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汽車から終の町(3)

 学校を出て二、三度辻を曲がると、役目を終え、崩れおちた建物の残骸(ざんがい)ばかりの市街地跡。一面の瓦礫(がれき)が元の形を忘却したかのように点在していた。開けた道の無い、無彩色の中を私たち四人がなんの言葉を交わすでもなく、ただ、歩いていた。

 私は視界に一棟、かろうじて形を保っているコンクリートのビルを捉えた。それは、いつまで経っても沈むことのないヴェールのようなかすかな日の光を受け、荒廃した地に墓標のように立っていた。ウツギの足取りから、そこが目的地なのだと察すると、寸時、足が止まった。時折吹く風が擦過傷(さっかしょう)のような局所的な寒さを感じさせた。明確な理由なく、私はその墓標(ぼひょう)のような廃墟に恐怖を抱いていた。先を歩くウツギの背は、私たちを必要以上に近づけまいとする圧力を放っているようにも思えたが、私はそれでも、足を速めて彼の背に近づいた。

 ウツギの髪が香る。それが静寂と停滞と恐怖の支配する凄い程の景色の中、唯一の生きた流動として際立っていた。不安の高まる緊迫した空気から逃れるためのささやかな抵抗として私はその香気で肺を満たそうと妙な呼吸をした。一歩、また一歩とウツギはその廃墟へと歩みを進めた。大きな亀裂が幾本(いくほん)も走り、窓ガラスのことごとく割れ、幾らか傾いてすらいるそれは、人の気配など、まるで感じさせずに、佇んでいた。

「ここだ」

やはりウツギはその廃墟の前で足を止めた。

「ここに、君たちが会うべき人たちが居る。こんな環境に、彼らは自ら進んで居るんだ。いや、こんな環境だからこそ、彼らは居るんだ」

ウツギは悔しそうに唇を噛んだ。


 扉すらなくなった入り口を抜けると、砂埃(すなぼこり)と瓦礫にまみれた廊下。ラムプがひとつ、弱々しく灯っていた。その頼りない明りの方へ、ウツギは一切躊躇(ちゅうちょ)することなく、歩いていった。私とキミは後ろからトアノに(うなが)され、恐る恐る足を進めた。私たちの靴音が反響することなく、朽ちたコンクリートへと吸収されてゆくような気がした。ラムプを越え、尚も足を進めてゆくと、廊下の最奥に、かつて窓があったのであろう痕跡(こんせき)が、ただの大きな四角い穴としてあった。そこから見える濃紺の空。沈む日の残り香で地平線のあたりが砂塵(さじん)のようにわずか黄色く色づいて見えた。瓦礫の他に視界を遮るものの何もない、絵画のように美しい死の光景が広がっていた。その光景に、私は得体のしれない恐怖をしばし、忘れていた。なん度か(つまづ)きそうになりながらも、私はゆっくりとその絵画の窓へと近づいていった。

 やがてウツギはその窓の手前にあった、()びた扉を前で足を止め、振り返った。

「先ずはこの部屋だ。モキタさんといってね。食堂を経営していた人なんだ。昔は気のいい、豪快な人だった」

ウツギはドアをノックし、中へと入った。

 時折、点滅する蛍光灯に照らされた、(ほこり)(かび)の匂いのする簡素な部屋。その片隅のベッドで()せた男が本を読んでいた。男はウツギの姿を見ると、わずか顔を綻ばせた。

「やあ、モキタさん」

「おお、ウツギか。今日はどうした」

「どうってことはないんですけど、この間と同じ。ちょっと近くまで寄ったから、顔を見に来たんです」

モキタという男の座っている掛布団の無い

ベッドは、やけに広く感じられた。ベッドの向こうの窓からは、瓦礫の果ての地平線に水晶塔が生えるようにして立ち、限りなく黒に近い藍色(あいいろ)の景色の中、深海の海月のように発光しているのが見えた。

