第02話:怖がらせてしまって、本当にごめんなさい
カーテンの隙間から差し込む朝日が、私の瞼を容赦なく刺した。
重い体を起こし、ベッドの上に座り込む。
全身が泥のようにだるく、頭の奥がガンガンと痛む。
無意識のうちに、自分の手首をさすっていた。
昨日、あの冷たい手の副会長に掴まれた感触が、まだ皮膚にこびりついているような気がした。
(……全部、悪い夢だったんだ)
私は、パンと両手で自分の頬を叩いた。
陥没した頭部。肉体再生。グール。サキュバス。そして、美しき破壊神。
そんな馬鹿げたオカルトや中二病の痛い設定が、現実にあるはずがない。
きっと最近、色々あって疲れていたから、あんなおかしな悪夢を見たのだ。
今日からは、普通の学園生活が戻ってくる。
そう自分に言い聞かせて制服に着替え、私は逃げるように家を飛び出した。
* * *
教室のドアを開けると、いつもの喧騒が耳に飛び込んできた。
黒板に書かれた日直の名前。
笑い合う女子生徒たちの甲高い声。
その見慣れた日常の風景に、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
「あ、白ちゃん。おはよう……」
自分の席に向かおうとした私を、背後から控えめな声が引き留めた。
振り返ると、親友のミカが不安げな瞳で私を見つめていた。
少し痩せた彼女の頬は青白く、目の下には薄っすらと隈ができている。
「ミカ……おはよ。もう学校に来て大丈夫なの?」
「うん……白ちゃん、あの王子と最近一緒って聞いたけど……大丈夫?」
ミカの声は、微かに震えていた。
彼女は周囲の目を気にするようにキョロキョロと見回すと、私の腕を引いて教室の隅へと移動した。
「一条先輩のこと? 大丈夫だよ、ちょっと生徒会の仕事を手伝わされただけで……」
「気をつけてね。あの人……本当におかしいの」
ミカは、自身の両腕を強く抱きしめ、ひゅう、と引き攣った息を吐いた。
「私ね、あの人のこと、本当に好きだったんだけど……ある日、放課後に旧校舎の裏手に呼び出されて、急にカッターナイフを渡されたの。『僕を刺して、君の愛を証明してよ』って」
(えっ……)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
第一美術室で起きた、キャンバスの切り裂き事件。
あの時、犯人の小鳥遊さんが折れたカッターナイフを握りしめていた光景が、不意に脳裏にフラッシュバックする。
「私が泣いて拒んだら、あの人、不思議そうな顔をして……自分で自分の腕を、思い切りカッターで引いたのよ!」
「ヒッ……!」
私は思わず口元を覆った。
「でもね……血が、一滴も出なかったの。ぱっくり開いた傷口の奥は真っ暗で、しかも一瞬で傷が塞がって……あの人、『ほら、痛くないし血も出ないよ? だから安心して僕を壊して』って、嬉しそうに笑ったのよ……。もう、人間じゃないバケモノだと思って、逃げ出したわ……」
ミカの体は、ガタガタと小刻みに震え続けている。
彼女の目には、明らかな恐怖と、癒えることのないトラウマが刻み込まれていた。
スッと、私の中で何かが冷えていく感覚があった。
同時に、腹の底からドロドロとした黒い感情が、マグマのように沸き上がってくる。
(手品のオモチャのナイフか何か知らないけど……そんな悪趣味なドッキリで、この子を怖がらせたの?)
ミカは、勇気を出して彼に思いを伝えたのだ。
それなのに、あの男は彼女の純粋な気持ちを踏みにじり、あんなサイコパスじみた悪ふざけで精神を追い詰めた。
キャンバスを切り裂いた小鳥遊さんも、きっと同じように追い詰められたのだ。
(許せない……!)
