浮雲山房から汝待神社(2)
私たちが祭りへ出かけようと玄関戸を開けると、立っていた人物があった。下駄にジャケット、帽子を被った待ち杉であった。彼もちょうど戸を開けようとしていたと見え、突然現れた私たちに驚いた顔を見せた。
「おや、これはちょうどよい時に来たようだ」
「待ち杉の爺さん。わざわざどうしたよ」
トキハシの言葉と同じ意図で私は待ち杉を見つめていた。
「そこの者に渡したいものがあってな」
待ち杉は懐へ手を入れると、封筒を取りだした。その中から出てきたのは人の形をした和紙であった。
「さあ、これを」
彼は私にその和紙を手渡した。ひとがたは三枚あり、それぞれに憎悪、慈愛、観測と書かれていた。その文字に私の心はざわめいた。
「これは、なんなのです」
私は最大限の期待を込めて尋ねた。
「まじないを込めて私が作ったのだ。先に神社で会った時に消滅した者の姿を見るお前の顔に憂いを見た。それが気がかりでな。そう長くはもたぬまじないであるが、充分であろう」
その言葉が、この世界がそう長くないのであろうということを私に悟らせた。
「よいか、そのひとがたにはな、お前の内にある感情や思念を纏わせることができる。思いが強い程、明確な姿をもって現れるのだ。ただし、宿らせることができるのはお前の内にあるものだけだ。残念ながら、共に旅をしたという、もうひとりの人物を呼びだすことはできぬ。それでも、よいか」
「ありがとうございます」
一瞬間の落胆を振り払い、食いつくように私は言葉を放った。
「大したことではない。ささやかな礼だ。形式上終わりを迎えるこの世界の創造主に対する、な。今しばらくこの世界を楽しむがよい。では、私は灯籠流しの支度があるで、これで失礼する」
待ち杉はそう言い残すと下駄の音を響かせて石段を下りていった。
「ねえ、トキハシ。待ち杉さんの言うことが本当なら、また会えるんだよ、彼らに」
逸る心を抑えることができなかった。
「あの爺さん、こんなこともできたのか。器用だな。ま、とりあえずやってみろよ」
「分かった」
勢いよく返事をしたものの、私はひとがたを持ったまま固まっていることしかできなかった。
「ええと、どうすればいいんだろう」
そう言いながらトキハシに目を向けてみた。
「いやいや、俺にも分からんぞ」
しばらく、私はひとがたを手にしたまま、頭を抱えていた。一枚ずつしかないひとがたを妙に扱って傷をつけ、まじないの効力が薄れでもしたら大変だと考えているうちに手汗が滲みだしたような気がした。
この手汗で、もしかしたら。
妙な懸念をしているとトキハシが声をあげた。
「あ、そうだ。お前、あれ読んだろ。分離の日」
「君たちが生まれた時の物語だよね。読んだよ」
「なら、あれと同じようにやってみろよ」
なるほどと手を打ち、私は持っていたひとがたのうち、二枚をトキハシに預け、一枚を両手で掲げた。
自らの内に宿る憎悪を、丁寧に汲みあげた。それは理不尽なものを憎む感情。人を忍従の美徳に繋ぐ者を憎む感情。私の創作の根源はそれに通じる。
「私の憎悪を、君に託そう。ウツギ」
夕陽を受けながら私の胸に宿っていた高粘度の情が、ひとがたにまとわりついていった。やがてそれは中性的美貌の少年となって目の前に現れた。
「また会ったね」
さして嬉しくもなさそうな表情で私を見る彼は、間違いなくあのウツギであった。トキハシが感嘆を漏らしながら彼へと近づいた。
「久しぶりだな。元気にしてたか? それにしてもお前、いつ見ても綺麗だな」
にじり寄るトキハシを、ウツギは迷惑そうに押しのけていた。
「止せ止せ。君はいつ会っても気持ち悪いな」
ウツギとの再会に湧き立つ心を抑えつつ、私は二枚目のひとがたを空へ掲げた。
自らの内に宿る慈愛を、丁寧に汲みあげた。それは誰かを慈しむ感情。全ての存在の在るがままの生を肯定する感情。願わくは、私自身をもその目が捉えるようにと祈った。
