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睡中都市  作者: 時津橋士
29/33

浮雲山房から汝待神社(1)

 八 浮雲山房(うきぐもさんぼう)から汝待神社(なまちじんじゃ)


「おーい、そろそろ起きろよ」

揺さぶられて目を覚ますと、私はまだ、浮雲山房(うきぐもさんぼう)に居た。

「え、今、なん時?」

寝ぼけ眼でトキハシの方を見ると、彼は寝癖(ねぐせ)をつけたまま歯を磨いていた。

「昼過ぎ」

「わあ」

昨夜はかなり飲んだつもりでいたが、酔いは残っていなかった。私はトキハシと同じように歯を磨いてから、彼と並んで縁側に掛けて煙草を吸い始めた。

 ふと、私は()ることを思いだした。

「あ、財布」

「財布?」

トキハシは忘れているようであった。

「チヨ(ばあ)の所に忘れてきた財布だよ。取ってくる」

それを聞いたトキハシは煙草を揉み消し、立ちあがった。

「ああ、そういやそうだったな。じゃ、行くか」

「え」

進んで外出しようとする彼の様子に、私は少し驚いた。トキハシはいかにも面倒な様子で寝癖を直すというよりは誤魔化し、着物を着かえ始めた。

「あ、そうだ、ほれ」

彼は箪笥(たんす)からひと組の着物と帯をまとめて私の方へと投げた。

「せっかくだ、お前も着替えてけ」

生れて初めての着物を手にしたまま、私はどうしてよいか分からず、固まっていた。

「どうした。もしかして着たことないのか」

トキハシが帯の結び目を背中に回しながら私の方へ顔を向けた。

「うん」

「手がかかるな」

彼は笑いながら着付けに手を貸してくれるのであった。


「暑いな、今日も」

私たちが外に出ると、昨日に変わらない真夏の日差しが照りつけていた。胸元を(あお)ぐトキハシの後ろで、私は和装がここまで歩幅が制限されるものかと歩行に苦労していた。

「ちょっと、待ってよ、トキハシ」

「どうした。もっと大股で歩いたらいいだろ? 着崩れたって、誰も見やしないさ」

「そうは言っても」

歩くのに苦労しながらも、私は密かに()ることに期待を寄せていた。つまり、私とトキハシが(そろ)って着物姿で駄菓子屋を訪れたら、チヨ婆はどんな顔をするだろうかと。そっくりだ、などと目を丸くするのではないかと考えると、彼女に会うのが楽しみになってきた。


「ん? ちょっと待て」

私がようやく歩行に慣れ始めた頃、トキハシが立ち止まった。

「二度目じゃないか」

そう言う彼の視線の先にはシムラ活版所の看板があった。

「二度目って、どういうこと?」

「ここ、さっきも通ったろ」

「そうだっけ」

トキハシは黙って足早に歩きだした。

「いいか、よく覚えてろよ。俺たちは今、活版所を過ぎたところだ」

炎天下、警戒しながら歩みを進めていると、やがてトキハシが声をあげた。

「ほら、見ろ」

彼の指す方に目を凝らすと、通り過ぎた(はず)の活版所の看板が見えてきた。

「トキハシ、どういうことだろう」

彼は私の疑問に答えることなく、活版所の方へと歩きだした。私は疑問を抱えたままで、彼についてゆくしかなかった。

 活版所を再び過ぎ、民家を三つ四つ過ぎたところで、トキハシは足を止めた。

「ここか」

「ここって?」

疑問を向ける私の方を見るでもなく、彼は来た道を指した。

「向こうから歩いてきてみろ。俺の居る辺りで景色が変わる筈だ」

私は言われたとおり、来た道を戻り、トキハシの方へと歩き始めた。周囲の景色に集中しながら、一歩ずつ、歩を進めた。ちょうど彼の立っている辺りに差しかかった時、確かに景色が切り替わった。空の色や歩道の様子、民家の外見が似通っているために分かりづらかったものの、唐突に景色が切り替わったのであった。

