幕間Ⅰ(1)
三 幕間Ⅰ
私が目を醒ましたのは薄明の頃であった。なんの予兆もなく中断せられた途方もない夢、睡中都市。そこで出会った、かつて私の創作に重ねて登場した旅人のトアノとウツギ。中天高くそびえ、あの世界の誕生と消滅を感知する水晶塔。ヨダカに終の町、墓標のごとき建物、モキタ、カレン、カエデ、苦悩礼讃、在りもしないゲンジツ、そして消滅の危機。私はこれら全てをはっきりと覚えていた。そしてトアノは夢を危機から救うために私を呼んだと、そう言っていた。
寸時逡巡の後、私は自室の隅に埃を被っていた段ボール箱から原稿用紙とペンを探しだし、今みた夢、睡中都市の物語を綴り始めた。それは少しばかり鮮明な、夢みることを諦めきれなかった未練がましい私の脳髄が生んだ、自分にとって都合のよいだけの幻影だったのかもしれない。
それでも、私はこれを書き留めずにはいられなかった。
トアノやウツギという、かつての自分自身が創作した者たちと出会うという奇跡のような出来事。それを忘れてはならないという使命感に私は突き動かされていたのであった。そして、私たちが生みだしてしまったという在りもしないゲンジツが夢を消滅させているという事実も忘れるわけにはいかなかった。
私は勢いに任せて筆を走らせ始めた。あまりにも長い期間、私は物語を書くことから離れていた。続けたところで何にもならぬ、自分には不相応なことだと諦めたつもりになっていたのであった。かつての感覚は容易に取り戻すことはできず、筆はなかなか進まなかった。
しかし、それでも書くのだ!
技巧も語彙も文才も必要なかった。ただ、在った世界を在ったように、自身に蓄積しているものだけで、最高精度の近似を成すべく、私はひたすらにペンを走らせた。
銀柱の立つ湖畔でトアノと出会い、鏡門を潜って睡中都市へ。鏡門を潜る前に見た満天の銀河も、睡中都市を俯瞰した際のモザイクアートの街並みも、そびえる水晶塔の荘厳も、それが強烈に発光し、世界を消滅させた時の感覚も、できるだけ正確に、正確に。
私は時の経つことも忘れて書き記した。これが何になるか、もはや問題ではなかった。為さなければならないから、私は書くのであった。
窓の外の日がすっかり高くなった頃、私は手を止めた。ちょうど、トアノと共に旅に出る直前の箇所であった。私とトアノともうひとりの人物でキッシュを食べたのであった。
もうひとり? 誰だ。確かに私はトアノと共に三人で旅をした。しかし、あれだけ親しく共に旅をしてきたもうひとりの人物を、私は知らなかった。もちろん、そんな人物を創作した覚えもなかった。何より、私はその人物の名前すら知らなかった。旅の中で、常に私はその人物をキミと呼んでいた。
名も知らない人物とまるで十数年来の友のように旅をした。その事実が奇妙なようでありながらも不気味ではなかった。
その人物の素性について気がかりではあったものの、夢の忘却は直ぐそこまで迫っているように思えた。やむなく、私はその人物を初めから一緒に居た存在として保留にし、夢の記録を続けた。
いよいよ旅が始まった。汽車に乗り、ヨダカと出会い、睡中都市消滅の実態を知った。四人で食べたアイスの味を、私は覚えていた。
汽車を降り、終の町へと足を踏み入れる箇所を執筆する頃には、昼過ぎになっていた。私の書きなぐる文字は自分自身にも解読の難しいものが多くなっていった。体験した記憶が筆先という極めて狭い排出口から、決壊を予感させる勢いで噴出していた。
終の町を進み、星海高等学校でついにウツギに出会う。彼もまた、トアノと同じく、私の創作から生れた人物であった。中性的で美麗な彼に、私は畏れにも近い感情を抱いていた。
ウツギに連れられ、墓標のような建物へ。モキタやカレン、そしてカエデのことを書いている最中に、私は心の奥底でタールのような感情が沸騰しているのを感じていた。
誰が彼らをこんな風に変えたのだ。
