幕間Ⅰ(2)
ようやく深夜と呼べるようになった時刻、私は目的のバーへと辿り着いた。珍しく、他に客は居なかった。
「おや。こんばんは」
マスターが落ち着いた声で私に声をかけた。
「こんばんは」
私はマスターに挨拶をしながら、手近なカウンターへと腰を下ろした。
「何になさいますか」
「ジントニックを」
「はい」
私はテーブルの隅にあった灰皿を手元に引き寄せ、外套のポケットから煙草を取りだし、火を点けた。吐きだした煙がレトロな裸電球が灯る木造りの店内へと溶けていった。流れている洋楽を聞くともなしに聞きながら、昨夜みた、夢のことを思い返していた。
思えば、長い夢をみた。そして今、私は自身の創作の原初である憎悪を、実感を伴って理解したつもりだった。
今ならば、ウツギと少しは対等に話ができそうな気がした。
「お待たせしました」
私の前に音もたてずに細長いグラスが置かれた。私はひとりで乾杯するような心持ちでグラスの底をテーブルに優しくぶつけてから、その飲み慣れたジュニパー・ベリーの香るビターな酒を喉へ流し込んだ。自宅で飲んだ水道水割りとは雲泥の差であると思うと同時に、そんなものと、この酒を比べてしまったことを、心の中でマスター詫びた。
「何か、良いことでもありましたか」
ジャケットを着て背筋を伸ばしたままの姿勢でマスターが尋ねた。
「ええ。まあ、そんなところで。顔に出ていましたか」
「いえ、そんなことは。なんとなく、そんな気がしただけですよ」
少しなら、私の心の内にあることを話してもよいのかもしれない、と思い始めていた。まさか、睡中都市のことを事細かに話さないにしてもかつての私が創作をしていたということ程度であれば、マスターも相槌を打ちながら、聞き流してくれるような気がした。
私はジントニックを飲みながら、どう話を展開しようかと考え、幾らか脚色して、夢と私の創作について伝えることにした。
「実は、少し、いい夢をみましてね。夢の中で、私は作家だったんです。そして、とても面白い小説を書いていたような気がするんです。何かこう、人が夢をみることで別の世界と繋がる、といった夢を」
「なるほど。作家、ですか」
マスターは驚く素振りも見せず、顎に手を当てて私を見ていた。
「不思議ですよね。私が作家なんて」
「いえ、そうでもありませんよ」
マスターは背筋を伸ばしたままの姿勢で穏やかに答えた。
「向いているかもしれませんよ、作家」
「そうですかね」
「ええ、度々思っていたんですよ。普段の言葉遣いというのでしょうか、言葉選びというのでしょうか、何かこう、お上手だと」
思いもしなかった評価に、私はこそばゆいような思いがした。
「そうだったんですか」
「ええ。だから、貴方の書いた小説なら、読んでみたいなと思いますよ。どうです、その夢で見た内容をもとにして、小説を書いてみては」
マスターの言葉が半ば冗談なのか、本気なのか、私には判別できなかった。もしかすると彼にであれば、ありのままを語ってもよいのではないかと思い始めていた。
「そうですね。書いてみても、面白いかもしれませんね。今でも少し、内容は覚えています。夢の中で書いた小説に出てくる都市には全ての創作された者たちが集うということになっていました」
「ほう。面白いですね」
マスターはわずか、前のめりになった。
「きっと、そこでは創作された者たちが幸せに暮らしていたんでしょう。しかし、そこに暗い影が落ちたのです」
私はグラスに残っていた酒を飲み干した。
「なるほど、お酒はいかがしましょうか」
「ジンライムをお願いします」
「はい」
マスターはロックグラスに大きな氷をひとつだけ入れ、そこにたっぷりとジンを注いだ。
「それで、その暗い影とはなんです」
「つまり、現実に住む人々が夢を消滅させているというのです。在りもしない間違った現実を宣言することによって」
串切りのライムを絞ろうとしていたマスターの手が止まった。
「間違った現実?」
「はい。望まない苦悩を求めることや、幸せを意図して遠ざけることです。そして、これが現実だと宣言することで、世界は本当にそうなってしまうのだそうです」
マスターは無言のまま、できあがった酒を私の前に置いた。
「それ、本当にただの夢の話ですか?」