「な、分かったろ。この辺りが世界の(ふち)だ」

「世界の縁?」

「前に、この世界はもう長くないって言ったろ。縁から少しずつ、一枚の紙が燃えるようにして世界が消滅していってるのさ。そして今、ちょうどこの辺りまで消滅が迫ってるってことだ」

その事実に、私は恐怖を思いだした。

「じゃあ、この先のチヨ婆の店は」

「もう、消えたんだろ」

日差し、晴天、入道雲、時折通る自動車。何処(どこ)までも日常的な光景がかえって奇妙で、私の恐怖心を(あお)っていた。


 浮雲山房に戻ると、トキハシは道中の小さな商店で買ってきた煙草の封を切った。

「チヨ婆の所で買おうと思ったんだけどな」

「消えちゃったね」

「ああ」

「財布、ごめん」

「いいさ」

喪失感(そうしつかん)と共にこの世界の消滅が間近に迫っているという事実が、私の心をかき乱していた。それから逃れるように私は別段吸いたくもない煙草に火を点けた。煙を吸い込むと、先端の紙の焦げ跡が広がった。

「いつまでもつのかな、この世界」

「さあな。まあ、夜まではもつだろ。祭りは楽しめるさ」

「どんな祭りなの」

何か、話していなくては落ち着かなかった。トキハシは輪の形に煙を吐いた。

「神社までの道によ、ずうっと夜店が並ぶんだ。さっき寄った商店のおっさんも店出すんだ。あのおっさんは毎年、かき氷だな」

「へえ。他には?」

「メインイベントは灯籠(とうろう)流しだ。待ち杉の爺さんが居た所あったろ? あそこに集まって、祈りを込めた灯籠を流すんだ」

「流すって、何処(どこ)に?」

「空」

「へえ」

吹き込んできた風に、風鈴が音をたてた。

「いいもんだぞ。夜空に向かって、たくさんの灯籠が昇っていくんだ」

「見てみたいな」

「見られるさ。今夜」

その言葉を、何処まで信じてよいか、分からなかった。


 しばらく、私たちは居間に座ったまま、庭を眺めていた。晴天に湧く入道雲は見事で、世界の消滅が迫っているとは思えない程壮大であった。

「ねえ、何処か行かない?」

煙草を吸うのにも飽き、また、それだけでは心の平穏を得ることはできないと悟った私は、そう、トキハシに持ちかけた。

「何処かって?」

「そりゃ、分からないけど。何処かないの? 夜まで時間を潰せそうな所」

「なんにもない町だからな。またザリガニでも釣りに行くか?」

「えー」

やがて煙草を吸い終えたトキハシは立ちあがって押入れを開け、何かを探しているようであった。

「お、あったあった」

髪に埃を付けた彼は大きな碁盤(ごばん)を抱えて戻ってくると、それを縁側へ置いた。

「暇つぶしに碁でも打つか」

「ルール知ってるの?」

私は碁盤を前にしながら尋ねた。

「いや、知らない」

「じゃあ、駄目だよ。私も知らないもの」

「いいんだよ、知らなくても」

彼は台所へと歩いてゆき、やかんと湯のみを持って戻ってきた。

「さ、麦茶は飲み放題、日暮れまで時間はたっぷり、始めるぞ」

彼は私に丸い容器を渡した。中を(のぞ)くと白い碁石が詰まっていた。

「始めるって、どうやって」

「ルールは単純だ。交互に石を置いていくだけ。ただし、できるだけ無秩序(むちつじょ)にだ」

「勝ち負けはどう決めるの?」

「そんなものは無い」

「トキハシはやかんから湯のみに麦茶を注いだ」

「始めるぞ、そら」

碁盤の中央に黒い碁石が置かれた。私は戸惑いながらもその隣に白の石を置いた。

「お、そう来るか、なら、ここだ」

彼は碁盤の隅に石を置いた。

「ねえ、このゲーム、なんなの?」

私は彼が置いた石の反対側に石を置いた。