幸福を遠ざけ、絶えず不幸を求め続ける。このグロテスクこそが現実だと偽るための言葉を、私は知っていた。美談。在りもしないゲンジツはそれだけでは受け入れられない。だからこそ人は美談を作りあげるのだ。その中では幸福を意図して遠ざける者は英雄視され、不幸を抱えた者は聖人として描かれる。やがて美談に説得された者はその価値観こそが立派な人間の証であるかのように振舞う。そして行き着く先は苦悩礼讃だ。
私は夢の記録をとおして、ようやく苦悩礼讃のグロテスクを理解したような気がした。思えば、私の履歴にも、苦悩礼讃やそれに似た概念が幾つも存在していた。吐き気のするのを堪え、夢の続きを書き記しているうちに、私の内には二つの感覚が芽生えた。ひとつは、憎悪を根源に物語を書くことが初めてではないという感覚。私は恐らく、ウツギを登場させた物語にこのような世界観を描いていたのであった。そしてもうひとつは、これを世に知らせねばならないという感覚。今、世界は苦悩礼讃に満ちている。それを野放しにしておいては、やがて世界は本当にそのように書き換えられ、確かにそこに在った筈の美しい世界は消失してしまう。
思い返せば、私は現実世界で苦悩礼讃に近い考えに支配されてきた人間を幾らも見てきた。学生時代、多忙なスケジュールに苦しめられながら徹夜の日数を誇り、俺は他のやつらとは違うのだと豪語していた先輩。働き始めた頃、若いうちの苦労は買ってでもするものだと、到底達成できない目標ばかり提示してきた上司。他人が努力を重ね、成長し、何かを勝ち取っているのに、自分には何もない、役立たずだと泣きながら居酒屋で日本酒を呷り、しばらくして自殺した友人。嗚呼。苦悩礼讃はこんなにも私の近くまで忍び寄っていたのであった。私は再び、身を焼く程の憎悪を覚えた。
このままではならないと思うと同時に、一刻も早くこの物語を完成させなければならないという使命感が私を支配した。今の私にあるのは憎悪と使命感と二つであった。物語を書き進めてゆくうちに私の内に会った冷笑も不幸中毒も恐ろしい勢いでデトックスされ、在るべくして在る私の息遣いによって風化されてゆくような気がした。創作に浸る忘我の境地が私から時間経過の概念を奪っていった。
“トアノの方を振り向いた途端、周囲の景色が一瞬にして捻じれ、私を内包していた筈の世界が、音もなく、砕け散った”
私はそう書き終えるとペンを置いた。いつの間にか日は沈みかけていた。私は喉の渇きを覚え、水垢のついたコップで水道水を飲んだ。久しぶりに味わった創作の熱は未だ冷めず、記憶から抜け落ちていた場面を思いだしては書き足し、誤った表現を改め、時系列を整理した。そして私は勢いに任せて睡中都市の夢をみる前夜のことを原稿用紙に書き取り始めた。
睡中都市に関する物語が一応の成立をなしたのはすっかり夜が更けた頃であった。物語はまだ終わっていないという確信、早く全貌を書かねばという焦燥感。それらに後押しされ、私は再びトアノたちと旅に出るべく、布団へと潜り込んだ。
しかし、平生、朝日が昇る直前まで眠れないまま過ごしている私が、創作の熱に浮かされていながら、入眠できよう筈もなかった。依然、神経は鋭敏に貪欲に、睡中都市を夢みて私の脳髄を稼働させ続けていた。
私は早々に入眠を諦め、ヴェランダに出て煙草に火を点けた。思考は必然、睡中都市や水晶塔を介した夢の危機へと向かい、脈絡のない分岐をみせた。
夢の危機は現実世界の危機でもあると、トアノは言っていた。
実体の無いゲンジツに喰われようとしているのは夢ばかりではない。これは、今、世界に起こっている事実だ。
夢の世界で会った、私がキミと呼んでいた存在。あの人物は、誰だ?
トアノやウツギは果たしてどれだけの間、私と隔絶されていただろう。
睡中都市とは、いつから存在していたのだ?
モキタやカレン、カエデもやはり、誰かに創作された者なのだろうか。だとすれば、彼らの主人はどうしているのだろう。
押し寄せてくる思考に区切りをつけるように、私は煙草の煙をひとつ、大きく吐いた。
私は、どれだけ創作から離れていたのだろう。トアノやウツギのことを忘れて、どれだけ生きてきたのだろう。彼らは、いつから存在していた? 私は、いつから創作をしていた?
