浮雲山房から汝待神社(3)
その後、私たちは人の流れに沿って、時に逆らって、幾つもの夜店を回った。何処に行ってもトキハシを知らぬ者は無く、私たちは常に歓迎された。彼の顔で焼きそばはパックの蓋が閉まらぬ程の量になり、十のたこ焼きは二十になり、たい焼きの腹にははち切れんばかりの餡が詰まり、冷やしパインを買えば、どういうわけか隣の店のケバブがおまけに付き、かき氷屋の泥酔した店主に至っては代金を取らなかった。
「すごいわね、トキハシって。誰からも愛されてて」
「本当だよ。本人に自覚は無いだろうけれど、皆から好かれるなんて、とてつもない能力だよ。僕よりも余程、旅人に向いてるんじゃないかな」
「あいつが旅なんてしたら、方々で騒ぎを起こしそうだけどね」
やがて私たちは銘々が何かしらの食べ物を抱えて休憩所へ向かうこととなった。
「おーい、タシロの爺さん」
休憩所の直ぐ近くの飲み物を売る店へ、トキハシが手を振りながら呼びかけた。
「おートキさん。今日は友達も一緒かい」
背中を丸めた老人が座ったまま、柔らかな笑顔で応じた。
「爺さん、この間腰痛めたって聞いたぜ。大丈夫か」
「まだそれ程の歳でもないと思って重い物を持ったらやっちまったんだ。だが、もう大丈夫だ。ありがとな。なんか、買っていくか」
老人は立ちあがり、首にかけていたタオルで手を拭った。彼の前にあるスチロール箱には氷水が満たされており、そこに沈む缶がラベルの色を覗かせていた。
「ああ、俺はビールな。トアノとアリスエはどうする?」
「僕もそうしようかな」
「じゃあ、私も」
老人は三本のビールを氷水の海から引き揚げ、さも冷たそうにしながら手についた水を拭った。
「お兄さんはどうする?」
「私もビールを」
「はい、ビールがもう一本」
ウツギはディスプレイ用に飾られていた飲み物を眺めていた。
「じゃあ、僕はオレンジジュースを」
「はいはい、オレンジ――」
老人は氷水から取りだしたジュースをその場に落とし、動かなくなった。
「どうした。爺さん。腰、やったか?」
トキハシの問いかけに応えるでもなく、しばらくの間、老人は目を見張ってウツギを見ていた。周囲の喧騒が老人の唐突な停止を強調し、ウツギを始めとした一同は疑問と不安の表情で老人に注目していた。やがて老人はため息とともにひとつの感嘆を漏らした。
「いやあ、綺麗な顔しとるのお、お嬢さん」
老人は間違いなく、ウツギを見ていた。
わずかの間をおいて、トキハシが噴きだし、トアノは顔を背けて肩を震わせ、アリスエが、あら、と声をあげた。何処に目を向ければよいか分からなくなった私の視線がウツギの横顔を捉えると、彼は耳まで真っ赤になっていた。老人だけが事態を飲み込めていない表情で私たちの顔とウツギの顔の間に視線を往復させていた。
「あの、僕、男です」
蚊の鳴くような声でウツギがそう告白すると、老人は文字に起こせないような奇妙な声をあげた。
「ああ、すまんすまん。男の子か。あんまり綺麗なもんだから、てっきり女の子かと思った。いや、綺麗というのも失礼か。いや、実はどっちか迷ったんだ。いやあ、悪いこと言ったかの。ああ、ええと、なんだ、あ、ほれ、ジュースもう一本持っていきせえ」
何処か滑稽な空気のまま、私たちは店を後にした。
休憩所へ向かう道すがら、トキハシは先程の出来事を思いだしたのかなん度も噴きだしてはその度にウツギに蹴られていた。
「まあまあ、落ち着きなって、お嬢ちゃん」
「うるさい」
トキハシは嬉しそうに蹴られていた。
「いいこと教えてやるよ。タシロの爺さん、古美術商なんだぜ」
「だからなんだよ」
「どんなものでも、ちらっと見ただけで値踏みできるんだ。あの爺さんが何かをまじまじ見るなんて、先ず無いんだ。それがあんなに目を丸くしてお前のこと見てたろ? お前の美しさは本物だってことさ」
「別に嬉しかないさ」
ウツギは拗ねたような表情をみせた。
「僕、そんなに女に見えるかな」
アリスエだけがウツギを慰めていた。
トキハシの言っていた休憩所に辿り着いてみると、そこは公民館のような施設の広い駐車場を利用したものであった。仮設テントが幾つも並び、その中には簡素な椅子と机があった。どのテントにもかなりの人が入っており、何かを飲みながら夜店で買ったものを食べ、談笑していた。もはや空いている所は無いだろうと私が半ば諦めていた時、我々が座ることのできそうなテントが見つかった。
「良かったな。空いてて。ここなら皆、座れるだろ」
私たちは購入してきた食べ物を机に広げ、椅子に腰かけた。
「さ、食い物もこれだけ揃ったことだし、早速乾杯といこうぜ」