幽霊だのグールだの、中二病の痛い設定で遊ぶのは勝手だ。
だが、他人の心をもてあそび、トラウマを植え付ける権利なんて誰にもない。
「ミカ。教えてくれてありがとう」
私は、震えるミカの肩を強く抱きしめた。
上がっていく体温とは裏腹に、頭の中は異様なほど冷静だった。
「白ちゃん……?」
「大丈夫。あんな奴ら、ただの悪趣味な手品師よ。私がガツンと言ってやってくるから」
私は鞄を机に叩きつけるように置くと、踵を返して教室を飛び出した。
向かう先は一つ。
本校舎の最上階の奥に位置する、特別生徒会室だ。
* * *
重厚なマホガニー調の扉の前に立つ。
深呼吸を一つし、ノックもせずに力任せにドアノブを回した。
バンッ! と大きな音を立てて扉が開く。
広い部屋の中には、昨日いた他の役員たちの姿はなかった。
ただ一人、窓際の豪奢なアンティークソファで、一条蓮だけが静かに本を読んでいた。
「やあ、白石さん。今日は少し早いね。僕の顔が見たくてたまらなくなったのかな?」
一条先輩が、花が綻ぶような、それはそれは美しい笑顔を向けてくる。
だが、今の私には、その顔がただの『最低なクズ男』にしか見えなかった。
「……ふざけないでください」
私は、拳をきつく握りしめ、ズカズカと部屋の中央へ踏み込んだ。
「ミカから聞きました。女の子にカッターナイフを持たせて、自分を刺せって強要したそうですね。血が出ない手品ナイフか何か知らないけど……勇気を出して告白してくれた相手に、そんな最低な要求をするなんて、信じられません!」
私の怒鳴り声が、静まり返った生徒会室に響き渡る。
「人の気持ちをなんだと思ってるんですか!? 自分たちの中二病ごっこに他人を巻き込んで、トラウマを植え付けるなんて……先輩、最低です!!」
言い切った。
肩で息をしながら、私は一条蓮を真っ直ぐに睨みつける。
これでいい。どれだけ学園の権力者だろうと、間違っていることは間違っていると言わなければ気が済まない。
しかし、私の剣幕を受けた一条先輩の反応は、予想外のものだった。
彼は本を閉じると、いつもの余裕ある微笑みをすっと消し去った。
そして、まるで叱られた子供のように、シュンと眉を下げて私を見つめてきたのだ。
「……ごめん。君を怒らせるつもりはなかったんだ。僕のやり方が、間違っていたんだね」
反論されるか、あるいは昨日みたいに気味の悪い言葉で喜ばれるかと思っていた私は、あっさりと謝罪されたことに激しく調子を狂わされた。
「え……あ、いや……私に謝られても……」
「僕は、人間の母とグールの父の間に生まれたハーフなんだ」
一条先輩は、ぽつりと静かに語り始めた。
その声音は、今まで聞いたことがないほど真摯で、どこか悲しげな響きを帯びていた。
「人間の母は僕が小さい頃に亡くなって、再婚したグールの女性に育てられたんだ。だからかな……僕は、人間の『心』が、どうやっても理解できないのかもしれない」
彼が自嘲気味に落とした視線の先には、痛々しいほどの孤独が滲んでいるように見えた。
(ハーフって……まだその痛い設定、引きずってるの?)
ツッコミを入れたかったが、彼のあまりにも寂しそうな横顔に、言葉が喉の奥でつっかえてしまう。
「でも、君に力で裁かれ、1度死んで生まれ変わったことで……僕はやっと気づけた気がするんだ。傷つけてしまった彼女たちにも、ちゃんと謝りに行こうと思う」
「えっ、先輩が自分で……?」
「うん。君に、相応しい存在を目指そうと思うから」
一条先輩は顔を上げ、嘘偽りのない、澄み切った漆黒の瞳で私を見つめ返した。
(なに、それ……)
あんなに腹が立っていたのに、不覚にも胸の奥がチクリと痛んだ。
非常識で最低な男だと思っていた彼が、自分の欠落を素直に認め、変わろうとしている。
その不器用で真っ直ぐな言葉の前に、私の怒りはあっさりと行き場を失ってしまった。
「……別に、私に相応しい存在になんてならなくていいですけど。ミカと小鳥遊さんに謝るのは、絶対にやってくださいね」
私が毒気を抜かれたようにため息をつくと、一条先輩はパァッと顔を輝かせた。
「ありがとう、白石さん! 君がそう言ってくれるなら、僕はどんなことだってするよ」
大型犬が尻尾を振るような無邪気な笑顔を見せられ、私は居心地の悪さに視線を逸らす。
ただの最低男なら、顔面パンチなのに。
(もう、調子狂うなぁ……)
【作者あとがき】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
怒りに任せて乗り込んだ白石さんでしたが、一条先輩の意外な素直さと悲しい過去(?)の告白に、
すっかり毒気を抜かれてしまいました。
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