核心をついた言葉に、グラスへ伸ばしかけた手が止まった。
「え?」
「ただの夢に過ぎてはでき過ぎていませんかね。私も夢をよくみますが、大半は脈絡のない、妙な夢ばかりです。それ程に面白い夢とは。いよいよ、そのままにしておけませんね。どうです、やっぱり、書いてみては」
ジンライムに口を付けると、ジンの鋭いアルコールが感じられた。もう少し酔いが回れば、苦悩礼讃について、マスターと深く議論したいような気がした。
わずかな脚色が入っているとはいえ、作家としての私や睡中都市を肯定されて、私は言い知れぬ高揚を感じていた。
「そして、夢で書いていた小説の都市には名前がありまして――」
突如、勢いよく店のドアが開いた。
「マスター!」
大声を張りあげて入ってきた人物があった。スキンヘッドの四十代、少し鼻にかかる声。Tさんである。へべれけである。まずい、と私は出かかった言葉をジンライムで嚥下し、目を伏せた。Tさんは蛇が獲物を狙うようにして店内を見渡しているようであった。
「ジントニックちょうだい。あと、マスターもなんか一杯飲んで」
「ありがとうございます」
Tさんは私の背後、四人掛けの席にどっかりと腰を下ろした。
最悪のタイミングであった。平生ですら、私は彼に嫌悪感を抱いているのであったが、今、睡中都市執筆に燃えているタイミングで彼に会うなどということは、あってはならないことであった。
一体、この御仁、どうにも酒の上がよくない。酔うと若者を相手取って説教を繰り広げ、そうでない者には己の武勇伝にもならぬような恥ずかしい話を延々と語るという筋金入りのモノノフであった。
「どう! マスター! 最近は!」
声が大きい。
「まあまあです」
「あーそう」
Tさんは尋ねておきながら、なんの興味も示していなかった。
マスターは私に失礼、と声をかけるとTさんと自分の酒を作り、彼の席へとそれを運んだ。
「お待たせしました。いただきます」
「うん。どうぞ! そこ座って」
「失礼します」
嗚呼。マスターはとうとう、捕まってしまった。こうなればもはや、逃れる術はない。御高説を拝聴する他、道はないのだ。マスターが一体何をしたというのだ。
マスターとの会話を中断せられた私はため息をつき、項垂れた。手元にあった素敵な酒はただの物質としてのアルコールに成り下がっていた。
二本目の煙草に火を点けた。なんだかわけの分からないことをがなっているTさんの声を聞いているうちに、私は自らがいかにくだらない世界に住んでいるかということを思い知らされてしまったような気がした。酒は少しずつ、酔いをもたらしてきたものの、Tさんによって展開されるくだらぬ世界を目の当たりにした私からは睡中都市への熱が冷め始めてすらいた。同時に、へべれけのTさんごときにこんな感情を喚起されてしまう自分が大層、情けなかった。
わずか悪酔いの気配すら忍び寄る脳内で今日一日のことを思い返すと、幾らか馬鹿馬鹿しいようにすら思えた。
「だからあ! 俺はね。言ってやったの。彼女にはしてあげてもいいよって。でも結婚はヤダよって。それでもいいんだったら彼女にしてあげるよってさ」
へべれけで色恋の話とは恐れ入った。もはや天晴れである。この男、自分をなんだと思っているのだ。大体、この男もこの男だが、コレに恋心を抱く女も女だ。気は確かか? もしこの話がこのスキンヘッドによる壮大な勘違いであったとしても、そのきっかけを生みだした女性に、私は一言、お恨み申し上げる。
そもそも色恋ってツラじゃねえぞ。池の鯉みてえなツラアしやがって。
氷が融け、わずか薄くなった筈のジンライムをひと口飲んでみると、酷く苦かった。マスターは勇敢にも、たったひとりで淡々と的確に相槌を打っていた。流石はこのバーを二十年以上も続けている手練れだ。接客のプロフェッショナルである。きっと私は逆立ちしようが、百年経とうが、この境地に至ることはできない。
二転三転する話題を誇らしげに垂れ流す池の鯉は今や滝を登らん勢いである。マスターの居なくなったバーカウンターの奥ではウイスキーやリキュールの瓶が大層握り心地の良さそうな鈍器として私を誘惑していた。それでもなんとか正気を保ち、鯉の発する声を聞くまいと私が聴覚と脳髄との接続を切断しようと試みていたその時!
