汽車から終の町(1)
二 汽車から終の町
幸いにも、汽車は然程混んではいなかった。
そのため、私たち三人は四人掛けのコンパートメントを快適に利用することができた。水晶塔の近くにある駅を出てから、しばらく経っていたこともあり、車窓からの景色は自然が多くなり、建物はその数を減らし、随分と様変わりしていた。しかし、水晶塔だけは依然、神聖な存在感で彼方にそびえていた。私はそんな車窓の風景をぼんやりと眺めていた。
「どうだい。汽車の旅も、いいものだろう」
これまで口を閉ざしていたトアノが視線を窓外に据えたままで尋ねた。
「ああ。そうだね」
流れゆく景色をただ、享受しながら答えた。
「僕はね、汽車の旅ではいつも窓の外を眺めているんだ。空っぽの頭の中に景色が次から次へと流れてくる。それが心地いいんだ」
私が返事をしたきり、再び私たちの間に沈黙が訪れ、汽車の揺れる音と、周囲の乗客の話し声だけが聞こえていた。
汽車は高台を走り、窓からは港に面した町の様子が見えた。赤い屋根の家々が並び、その間では、濃い緑の木々に橙色の果実が実っていた。道路や港は真っ白な色で、太陽光を反射していた。
ねえ、キミ。私たちの住む現実にもこんな景色の場所があるだろうか。地中海に面した地方に、ちょうど、こんな具合の景色がありそうだと思わないかい。
視界の端で水晶塔が太陽光を反射させてチラリと光った。それは、トアノと共に見た水晶塔の発光を想起させ、私は思わず身体を強張らせた。しかし、水晶塔は音を上げるでもなく、ただ、そこに在った。尚も水晶塔を見つめていた私はあることに気がついた。水晶塔は太陽光を反射させている以外にも、内部から自ずと発光しているようにも見えたのである。或る紫色の光は塔の先端近くから、或る黄金の光は塔の中程から、塔は常にその何処かしらをランダムに明滅させていたのであった。
「主人、気がついたかい」
トアノがふいに、私に問いかけた。
「水晶塔は常に、睡中都市における誕生と消滅を感知して輝くんだ。紫の光は誕生を、黄金の光は消滅を意味している。旅に出る前、主人は強大な黄金の光を目にしたね。あれは、睡中都市の存亡に関わる程の大きな消滅があったということを意味しているんだ。これまでだったら、先ず、あり得ないことだ。普段の水晶塔は今、君たちが見ているようにわずか、明滅しているだけさ。この世界は常に誕生と消滅を穏やかな幅で繰り返しているからね」
私とキミはそんなトアノの言葉を聞きながら、明滅する水晶塔を眺めていた。
やがて汽車は緩やかの速度を落とし、とある駅へと入った。トアノは空席に置いてあった荷物を手早くまとめ、膝の上へと置いた。
「念のため、席を空けておこう。アルビレオの駅は人が多いんだ。大きな鉄道会社の路線と連絡しているからね」
トアノの言ったとおり、汽車が完全に停車すると、大勢の人々が乗り込んできた。コンパートメントの外から人々がすみません、失礼、と言い交わしているのが聞こえてきた。
「あの、こちらに掛けてもよろしいでしょうか」
杖をついたひとりの男が私たちのコンパートメントを覗いていた。顔に斑点のある、口の大きな男であった。
「どうぞ、空いていますから」
そう言ったトアノと男の目が合った。
「おや、トアノさん」
「これはこれは。ヨダカさんじゃありませんか。お久しぶりですね」
トアノと顔見知りらしい、ヨダカと呼ばれた男は杖を置き、斑模様のマントを脱ぐと、トアノの隣の席へと腰を下ろした。
「どうもすみません。他に空いている席が無かったものですから」
「いえ、構いませんよ。彼らは僕の主人とその友人です。ああ、二人にも紹介するよ。ヨダカさん。僕の親しい友人なんだ」
私とキミは揃ってヨダカに会釈した。
「これはこれは、初めまして。ヨダカと申します」
彼はそう言うと陽だまりのような笑顔を見せた。
汽車がアルビレオの駅を出ると、周囲に人家はなくなり、トンネルと広い原とが交互に車窓から見えた。遥か後方のアルビレオの駅は高い塔のようになっており、際限なく象牙のような質感で天へと伸びていた。
「ヨダカさんは、これからどちらへ?」
トアノが尋ねた。
「久々に、主人の所へ」
「そうですか。ご主人様は、今、どちらに?」
