【第4話】焦げたパンと、春の風
朝の光が、板張りの壁を金色に染めていく。
小鳥の囀りと、遠くで聞こえる鐘の音。
薪の焦げる匂いが、狭い小屋の中にゆっくり広がっていた------
ここ〈リュステ村〉に来て、もう一ヶ月。
王都の地図にも載らないような小さな集落で、
森と畑に囲まれ、昼と夜の境が静かに流れていく。
「……っと」
石窯の前で身をかがめ、火加減を確かめる。
パンが焦げないように注意しても、やっぱり端が黒くなりはじめていた。
「うわっ、なんか焦げ臭い! ちょっと、火事!?……ひゃわっ!?」
外から響いた叫び声に続いて、ドタンッ!と勢いよく転ぶ音が聞こえた。
直後、バタンと勢いよく扉が開く。そこには、膝をさすりながらも手を腰に当てて仁王立ちする村娘――ミーナの姿があった。
栗色の髪を朝風に揺らし、彼女は呆れた顔で俺を指差す。
「リルー! また焦がしてるでしょ!」
「……焦がしてない。ちょっと、こう、カリッとさせただけだ」
「煙が出てる時点で、もう『カリッ』の範疇を超えてるわよ!」
ミーナはぷんぷんと怒りながら歩み寄ってくると、俺の手からひょいと木べらを奪い取った。
そのまま慣れた手つきで石窯の薪を捌き、フライパンに広げていた別の生地をひっくり返す。すると、立ち込めていた焦げ臭さは、一瞬にして甘く香ばしい匂いへと塗り替えられた。
「……すごいな。君、本気で焼き職人になれるよ」
「ほめてもダメ。明日は自分でちゃんと焼いてね」
「……努力するよ」
「前もそう言ってた!」
厳しいなぁ。そう思って肩をすくめると、不意にミーナが俺の顔を見て吹き出した。
「ぷっ、あはは! なにその顔」
「え?」
「すすだらけだよ。」
弾んだ笑い声が止み、ふっと沈黙が訪れる
外の風が頬を撫で、庭先の花が揺れる。
春にしてはまだ肌寒い朝。けれどその冷たさが、なんだか気持ちよかった。
ミーナが窯の前にしゃがみ込み、小声で呟く。
「こうしてるとさ、なんかお母さんの手伝いをしてるみたい」
「……そうなんだ」
パンの香りと一緒に、ふと胸の奥が痛んだ。
「誰かの手伝いをする」という感覚――
ずっと、忘れていた。
もう二度と、「お嬢様」と呼ぶ相手はいないのだと思い知るたび、
胸の奥に沈んでいた悲しみがじわりと浮かび上がる。
「リル?」
覗き込んでくるミーナの視線から逃げるように、俺は窓の外へ目を向けた。
「……いや、なんでもない。眩しくてさ」
外を見る。朝陽が村を染め、屋根の瓦がきらきらと光っていた。
同じ光の下には、どんなに手を伸ばしても届かない人がいる――そう思った。
「ねえ、リル」
ミーナの声がやわらかく響く。
「村の広場に小さな花が咲き始めてるの。あとで見に行こうよ」
「花?」
「黄色くて可愛いよ。きっとリルも好き」
「……そうか」
黄の花。
それは、お嬢様が好きだった色だった。
その言葉を胸の中でゆっくり転がす。
思い出すのは、花畑の中で笑っていた光景。
陽光の下、風に髪をなびかせながら言った言葉。
――「ねぇリル、見て!」
声にならない声が、心の中で蘇る。
思わず目を閉じた。
鮮やかだった金色の髪も、柔らかい笑みも、
今はもう、俺しか覚えていないのかもしれない。
「……ごめん、ミーナ。今はちょっと……」
「あ……」
俺の暗い反応に、ミーナがハッとしたように口元を押さえる。
「そんなつもりじゃなかったの! ごめんね……」
ミーナは何も悪くない。謝らせてしまったことに、新たな罪悪感が湧く。
俺はまだ、彼女にあの出来事の話をできずにいるのだから。
俺は空気を変えるように、努めて明るい声を作った。
「ミーナは本、好きだったよな。今日の仕事が終わったら町の本屋に行こうか」
「え?」
「久しぶりに行きたくなってさ」
俺の提案に、ミーナはパッと表情を輝かせた。
「うん!」
焼き上がったパンをかごに詰め、俺たちは表へ出た。
ミーナが前を歩き、俺はその後ろを静かに追う。
風が吹いた。
どこからか、花の香りが運ばれてくる。
懐かしい香り――
まるで、お嬢様が笑った日のような匂いだった。
思わず立ち止まり、振り返る。
光の中、木漏れ日が揺れ、遠くの森がかすんで見えた。
……何も、いない。
けれどほんの一瞬、聞こえた気がした。
『……ごめんね』
風の音が通り過ぎ、畑の葉を揺らす。
俺は小さく息を吐いて、前に歩き出した。
「なんでもないさ。風の音だろう」
小さく笑いながら呟き、ミーナの背中を追った。
今日も、光はあたたかい。
けれど、その温もりの奥には、消えない影があった。




