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睡中都市  作者: 時津橋士
26/33

鏡門から浮雲山房(4)

 私が戻ると、トキハシは白い浴衣(ゆかた)を着て、居間(いま)で大の字になって寝転がっていた。

「ただいま。これ、お土産」

私は駄菓子の袋をトキハシの頭の横へ置いた。

「サンキューな。チヨ(ばあ)の店行ってきたのか。あと、何処(どこ)か行ったか」

彼は微動(びどう)だにせず、口だけ動かして(たず)ねた。

汝待(なまち)神社ってとこ。待ち杉さんに会ってきた」

「ほう。あの(じい)さんに会ったか。そりゃ、良かった」

私は動く気配の無いトキハシの(かたわ)らに腰を下ろした。

「トキハシ、いつ帰ってきたの」

「ついさっきだ。ずっと活版所に缶詰めにされてた。活版所発行の会報の記事とそこに()せる連載(れんさい)小説、来月分と再来月分、合わせて六万字だぜ? 誰がそんなクソ長い会報読むんだよ」

トキハシはそんな文句を言いながら起き上がると、机の上にあった煙草を取り、火を点けた。私もつられて駄菓子の袋から買ってきた同じ銘柄(めいがら)の煙草の封を切った。

「お、お前も買ったのか。やっぱ、これだよな」

縁側から、いよいよ見事に色づき始めた夕焼けの色が入り込んできた。それを見ながら、私たちは無言のまま、並んで煙草の煙を吐いていた。遠くの方で絶えず、ひぐらしが鳴いていた。哀愁(あいしゅう)のような、惜別(せきべつ)のような響きが、世界に染み渡るようであった。


「あ、そうだ。お前、風呂入ってこいよ」

何本目かの煙草を吸い終わったトキハシが蚊取線香に火を点けながら言った。

「風呂か」

「今日、汗かいたろ。そのまま寝るつもりか。着替えは出してるから、入ってこい。まさか俺の入った後の湯船に浸かるのが嫌だなんて言わんだろうな」

脱衣所に入ると、浴衣と部屋着の(あい)の子のようなものが乱雑に置かれていた。それを(また)ぎ、私は服を脱いで風呂場へと入った。

シャワーを浴び、湯船に浸かっているうちに、明瞭(めいりょう)な意識を持って日常的な行動をしている今が夢の中だとは信じられなくなってきた。そればかりでなく、もしかしたら、私は本来この世界に生きている人間なのかもしれないと本気で疑い始めた。夢と現実が実は正反対に錯覚されていたのだと聞かされても、今なら素直に信じることができた。

 私がハイブリッド浴衣に着替え、居間へ戻るとトキハシは先程までと同じ場所で煙草を吸っていた。

「いいお湯だったよ」

「だろ」

私は髪を()きながらトキハシの隣に座った。蚊取線香の香りが鼻孔に触れた。

「あ、そうだ。ん」

彼は雲が濃く影になっている暗い夕焼けを眺めながらこちらへ手を出した。

「ん?」

「財布財布。お前に渡してたろ?」

「財布……」

血の気の引く思いがした。脱いだズボンのポケットにも、もちろん駄菓子の袋にも、財布を入れた覚えはなかった。

 最後にあれを使ったのはいつだ。神社ではない。となると。

「ごめん、トキハシ。チヨ婆の店に置いてきた。取ってくるよ」

焦って飛びだそうとする私をトキハシが引き止めた。

「ああ、いい、いい。チヨ婆の所なら、明日取りに行けばいいさ」

彼は呑気(のんき)に欠伸をしていた。

「でも」

「いいんだよ。今から行ったって、チヨ婆、もう店閉めてるだろうよ。それより、腹減ったな」

ものに動じないのか、ずぼらなのか、彼は財布よりも空腹が優先しているようだった。そんな様子を見ていた私に、彼の空腹が移ってきたような気がした。

「何か冷蔵庫にある? 私が作ろうか」

ささやかな贖罪(しょくざい)のつもりで私はそう提案したが、彼は手を振った。

「いや、いいんだ。もう頼んである。そろそろ持ってくるだろ」

トキハシがそう言った途端、表から声がかかった。

「まいど。蓮見(はずみ)寿司です」

「お、来た来た。はい、ご苦労さん」

トキハシは押入れの金庫を開け、新しい財布を取ると、そそくさと玄関へ歩いていった。


「お寿司様のご到着だ」

彼はそう言いながら大きな寿司桶を持ってきた。机にそれを置くと、他に物を置くスペースはほとんど残されていなかった。(おけ)(のぞ)き込むと、マグロ、タイ、ヒラメ、コハダ、イワシ、イカ、タコ、三種類のエビ、タマゴ、ツブ貝、カニミソ、イクラ、かっぱ巻きなど、私の好きな物しか入っていなかった。

「悪いな。俺の好きなものばかりだ。食えないものがあったら、食ってやるよ」

トキハシは冷蔵庫から取りだした缶ビールを私に手渡しながら笑った。私はそれを受け取りつつ、思わず()きだしてしまった。

「なんだよ。そんなに笑うことか?」

トキハシが不思議そうな顔で腰を下ろし、私たちは乾杯した。


「それでね、チヨ婆が言うんだよ。兄弟みたいだって。私たち、似ているらしいよ」

私がマグロを口に入れながら言うと、エビを(つか)もうとしていたトキハシの手が止まった。

「俺とお前が? そうかあ」

数刻前まで鮮やかだった夕焼けは今、幻想的な紫へと変じていた。穏やかに流れる時間、蚊取線香の香り、涼しい風、寿司、ビール、トキハシ。全てが完全に調和していた。時間が過ぎてゆくことと、ここに消滅した彼らやキミが居ないことだけが、()やまれた。

