汽車から終の町(4)
ウツギに続いて明かりの無い階段を上ると、同じような絵画の窓と小さな扉、そして暗い廊下が現れた。扉の中から人の声がした。
「毎度、ご利用ありがとうございます。これで貴方様の人格はより一層、ご向上なさったことでしょう。それでは、今後ともご贔屓に」
扉が開き、スーツを着て、帽子を被ったセールスマンのような人物がひとり出てきた。彼は部屋に向かって丁寧に頭を下げ、階段を下りていった。それを見たウツギがため息をついた。
「ここに居るのはカレンさん。花屋で働いていたんだ。笑顔の素敵な、優しい人だった」
ウツギが扉をノックし、彼女の名を呼びかけると、どうぞ、と小さな返事が聞こえた。
中に入ると、モキタの部屋とそう変わらない間取りの小さな部屋であった。ドライフラワーが飾られた、壁に面した机で、女性が書類の束を前に座っていた。彼女はウツギの姿を見ると書類を机の隅に除けて立ちあがり、病人のような笑みを浮かべた。
「あら、ウツギ君。そちらの方々は、お知り合い?」
ワンピースから覗く、細く、白い腕が何処か私をぞっとさせた。
「ええ。知り合いみたいなものです。気にしないでください。今日は近くに来たから寄ったんです」
カレンという女性のそばに飾られていた花はドライフラワーと呼ぶには相応しくない程、汚らしく枯れた花に見えた。
「それより、カレンさん。また買ったの」
ウツギはカレンを責めるような口調で問いかけた。
「ええ。その、私ね、今度、会の役員になるための審査を受けようと思っているの。それで、どうしてもたくさんの人格証明が必要になったから。これまで買った分じゃ、全然足りないから、仕方なかったのよ。それで」
「買ったんだ」
「うん」
カレンは叱られた子供が言い訳をするようにウツギの目を見ようとしなかった。
「そこにあるのが、その証明書?」
ウツギは机に乗っていた書類の束を指した。
「ええ」
「見せてもらってもいい?」
「それは、構わないけれど」
カレンは書類を抱えて戸惑っていた。
「大丈夫だよ。それがカレンさんにとって大切なものだってことは充分、分かったから。もう破いたりしないよ」
「そう。なら」
カレンは意を決したようにウツギに書類を渡した。ウツギはそれをよく見ないうちに私に突き付けた。
「カレンさん。僕の知り合いにも見せていいかい」
「ええ」
「見てごらん。君たちでさ」
ウツギに促されて私は書類を手に取り、キミと共に目を落とした。
先にご契約いただきました人格証明のための不幸、十三件が正式に貴方様のものとして譲渡されましたことをご報告いたします。それぞれの不幸に対する証明書を同封しておりますので、人格証明を受ける際には必ずこれらを当該窓口にご提示ください。同封いたしました不幸証明は以下のとおりです。
・創作者に恵まれなかった不幸
・不治の病を抱えた不幸
・夢を叶えられなかった不幸
・他者に人格を否定された不幸
・努力が決して実ることのない不幸
・人を羨んでしまう不幸
・自分をひたすらに押し殺す不幸
・人並みに生きられない不幸
・マイノリティとしての不幸
・生活がままならない不幸
・自らで自らを傷つける不幸
・苦しみに忍従し続ける不幸
・大切な人物を失った不幸
以上。不備がございました際にはお手数ですが最寄りの覚醒党支部までお問い合わせください。
後はそれぞれの不幸証明だという厚手の紙が十三枚あった。
「これは、何」
言い知れぬ不気味な雰囲気を醸しだす文言を目にした私は誰へともなく、言葉を投げかけた。
「彼女に保障された不幸さ。彼女が買ったんだ」
ウツギが涼しい表情で淡々と答えた。
「買った? なんのために」
「聞いてみたら? ねえ、カレンさん。彼らはまだ、この町や貴女の周りで起こっていることを知らないんだ。教えてあげてくれませんか」
「ええ」
そう答えた彼女は、ウツギを恐れているようにも見えた。彼女は半ば躊躇いながら口を開いた。
「えっと、あのね。この町では今、革新が起こっているの。人々が常に成長し続けて、より誠実に生きられるような、そんな価値観のもとにね。そしてその考えを広めるために、幾つかの集会も開かれているわ。私もそれに参加しているの」
「成長……。より誠実に……。その考えというのはどんなものなんですか」
私はモキタのことを思いだしていた。
「会によって少しずつ表現は違うけれど、その革新のもとになる考えっていうのは、こういうこと」
カレンは机の引き出しから表紙の厚い小さな本を取りだし、ある頁を開いた。
「苦悩にこそ歓喜せよ。これこそ汝の魂を成長させる幸い也。不幸をこそ獲得せよ。これこそ汝の誠実を保証する勲章也。真なる幸いは苦悩を越えた者にのみ与えられるもの也」
読み終えたカレンはそっと本を閉じた。
「貴方たちはどう思う? これって、おかしな考えなのかな」
カレンはあからさまにウツギの表情を気にしながら、今にも泣きだしそうな声色で私たちに尋ねた。ウツギはカレンの前から離れ、トアノの傍ら、入り口近くのドアにもたれかかった。
キミは、どう思った?