「私の慈愛を、君に託そう。アリスエ」
私の胸に宿っていた身を融かす程の情が、純白のシルクのようにひとがたに巻きついていった。やがてそれは曲面的な身体つきの女性となって目の前に現れた。
「こんなに早くまた会えるだなんて、思っていなかったわ」
アリスエはウツギとトキハシと私の顔を眺めていた。しかし、その視線が私の瞳を捉えることはなかった。
「よう、アリスエ、いつぶりだ」
「貴方が執筆の資料を探しに図書館に着た時以来じゃない?」
「なら、随分になるな」
たったそれだけの会話で、彼らの旧交は充分に温められたようであった。
「さ、最後だ」
トキハシは私に最後のひとがたを渡した。私はそれを受け取ると、天へと掲げた。
世界を見晴らそうとする、観測者としての渇望を、丁寧に汲みあげた。それは世界に起きていることを正しく知ろうとする心。果てなく、在るべくして在るものを知ろうとする心。万里を踏破し、美醜の全てを観測する意志は留まることを知らない。
「私の観測を、君に託そう。トアノ」
私の胸に宿っていた世界を知ろうとする心が千差万別のネガフィルムとなってひとがたに吸い込まれていった。やがてそれは異郷の装飾品を身につけた旅人となって目の前に現れた。
「やあ、主人。久しぶり、ではないね。その着物、よく似合っているじゃないか」
緩やかに手を振るトアノの姿を見て、堪えていた情動が破裂した。私は気がつくと、彼と握手を交わしていた。周囲ではウツギが、アリスエが、トキハシが、神々しい西日に照らされていた。
「まさか、この世界が残っていたなんて。そしてそこで主人に会えるなんて、思いもしなかったよ」
「ええと、それはね」
何故、彼らとの再会が叶ったのかを口にしようとしたが、それに連鎖するようにして浮雲山房で経験したことが思い返され、私の脳髄はショートしていた。
「これまで君に何があったのか、僕たちはちゃんと知っているよ、主人」
「そうよ」
笑みを浮かべるアリスエの栗色の髪が夕陽の光線と同じような色に見えた。
「オールトの図書館が消滅する時、言ったでしょう? 私たちは貴方の元へ還るって。貴方を通して全て、私たちは見ていたのよ」
「君があんなにも覚醒党員と親しくなるなんて、僕には予想外だったけどね」
ウツギの明確な不満を目の当たりにし、私は悪事を咎められたかのような気になった。
「まあまあ、いいじゃないの。それがご主人の選択だったんだから」
ウツギがそっぽを向くと、それを見たトアノとアリスエが微笑んだ。心の底から望んでいた平穏が、目の前にあった。私はその幸いを噛みしめながら、ひとり、姿の見えない者があることに気がついた。
「あれ、トキハシは」
辺りを見回しながらそう口にした時、家の中から両手に財布を持った彼が現れた。
「金庫の中にあった全財産だ。今日は全部俺の奢りだ」
「あら、いいの?」
「今更置いておいたって無駄だろ? 残さず使っちまおう。さ、そろそろ行くか」
私たちは五人連れ立って祭りへと繰りだした。充分に満ち足りた幸せに、キミの存在だけが、足りなかった。
車道へ出て神社まで行く道すがら、私は四人の会話に耳を傾けていた。私の知らぬところで深まっていたのであろう彼らの関係性を会話の端々から感じ取ることができた。
「そうだ、トキハシ。貴方、図書館で借りた本、そのままにしているでしょう」
「そうだったかな。どんな本だったっけか」
「確か電気工学の本だったわ。貴方のことだから、執筆の資料にしたのでしょう? 私が見た時、ひと月も延滞していたわよ。早く返さないとまた貸出拒否になるわよ」
「うへー。弱ったな。そんな本、借りたっけか。何処に置いたかな。ま、いざとなったらウツギの名義で借りるか」
