず返事が遅れる。
「あ、ああ……おはよう」
不意を突かれて、妙に間の抜けた返事になってしまった。
いきなり名前を呼ばれるとは思っていなかったし、なにより……こんなふうに笑顔であいさつをされるとは思っていなかった。
ふと、安西の視線が俺の足もとに落ちる。
そのとき、濡れた左足がじんわりと冷たいことを思い出した。
ふいに、安西が自分のポケットから一枚のハンカチを取り出し、言う。
「ねえ、見て」
ふっと顔の横でそれを掲げると、彼女はくちびるの端を上げた。
「このハンカチにはね、ワンポイントで魚の刺繍が入ってるんだよ。ほら」
言われるままに目をやると、確かに魚が一匹、そこに縫い込まれていた。
……が、それはよくあるかわいい図案とは明らかに違う。
妙にリアルで、なんというか……お世辞にも、かわいいとは言えなかった。
……それは、ブリか? マグロか?
それとも――。
「カツオだよ」
迷いを見透かしたように、安西が言う。
「そうか」
どうだっていいが、そのハンカチはどう考えても女子高生が持つには、らしくない。
人の好みはわからないな、などと思いつつ、目をそらす。
「ところで佐々野くん、今朝は星占いを見たかな?」
……また唐突に話題が飛ぶ。
振り回されている感じがして、なんだか疲れる。
だけど、安西の瞳は子どものようにまっすぐだった。
あまりに楽しげに問いかけてくるものだから、ついぞ無下にはできない。
俺はため息をひとつだけついて、答える。
「見てない」
「そう。わたし、ふたご座なんだ。今日は一位だったよ」
「……それはおめでとう」
「ありがとう」
にこりと笑って、お礼を言う安西。
それから小さくハンカチを揺らし、言った。
「ちなみに、佐々野くんの星座は、このハンカチの刺繍と同じ、うお座だったりはしない?」
「……そうだが」
どう考えても、星座のうお座とそのカツオには、共通点はない。
本来なら、うお座の魚は、神話の中で神が姿を変えた神聖なものだったはずだ。
カツオに罪はないが、そんじょそこらのカツオと並べないでほしい。
「やっぱりうお座なんだね?」
「そうだと言ってるだろう。それがどうした」
脈絡のない話に、やや語気を強めて返す。
だけど安西は気にする様子もなく、楽しげに笑った。
「あはっ。思ったとおりだ」
いや、笑うところじゃないだろう。
うお座でなにがおかしい。
むっとして相手を見やる。
眉をしかめた俺を見て、安西はハンカチを持った手を顔の前で二、三度横に振った。
「いや、ごめんごめん。べつに悪気があって笑ったわけじゃないんだよ。ただ、今日のうお座は運勢が最悪で、ランキングが最下位だったから、もしかしてと思ってね。今の佐々野くんにぴったりだったから。あの星占い、よく当たるんだ」
くすくすと笑い続ける安西に、なんとも言えない気分になる。
笑いごとではない。
……悪気がないと言うわりには、割とひどいことを言っている。
「見てたのか」
簡潔に聞くと、安西はこくりとうなずく。
「うん、見てたよ。佐々野くんがあの後輩の子に道を譲るとこから、足を滑らせて水たまりに突っ込んで、通りすがりの人たちに変な目で見られるとこまで」
「全部じゃないか」
ため息がひとつ、自然と漏れた。
いちいち反応するのも億劫なはずなのに、気づけば口をつぐまずに話し続けている。
これが初めてまともに言葉を交わす相手だなんて、少し不思議な感覚だった。
安西の物言いは、妙に遠慮がなくて、はっきりしている。
普段の俺なら引っかかりそうな言い方なのに、なぜかそうは思わなかった。
理由はよくわからない。
ただ……嫌な感じは、まったくしなかった。
俺は、ズボンのポケットからハンカチを取り出す。
もう濡れてしまった足をどうにかできるわけじゃないけれど、せめてついた泥くらいは拭っておきたかった。
傘を持ったまま腰を落としかける。
そのときだった。
「――佐々野くんは、雨が嫌い?」