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春を待つ庭  作者: 牧静
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エピローグ

 冬が来た。


 ベランダに出る時、葵はカーディガンの上にもう一枚羽織るようになった。


 朝の空気は冷たく、鉢の土も乾きにくくなっていた。

 夏の間、あんなに伸びていたミニトマトは、もう片づけた。

 バジルも終わった。


 その代わり、ビオラが少しずつ花を増やしていた。


 小さな紫。

 白。

 淡い黄色。


 寒いのに咲く花があることを、葵は前よりも不思議に思うようになった。


 春の花だけが、花ではない。


 夏の花だけが、強いわけでもない。


 寒い時期に、少しずつ咲く花もある。


 葵は、ビオラの花がらをそっと摘んだ。


 摘みながら、ステップバイステップで出された宿題のことを考えた。


 英語の長文。

 数学の関数。

 国語の記述。


 嫌ではない、と言えば嘘になる。


 今でも、問題集を開く前に胸が重くなる日がある。

 模試の結果を見て、何もかも投げ出したくなる日もある。

 学校の教室に長くいると、息が浅くなることもある。


 でも、前より少しだけ、戻り方がわかるようになった。


 できなかったところを見る。

 できたところも見る。

 今日はどこまでならできるかを見る。


 ちゃんとしなきゃ、ではなく。


 ちゃんと見る。


     ◇


 加奈先生は、少し変わった。


 授業中に、わからないことをわからないと言うようになった。


「この問題、説明の仕方、少し考えさせて」


 そう言って、解説を読み直すことがあった。


 前なら、葵は少し不安になったかもしれない。


 先生なのに、すぐに答えてくれない。


 そう思ったかもしれない。


 でも今は、違った。


 加奈先生が考えている時間を、葵は待てるようになった。


 加奈先生も、葵が考えている時間を待ってくれる。


 それでよかった。


 ある日、授業が終わったあと、加奈先生が言った。


「この前、本番の面接でも、春を待つ庭の話をしたよ」


 葵は、ノートを閉じかけた手を止めた。


「また話したんですか」


「うん」


「笑われませんでしたか」


「今回は、笑われなかった」


 加奈先生は、少し得意そうに笑った。


「面接官の人が、どんな庭だったんですかって聞いてくれた」


「何て言ったんですか」


「派手な庭ではありませんって言った」


 葵は、少し笑った。


「それ、言ったんですか」


「言った」


 加奈先生も笑った。


「でも、すぐに咲かない球根を植えたこととか、弱った花を端に置いたこととか、中学生の子に教えてもらいながら作ったこととか、ちゃんと話した」


「中学生の子」


「名前は出してないよ」


「それは、いいです」


 葵が言うと、加奈先生は少しだけ真面目な顔になった。


「私ね、前は、すごいことを話さなきゃいけないと思ってた」


「すごいこと?」


「留学しましたとか、大きな大会で結果を出しましたとか、何百人をまとめましたとか」


「はい」


「でも、私にはそれがなかった」


 加奈先生は、机の上の消しゴムを少し動かした。


「だから、何もないと思ってた」


 葵は黙って聞いていた。


「でも、春を待つ庭のことは、話せた。うまくできた話じゃないし、失敗もしたし、怒られたし、泣きそうにもなったけど」


「怒りましたね」


「うん。怒られた」


 加奈先生は、少し笑った。


「でも、ちゃんと見ようとした話だから、話せた」


 葵は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 あの小さな庭が、加奈先生の中に残っている。


 そのことが、不思議で、少し誇らしかった。


「先生」


「ん?」


「それ、いいと思います」


 加奈先生は、前にも聞いた言葉だという顔をした。


 それから、嬉しそうにうなずいた。


「ありがとう」


     ◇


 年が明けると、受験が近づいた。


 母は、前より少し口数が減った。


 もちろん、心配はしていた。


 過去問の進み具合も聞く。

 体調も聞く。

 学校のことも聞く。


 でも、以前のように「普通は」「みんなは」と言う回数は少し減った。


 ある夜、母がリビングで高校案内を見ていた。


「この学校、園芸部があるのね」


 葵は、ベランダから戻ってきたところだった。


「うん」


「見学したところ?」


「うん」


「どうだった?」


 葵は、少し迷った。


「花壇があった」


「花壇」


「そんなに広くはないけど、ちゃんと手入れされてたよ」


「そう」


 母は、高校案内に目を戻した。


「いいんじゃない」


 葵は、母を見た。


