【第4の謎】切り裂かれた僕の肖像
私の助手としての役割は、思いのほか多岐にわたった。
翌日、私たちが挑むことになったのは、第一美術室で起きた器物破損事件だった。
「ひどい有様だね。文化祭で展示する予定だったというのに」
生徒会長室のソファから動かない蓮に代わり、私は現場の惨状をスマートフォンで撮影し、彼に見せていた。
画面に映っているのは、ナイフのようなものでズタズタに切り裂かれた油絵キャンバスだ。
描かれていたのは、学園の象徴とも言える『一条蓮』自身の美しい肖像画だった。
「犯人は、よっぽど先輩に恨みがあったんでしょうか……」
私が恐る恐る尋ねると、蓮は画面を見つめたまま、ふっと軽やかに笑った。
「恨み、か。白石さん、このキャンバスの切り口を見てごらん。ためらい傷がいくつもある。それに、僕が描かれた部分は無傷だよ」
「えっ……?」
「刃が執拗に向けられているのは、僕の隣……本来なら誰も描かれていないはずの『空白の空間』だよ」
蓮は窓の外へと視線を移し、まるで今日の夕食のメニューでも当てるような、軽い口調で言った。
「昨日、美術室の前で2年生の小鳥遊さんが、落としたカッターナイフの刃を折って捨てているのを見たんだ。彼女に話を聞いてみて。まだそのカッターを持っているかもね」
私は半信半疑のまま、2年生のフロアへと向かった。
そして、蓮の言う通り、教室の隅で泣き崩れている小鳥遊さんを見つけたのだ。
彼女は、蓮に熱烈なアプローチを繰り返し、つい先日「重い」という理由で冷酷に振られたばかりの女子生徒だった。
「あんなに愛していたのに……私の隣には立ってくれないくせに、絵の中の彼は、誰にでも平等に微笑むの……っ! それが許せなかったのよ!」
彼女が強く握りしめたポケットの隙間からは、折れたカッターナイフの刃先が鈍く覗いていた。
『どうして……私、あんなに……』
ボロボロと涙をこぼす小鳥遊さんの掠れた声。
その痛々しい姿と泣き声が、不意に私の脳内で、ある人物と完全に重なり合った。
――ボロ雑巾のように捨てられ、焦点の合わない目で泣き崩れていた親友のミカ。
『助けて』とすがりつく彼女の細い手を、私は力強く握り返してあげられなかった。彼女の心が不可逆的に壊れていくのを、ただ無力に見ていることしかできなかったのだ。
胸の奥底が、鋭利な刃物でえぐられたようにズキリと痛む。親友を壊されたあの日の絶望と、得体の知れない黒い感情が、ドロドロとしたヘドロのように胃の底からせり上がってくるのを感じた。
私は重い足取りで生徒会長室に戻り、事の顛末を蓮に報告した。
彼女の激しい愛情と、拒絶された絶望が引き起こした事件だったと。
「そっか。やっぱり小鳥遊さんだったんだね。わざわざご苦労様、白石さん」
蓮の反応は、あまりにも淡白だった。
傷ついた少女に対する同情も、自分の肖像画を切り裂かれた怒りも、そこには微塵も存在しない。
「先輩……小鳥遊さんのこと、可哀想だとは思わないんですか?」
無意識のうちに、私の声には微かな棘が混じっていた。
蓮は少しだけ不思議そうな顔をして、小首を傾げる。
「可哀想? どうして? 僕はただ事実を伝えて、彼女の期待に沿えないと正直に言っただけだよ。彼女が勝手に壊れただけで、僕には関係のないことだ」
蓮は、無邪気なほど純粋な瞳で私を見つめ返した。
「ああいう脆い子は、見ていて少し退屈だよね。でも、絵を切り裂く行動力はあったなんて、少しだけ見直したかな」
背筋に、冷たい氷を滑らせられたような悪寒が走った。
美しい顔立ちの奥にある、決定的な共感性の欠如。
この人は、他人の痛みが全く理解できない。
(……そうだった。この人は他人の痛みがわからない。無自覚に女の心を殺す。だから、『屍王子』なんだ)
心の奥底にかけたはずの分厚い蓋が、一瞬だけ不気味な音を立てて揺れた気がした。
しかし、蓮の底抜けに優しい声が、すぐにその思考をかき消してしまう。
「君のおかげで、今日も学園の平和が守られたよ。ありがとう、僕の優秀な助手さん」
他人の痛みを一切解さない、美しき屍の王子。彼への恐怖と嫌悪、そして理由のない激しい頭痛に耐えながら、私はただ、彼が浮かべる無邪気な笑顔から目を逸らすことしかできなかった。




