鏡門から浮雲山房(6)
「それでね、タケウチさんの息子さんが手伝ってくれることになりましてね。おかげで大助かりですよ」
「ほう。あの息子がよくもまあ。変わるもんだな」
二人の話に耳を傾けながら、私はカクの持ってきた酒に舌鼓を打っていた。辛口のすっきりとした酒で、水のように幾らでも飲める味であった。これは美味い酒には違いないが、飲み過ぎる酒だと思う一方で、夢の中でも二日酔いになるのであろうかなどと考えていた。
「あ」
「おやおや」
会話の途切れた二人が揃って覗く寿司桶はついに空になっていた。
「つまみがなくなったか。まあ、心配するな。でかいスルメがあるさ。ちょっとコンロで炙ってくるわ。それまでは二人で駄菓子で飲んでろ」
トキハシは駄菓子の袋を私に放ると空になった寿司桶とスルメを抱え、上機嫌で台所へと歩いていった。
それを見送った私とカクは互いに会話のきっかけを探っていた。
「ご主人様は――」
「あ!」
カクが何かを言い始めた途端、台所からトキハシの声がした。私とカクが立ちあがって台所に行くと、彼はザリガニの蠢くボウルを持って立ち尽くしていた。
「すっかり忘れてた、こいつらのこと」
日本酒の酔いが回り始めた頭には、そう言いながら困った表情を浮かべるトキハシの姿が、何処か可笑しかった。
「ザリガニなんて、何処でとってきたんですか」
カクが興味深そうにボウルの中を覗き込んだ。
「昼間、田圃でこいつと釣ってきたんだよ」
「何処の田圃です?」
「タカハシのおっさんのとこ」
「ああ、あそこなら安心ですね。タカハシさん、農薬使いませんから。食べるんですか、それ」
カクの問いかけに、私とトキハシは唸った。既に数匹のザリガニが狭いボウルの中で生涯を終えており、なんとかせねば、彼らに申しわけがたたなかった。
「だな。食うか」
トキハシの提案に、私は黙って頷いた。
「では、私にお任せを」
カクがスーツの袖をまくりながら名乗りでた。
「カクさん、料理できるの?」
そう問いかけた私は、自身が初めてカクの名を呼んだことに気づいた。
「ええ、お任せください。ザリガニくらい調理できないとあっては、任務に殉じた覚醒党員たちに顔向けできません」
胸を張る彼が続けて小さく呟いた言葉を、私は聞き逃さなかった。
「まあ、私、顔無いんですけど」
堪える間もなく、笑いが噴きだした。カクと私の間にあった全てのわだかまりが、たったひと言のジョークで笑いへと変換されてゆくような心地よさすらあった。もはや何もかもが可笑しく、笑っているうちに、つまらぬもの皆投げ捨てたいような気がした。カクと私の精神的な距離は急激に接近したのであった。
そんな私をトキハシは驚いた顔で見ていた。表情の読めぬカクも、恐らくは同じであった。
「そんなに笑うか?」
「ごめんごめん。ちょっと、止まらなくて。カクさん、面白いね」
笑いの止まらない私の横で、トキハシは首を傾げ、カクは照れたようなそぶりを見せていた。
「さて、どうしましょうかね、これ」
ようやく私の笑いが収まった頃、カクは腕組みをしてボウルのザリガニたちと対峙していた。
「茹でりゃあ、食えるだろ」
酔いの回ってきた様子のトキハシは呑気に欠伸をしていた。
「とはいいましてもね。今日とってきたんでしょう、この子たち。本当は泥抜きをして臭みを取った方がいいんですけどね」
「泥抜きってどれくらいよ」
「二、三日ってところですかね」
「二、三日? 駄目だ駄目だ。こいつらの臭みが取れる前にこの世界が終わるぞ」
「ですよねえ」
スケールが大きいのか小さいのかよく分からないやりとりの後、しばらく考えていたカクはやがて手を叩いた。
「よし。味噌汁にしましょう。臭みは味噌がなんとかしてくれるでしょう」
「お、味噌汁か。いいな。飲んだ後の味噌汁は格別だからな」
トキハシは酒飲みらしく賛同し、私も頷いた。
カクは早速、鍋に湯を沸かすと、そこに入念に水洗いしたザリガニたちを入れた。黒みがかっていた彼らは次第に真っ赤に色を変えた。
「おお、いよいよエビだな、こりゃ。美味そうだ」
「どうですかねえ。あ、ご主人様、その換気扇回してくれます?」