「今は石を無秩序に置くことだけ考えろ。何って程のものじゃない。俺が考えた。たまにやるんだ」

「誰と?」

「ひとりで」

「ひとりで?」

石を置こうとした手が止まった。トキハシという男は私が予想していたよりも遥かに変な人物であるようだった。

「変な顔するなよ。たまにだ、たまに。執筆に行き詰ったときとか、やるんだ。いいか。表層の思考ってのはな、(いく)つも同時にできるもんじゃない。考えたくもない(はず)のことを考えると、表層の思考がそれに占拠(せんきょ)される。だから別のもので思考を塗り替えるんだ。本当に大事なことは、そうしてる間に深層の思考で処理されてる。安心しろ。あ、そこ、白が三つ繋がってるな。無秩序じゃない」

トキハシが盤上の石を私に返した。

「じゃあ、ここ。トキハシってさ、ちょっと変だね」

変だと言われた本人は(まゆ)(ひそ)めるでもなく、何処か誇らしげにすら見えた。

「そうか? あれだ。作者に似たんだよ、きっと。そら」

トキハシが石を置いた音が、涼風に掻き消えた。

「ま、作家なんてのは少し変なくらいがちょうどいいのさ。それに、お前もそこそこ変だからな?」

「そうかな。あ、トキハシ、黒が三つ、繋がってる」

「ああ、そうだな」

「無秩序にならないよ」

「これでいいんだよ」

彼は腕組みをしたまま、涼しい顔をしていた。

「でも、さっき、白が三つ繋がってるって言って私に石を返したろ?」

「なんか、さっきとは違うんだな。一見秩序に見えるのも、やっぱり無秩序なんだ」

「そんなこと言い始めたらなんでもありにならない?」

「なんでもありなんだよ。直感に従え」

やはり、彼は少し変であった。

 しばらくの間、私たちは互いの打つ手に難癖(なんくせ)をつけながら、そのゲームを続けた。私は次第に無秩序のあり方に表層の思考を埋められていった。時折、世界の消滅を思いだすこともあったが、直ぐにそれは思考から消え去るのであった。

 (ばん)が石で埋め尽くされると、トキハシは感心したようにそれを眺めてから片付け、再びゲームは振出しに戻って再開された。麦茶を飲み、庭に出て身体をほぐし、時に持つ石の色を変えて、私たちは幾度となくゲームを続けた。


「思考も言葉も、人にとっては牢獄(ろうごく)になり得る」

トキハシが盤に目を据え、石を置く場所を思案しながらそう(つぶや)いた。

「なんとなく、分かるよ」

私はこれまでの旅路を思い返していた。

「それを知ってるってことは、お前にとって幸いだ。だけどな。お前は人より(とら)われやすい。言葉にも、思考にも」

力強く、彼が打った石が細かく震えていた。彼はまだ、盤から目を上げようとしなかった。

「これはこうしなきゃいけない。こうあるべき、これをすることが自分の使命、何を捨ててでもそれを成し遂げる。皆、そいつにとって牢獄になるだけだ。そんな狭苦しい中で人生を過ごすなんて、つまらないと思わないか。ま、この言葉も牢獄といえば牢獄か」

彼がようやく碁盤から顔を上げると、吹き込む風。それに庭の木がざわめいた。

「今のお前を閉じ込めてる大層な牢獄の名が分かるか」

私は右手に石を持ったまま、答えを探していた。頭に浮かんだのは常夜ヶ原で私を拘束していた文字列であった。

「睡中都市だ」

彼が口にしたのは私にとって牢獄ではなく、心のよりどころであった。そしてそれは、私の表情から容易に察することができたようであった。

「意外か? そうでもないだろ。お前はまだ、昨日、俺とザリガニを釣った時のままだ。この世界を救わなきゃだとか、なんとしてでも人に知らせて再興(さいこう)するだとか、どんな代償(だいしょう)を払ってでも書くだとか考えてるんじゃないのか」