トキハシの声に銘々がビールとジュースを持った。缶のタブを開ける音が小気味好く炸裂した。
「乾杯」
皆が声をあげて缶をぶつけ合い、飲み物に口を付けた。トキハシだけは、ひと息にビールを飲み干した。
「美味い。よく冷えてるな。しかし、一本しか買ってこなかったのはまずかったな。ちょっと待っててくれ。買い足してくる」
トキハシは財布を持ってテントを出ていった。
「まあ、トキハシったら落ち着きがないわね」
アリスエが机の上の食べ物を開封しながら彼の後姿を見送っていた。私は今になって、これだけのものを皆で食べきれるだろうかと不安になりながら机の上を見渡していた。
「主人、トキハシがこんなにはしゃいでいるなんて、珍しいことだよ」
トアノが割り箸を配りつつ、感心したような声をあげた。
「そうなの? じゃあ、普段の彼って、どんな風なの」
そんな私の疑問に答えたのはウツギであった。
「ずぼらなやつさ。僕に対しては気持ち悪かったりもする」
「ずぼらというより、彼は能動的に動いているように見えることが少ないのよ。いつでも気の向くままに生きているんだもの」
手元に缶ビールを置き、上品に焼鳥を食べるアリスエの姿が妙にしっくりと私の胸に落ちた。
「そうだね。やっぱり、彼は僕よりも旅人らしいよ。少し、羨ましいような気がするよ」
「そうね。でも、私たちが彼に羨ましさを感じるのは、無理もないことでしょうね」
「そうなの?」
私はそう言いながら、たこ焼きをひとつ、口に入れ、予想外の熱さに驚いた。
「彼の核である無為は、かつての主人の憧憬が向く先と定められているんだ。なら、君から生れた僕たちにとっても、それは同じことだよ。君にとってもそうじゃないかい、ウツギ」
焼きそばを食べ始めたトアノの向かいでウツギはたい焼きを両手で持って食べていた。
「そんなわけないだろ。僕があいつに憧れる? あり得ないね」
あまりにも強く否定する彼の姿を見て、私の脳裏にトキハシの言葉が甦った。
“人が何かを否定することに執着するのはどうしてだか知ってるか。それはな、そいつが本当はそれを心の中で認めてるからだ”
心の何処かでは彼もまたトキハシを羨んでいるのかと思うと、微笑ましかった。
「おい、何ニヤニヤしてるんだよ」
ウツギが不満げな表情を見せていた。そんな彼の手元にアリスエが雁のチョコレートを置くと、彼はそれを小さく割り始めた。どうやら彼は甘党であるようだった。
「いや、なんでもないよ」
私はトキハシの理論を思い切って彼に披露したい気もしたが、既にトキハシからお嬢ちゃんと散々揶揄われている彼を、これ以上弄んでは気の毒なように思われた。
「何考えてるか知らないけど、今のお前、あいつにそっくりだぞ」
やはり、私とトキハシは似ているようであった。
「おーい、戻ったぞ」
トキハシが飲み物の入った袋を持って帰ってきた。彼はそれを机の上に置くなり、ビールを取りだし、開けた。
「なんの話してたんだ。まさか、俺の悪口じゃないだろうな」
「かもね」
ウツギは雁のチョコレートを食べながら、ベビーカステラの袋に手を伸ばしていた。彼の食べていたものの履歴が私に流入してくるような気がして、私は胸焼けから逃れようと焼鳥に手を伸ばした。
「あら、ご主人、焼鳥? 私が取るわ。ちょっと待ってね」
アリスエは何処から取りだしたのかティッシュペーパーを焼鳥の持ち手に巻いて私に手渡した。
「今ね、僕たちが君に憧れているって話をしていたんだ」
早くも焼きそばを食べ終えたトアノが容器を片付けながら言った。
「お前らが、俺に?」
「僕は違うけどね。あり得ないよ」
さして嬉しそうな顔もせずに驚くトキハシにウツギが即座に否定の言葉を放った。
「そんなに否定しなくたっていいだろ。お前、そんなに否定するってことは、もしかして」
私が言わなかったことをトキハシが言うかと思われたその時、彼の名を呼びながら、こちらへ歩いてくる者があった。
「お、待ってました」
トキハシは嬉しそうに机の上に空き地を作り始めた。酒蔵の前掛けを締めた男は手にしていた盆を机の上に置き、トキハシと二、三の言葉を交わすと去っていった。
「ここの隣、酒蔵でな、そこも夜店出してたんだよ。飲まんわけにはいかんだろ?」
トキハシは肯定を求めていたのであろうが、誰もなんとも言わなかった。
「買ったはいいものの、持ちきれなくて困ってたら、そこの若い衆が持ってきてくれることになってよ。ま、一杯ずつならいいだろ? あ、ウツギは甘酒な」
トキハシは盆に乗っていた紙コップを配り始めた。盆の上には小さな紙皿に乗った味噌が添えられていた。私はその酒をひと口飲むなり、それが昨夜、カクが浮雲山房に持ってきたものと同じであることに気がついた。