カクはてきぱきと動きだした。
「トキハシさん、お味噌、何処です?」
「そっちの戸棚にないか」
「ありませんけど」
「え、あ、じゃあこっちだ」
「そうだ、わかめとかお麩とかありません?」
「俺の住んでる家だぞ。味噌があっただけ幸いだ」
「ですよね」
「ほら、ネギもいれとけ」
「え、これ、本当にネギですか? 枯れてません?」
「大丈夫だよ。多分。臭み消しだ」
「いつのネギです?」
「さあ」
「じゃあ、あとはよそうだけですから、お二人は居間で待っていてください」
トキハシと居間で酒を飲みつつ待っていると、カクが椀に入った味噌汁を持ってきた。
「はい、できました。ザリガニの味噌汁です」
真っ赤なザリガニが椀からはみ出して盛られている様は、いかにも豪勢な料理のようであった。
「おお、なかなか様になってるな。お先にいただき」
トキハシは先陣を切って味噌汁へ口を付けた。
「むへ」
私とカクが見守る中、彼は椀を口から離し、妙な声を出した。
「どうしたの?」
「不味かったですか」
トキハシはものも言わず、湯のみの酒を呷ると、手真似で飲んでみろ、と促した。
恐る恐る、ひと口飲んでみると、別段、普通の味噌汁と変わらないように感じた。さてはトキハシに揶揄われたかと思った刹那、私の口腔内に田圃が広がった。景色としての、のどかな田圃ではなく、灰色の泥を湛えた、淀み切った真夏の局所的な田圃であった。ザリガニたちは死して尚、自らの故郷の有り様を雄弁に語っていたのであった。
「うへえ」
私も思わず、トキハシと同じように酒を呷ろうとしたが、湯のみに酒は幾らも残っていなかった。すかさず、カクが注いでくれた酒を一気に飲み干すと、口内の田圃が薄らいだ気がした。カクは味噌汁をひと口飲んだきり、机に肘をついたままの姿勢で項垂れ、動かなくなった。
「やっぱり、泥抜き、大事ですね」
静まり返る室内で、皆が一様に疲弊していた。
数刻の後、焼きあがった巨大なスルメを肴に酒盛りは再開された。ザリガニの味噌汁が不出来であった笑い話から、会話は方々へと分岐し、何でもない酒盛りが展開される中、ふと、カクが口を開いた。
「それにしても、トキハシさん、ご主人様。私は嬉しゅうございます。この世界が消えてしまう前に、こうして楽しく、酒を酌み交わすことができたのですから。ご主人様。覚醒党員である私を拒絶することなく、対話してくださり、ありがとうございます」
「いいってことよ」
何故か、トキハシが答えた。私はなんと答えてよいか分からず、手にしていたスルメを弄んでいた。
「私が言うのもおかしなな話かもしれませんが、きっと、睡中都市は再興されるだろうと思います。私は睡中都市のほんの一部であるこの町しか知りませんが、貴方がたの創作が、たった一度の消滅でそれきりになってしまうようなものだとは、どうしても思えないのです。嗚呼、再興が果たされた時、私はどんな姿に生まれ変わっているのでしょうか」
縁側から見える月を、カクは眺めていた。私は再興された睡中都市に覚醒党員が存在していないのではないかという残酷な考えを口にしなかった。
「ご主人様」
私の視界の中心部分がなくなった。カクと目が合ったのであった、
「今、新たな睡中都市に私たちが存在する余地があるのかと、お考えになったでしょう?」
見破られ、私は白状した。
「恐れ入ったよ。悪かったね、そんなことを思ってしまって」
「いいのですよ」
カクはゆっくりと酒を虚無に流し込んだ。
「私は次の世界にも、必ずや我らは存在していると確信していますよ」
「どうして?」
「私たちはそういう存在だからです。ご主人様。私の核が、お分かりになりますか」
トキハシが音をたてて湯のみを置いた。
「カクの核ってか」
ひとりで笑う彼は酔っているようであった。私たちはそれを愛想笑いで誤魔化した。
「ええと、私の核、というよりも、覚醒党員の核です。私たちは皆、同じ核を持って生まれたのです。お分かりになりますか」
「よし、当ててみせよう」
私は持っていたスルメを食べ、酒を飲んでから、脳内の覚醒党員の情報をかき集めた。