「モキタさん。今日は大勢で押しかけてしまって、すみません」

「いいさ。気にするな」

モキタの笑顔に、私は豪快であったというかつての彼の面影を見た気がした。

「確か、トアノとは会ったことがありましたよね」

「トアノさん。ああ、旅人さんか。覚えてるよ」

トアノはモキタの前に出ると彼と握手を交わした。

「それで、こっちが、まあ。僕の知り合いです」

ウツギはあくまでも私の素性を口にしなかった。

「そうかい。友達に囲まれて、よかったな」

「いえ、その。友達だなんて」

苦虫を噛み潰したような表情のウツギを横目に、私とキミはモキタと握手を交わした。彼の腰かけていたベッドは方々が破れ、(かび)のような斑点が(いく)つもできていた。そしてその(かたわ)らには違和感を覚える程、この部屋には似つかわしくない清潔なシーツがうずたかく積まれていた。

「そういえば、モキタさん。結局、本当にあの食堂はやめてしまうんですか」

ウツギは私と彼自身との関係性から話題を()らすかのようにしてモキタに問いかけた。

「ああ。もう決めたんだ」

そう言いながらも、何処かに未練の残っているような声であった。

「でも、僕には未だに閉店してしまう理由が分からないんです。あのお店はモキタさんの思いがこもった食堂だと思うんです。奥さんやお子さんも手伝ってくれていて、常連さんだっているじゃないですか。何も足りないものなんかない。そう思いますけど」

ウツギの言葉は説得ではなく、吐露(とろ)であった。モキタはしばらく黙っていた。

「でもなあ、ウツギ。それじゃあ、いけないんだ。そりゃあ、お前の言うとおり、俺は少しは恵まれた環境にいるかもしれない。だが、そんな現状に満足するのは怠慢(たいまん)だ。世の中ってのはそんな風に俺を甘やかしてはくれないんだ」

モキタは何処か自分に言い聞かせるようにして語っていた。

「幸せと不幸は必ず繰り返してやってくる。なんの苦労も知らずにのうのうと生きていたら、いつの日か必ず、手酷いしっぺ返しを受ける。そうならないためにも、俺は常に苦労を知って、成長し続けないといけないんだ。だからこそ、あんな店を続けるわけにはいかない。俺は再出発するんだ」

「怖いんですね。幸せを受け入れるのが」

(さげす)むようなウツギの声が、私の耳に残った。

私はふと、モキタのそばに開かれたままになっているノートを見つけた。ウツギとモキタの会話を聞きながら、私の目に映ったのは(おおよ)そこんな内容であった。


 新規事業計画のための注意事項()の六

 ・顧客はあくまでも食になんの興味も持たぬものと知るべし。

 ・食堂といえども社会システムの一部に過ぎず、その存在は矮小(わいしょう)(なり)

 ・やりがい、夢、希望、その他客観視できぬ要素を求めるは禁忌(きんき)也。

 ・成功者とはより多くの苦悩を知る者也。それを知らぬ者は永劫(えいごう)、怠慢な未熟者の烙印(らくいん)を押されるものと知るべし。


 この内容はもっともらしくも、何処(どこ)か不自然であった。モキタと会話を続けていたウツギはそんな私の様子に気がついたのか、私と同じようにそのノートへ目を落とした。

「モキタさん、これは?」

「最近、この辺りでセミナーとかいうのをやっててな。俺はそこで新しい食堂を開くために必要なことを教わってるんだ。それは、そこで学んだことを書き留めておくノートさ」

「少し、見せてもらっても?」

「ああ」

ウツギは落胆を予感しているかのようにノートを手に取り、しばらくの間、(ページ)(めく)っていたが、やがて、その手を止めた。

「これが、新しい食堂のために必要な事だっていうんですか」

ウツギは明確な怒りを(にじ)ませていた。

「ああ。そうだとも。俺はそのセミナーで目が()めたんだ。そして気がついた。今までの俺がいかに馬鹿だったかってことにな。俺には成長が無かったんだ。ただただその日をぬるま湯に浸かって過ごすだけだった。みっともない。こんなことを続けていたんじゃ、世間のいい笑いものだ。これからの俺は常に己を成長させ続けて、勝負に出て、成功を勝ち取るんだ。本当の幸せってのはそういうことなんだ」