自身の創作の源流を探ろうと、私は部屋に戻り、辺りを探してみたものの、これまでに書いていたであろう作品の原稿は一枚も残されていなかった。確かに書いた筈のものが、たったの一枚も無いという事実はいささか不自然にも思われた。記憶を辿ろうにも、霧がかかったように不鮮明な記憶ばかりで、肝心なことは一向、判然としなかった。
私は記憶の逆行を諦め、煙草を揉み消した。
今回の夢で、私はひとつ、本来の自分へと回帰する鍵を見つけていた。ウツギの核、憎悪である。見つけたその鍵が、私の記憶を手繰り寄せるきっかけを作った。
かつて私がまだかろうじて一人前の人間らしい生活を送っていた頃、私は所属する集団内で随分と酷い扱いを受けていたのであった。できないことを怒号と共に非難され、もっと努力しろ、もっと成長しろと繰り返し責められたのであった。そして、そうすることのできない自分が情けなく、日々悶え、自責に次ぐ自責、それでもどうにもならぬ姿を指さし、笑われたのであった。そうして私は精神を壊し、その集団から逃げだし、この町にやってきたのであった。
その頃には既に、取るに足らないような幾つかの作品を書いていたような気がした。創作の中ではなんでもできた。自身が憎悪する概念を崩壊させることも、到底届く筈の無い祈りを神に届けることも。創作を始めた頃はそれが心地よく、私はよく、自身を取り巻く世界への不平を物語にしていたのであった。その時の原動力こそ、憎悪であった。或いはそれは、私を苦しめた者たちへのささやかな復讐であったのかもしれなかった。
しかし、その頃のことをもっとよく思いだそうとしても、私が集団を離れ、この町に来た前後のことだけはどうしても思いだすことができなかった。それはまるで、私の魂が、思いだすことを拒否しているようでもあった。
未だ、私には思いだせていない過去がある。
過去が遊離したその感覚が、とあるウツギの言葉を思いださせた。
“第一、彼は自身の犯した最も大きな罪さえ忘れているんだろう”
“……早く思いだしてくれよ。お前の罪だって、そうすれば少しは軽くなるのに”
私の罪。私にその自覚はなかった。となれば、それは私が思いだせない時期の記憶と関連しているように思われた。幾度も遡る記憶は必ず、決まった時点で不連続となり、別の時点へと接続されるばかりであった。
自力で思いだす道を断たれた私には、もはやもう一度睡中都市を訪れるという手段しか残されていなかった。私は今回の旅でようやく自身の憎悪を思いだすことができた。旅を続ければ、或いはトアノに尋ねてみれば、何かが分かるような気がした。時計を見ると、まだ深夜と呼ぶには早い時刻であった。
私はヴェランダから部屋へと戻ると、戸棚を開け、ジンを取りだした。瓶に幾らも残っていなかった中身をコップに空けるとわずかの水道水を混ぜ、ひと息に飲み干した。好きな酒も水道水で割るとこうも不味いものかと感心すらしているうちに胃のあたりが仄かに温かくなってくるのを感じた。
好機と布団に潜り、目を閉じた。脳裏に銀柱立つ湖畔や水晶塔、終の町、トアノ、ウツギを描きながら。
酔いの力を借りれば入眠できるかもしれないと考えたものの、少量のアルコールは思考のまとまりを消し去り、ますます不規則な思考を助長させるばかりであった。三十分経つ頃には思考は睡中都市の歴史やそこに住まう者たちの履歴を迷走し、一時間経つ頃には再び睡中都市の物語を完成させる使命感に燃え、二時間経つ頃にはすっかり酔いが醒めた。
「いかん」
観念した私は目を開け、明かりをつけると着替えを済ませ、薄い外套を着て部屋を出た。
馴染みのバーへ向かう道すがら、見上げた夜空は際限なく高く、小さな星々が光っていた。私は幾度も、この世界には存在しない筈の水晶塔を探し、中空に目線を泳がせた。
今夜入眠した後にはきっとまた、睡中都市の旅ができると、私は確信していた。本来であれば、前夜の夢の続きがみられる筈もなかったが、睡中都市は今の私にとって、ひとつの世界として確かに存在し、そこを自分が旅する宿命にあると断定していたのであった。そして、そこを旅した記録を世界に発表することも私の宿命であると信じて疑わなかった。