はち
タロウはモコのことが心配でした。とってもとっても心配でした。
彼は大分成績が悪いらしいのです。決して頭が悪いわけではないのになぁとタロウは頬を膨らませます。
「いいや、あいつは紛うことなきバカだよ」
そう言って親友を笑ったのは一体誰だったのか。
もう忘れてしまいました。
そんな嫌なやつのことを記憶の片隅に置いておけるほど、周りが思うほど、寛容な心をタロウは持っていませんでした。
自覚していました。
どう振る舞うべきかを熟知していました。長年の勘のようなものであり、ここでも通用するものかどうかは入学当初不安でしたが、今のところはうまくいっていました。彼は天才なのです。
「おまえはゴミだ」
――誰でしょう。そんなタロウの平坦な心に棘を刺そうとする声は、誰なのでしょう。
昔から知っているような気がしましたし、見て見ぬふりをしてきたような気もします。
ただ、その声はひどくしわがれていて聞き取りづらく、もしかしたら彼の心の中の天使なのかもしれないと思った時期もありました。
こんな気持ち悪いものが天使だとしたら、悪魔はどんな声で囁くのでしょう。
寒気がしました。
ですが、そんな心中の葛藤を表に出すわけにはいきません。
なぜなら今は授業中なのです。
彼はとっても真面目でした。
「おまえはゴミだ」
どこかで聞いたような言葉が口から飛び出ます。
遠くから見ていた先生は表情を変えませんでした。
「蛆虫のように、怖気が立つような容姿と、腐りかけの死体のような匂いに耐えられない。死んでくれ」
正面に立っていた女の子は震え、泣き出しそうな顔をしながらタロウを睨みました。
「そんなことを、言ってはいけません」
正しく清らかな返答にバッチイマン先生は、うんうんと頷きます。
タロウの記憶が正しければバッチイマン先生はヒール免許の保持者だったと思うのですが、仕事とプライベートは分けるタイプの人間なのでしょうか。
首をひねりながら、次の言葉を考えます。
「どうしてそんなことを言うのですか」
女の子のほうが先でした。
あーあ、と思います。
あーあ、それを言ったらきみの負けだ。
当然、先生もがっかりしたように肩を落とし、両手を叩きました。
「終了。タロウくんの勝ち」
その瞬間、女の子は大声を上げて泣き出し――しかしそんな些末なことに気を取られている暇はありません。
タロウはモコが心配でした。
少し離れたところで死んだ目をしている親友のことが心配で心配で仕方がありませんでした。
モコの目の前の男子生徒は思いつく限りの罵倒を言い終えたところでした。
「何でそんなこと言うわけ?」
――あーあ。言うと思った。
頭の片隅で嘲笑う誰かがいました。
タロウのときと同じように「終了、オギの勝ち」という判決が下ります。
問うてはいけないのです。
こういった舌戦では問うのではなく問い詰めなくてはいけません。
問い詰め、上げ足を取り、言質を取り、反論できないよう余地を消していかなくてはいけません。
ぬるい質問をすれば逆に主導権を握られて負けは確定します。
慣れていないのでしょう。
まだ、ヒーロー役と悪役に分かれての授業は2度目です。モコは積極的に争いに首を突っ込むような性格をしていないため、この結果は予想通りでした。
「モコくん、大丈夫だよ」
「……何がだよ」
すぐさま駆け寄りフォローを入れます。
フッと笑ったモコの様子に安心します。どうやら彼は思っていた以上にタフだったようです。
絹豆腐が木綿豆腐だったくらいの小さな違いでしたが、タロウにとっては大問題でした。
そうではないと困ります。
これから彼には高野豆腐になってもらわなくてはいけないと思っていました。
タロウは真面目でしたが、同じくらい悪戯好きでもありました。