「嫌だね。前にもそんなことがあって、結局僕まで貸出拒否にあったんだ」
「じゃあ、トアノ」
「僕もごめんこうむるよ」
「えー」
「そういやトアノ、お前しばらく見ない間に耳につけてるやつ、増えてないか」
「お、トキハシ、よく気がついたね。旅先で仲良くなった人がくれたんだ。なんでもその地域ではね、大切な人を送りだす時にはなんらかの装飾品を贈る風習があるみたいなんだ」
「へえ。変わってるな」
「装飾品がその人を守ってくれるって信じられているみたいなんだ」
「あら、素敵な話じゃない」
「でもトアノ。何かにつけてそうやって物が増えると、そのうち君、アクセサリーまみれにならないか。もう既になりかけてるけど」
「ウツギの言うことも、もっともだね。どうしようか」
私は彼らの会話を聞きながら、この世界が明日も明後日も変わらずに在り続けるという錯覚を起こしていた。
神社へ近づくに従って夜店が多くなってきた。橙色の夕日は今や沈みかけ、大気までもが濃い紫に染まっていた。夜店の明かりや発電機の音が際立つ中、人通りが随分と増えていた。夏らしい薄着の男女や自転車を押して歩く学生の集団、手を繋ぎ凹の字のようになって歩く親子、法被姿で巡回をする祭りの役員、浴衣を着た者もかなり多かった。
一定間隔に並ぶ夜店を冷やかしながら、私たちはそんな人々と二度とやって来ない夏の夕暮れを共有していたのであった。この世界がそのうちに消滅してしまう事実を知っているだけに、ただ時の過ぎてゆくことが恐ろしく、私の足が止まった。或いはそれは、時の流出という大原理に対するささやかな抵抗であったのかもしれなかった。
「主人、どうしたの」
私の後ろを歩いていたトアノが何気なく私と横並びになって尋ねた。アリスエはその隣で私の胸中を見抜いているかのような笑みを浮かべていた。トキハシとウツギは何やら話しながら、振り返ることなく人ごみを分けて歩いていった。
「いや何、ちょっと考え事をね。そう。私たちは周りの人の目にどんな関係性に映っているのかと思っていたんだ」
胸の内をありのままに語ったところでどうしようもないと分かっていた。私が再び歩きだすと、二人とも私に歩幅を合わせて歩き始めた。
「うーん。どうだろうね」
咄嗟の出まかせを、トアノは真剣に考えてくれているようであった。
「友達同士か、それでなければ、兄弟、かな」
「あら、いいじゃない。兄弟。存外、的外れでもないわよね。私たち皆、ご主人から生れたんだもの」
アリスエは嬉しそうにしながら、何か考えていた。
「誰が一番上なのかしら」
「それはまあ、主人だろうね」
トアノは人ごみを避けるために身を捩った。
「じゃあ、その次は?」
「生まれた順ならウツギ、アリスエ、トキハシ、そして僕だね。ウツギが長兄だ」
「あら、じゃあ、貴方は一番下なのね。私はトキハシが一番下なような気がするわ。見た目はともかくとして」
「あくまで生まれた順なら、だけどね。僕は皆が兄や姉だっていうのは納得できるな。いや、まてよ。やっぱりトキハシは弟かもな」
そんな話を聞きながら、私は自身こそ、皆の末弟ではないかと考えていた。
「あら、兄弟たち、随分遠くに行ってしまったみたいよ」
「少し、急ごうか」
私たちは足を速めてトキハシとウツギの後を追った。
私たちがトキハシとウツギに追いつくと、彼らはとある夜店に立ち寄り、店主の男性と何か話しているところであった。私がトキハシに声をかけると店主は驚いたような顔を彼に向けた。
「あれ、トキさん。もしかしてこちらの方々も?」
「そうよ。今日は大勢なんだ」
店主は網の上の焼鳥を返しながら、隣に居た女性の方を見た。風に乗ってタレの香ばしい香りを含んだ煙がまともに私の顔を捉えた。
「おい、母ちゃん。いつもひとりのトキさんがこんなに大勢、友達を連れてきたんだと。こりゃ、明日は雨だな」
