鏡門から浮雲山房(3)
車道まで戻った私はトキハシに貰った財布を手にして立っていた。トキハシの家に戻ったところで、ひとりで退屈することなく過ごせる保証もなく、私は湿度の高い外気の中、途方に暮れていた。
ふと、トキハシから教わったことを思いだした。
“こっちに行くと、チヨ婆の駄菓子屋だ”
“あっちへ行くと、明日、祭りがある汝待神社だ”
日が落ちるまでにはまだ時間があり、駄菓子屋と神社の両方を訪れるには充分であった。私はひと先ず、駄菓子屋の方へと足を伸ばすことにした。
道中、シムラ活版所という看板の建物を見つけ、ここにトキハシが軟禁されているかと想像すると、不憫なようでありながら、少し、可笑しかった。
炎天下、財布を握り締めて駄菓子屋に向かうという状況が、私に体験したことがない筈の夏休みの記憶を思いださせるようであった。
やがて私は千代田商店という店の前に立った。店の表には小さな縁台があり、そのそばでは三人の子供たちが、いずれも半袖シャツに半ズボンという出で立ちで機械に硬貨を投入し、ハンドルを回していた。
「やったー! ギンガマン」
「すげー。いいなー」
ギンガマンに湧く彼らを横目に、私は駄菓子屋へ足を踏み入れた。
コンクリートの床には涼しい空気が流れ、最小限の照明しかない薄暗い店内には飴色になった木材で作られた棚が並んでいた。年季の入ったレジスターの奥には置物のような女性がひとり。どうやら彼女がチヨ婆らしかった。私は手近にあった小さな籠を取り、店内をゆっくり歩きながら気に入った駄菓子をそれへ入れていったチープな乾麺の菓子、小さなプラスチックボトルに入ったヨーグルトを模した菓子、あたりつきの小さなグミ、ザラメのついた大きな飴玉、のしいか、安すぎるスナック菓子。どれも見たことのあるものばかりであった。私はそれらを自分のためと、トキハシへの土産にするつもりで籠へと入れていった。もっとも、トキハシへの土産とはいえ、支払いは彼の財布からであるため、複雑な心境であった。
私は店内を見尽くしてレジスターの前へ籠を置いた。その奥には煙草がずらりと並んでいた。突然、チヨ婆がその煙草の中からひとつを取り、籠の隣へ置いた。見ると、以前まで私が好んでいた銘柄であった。現実世界では既に製造終了となっていた筈のそれが、睡中都市にはあったのだ。私はその金色の蝙蝠が描かれた煙草の出現に驚くとともに、チヨ婆の不可解な行動に戸惑っていた。
「今日は随分たくさん買ってくれますね。たまには和服以外も似合うじゃない」
私が返答を考えているうちに、チヨ婆の方でも何か妙な空気感に気がついたようで、眼鏡を外すと私の顔をまじまじと見た。
「あ、違った」
何かが違ったようであった。
「ごめんなさい。ちょっと知った人に似ていたものですから」
チヨ婆は謝りつつ、煙草を棚へ戻そうとした。
「あ、いえ、その煙草もいただきます。それ、好きなんです」
「あら」
チヨ婆はきまりの悪そうなそうな表情で算盤を持つと、とんでもない速さで手を動かし、あっという間に合計金額を弾きだした。私はその技量に驚きながら、恐ろしく安い勘定を済ませた。
「あの、私が誰かに似ていましたか」
「ええ。知り合いの作家先生、トキさんというんですが、その人に。ごめんなさいね」
トキさんと作家先生とくれば、私にも思い当たる人物があった。
「あの、それってこの先に住んでいる作家のトキハシのことですか」
私がそう告げると、チヨ婆は目を丸くした。
「そうでしたか。トキさんのご親類。道理でよく似ているわけですねえ」
私はチヨ婆と並んで縁台に腰かけ、彼女が店の奥から持ってきてくれたみたらし団子と冷たい緑茶をご馳走になりながら、彼女と話をしていた。なりゆきで私とトキハシは親類ということになっていた。
「そんなに似ていますか。私と彼が」
「ええ、それはもう、まるで兄弟みたいに。顔かたちだけじゃありません。歩き方や所作、何より雰囲気っていうんですかね。そっくり」