全て、覚えがあった。

「だからこそ、お前はこの世界の消失を前にして、そんなに(おび)えてるんだ。もちろん、トアノがお前を今回の旅に誘ったことも、ウツギやアリスエとお前が出会って何かを思いだしたことも、否定するつもりはない。でもな、この世界のことは、あくまでもお前にとって選択肢のひとつにすぎないってことだ。乱暴にいえば、どうでもいいことなんだ」

「そんなことはない。今の私にとって、この世界は大切で、だからこそ、失くしたくない場所なんだ」

咄嗟(とっさ)に、私は否定した。

「ほらな、やっぱり、今のお前にとって睡中都市は牢獄だ。考えてみろ、お前は本当はあっちに生きてるんだ。睡中都市の作家として生きる以外にも、選択肢は腐るほどある。本当にそれを切り捨ててまで、救う程のものか、この世界は」

「当たり前だ。決めたんだ。私は夢に生きるって」

「頑固だねえ」

トキハシはあきれたように首を振った。

「ま、覚えとけ。睡中都市に捕らわれる必要はない。いつかお前が作家以外の道を歩むことになったとしても、それは別に悲観する事でもない。牢獄(ろうごく)の外は、お前が思ってるよりも心地いい場所だ」

トキハシは煙草に火を点けながら、盤上を指で叩いた。早く置けと言うことらしかった。私はさして考えもせず、石を置いた。

「お、いい手だ。そうくるか」

どういうわけか、トキハシはゲームが始まってから一番の関心をみせていた。

「いいか、もう直、睡中都市の燃えカスであるここも、完全に消滅する。もしかしたら、しばらくお前と俺が対面することはないかもしれない。でもな、俺たちはずっと居るんだ。存在ってのはお前が考えるよりもずっと強い概念だ。誰かが否定しても、大勢が否定しても、お前たちの世界が滅んでも、宇宙が消えても、もはやお前が否定しても、この世界の存在は消えない。それが本当の意味での存在だ。こっちは気楽にしてるから、お前も気楽に生きてろよ」

トキハシは力強く石を置いた。


 私とトキハシは日暮れ近くまで碁を打ち続けた。私は彼に、これまでの旅の思い出を語った。(ある)いはそれは、私が思い出を消さぬように心に刻んでいたのかもしれなかった。睡中都市という牢獄から出ることは、私にとってはまだ、恐怖でしかなかった。トキハシはそんな私の話に黙って耳を傾けていた。

 最後のゲームを終えた時、盤上には見事なまでの無秩序で石が並んでいるように見えた。

「結局お前は、体験すべきことを正確な順番で体験したんだろうよ。全てには、壮大な意図がある。きっとそれは、お前をガイドしたトアノすら知り得なかった宇宙の意図だ。なんて言うと、ちょっと胡散(うさん)臭いか」

トキハシは照れたように笑った。

「俺にはそんな気がする。そして、睡中都市の消滅もまた、意図に含まれてる。この先は、きっと、試験だな」

「試験?」

私はその言葉を旅路で聞いたことがあるのを思いだした。

「お前は常夜ヶ原(とこよがはら)憎悪(ぞうお)の試験を突破して、オールトの図書館で慈愛(じあい)の試験を知った。そして睡中都市が消滅して、お前がどう生きるのかが次の試験だ。解答を知ってても、お前が実感を伴って理解できなければ意味がないことくらい、もう分かってるだろ。なあ、お前はこの世界の消滅の後、どう生きるよ」

彼の忠告を聞いていただけに、()ぐにでも睡中都市の物語を書く、とは言えなかった。とはいえ、それ以外の回答も思いつかず、私は思い悩んでいた。

「ちょっと悩ませすぎたか」

トキハシは困ったように頭を掻いていた。

「ニュートラルに生きてろよ。執着(しゅうちゃく)を捨てて生きてれば、お前にとって相応(ふさわ)しい場所に運命はお前を導く。これが妄想か真理か知りたければ、適当に生きてみろ」

トキハシはやかんに少しばかり残っていた麦茶を飲み干した。

「さ、行くか」

縁側に差し込む陽が、色づいていた。

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