私はあの不幸の列挙された底なしに気味の悪い文書を見ていなければ、カレンの読みあげた内容にあっさりと首肯していたかもしれなかった。しかし、今は、何かがおかしいと疑問を抱いていた。何処か人為的な、人を巨大な悪意の機構へと服従させようとする力任せの意図を感じていた。そして、この感覚が初めてではないことを思いだしていた。
かつて、創作にのめりこんでいた頃、私は社会にこのような構造を見つけ、それを憎んですらいたのであった。当時はそれを描いた小説を幾らも書いていたような気がした。しかし、結局、私は現実に打ちのめされたのであった。抵抗したところでどうにもならぬと、そうして諦めることが人の成長なのだと、信じるようになっていったのであった。
「いえ。まだ、なんとも言えません」
私がカレンの問いに答えると彼女はほっとしたかのように息をついた。
「あの。ひとつお聞きしてもいいですか」
私は気がかりだったことについて、切りだした。
「ええ。どうぞ」
「さっきの書類。不幸証明とかいうものは一体、なんなのでしょう」
「私が不幸を買ったんです」
カレンはあっさりと答えた。
「どうしてそんなことを」
不幸を買う。このフレーズがどうしようもなく気持ちが悪かった。
「さっき、少しお話ししましたけれど、私、今いる会の役員になろうと思っているんです。その時に受ける審査で、自分が誠実な人間であることの人格証明として、正式な不幸が最低でも二十件必要なんです。でも、私の持っている分じゃ足りなくて。それで不幸を買ったんです。あの証明書があれば、例えその不幸を体験していなくても、自分の履歴として挙げることができるんです」
「不幸が、人格の保証に?」
現実でも同じことが起こっていると、漠然と気がついてはいた。しかし、自分の目で、ここまで直接的に不幸によって人格を保証しようとしている人間を見ると、悪寒すら覚えた。
「当然でしょう? 多くの不幸を経験した人の方がそうでない人より誠実で成熟している」
カレンの瞳の奥は淀んだ純粋に支配されていた。
「でも、だからって、経験してもいない不幸を買うなんて、そんな――」
「止せよ。間違ってるって言いたいのか。君にそんなこと言う資格なんて無い」
ウツギが突然、声をあげた。
「白々しいよ」
ウツギは私の手からカレンの不幸証明の束を取り上げると、それを私の眼前に突きつけた。
「ここに並んだ不幸を経験した人間とそうでない人間。その二人の人格に違いがないって、君たちは本当に心からそう思えるのか。こんな気持ちの悪い価値観を僕の大切な人たちに植えつけたのは君たちだろう!」
ウツギの怒号が狭い部屋に響いた。カレンは小さく声をあげると身体を縮こまらせた。
「ごめん、カレンさん。驚かせたね」
ウツギは私たちを睨んでいた視線を外すと、力を込めて握りしめていた不幸証明の束を机に広げ、一枚一枚丁寧に皴を伸ばしてカレンに返した。
「また来るよ、カレンさん」
ウツギは足早に廊下へ出ていった。私たちはカレンに会釈するとウツギを追って部屋を後にした。
「君たちはもっと自覚するべきだ。モキタさんやカレンさんを変えてしまったのが自分たちだってことをね。そして今、この睡中都市が最も醜悪な結末を迎えようとしているのも君たちが原因だ。そんな君たちが彼らの思想や行動に口出ししようなんて、冗談にしたって酷過ぎるよ」
ウツギはそう言うと、次のフロアへと階段を上り始めた。私は彼に続きながら、自身に蓄積された常識や固定観念、思考習慣、価値観が揺らぎ始めていることに気がついていた。
不幸を経た者とそうでない者、どちらが誠実か。ウツギに問われた時、私は直感的に不幸を経た者が誠実であると感じた。しかし、それは何故だ。努力が担保されているからか? 違う。不幸な履歴があろうと、その者が努力し、それを乗り越えたとは限らない。
キミは不幸と誠実がどんな関係にあると思う?