作者と創られた者の間にはある程度の共通点があるとは聞いたことがあったが、外見や雰囲気までもがそうなのかと考えると、トアノやアリスエ、ウツギのことに思いが到った。トアノはまだしも、私がアリスエやウツギに似ているとは、到底思えなかった。無性に、彼らに会いたくなった。
視線を感じ、チヨ婆の方を向くと、彼女の黒真珠のような瞳と目が合った。
「確かによく似ていますけど。やっぱり、貴方とトキさんは別人ですねえ」
掌を返したような言葉に、私は疑問を浮かべた。
「何故です?」
「今、貴方が見せた表情ですよ。不安かしら、後悔かしら。そんな表情に見えました。とにかくそれは、トキさんが絶対に見せない表情でしたよ」
チヨ婆は上品に緑茶を飲んだ。
「ご親類でもご気性は違うわよね。そうね、もし、貴方たちがご兄弟なら、貴方がお兄さんでトキさんが弟さんかしら」
団子を持ったままの姿勢で私はチヨ婆の話に耳を傾けていた。
「まじめなお兄さんはいろんなことを考え込んでしまうかもしれないわね。そんなお兄さんを見て育ったから、弟さんは正反対の無邪気で自由な、雲みたいな性格になったのかもしれないわね」
たった一瞬の表情から、私とトキハシの関係性を見透かされたような気がして、私は冷や汗の出る思いであった。
「ごめんさいね。随分勝手なことを言ってしまったわ」
「いえ、そんな。なんだか本当のことを言い当てられたような気がして、驚きました」
チヨ婆はただ、微笑んでいた。
「長く生きていますとね、誰でもできるようになることですよ」
チヨ婆は丁寧に団子を食べると、曲がった背筋をほんのわずか、正した。
「それで、さっき随分不安そうな顔をしていらしたけど、なにか悩みごとでもあるのかしら」
チヨ婆にならば、私の内面を打ち明けることができると確信はあったものの、ありのままを話すことは憚られ、私は胸中を拡大し、抽象化して言葉にした。
「大切なものを失いそうで、それが怖いんです。失ったら、それは再び手に入るかどうか、分からなくて。どうしても不安なんです。それでいながら、失うことはほとんど決定していて。今の私にはそれを失う覚悟も、それを取り戻せるという確証もないんです」
「そうですか」
チヨ婆はそれ以上追及することなく、音をたてずに緑茶を飲んだ。
「そのままでいいと思いますよ」
彼女は夏空に向け、ぽつりと呟いた。
「そのまま?」
「そう。無理に手元に留めようとしないでください。それが本当に大切なものなら、必ず、戻ってきます。貴方が追いかけようとしなくても、例え貴方が遠ざけようとしてもね」
「そうでしょうか」
私はチヨ婆の言葉を完全に信じることができなかった。
「ええ、チヨ婆は、そう思います。私も今まで随分、いろんなものを失くしました。竹箒に知り合いから貰った電卓、お店の鍵、耳かき、結婚指輪、数珠、お守り。でもね、本当に大切なものは皆、戻ってきましたよ。ほら、失くしたと思っていたものが探してもいないのに出てくることって、ありますでしょう? あれです。失くしたと思っていても、本当は失くしていないんですよ」
そう微笑むチヨ婆の笑みに、私は地層のような安堵を見た。
「だから、貴方はただ、待っていればいいのよ。安心なさい」
チヨ婆は私の背を優しく叩いた。か弱い筈の振動が心臓にまで温かい波長を届けたようであった。そんな私の表情を見たチヨ婆は優しく頷いた。
「あ、そうそう。貴方、今日、この町へ来たと言っていましたね。じゃあ、待ち杉さんへはまだ行ってないでしょう?」
「マチスギさん? 誰ですそれは」
私の脳裏には待ちぼうけを食っている人物の哀愁漂う後姿が浮かんだ。
「汝待神社さんのことは、知っているかしら」
トキハシに聞いた神社であった。
「はい。知っています」
「そこにいらっしゃるわ。ぜひ行ってみて。貴方を待っていらっしゃるわ」