「え」


「そういう見るところがあるのも、いいんじゃない」


 母は、何でもないように言った。


 その言葉だけで、すべてが変わったわけではない。


 母は母のままだ。

 きっと明日には、過去問の話をする。

 模試の判定も気にする。

 葵が休めば、やっぱり心配する。


 でも、その一言は、葵の中に残った。


 そういう見るところがあるのも、いい。


 葵は、小さくうなずいた。


「うん」


     ◇


 二月の終わり、大学の中庭に行った。


 学園祭の展示は、もうとっくに撤去されている。


 コンテナは、加奈先生が大学の許可を取って、別の場所に移していた。

 中庭の端ではなく、校舎の裏手に近い、少し日当たりのよい場所だった。


「こっちの方が午前中よく日が当たるんだって」


 加奈先生が言った。


「誰に聞いたんですか」


「用務員さん」


「すごいです」


「先生、成長した」


 加奈先生が胸を張った。


 葵は笑った。


 コンテナのビオラは、冬を越えて少し花を増やしていた。

 アリッサムも、前より白い花をつけている。


 あの時弱っていたアリッサムは、端の方で小さく残っていた。


 大きくはない。

 華やかでもない。


 でも、そこにあった。


 葵はしゃがんだ。


 土の表面を見た。


「あ」


 小さく声が出た。


 加奈先生も隣にしゃがんだ。


「どうしたの?」


「芽が出てます」


「え」


 土の間から、細い緑が少しだけ顔を出していた。


 チューリップの芽だった。


 まだ花ではない。


 葉とも言えないくらい、小さな芽。


 でも、確かに出ていた。


 加奈先生は、しばらく黙って見ていた。


「本当に出るんだね」


「出ます」


 葵は言った。


「ちゃんと植えたので」


 言ってから、少しだけ笑った。


 ちゃんと植えたからといって、必ず咲くわけではない。

 途中で弱ることもある。

 思った色と違う花が咲くこともある。

 咲かない球根もある。


 それでも、芽は出た。


 今、土の中から出てきている。


「春ですね」


 加奈先生が言った。


「まだ寒いです」


「うん。でも、春を待ってる感じがする」


 葵は、芽を見た。


 そうですね、と言おうとして、やめた。


 待っているだけではない。


 土の中で、ちゃんと進んでいた。


 見えない間も、何もしていなかったわけではない。


     ◇


 帰り道、加奈先生が言った。


「葵さん、最近ちょっと変わったよね」


「そうですか」


「うん」


「どこがですか」


「前より、自分の好きなものを隠さなくなった」


 葵は、少し考えた。


「そうでしょうか」


「うん」


 加奈先生は笑った。


「植物の話をする時、前より謝らなくなった」


 葵は、思わず口を閉じた。


 言われてみれば、そうかもしれない。


 前は、少し話すだけで「すみません」と言っていた。

 変ですよね、と言いかけていた。


 今も、まったく言わなくなったわけではない。


 でも、少し減った。


「先生も変わりました」


「え、私?」


「はい」


「どこが?」


「前より、わからないって言います」


 加奈先生は、少しだけ苦笑した。


「それ、成長かな」


「成長だと思います」


「そっか」


 加奈先生は、空を見上げた。


「じゃあ、よかった」


 駅へ向かう道には、まだ冷たい風が吹いていた。


 でも、葵は前ほど身を縮めなかった。


     ◇


 その夜、葵はベランダに出た。


 自分のベランダのビオラも、少し花を増やしていた。


 ラナンキュラスの鉢は、まだ静かだった。


 でも、葵はそれを急かさなかった。


 咲く時期がある。

 休む時期がある。

 土の中で、見えないまま進む時期がある。


 葵は、鉢の前にしゃがんだ。


 普通になりたいと思っていた。


 ちゃんとしなきゃと思っていた。


 みんなと同じように、同じ速さで、同じ形で咲かなければいけないと思っていた。


 でも、少し違うのかもしれない。


 すぐ咲かなくてもいい。

 真ん中でなくてもいい。

 弱ったところがあってもいい。


 ちゃんと見て、置き場所を変えて、水を調整して、もう一度根を張ればいい。


 葵は、ベランダの小さな庭を見た。


 広くもない。

 立派でもない。

 誰かに見せるための庭でもない。


 でも、ここには葵の好きなものがあった。


 そのままでいい。


 そう言われるよりも、少しだけ先の言葉が、胸に浮かんだ。


 そのままがいい。


 葵は、小さくうなずいた。


 春は、まだ来ていない。


 でも、待っているものは、もう土の中にあった。

この話はこれで完結です。

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