そもそも私は、不幸を経験した、という事実そのものに価値を感じているようだった。
不幸に、価値? 改めて考えてみればおかしな話だ。いや、不幸を経た人間に価値があるのか? 不幸が人を成長させる? 何かおかしい。カレンがあんなにも不幸を求めていたのは人格保障のため。即ち誰かに認められるため。誰か? 誰だ。社会? モキタの言う世間か? カレンは決して心の底から不幸を求めているわけじゃない。無理矢理結びつけられた付加価値を求めているのだ。彼女は会に参加していると言っていた。その会が不幸と価値とを結ぶ思考を彼女に植えつけたのだ。
カレンが読みあげていた会の考えだというあの言葉が、人を悪意に突き落とす呪詛として私の脳裏に浮かんだ。
“苦悩にこそ歓喜せよ。これこそ汝の魂を成長させる幸い也。不幸をこそ獲得せよ。これこそ汝の誠実を保証する勲章也。真なる幸いは苦悩を越えた者にのみ与えられるもの也”
初めてこの言葉を聞いた時、幾らか疑問を感じたものの、私はとりたてて恐ろしいとも思わず、ただ、現実にも存在するようなありふれた価値観を大げさにしただけのものだと思った。しかし、モキタやカレンの様子を目の当たりにし、自身の思考習慣に疑念を抱き始めた私にとって、この言葉は巧妙な罠のようにも思えた。人に絶えず不幸を求めさせ、それこそが誠実な人間の振る舞いであると称賛し、その思考に毒されてゆくことを成長と定義づける。そしてついには人を永久に不幸の深層へと縛り付けてしまうのだ。
そしてこれは決して他人事ではなかった。私が一度、幾らか疑問を覚えつつも、この言葉を聞き入れてしまったのは私自身がこの言葉の信奉者としての側面を持っていたからであった。
この考えがモキタに幸いを恐怖させ、カレンに必要以上の不幸を渇望させていたのであった。
キミ、彼らの姿は現実に生きる私たちと、違わないのかもしれない。
私が暗黙に信じていた常識から装飾が取り払われ、善良な者たちを脅かすグロテスクな不条理の機構がその姿の一端を見せた気がした。
もう一段、階段を上るつもりで踏みだした足が空を切り、私は転びそうになった。振り向くと、私のすぐ後ろにいたキミが驚き、立ち止まっていた。
キミもよく足元に気をつけてくれ。
ウツギはそんな私の方には振り向きもせず、明かりひとつない廊下の方へと歩いていった。これまでのフロアと同じような、窓であったものから差し込む、極めて薄い終日の明かりを頼りに、そばにあった部屋を覗くと、そこは手つかずのまま、なん十年も放置されているかのように荒れ果てていた。先を行くウツギの姿は長い廊下に充満する闇に呑まれていた。
「僕が先を歩くよ」
いつの間に取りだしたのか、カンテラを手にしたトアノが私たちの先に立った。その暖かな光に導かれるようにして私とキミはトアノのそばを離れぬように歩いた。
「ねえ、トアノ。ここに居る人たちは、何か、変じゃないだろうか」
私は先程まで考えていたことの一部をトアノに投げかけた。
「どうしてそう思うんだい」
トアノは自然な様子で私に疑問を返した。
「例えば、モキタさんは必要以上に幸せを恐れている。受け取っていい筈の幸せを拒否して、望んでもいない成長を求めている。カレンさんは、自分の誠実や人格を証明するために、異常な程、不幸に執着している。さっき、少し考えていたんだけれど、不幸や苦悩を経た者が人格者であるというのは、何かおかしい気がするんだ」
トアノはしばらく、黙って歩いていた。
「今、主人がおかしいと感じた概念。つまり、与えられる幸せを意図して遠ざけ、何者かによって作られた目標に都合の良い変化を成長と呼び、苦悩によって個人の価値が担保されると認めることを、僕たちは苦悩礼讃と呼んでいるんだ。主人はこれをおかしいと感じるんだね」
苦悩礼讃とは、禍々しくも、この概念をぴたりと言い当てているように思えた。
「うん。どうしておかしいのかという、理屈までは分からない。むしろ、それをおかしいと思う私がどうかしているのかとすら思うよ。実際、私は苦悩礼讃に近い考えでこれまで生きてきたような気もする。でも、モキタさんやカレンさんの様子を見て、直感したんだ。ねえ、彼らがこうなってしまったのは私たちの所為なのかな」
カンテラの明かりが、壁に大きな影を生んでいた。
「何も君たち二人だけの所為というわけじゃない。モキタさんやカレンさんを変えてしまったのは、君たちの世界に住んでいる全ての人々が生みだした在りもしない偽物のゲンジツだ」
トアノは立ち止まって私たちの方へ振り向いた。
「ねえ、主人。キミも。よく覚えておいて。この世界と君たちの世界は強く繋がっている。モキタさんやカレンさんに起こったことは決して君たちの世界と無縁な事じゃない。君たちが在りもしないゲンジツを宣言し続けると、世界は本当にそうなってしまうんだ。主人やキミが苦悩礼讃をおかしいと思うなら、どうか、その感性を大切にして。大勢が従おうと、巨大な権威が保護しようと、君たちがおかしいと思うならその直感を大切にするんだ。君たちは自らの宣言で、自らの生きる世界を決定しているんだ。広い自由の原に生きるのか、地下の狭い牢獄で生きるのか、君たちは自分の宣言で決めることができるんだ」
トアノは私とキミに微笑みかけると、ウツギの歩いていった廊下の奥を眺めながらカンテラを掲げた。
「おっと。ゆっくり歩きすぎたね。ちょっと急ごうか」
私たち三人は足早に暗い廊下を進んだ。その最中も私はモキタやカレンの様子と苦悩礼讃の思考、現実と夢の関係性について考えていた。