Chapter 11: What You Taught Me
あの日から、安西の笑顔を見ていない。
ここ最近、安西が俺に近寄ってこなくなった。
ついこのあいだまで「佐々野くん、佐々野くん」と、うざいくらいに擦り寄ってきて、やたらと俺にべったりだったのに。
……あの事件から。
花壇をめちゃくちゃにされたあの日から。
ろくに目も合わせてくれない。
あいさつさえ、してくれなくなった。
俺から声をかけても、そそくさと逃げるように去っていく。
……いや、逃げるどころか、完全に避けている。
そうじゃなきゃ、こんなことにはならない。
俺はこれでも、結構ナイーブな性格だ。
話を無視されれば、それなりにショックを受ける。
……俺、なにかしたか?
そして、そんな俺たちの気まずい雰囲気を察したクラスの野郎どもが、ありもしない噂を立てやがった。
――「最近、安西が佐々野を避けているのは、手籠めにされそうになったから」だと。
ふざけるな。
そんなわけ、あるはずがない。
だから、俺はすぐさまその噂に一刀両断の裁きを下した。
いちばん最初に言い出したやつには、鉄拳制裁も加えてやった。
まったく、なにが手籠めだ。
俺は、あいつの指先にすら触れたことがないんだぞ。
……あの日だって、傘を差し出すことで、せいいっぱいだったのに。
そういえば――花壇を荒らしたあの犯人。
同じクラスの、例の“いたずら猫”たち。
あいつらには、安西のいないところで話をつけた。
安西は「もういい」と言っていたが、俺にはそうは思えなかった。
なぜあんなことをしたのかと問い詰めたところ――どうやら、安西が俺につきまとっているのが気に入らなかったらしい。
それが癪に障って、腹いせに、安西の大切にしていた花壇をめちゃくちゃにした、と。
……くだらない。
そんなことで、なんの罪もない花を踏み荒らすなんて。
怒りを通り越して、呆れさえした。
とにかく、もう二度とこんなことはしないようにと厳重に注意した。
安西にも関わるなと、釘を刺した。
……あいつに悪気なんて、ひと欠片もないんだから。
話し合いの末、なんとか納得はしてもらえた。
……ついでに、その中の一人に、なぜか告白もされた。
もちろん、丁重にお断りしたけれど。
そうしたら今度は「佐々野くんは安西さんのことが好きなの」なんて問い詰められた。
いや、そういうんじゃない。
まったく、どいつもこいつもなんなんだ。
でも、違うとはっきり首を横に振っておいたのに、そんなありもしない噂はすぐに広まった。
結果、後日また野郎どもの反感を買うことになったのだが。
……そんなことは、まあ、どうだっていい。
とにかく。
そんなことがあったおかげで――安西が俺を避けている理由が、なんとなくわかった気がした。
鐘の音が放課後を告げる。
今からカラオケに行こうだのバイトが面倒だのといった話が飛び交う騒がしい教室の中で、おもむろに席を立った俺は、帰る準備をしていたある一人のクラスメイトの前に立った。
「安西」
そいつの名前を呼ぶと、吸い込まれそうな黒い双眸が大きく見開く。
その揺れる瞳を、じっと見据えた。
「話がある」
当分のあいだ呆然としていた安西だったが、俺の声にはっとすると、あたふたしながらあたりをきょろきょろと見まわし始めた。
そう。
気のせいなんかじゃない。
騒がしがった教室の中はいつのまにか静まり返り、全員の視線は確実に俺たちに向いていた。
その中にはもちろん、例の“いたずら猫”たちの視線もあって――それに気づいた安西の表情には、焦りが色濃く見えだした。
机の横にかけていた学生鞄を胸に抱くと、安西は慌てて席を立つ。
……逃げるつもりだ。
「聞こえなかったか? 話があるんだ」
ひくりと安西の喉が鳴る。
俺の手は、逃げようとする安西の腕をいち早く掴んでいた。
今日こそは逃がさない。
今にも泣き出しそうな顔で、安西は声を震わせる。
「は、はな、離し――」
「離さない」
「み、みんな見てるから、だから……」
「いいだろう、見せておけば」
涙目のまま、かああ、と安西の頬が赤く染まる。
それから、黙ってうつむいた。
掴んだ腕から、熱いほどの体温が伝わってくる。
ふっと息を吐き、俺は言う。
「……花壇、見に行ったか」
下を向いたままに、安西はかぶりを振った。
「……行ってない。最近は、全然」
「……そうか」
そうだろうな。
わかっていた。
だって、俺がどんなにそこで待っていたって、安西は一瞬たりとも姿を見せなかったのだから。
……少しだけ寂しく感じたことは、悔しいから言ってはやらないけれど。
窓の外に視線を移す。
空は薄曇りから、徐々に重たい灰色へと変わっていた。
雲は低く垂れこめ、風がゆっくりと流れていくたびに、その形を静かに歪ませていく。
木々の葉も、まだ雨は降っていないのに、ぽつりぽつりとした気配を先取りするようにざわついていた。
「雨が降りそうだな」
「…………」
「知ってるか。今日は夕方から雨らしい」
それでも安西は顔を上げない。
俺の視線を避けるように、顔をそらしたまま動かない。
まるで俺と目を合わせるのを、必死で拒んでいるみたいだった。
そこまで露骨にされると、正直、本気でへこむんだが。
俺はべつに、安西にひどいことなんてなにもしていないのに。
……そりゃあ、まあ、今のこの状態が少し強引なのは、認めるけれど。
でも、こうでもしないと、話してくれないだろう、おまえは。
「……知ってるよ」
ぽつりと、安西が答えた。
俺は静かに、彼女へ視線を戻す。
「雨が降ること、知ってる。……でも、もう意味がないよ」
まだ声が震えていた。
溢れそうな涙を、懸命に堪えているような声音だった。
……意味がない、か。
ゆるゆると息を吐いた俺は、安西の腕を掴む手を静かに離した。
「そんな悲しいことを言うなよ」
「……だって」
「意味がないなんてことは、ないんだから」
そう。
意味がないことは、ひとつもないのだ。
意味なら、ちゃんとここにある。
だって、安西が教えてくれたんだろう。
――雨が降れば、花は喜ぶのだと。
「気が向いたら来いよ」
言い残して教室を去る。
安西は、ぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くしていた。




