【第2話】花冠の約束は、風に消えた
「わぁ! 見てリル、このビートン、とっても大きいわ!」
光が差し込む鮮やかな森に、銀鈴のような高い声が響く。
領主の娘であり、俺の主でもある――ダルノン・フィリルアお嬢様だ。
「やっと追いついた……って、うわわぁぁ!」
振り返った俺の鼻先に、黒光りする巨大な甲虫が突き出された。
カブトムシより三回りは大きい。通称。
反射的に悲鳴を上げ、尻尾を巻いて後ろへ倒れ込む。
「……」
腰が抜けて、言葉が出ない。
「あははは! リルはほんと虫嫌いなんだから。こんなに可愛いのに!」
「や、やめろよ! 近づけるなって! ……まったくもう……」
頭の上の犬耳を伏せて抗議するが、お嬢様はニコニコ笑うばかりだ。
獣人族の俺――リルベットは、明日で六歳。
母と共に屋敷に仕える身として、遊び相手のいないお嬢様のお供をするのが日課だ。
……この心臓に悪い遊び以外は、楽しいんだけどな。
「さて、お昼になりますし、そろそろ帰りましょう。
本日の昼食は、ダルノン様のお好きなオムライスですよ」
腰についた土を払いながら、朝に聞いていた昼食の献立を伝える。
だが、お嬢様は頬を膨らませ、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「えっと……?」
「名前」
「え?」
「お嬢様、じゃなくて……名前で呼んでほしいの!」
一瞬、言葉を失う。
執事としてあるまじきことを――さっき口にしてしまった。
だが、本来、俺と彼女の身分は天地の差がある。
俺はあくまで従者。
誰かに見られでもしたら、大変なことになる。
「……お許しください、お嬢様」
深く頭を下げた。
それが、正しい距離だ。
「そう……まぁ、いいわ」
どこか拗ねた声。
顔を上げると、お嬢様は遠くを見つめていた。
「来て!」
突然、俺の手を掴むと、そのまま駆け出す。
「お嬢様!? ちょ、速いってば!」
転ばないように必死でついていく。
やがて木々の間を抜け、視界が一気に開けた。
眩しい光に思わず目を閉じる。
再び目を開けると――
一面の花畑。
「ねぇ、リル。見て!」
お嬢様がくるりと回る。
陽光を浴びて、金色の髪がきらりと揺れた。
……綺麗だ、と思った。
胸の奥がざわつく。
もし、俺たちが主従でなければ。
「お嬢様、そんなにはしゃぐと転びますよ」
「その時はリルが抱きとめてくれるから、いいもーん」
呆れる。
そして案の定、転んだ。
慌てて駆け寄り、抱き起こす。
「ほら、来てくれた」
へらりと笑う顔が、まぶしい。
……本当に、敵わない。
しばらく花畑に座り、お嬢様は嬉しそうに花冠を編んでいた。
「できた! これ、つけて!」
正直、恥ずかしい。
でも拒めばきっと、帰らない。
仕方なく頭に載せる。
「うーん、王様の冠みたいでかっこいいと思ったんだけど……なんというか、お父様の頭みたいね!」
つまり――ご当主様が薄いと言いたいのか。
苦笑いが最適解だ。
「じゃあ、今度は――」
「そろそろ帰りませんと。お昼が冷めてしまいます」
これ以上は本当に叱られる。
心苦しいが、制止する。
「冷めてもいいの!」
「よくありません。冷めたご飯では、綺麗に成長できませんよ」
「……綺麗になれない?」
「なれません」
「そっか……わかった。帰る」
思いのほか素直だ。
今度から使えるかもしれない。
懐から小さな手帳を取り出し、木片に炭筆でメモを走らせる。
そのとき――
「あのね、リルは……ずっと一緒だよね?」
不安そうな瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
六歳の俺に、未来の保証なんてできるわけがない。
それでも――
「はい。ずっと一緒ですよ。
たとえお嬢様がさらわれても、必ず助け出します」
彼女は、頬をほんのり染めて笑った。
「あのね、昨日、怖い夢を――」
言いかけた、その瞬間。
「……ごめんね」
背後から、静かな声。
振り向いた瞬間、全身を黒衣で覆った女が立っていた。
いつの間に現れたのか――気配すら、まるで感じなかった。