「ここのところしばらくは、プリオシン海岸の方で住み込んで化石か何か掘っていたようです。ようやく、サウザンクロスの借家に戻ったようですから、これから訪ねてみようと思うのです。久しく会っていませんでしたから、会うのが楽しみなんですよ」
ヨダカは笑みを浮かべながら語った。
「しかし、サウザンクロスまで行くのでしたら、どうしてこの汽車に? アルビレオの駅からは銀河鉄道が出ていた筈では?」
「ちょっと、主人への手土産を買いに、蛍橋まで行くのです。主人はあそこのフローライトサイダーが好物ですから」
和やかな雰囲気の中、汽車の揺れが一定間隔でコンパートメントに伝わってきた。
「飲み物やお菓子はいかがですか。アイスクリームもございます」
小さなワゴンを押した女性がコンパートメントを覗き込んだ。
「や。そうだった」
ヨダカは何かを思いだしたかのように声をあげた。
「私はね。汽車の旅ではアイスクリームを食べるのが好きなのですよ。どうです、皆さんも一緒に食べませんか。ご馳走しますよ」
私たち三人は揃って顔を見合わせた。
「いいんですか」
トアノが尋ねるとヨダカは顔を綻ばせた。
「構いませんとも。座らせていただいたのですから」
ワゴンを押した女性が去っていったあと、私は目の前に置かれたアイスクリームの蓋に大きく描かれている鳥を眺めていた。
ねえ、キミ。この鳥はなんだろう。鶴だろうか。それとも鷺かしら。
「それは鷺ですよ。鷺印のアイスクリームは、うんと上等なのですよ」
ヨダカは両手でアイスクリームの容器を温めるようにして持ちながら私の疑問に答えた。蓋を取ると、チョコレートの色をしたアイスクリームであった。スプーンで食べようとしたものの、それはまるで岩のように硬かった。
「このアイスはとんでもなく硬いからね。ゆっくり温めてから食べるさ」
トアノの方を見ると、ヨダカと同じような格好でアイスクリームを温めていた。
「ところで、皆さんはご旅行ですか」
程よく融けたアイスクリームを食べている私たちにヨダカが声をかけた。
「旅行、といえばそうなんですが。実は、消滅の一件で。主人たちにはさっき、睡中都市に来てもらったところなんですよ」
「ああ。なるほど」
傾きかけ、わずかに色づいた陽が、斑点のあるヨダカの顔に影を生んだ。
「どうか、睡中都市のことをよろしくお願いします」
ヨダカは恭しく、私とキミに頭を下げた。私はキミの隣で、まだ、これをただの夢だと自分に言い聞かせていた。
「今日、大規模な消滅があったのは、ご存知ですか」
ヨダカは暗い面持ちで尋ねた。
「ええ。知っています。あの時、主人と僕は水晶塔の直ぐ近くに居ましたから」
キミも、あの水晶塔の強烈な発光を見ただろう?
「どうやら、私の友人があの消滅に巻き込まれたようなのです。兄さんが知らせてくれました。あの光にカワセミやハチスズメの森が焼かれたというのです。それを聞いて私も直ぐに飛んでいったのですが森のあった場所はそこだけ切り取られたみたく、うろのようになっていました。そこに目を向けても真っ暗な闇さえ見えなかったのです。何も無かったのです」
私の中で、水晶塔の発光と誰かの喪失が生々しく繋がった気がした。
「ああ、そうだ。誰かが言うには、消滅した場所に目を向けても、ちょうど、その場所でだけ己が盲目になったような具合だと。まさしくそうでした。あの森はもはやこの世界からすっかり消えてしまったのだと、ひと目見て、私は悟ってしまったのです」
ヨダカはきっと、泣きたかったのであろう。しかし、彼の疲れ切った心には泣く力すら残されていないようであった。
「このままでは、なんだか私の記憶まで消えてしまうような気がするのです。こんな私のことを兄さん、兄さんと慕ってくれた可愛い彼らの記憶まで、無かったものとして書き換えられてしまうような、そんな気がするのです。だから、私はこれから主人を訪ねるのです。そうして、せめてもう一度、彼らの物語を書いてもらうのです」
言葉もなく、私は項垂れていた。トアノの言ったように、現実に住まう者の、夢を否定する意識がこの世界を書き換えているとすれば、ヨダカの友が暮らしていた美しかったであろう森を消滅させたのは、私たちであった。夢の世界が少しずつ、現実と同じようなひとつの世界として私に認識されようとしていた。