「だからね、マスター。俺は言ってやったのよ。残酷な現実を教えてあげようかってね。現実は甘くないよって。それが現実なんだよってね」
どんな脈絡だか分からぬとしても、私はこの言葉を聞き逃すことはできなかった。私に宿っていたウツギの残滓は、この言葉をきっかけにして一気に膨張し、明確な憎悪の火柱となって燃えあがった。
私は残っていたジンライムを呷り、高い度数のアルコールが体内に侵入してくるのを感じながらもスックと立ちあがり、振り向きざまにTさんを張り倒す妄想を一瞬間に三場面程脳内に繰り広げ、微々たる留飲だけを下げ、外套を纏うと颯のごとく会計を済ませ、外に出た。
帰路、一度発火した憎悪の炎はなかなか鎮火する様子を見せなかった。残酷な現実、現実は甘くない、これが現実。その宣言で本当に世界が書き換えられてしまうかもしれないというのに、よくも。
たった数十年の、それも自身の足跡しか知らぬ存在が世界としての現実を定義するな。そんなに残酷で苦しい現実がよいのならひとりでそこに閉じこもっていろ。
しかし、と、私は一日中頭の片隅にこびりついていた疑問に意識を向けた。即ち、何が現実で何が夢であるか、と。
実感を伴った宣言が実現するというのなら、夢こそ現実ではないか。そして宣言によって望まぬ世界を消し、住む世界を決定できるとすれば、私たちが現実と呼んでいるものこそ、夢ではないか。
この極めて本質的な自問のきっかけが池の鯉であったことは甚だ癪に障ったものの、この問いは睡中都市の物語を完成させるために、避けては通れないものであると自覚していた。今、私はウツギの憎悪を火種に、夢を守ろうとしているに違いなかったが、それを嘲笑い、俯瞰するような疑問がひとつ。
現実とは。
私が憎んでいる在りもしないゲンジツとは、なんだ。苦悩を美徳とする世間。己自身を生きようとする者の意思を夢と冷笑し、未成熟と断ずる社会。
しかし、しかしそれは本当か? 本当に世間には、社会にはその様な構造があるのか。私が勝手に想定しているだけではないだろうか。己の信じたくない事実を勝手に拡大し、培養し、悪なるゲンジツとレッテルを貼り、さも自分を救世主のように仕立て上げ、過剰分泌のアドレナリンで執筆された物語に酩酊しているに過ぎないのではないか。
もしそうだとすれば、私の姿とさっき見た池の鯉、Tさんの姿は何も変わらない。わけの分からないことをまき散らしているだけだ。
その場合、私の為そうとしている創作とはなんだ。相手無き闘争、悲劇のひとり芝居、勇者ごっこ、空回り。それらこそ、私の最も恐れる結論であった。
仮にそうでなかったとして。私が悪だと目の敵にするゲンジツなるものが存在していたとして、そんな世界こそ、本来の世界、現実なのではないだろうか。やはり、苦悩を乗り越えることこそ美徳であり、夢に生きるなどという曖昧模糊の思想から、人は成長によって解放され、社会に適応するようになる。それこそ現実に生きる我々のあるべき姿なのではないのか。私はただ、己がそう生きられない半端者であることを棚に上げ、逃げ回っているだけではないのか。その最中に運悪く見た夢が。
「睡中都市」
トアノやウツギは目の前の現実を受け入れられない私の弁明。水晶塔は夢を漂白し、現実へ私を回帰させようとする指針。もしそうならば、なんともみっともない。
世間の人々がとっくに了解していた当たり前の事実に周回遅れで気がつき始めたような感覚が肌寒さを伴って生じた。
世界の姿がそうなのであれば、それに準ずるしかない。巨大な機構に立ち向かったとて、それに勝てる筈がない。やはり、誰かが言うようにいい年をした者は夢ではなく、現実をみるように生きなければならないのかもしれない。
嗚呼。しかし、それでも!
まだ私を睡中都市に繋ぎ留めている細い細い蜘蛛の糸。ゲンジツへの憎悪を私はどうしても断ち切れないでいた。
つまり、私には覚悟が無かった。夢に自分自身を生かす覚悟も、現実を断定する覚悟も、どちらも無かった。この逡巡が初めてでないことに、私は気づいていた。終末の残光差し込む廊下をトアノに連れられて歩いていた時、夢の中でさえ! 私は夢と現実の狭間でこんな思考に捕らわれていたのであった。
今、私は堪らなく、トアノに会いたかった。たとえ彼という存在が私の脳髄の見せた幻であったとしても、彼ならきっと、私を良き方へと導いてくれる筈だと、いかにも都合の良い期待を抱いていた。