「で、神社の方はどうだったよ」

ワサビが効きすぎたのか、トキハシは目頭を押さえながら尋ねた。

「待ち杉さんに会って、甘酒を飲んだよ」

エビの尻尾を小皿に除けながら答えた。

「お前、あの甘酒飲んだのか? (うらや)ましいな。美味いんだよな、あれ」

トキハシはビールを飲み干すと、冷蔵庫から二本目を持ってきて、開けた。

「それで、待ち杉の爺さん、なんか言ってたか」

「待ってたんだって、私のこと。千年も」

「ふーん」

私もビールを飲み干し、トキハシと同じように二本目を開けた。

「それから、睡中都市の物語を書いた後は正しく待てってさ。必ず届くとも言ってた。本当かな」

「どうかね。まあ、あの爺さんが言うんだからそう大きな間違いはないだろうさ。待つことにかけちゃ、プロだからな。お、最後のイクラ(もら)い」

いつの間にか、寿司桶の中身は半分程に減っていた。

「正直なところね、不安なんだ。睡中都市のことが人に伝わるのか。待ち杉さんは誰も見なかったものは神仏が見るって言ってたけど。やっぱり、手放しには信じられないんだ。ねえ、トキハシ、どう思う?」

「どう思うって言われてもな」

トキハシは大して考える様子も見せず、小皿に醤油を注ぎ足していた。

「ま、とりあえず、書いてみろよ。お前の思うようにさ。後のことは、何とかなるだろ。さ、食え食え」

「そうかな」

「そうとも」

トキハシは寿司桶に点在していたガリの(いく)つかをひとまとめにして口に放り込んだ。

「大体な、お前が作品に完成の判断を下した時点でその世界は存在が確定するんだ。いわば、子供が生まれて、一人前になった段階だ。そこから先どうなるのか、それは子供や世の中次第ってわけだ」

「本当に一人前になってるんだとしたら、それでもいいのだろうけど、親の責務を果たさないまま世界に放りだしたままにするのも気が引けるよ」

「あんまり過保護になるのも、どうかと思うぜ」

私が食べようとした最後のイワシを、トキハシの(はし)(さら)っていった。

「せっかく待ち杉の爺さんが助言してくれたのにこんなこと言うのもなんだけどな、あんまり先のこと考えすぎると、書けなくなるぞ。今に集中しないと、邪念が(いく)らでも出てくる。上手く書こうだとか、ウケるにはだとか、作品を広めるには、だとかな。何かを作る時に、そんなものはクソくらえだ」

とうとうトキハシは二本目のビールも空けてしまった。

「言ったろ。創作はゲロだ。そうせずにはいられないからそうするだけのことさ。上手いだの下手だの、知られているのいないの。そんな考えを持ち込むのは不敬(ふけい)だ。見ろ。トキハシなんて名前、現実世界で知ってるのお前くらいだろ。だけど、俺はこんなにはっきり、ここに居る。それが全てさ」

私も、缶に残っていたビールを飲み干した。

「ま、せっかくの寿司なんだ。なんか考えなさんな。食え食え」

いつの間にかひぐらしは鳴き止み、夜の(とばり)が下りていた。


「ごめんください」

他愛(たわい)もない話に花が咲き始めた頃、玄関の方から声がした。

「ん? この声、カクか?」

トキハシは一瞬、表情を(くも)らせると玄関へ向かった。私は寿司をつまみながら、トキハシと客の会話に耳を傾けていた。

「やっぱりカクか。どうだ、祭りの準備は」

「ええ、それはもう、(とどこお)りなく。あ、これ、ちょっとした手土産です」

「おお、悪いな。気(つか)わせて。ありがとな。それで、どうしたんだ、今日は」

「人づてに聞いたものですから。こちらにご主人様がいらっしゃると」

「そりゃあ、居るけどさ」

ご主人様というのは、どうやら私のことであるようだった。

是非(ぜひ)、お会いしたく」

「うーん。どうかね。いっそのこと、会わない方が事は穏やかに済むんじゃないか」

トキハシは妙に渋っていた。

「いえ、そこをなんとか。本来ならばこの世界は既に消滅し、会える(はず)もなかったのです。これも何かの縁でしょう」

「うーん。ま、土産も貰ったし、断れないな。ちょっと待ってろ」

トキハシが一升瓶と大きなスルメを持って戻ってきた。

「あのな、今、お前に会いたいってやつが来てるんだ。その、なんだ。あんまり気を立てるなよ。平和に、な」

ヒラメを咀嚼しながら、私は嫌な予感がしていた。

「いいぞ、カク。入ってきな」

トキハシがそう呼びかけると、玄関からその人物の足音が近づいてきた。

「こんばんは」

入ってきた人物は黒いスーツに身を包み、帽子(ぼうし)を深く被っていた。

「私としては、初めてお目にかかります。ご主人様」

(うやうや)しく帽子を取ったその顔には闇さえ無く、まるでそこを見る視線だけが盲目になったようで。嗚呼(ああ)、忘れる筈もない。覚醒党員(かくせいとういん)であった。

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