「ヨダカさんのお気持ち、お察しします。しかし、今、この世界で消滅が起こっているのはこの瞬間に現実を生きている人々の意思です。それが変わらない限り、失われた世界やそこに住んでいた者が戻るかどうか……」
トアノは悔しさを滲ませるような表情をみせていた。
「ええ。ええ。分かっています。けれど、分かっていても、何もせずにはいられないのです」
「それでは、私はここで降ります。どうか、睡中都市のことをよろしくお願いします」
そう言ってヨダカは蛍橋の駅で汽車を降りていった。日暮れの迫った陽が、空席に差し込んでいた。消滅により、友を失くしたというヨダカの話が尾を引くようにコンパートメントの沈黙を重苦しいものにしていた。
「ねえ、トアノ」
私は沈黙に堪えきれなくなり、口を開いた。隣に座っているキミは、窓外の景色の何処でもない場所を眺めているようであった。
「消滅はいつ、何処で起こるか、分からないの?」
「それは、分からない。睡中都市の主人である集合的意識の権限が君たち作家個人の権限を超えて作用している今、消滅がどこで起こるかは、分からない。仮に、この睡中都市の誰かがその主人にどれだけ愛されていたとしても、今、この瞬間に存在が消滅してしまうことだってあり得る」
不規則性が、消滅を一層恐ろしいものとして私に認識させた。
「消滅した世界や存在はそれきりなんだろうか。もう一度、新たな創作によって生まれ変わったりしないだろうか」
私は何処かしらに救済を求めて問いかけた。
「もちろん、君たちの創作というのは常に新たな存在を生みだし続けている。でも、今はこの世界そのものに問題が起きているんだ。だから、新たな創作によって一度消滅した者が甦ったとしても、根本的な解決にはならないんだ。人々が、正しく夢と現実の在り方を認識しない限りはね」
昼と夕方の狭間の色をした日光に、トアノは目を細めていた。
「僕だって、今に消えてしまうかもしれない」
日がいよいよ低くなり、辺りが橙色に染められた頃、私たちは名の無い駅で降りた。日の落ちてゆく山影が切絵のようにはっきりとその輪郭を浮かびあがらせていた。汽車の遠ざかってゆく音を聞きながら、私はキミの隣で古い駅名表を見ていた。錆び、割れ、朽ちたそれは、失われたというヨダカの友とその森とを想起させた。彼方の水晶塔は時折明滅を見せながらも、夕陽の色に染まって見えた。
「さあ。ここが僕たちの旅の第一番目の目的地、終の町だ。ここに、主人たちに会ってほしい人がいるんだ」
トアノの後に続いて、私たちは町を歩き始めた。終の町は人の営みから切り離されたかのように朽ち果てていた。歩道は深くひび割れ、建物の窓ガラスはことごとく濁り、或いは割れ、崩れ損なったビルは鉄骨を覗かせながら時を浴び、路傍のバスは赤錆にまみれながらも緑の蔦をその身に芽吹かせていた。背の高い教会が橙色の景色の中、怪物のような影を地面に落としていた。
全てが一日の終わりを告げる夕陽に染められながら人間の定義するせわしない時間の針から解放され、世界と直接紐づいた本来の時の流れに従って美しく死んでいた。夕暮れの大気が穏やかに流動する森閑とした町に、私たちの足音が刻まれていった。
私は言葉を発することすら躊躇し、ただ、トアノの先導に従って歩いた。歩きながら、私はひとつ、予想を立てていた。つまり、荒廃した様子のこの町は今、消滅の直前にあるのではないかと。
「ねえ、トアノ。もしかしてこの町は」
酷くかすれた声が出た。私たちの意思はまたひとつ、世界を消そうとしているのではないか。そう考えると、トアノにその疑問を投げかけることすら恐ろしかった。トアノは歩きながら振り返った。
「大丈夫だよ。心配いらない。この町は何も、これから消えてしまうからこんな様子なんじゃない。ここはそういう場所なんだ。本当に消えてしまう時は一瞬さ。こんなにゆっくりと朽ちてゆくことなんてないんだ」
トアノの言葉は寸時、私を安堵させたものの、根本にあった恐怖を拭うことはなかった。
「この町にはね、終末に近しい創作によって生まれた者たちが集っているんだ。荒廃した町、人の営みの残骸というものは何処か、作家のインスピレーションを刺激するのだろうね。そして、創られた者たちの心も魅了する。僕も、この町が好きだ」
茜の空は一日の終わりを惜しむように、日が沈むことを堪えているようにも思えた。
キミもこんな景色からインスピレーションを受けるということがあるかい?