「そうそう。酒蔵の前でヨウゾウに会ったんだ」
「あら、ヨウちゃん、元気にしてた?」
「ちょっと酔ってたな」
「あの人はよく飲むからな」
「そのうち、何処か悪くしないといいけどね」
皆、そのヨウゾウという人物を知っているようであった。私は浮雲山房を訪れた時、トキハシの口からその名前を聞いたことがあったと思いだした。
「多分、私も知ってるよ。そのヨウゾウさんって人」
「あれ、お前が?」
トキハシは味噌を舐めながら目を丸くした。
「一度すれ違っただけだけどね。背が高くて、白髪交じりの、そう、四十過ぎくらいの人だろ」
トキハシは酒を飲みながら笑った。
「そうだそうだ。多分それはヨウゾウだ。あ、そうか。俺のとこへ来た時にすれ違ってたのか。あいつは苦労人でな。あれでお前より年下だぞ」
一同が気を揃えたように驚いた。
ビールと酒、或いはジュースと甘酒を飲みながら、宴は続いた。私たちの間に話題が尽きることはなかった。
ヨウゾウや彼の友達が浮雲山房にやってきた際の珍事、トアノが旅先で出会ったサンチャゴという年老いた漁師の武勇伝、偶然にもその漁師と同じ名前の少年から聞いた錬金術師の話、オールトの図書館で働くアリスとドロシー、そしてメアリという少女たちの些細な喧嘩に端を発した大事件、トキハシの書こうとしている小説の進捗、トアノの次なる旅先。
あれだけ多かった食べ物がすっかりなくなり、飲み物が底をついても尚、私たちは話していた。
「さ、宴もたけなわってわけだが、そろそろ灯籠流しが始まるぞ。行こうぜ」
トキハシの声に皆が揃って腰を上げた。往生際の悪い私は彼らとの時間を少しでも長らえることができないかと考えていた。
「なんて顔してるんだ、馬鹿」
ウツギが私を小突いた。
私たちは立ち並ぶ夜店を抜け、汝待神社の鳥居に辿り着いた。参道に沿うようにして無数の提灯が灯り、それに照らされながら、多くの人々が行き交っていた。一礼して境内へ足を踏み入れた。
灯籠流しとやらを終えてしまえば、そこで夢から醒めてしまうのだろうという妙な確信が私の内に芽生え、私は皆の四方山話に耳を傾けながらも、何処か心穏やかでなかった。今がかけがえのない時間だと自覚はしていた。しかし、それをどう扱ってよいか分からぬまま、力を入れた手に掬った水が零れてゆくようなもどかしさを抱えていたのであった。
「ご主人」
アリスエが私の隣までやってきて私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。今、この瞬間は永遠に私たちのもの。絶対に消えることはないのよ。安心して。大切にしようと無理をする必要はないの。ただ、貴方は貴方として存在していて」
彼女の視線を、捉えたかった。
「ねえ、主人。聞こうと思っていたことがあったんだ」
トアノが私に何気ない調子で声をかけた。或いはそれはアリスエと同じように、私を不安にさせまいとする彼の心遣いかもしれなかった。
「その着物、確かに君によく似合っているんだけれど、歩きづらくないかい。実は以前、僕も着物を着たことがあるんだけれど、歩くのに苦労した覚えがあるよ」
その言葉で、私は自身が着物を着ていたことを思いだした。
「あら、トアノ。貴方も着物を着たことがあったのね。知らなかったわ」
アリスエが興味深そうな表情をしていた。
「俺の所へ来た時に着たんだったな。確かにお前、あの時なん度も転びそうになってたな」
「そうなんだよ。でも、主人は難なく歩くなと思ってね。何かコツでもあるのかい」
私は少し、反身になって歩いてみせた。
「なんてことはないさ。気にせず大股で歩けばいいのさ」
「でも、それじゃあ着崩れてしまわないかい」
「大丈夫、誰も見やしない。だろ?」
トキハシに笑いかけると、彼は黙って口角を上げた。
「着物、なあ」
ふいにトキハシが立ち止まり、黙って歩いていたウツギを見た。彼の意図が、私にはわかった。美麗なウツギにはどんな着物が映えるかと思案しているのであった。私も同調し、ウツギに視線を向けた。ウツギはそんな私たちを見て明らかに警戒していた。
「なんだよ。二人して」
「淡い青、かな」
ひとつの解答を導きだした私の肩に、トキハシが手を置いた。
「それも分からんではない。でもな、こいつは色が白いんだ。暗い色の方がいい」
「なるほど」
自身を見たまま唸る私たちを見て、ウツギの警戒が嫌悪に変わったようであった。
「なんの話だよ。二人とも気持ち悪いな。さっさと歩け」
彼に急き立てられるようにして私たちは再び歩きだした。