彼らはどんな存在だ? 夢を消し去り、私たちを現実へ帰す存在。或いは間違った現実を認識させ、夢を捨てさせる存在。ならば。
「現実?」
「違います」
「じゃあ、消去」
「残念」
「虚構?」
「それも違います」
「じゃあ、破壊だろう」
「そんな物騒な言葉じゃありませんよ」
早くも手詰まりであった。今、キミが隣に居るならば、二人でこのゲームに挑みたかった。
「では、ヒントです。もっと一般的な言葉です。誰しもが一度は口にしたことのある言葉ですよ」
ヒントを与えられている筈が、余計に分からなくなってきた。
一般的で、誰しもが口にしたことのある言葉。それでいて、覚醒党員の存在の核になり得る言葉……。夢を、書き換える。改ざんする? もっと一般的な言葉に違いない。書き直す。上書き? 嘘? いや、違う。
「随分、お悩みですね」
スルメを虚無で食べる彼はきっと、笑みを浮かべていた。
「きっと、ご主人様は覚醒党員の行動に注意を向けすぎているのではありませんか。それら皆、手段にすぎません、どうして覚醒党員はそんなことをするのでしょう」
そうだ。ひとつのことに捕らわれてはいけない。オールトの図書館で恋人たちに教えてもらったことだ。もっと、広く考えなければ。
「さて、大ヒントです。この睡中都市での出来事を、ご主人様の内面で起こっていることと捉えるのです。広義の創作、つまりは人の生において、常に付きまとい、達成や成就への夢を消し去ってしまう感情。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、まだありもしない状況を創りあげてしまう。そんな感情の名前は?」
嗚呼、解答はこんなにも単純だったのだ。
「不安?」
「大正解です」
カクは小さく拍手をした。
「私たち覚醒党員は人々の不安を核にしているのです。不安とは強力なもの。在りもしないゲンジツを生みだし、描いた理想を無で塗り替えることも容易いのです。しかし、それは決して悪いものではありません。人々が正しく現実を見ようとする姿勢なのですから」
カクは湯のみに残っていた酒を飲み干した。
「きっと、ご主人様はこれからも、広義の創作を続けることでしょう。その時、いつでも私たちはそばに居ます。貴方様がしっかりと現実を見ることができるようにね。これからも、よろしくお願いします」
いつの間にか、トキハシはいびきを立てて眠っていた。
部屋を片付け、トキハシに布団を掛け、台所で洗い物を済ませると、カクは帰っていった。
布団に入り、横になっていると、果たして夢の中でも眠れるものだろうかと疑問が浮かんだ。私はトキハシのいびきから逃れるようにして寝返りを打ち、縁側の方を向いた。月明かりが音もなく降り、庭の木や草をかすかに照らしていた。今日の出来事を思い返しているうちに、私は自身があれだけ憎んでいた覚醒党員と酒を酌み交わしたという事実に驚いた。
「ウツギが今日の様子を見たら、なんと言うだろう。私のことを軽蔑するだろうか、或いは、なんとも言わないだろうか」
そんな独り言から思考は広がり、私は今日の席に彼らが居たらどれ程愉快であっただろうかと想像した。
トアノならば、幾らでも旅の話を面白おかしく聞かせてくれるだろう。アリスエは、どうだろうか。案外、彼女みたいな人物が大酒飲みでいつまでも酔わないまま、トキハシなんかの面倒をみているのではないか。ウツギは、まさか飲まないだろうな。皆の会話に混ざるという姿も想像できない、隅の方でピーナツでも食べながら黙っているのではないか。いや、こんなことを言っては怒られるかしら。そして、キミ。私と同じ世界から来て、いつの間にか一緒に旅をしていたキミ。キミは今、何処に居る? トアノはキミのことを読者だと言った。キミが読んでいる物語を、まだ、私は完成させていないのだ。時間すら越えてきたキミと、もう一度語り合うことができたなら。そんなキミが、もし、今日の場に居ればどうだっただろう。
虫の声を聞きながら、勝手な妄想を繰り広げているうちに、私は夢の中で、眠りに落ちていた。
夢の中で、焼け落ちたオールトの図書館が星月夜に照らされていた。