モキタの言葉は現実に生きる私にとってひとつの正論として聞こえる(はず)であった。しかし、私は直感的に、仕組まれたグロテスクのようなものを感じていた。

 ねえ、キミ。モキタさんの言っていることは何処かがおかしいのだろうか。

 ウツギはそのグロテスクを敏感に感じ取っているようであった。

「本当にそれがモキタさんの望んでいることなんですか」

「俺が望んでいるかどうかなんて問題じゃない。世間がそうなんだから、そうなるしかないだろ。常に成長して、時には誰かを蹴落としてさえ成功しなきゃいけないんだ」

「一体、その成功になんの意味があるんですか。モキタさんが今持っている幸せを捨ててまで、ましてや本当は望んでいないのに成長する必要なんてないでしょう!」

ウツギは懇願(こんがん)するかのように叫んだ。しかし、それはモキタには届かなかった。

「そうしないと、世間は認めてくれない。そういうもんなんだ」

モキタの言う世間とは、彼にとっての牢獄(ろうごく)のようにも思われた。

「そんなことは、ありません。少なくとも奥さんやお子さん、そして僕は、あのモキタさんの食堂が大好きです」

「ありがとうな、ウツギ。でも、それじゃあ、駄目(だめ)なんだ。悲しいけども、これが現実なんだ」

私はモキタが力なく発したそのひと言を聞くなり、条件付けされた犬のように危機感を喚起(かんき)させ、窓の外、水晶塔に目を向けた。耳を劈く程の高音と共に、それが激しく光を放つかと思ったものの、水晶塔は何事もなかったかのように淡く明滅しているのであった。

「モキタさん、以前、言ってましたよね。“どんな時でも美味いものを食えばなんとかなるもんだ”って。“困ってるやつらや寂しいやつら、そうでないやつら皆の居場所がこの食堂だ”って」

ウツギにはもう、分かっていたようであった。自身の言葉がモキタの考えを変えることはないと。

「そんなことも言ったっけか。情けないな。幼いな。そんなのはキレイゴトなんだ。それじゃあ、世間は(ゆる)してくれない。これが現実なんだ」

ウツギの手から、ノートがパタリと床に落ちた。その音がやけに大きく聞こえた気がした。

「そうですか」

ウツギはとうとう目を伏せた。その肩に、モキタが自然な動きで手を置いた。

「おいおい。そんな顔するな」

彼の眼差しに、失われていた光が灯ったように見えた。

「今度、俺の店ができた時にはよ、お前も……。いや、その。どんな時でも美味いものを……。俺がお前に……幾らでも……」

モキタはしばらく、焦点を定めない視線でただ、不自然な呼吸を繰り返していた。やがて、彼は何かに絶望したかのように項垂れた。

「嗚呼。頼む。どうか、どうかお前は、新しい店に来ないでくれ。一体、俺はどうして……。いや、こうしないと現実が、世間が……赦してくれないから……」

それきり、モキタは口を閉ざし、ウツギが幾ら呼びかけても、なんの返事もしなかった。


 薄暗い廊下に出ると、窓から吹き込んでくる風が酷く寒く、私の骨まで沁みた。

「君には、彼がどう見えた? 在りもしない世間とかいうものの赦しを得るために、純真な情熱を、己の心をキレイゴトとして切り捨て、望んでもいない成長を果たそうとする彼が。君たちの生みだした現実に順応しようと努力する彼は、さぞや立派な人物に見えたんだろうね」

ウツギは私の目を見ることなく、吐き捨てた。

 キミには、彼がどう見えた?

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