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Chapter 13: Singin' in the Rain

 花を見つめる安西を見ていると、ふいに、ぽつりと頬に雫が落ちてきた。

 安西も気づいたらしく、そっと空を見上げる。

 

「雨だ」

 

 安西のつぶやきに呼応するように、空から静かにしとしとと雨が降り出した。

 花びらに落ちた水滴が弾けて、きらきらと光を散らす。


 見とれていると、安西が明るい声で言った。

 

「ほら、見て、佐々野くん。花たちがこんなに喜んでるよ」

「本当だな」

「綺麗だね、佐々野くん。うれしいね」

「ああ」


 幸せそうに笑う安西の制服が、少しずつ雨に濡れて色を変えていく。

 はっとして、俺は慌てて手に持っていた傘を開いた。

 

「おい、濡れるぞ」

「うん」

「うんじゃなくて、早く傘に――」

「いいの」

 

 差し出しかけていた傘の手が止まる。

 返ってきたその声に、俺は目をまたたいた。

 振り返った安西が、ピンク色のくちびるの端を、少しだけ持ち上げる。  

 

「濡れてもいい。今は、こうしていたいから」

 

 髪の先から滴る雫。 

 少しだけ考えてから、俺はうなずき、ゆっくりと傘をたたんだ。

 

 濡れてもいいのは、俺だって同じだ。

 安西だけを濡らすわけにはいかないし、なにより今は――雨が、こんなにも心地いい。


 驚いたような目で俺を見る安西。

 けれど、すぐに口もとから笑みがこぼれた。

 

「傘、差さないの?」

「ああ、差さない」

「風邪ひくよ」

「お互い様だ」

 

 二人でひとしきり笑い、息を吐く。

 

 ふと、思い出す。

 このあいだも、こうして一緒に雨に打たれたことを。

 

 あのとき俺たちを濡らしたのは、とても冷たい雨だった。

 俺の胸の中には、悔しさと悲しみしかなくて――もう二度と、二人で一緒に笑えるときなど、来ないのだと思った。

 

 ……でも今、俺たちはこうして笑えている。

 隣に並んで、同じ想いで、雨に濡れながら笑えている。

 

 手のひらを上に向ける。

 空から落ちてくる雫に、俺は思う。

 

 この雨は、あたたかい。

 優しくて、柔らかい、恵みの雨だ。

 

「わたしはね、雨が好きなんだ」


 その声に、そっと隣を見る。

 安西は、まっすぐ花壇を見つめながら微笑んでいた。

 誰に向けたわけでもない、静かな独白だった。

  

「雨の音、雨の匂い、雨の色、雨の温度。……その全部が、わたしには優しく感じるの。ふんわりと包み込んでくれるみたいに」

 

 そう言って、一呼吸。

 ほんの少しだけ、照れたような笑みを浮かべながら――。


「だから、好き」


 その瞬間。

 世界のすべてが、ふっと止まった気がした。


 音も、風も、色も、時間さえも。

 全部が、安西の声に耳をすませるように静まる。


 ――ぱっ、と。


 俺の心の中で、色とりどりの花が一斉に咲き誇った。


 現実じゃない。

 けれど、確かに見えた。

 たくさんの花が光を集めて咲き広がる――その景色が、胸の奥に広がった。


 ふわりと浮きあがる心。

 なにかが胸に落ちて、静かに火が灯る感覚。

 生まれて初めて、『見惚れる』という気持ちを知った。


 まさか自分が、と思った。

 信じられなかった。

 ……それでも、気づいてしまった。


 ――俺は今、どうしようもなく、安西に惹かれている。


 雨が好き。

 すべてが優しいから、雨が好き。

 安西は歌うように、穏やかな声でそう言った。

 それはまるで……愛の告白のようで。


 白い肌。

 長いまつげ。

 薄く染まった頬とくちびる。

 ……その横顔を、俺はじっと見つめる。


「佐々野くんは、どうかな」


 突然名を呼ばれて、ふと我に返る。

 安西が、まっすぐな視線でこちらを見上げた。

 

「前に、雨が嫌いだって言ってたよね。……少しは、雨を好きになってくれた?」


 そう言って、首をかしげて微笑む彼女。

 その仕草に、心臓がきゅっと締めつけられる。


 俺は少しだけ間を置いてから、ふっと笑った。

 それから、ゆっくりと空を仰ぐ。


「……さあ、どうだろう。まだ、わからないな」


 そして、もう一度、安西を見る。

 互いの視線が交わる。

 その瞳は、まるで雨上がりの空のように、まぶしくて、優しい。

 

 小さく笑みを浮かべながら、「でも」と俺は言った。


「――もう少しで、好きになりそうだ」


 雨のことも。

 それから、安西のことも。




 -END-

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