「俺にも友達くらいいるさ」
店主とトキハシは豪快に笑い合った。
「で、どうする、トキさん。焼鳥、持っていくかい」
「じゃあ、人数分頼むわ」
「よし来た」
トキハシが代金を渡すと、店主は見事な手際で焼鳥を包みだした。その数は明らかに人数分を超えていた。
「タナカのおっさん。多くないか、それ」
「いいさ。サーヴィスだ。持ってけ」
「悪いな。ありがとさん。またな」
店を後にしようとした私たちを店主が呼び止めた。
「あ、お連れさん。トキさんが飲み過ぎないように面倒みてやってくださいな。去年なんか危うく隣町と大立ち回りになるところだったんですよ」
一同の視線がトキハシに集中した。
「まあ、なんだ。生きてると色々あるわな。そうそう。もう少し歩くと休憩所があるんだ。さ、祭りを楽しもう」
夜店の明かりに照らされる彼は、もはや過去を見ていなかった。
「君、あいつの主人だろ。責任もってお世話しなよ」
ウツギが面倒事を私ひとりに押し付けた。その横でアリスエが顔色ひとつ変えず口を開いた。
「彼も、失敗から学んでいるだろうし、大丈夫じゃないかしら。もし危なくなれば、簀巻きにしちゃいましょう」
本当にやりかねない。そんな圧力を彼女の笑みの裏に見た気がした。
「ねえ、トアノ。多分、アリスエって怒らせると怖いよね」
私が声を潜めて尋ねると、トアノは私の耳に顔を近づけた。
「そうなんだよ。以前なんか――」
「トアノ、ご主人」
穏やかな筈の声が、私たちを竦みあがらせた。
彼女の目が光ったような気さえした。
「行きましょう」
「はい」
私たちは人ごみを縫って歩きだした。
「あ、トキハシさん」
しばらく歩くと、とある夜店からトキハシの名を呼ぶ声がした。その声の主を、私は知っていた。
「ジョバンニ。それから、ええと、シムラさん」
ジョバンニの隣に立っていたのは活版所のシムラであった。
「おや、昨日はどうも」
シムラは丁寧に頭を下げた。
「おや、アリスエさんにウツギさん、トアノさんもご一緒ですか。わあ、勢揃いだ」
私以外の者たちのことも知っているようであったジョバンニは、彼らと親し気に話し始めた。彼らとジョバンニとの間をどのようなエピソードが埋めているのか、私は気になっていた。
「せっかくだ、トキ。何か甘味買っていかないか」
シムラの言葉に店の中を覗き込むと、青と白、二色の金平糖が海のように広がっており、その隣には鳥の形をしたチョコレートが綺麗に並べられていた。私の肩越しに、アリスエが興味深そうにチョコレートの鳥たちを眺めていた。
「ねえ、ジョバンニ。これってもしかして鷺と雁の押し葉じゃない?」
それを聞いたジョバンニの表情がにわかに明るくなった。
「やあ、アリスエさんは物知りだなあ。そうです。実は祭りに出すために随分前から鳥を捕る人に無理を言って仕入れていたんです」
「ああ、それなら僕も知っているよ。銀河ステーションで一度食べたことがあるんだ。これ、本物なのか」
トアノは嬉々とした表情でチョコレートを見ていた。
「ねえ、トキハシ、買っていきましょう? なかなか手に入るものじゃないわ」
「へえ、このチョコレート、そんな上等なもんなのか」
トキハシはそう言いながら財布を開けた。
「そして、こっちの金平糖はプリオシン海岸で採れたもので、ごく上等なんですよ」
「じゃあ、それも一緒に買うわ。ね?」
トキハシは頷き、シムラに代金を支払った。
「ジョバンニ、お前、物を売るのが上手いな」
シムラは小さなスコップで金平糖を透明なカップに入れながら、ジョバンニの頭に手を置いた。ジョバンニはチョコレートを包み、孔雀石の飴のおまけと共に私に手渡した。彼は大人びた瞳を潤ませながら、一同の顔を見渡した。
「それじゃあ、皆さん。またお会いしましょう」
彼がどんな気持ちでそう言っているのか、よく分かった。