「おばあちゃん! これください」
店の方から子供がチヨ婆を呼んだ。
「はいはい。今行きますよ」
チヨ婆が立ちあがると同時に、私は緑茶を飲み干した。
「では、私はこれで。ご馳走さまでした。それから、ありがとうございました。少し、気が楽になりました」
「いえいえ、なんのなんの」
チヨ婆は笑顔で手を振った。
「また近くへ来たら寄ってくださいな。トキさんにも、よろしくね」
大量の駄菓子の詰まった袋を下げて、私は店を後にした。
「トキハシ、流石にまだ帰っていないだろうな」
私はチヨ婆に教わったとおり、待ち杉さんとやらに会おうと、汝待神社へ向かう道すがら、トキハシの家が見える場所に差しかかった。見上げた快晴の空では、わずか傾きかけた太陽が依然、白色の光を放っており、私はそれに目を細めながら、駄菓子屋でチョコレートを買わなかったことを自賛した。汝待神社へ続く道路に陽炎が揺れていた。
立て看板を目印に車道から外れ、わき道に入り、しばらく歩くと、大きな鳥居が現れた。その傍らの石碑には汝待神社と刻まれていた。辺りにひと気はなく、鳥居の奥で参道に沿って立てられている多くの旗が弱く、風に揺れていた。
私は鳥居の前で一礼すると一歩、神社へ踏み入れた。参道のわきには幾本もの大きな木が植えられ、日が遮られているために私は夏の暑さから逃れることができていた。神聖な地に足を踏み入れたのだという自覚が私に芽生えた。
少し歩いては急な階段を上ることを繰り返すと、拝殿へと続く一本道となった。近くにお守りの類を売っている建物があり、私は何気なく、そちらへと近づいていった。お守り、おみくじ、お札、破魔矢。様々なものを見て回っているうちに、ふと目線を上げると、建物の中にいた巫女と目が合った。
「お待ちしておりました」
私がここに来ることを事前に知っていたのであろうかと混乱していると、それが巫女に伝わったようであった。
「初めてご参詣の方ですか。ここではどなた様がいらしても、お待ちしておりました、とお声がけしております。ご参詣の方は皆様、待ち杉様がお呼びになった方々ですから」
「その、待ち杉様、というのは」
「この神社にございます、古い杉の木のことです。御神木というわけではありませんが、人々から待ち杉様と呼ばれ、親しまれているのです」
巫女は建物の窓から身を乗りだし、拝殿の方を掌で示した。
「あちらに拝殿が三つございます。向かって右手の拝殿の更に右手。隅に大きな杉の木がございます。そちらが待ち杉様です」
私は巫女に礼を言い、待ち杉の方へと歩きだした。本来であれば拝殿での参拝を済ませることが先かもしれなかったが、私はそちらに足を向けることなく、巨大な杉の木の前に立った。
大人数人が手を繋いで囲める程の太い幹。ひび割れたような樹皮は老人の肌を思わせながらも、荒々しい生命の息吹を感じさせた。幹に触れた途端、大木が鼓動したような気がした。
「待っておったぞ」
手を伝わり、待ち杉の声無き声が流れ込んできた。それは決して私の幻聴ではなく、確かに待ち杉の意思であった。
「お前のことは、そう。千年待った。私は千年をお前に会うためだけに費やしたのだ」
「千年。そんなに長い間」
私は声を発することなく、思念で返答した。
「長くも、短くもなかった。会うべき時に、お前が来た。それだけのことだ」
「会うべき時?」
「左様。全ての縁はその者が真に会うべき時にのみ紡がれる」
声が途切れると、待ち杉の幹の一部が霧のようにかすれ、中から筋骨逞しい老人が現れた。幹と同じ色のジャケットと帽子を身につけながらも、下駄を履いた妙な出で立ちのその人物こそ、待ち杉であると直感された。
「よくぞ参った。立ち話もくたびれるであろう。誰か、手の空いたものでよい。客人と話がしたいのだ」
待ち杉が私に話しかけるのと変わらない調子でそう呼ぶと、直ぐに四、五人の禰宜が畳を二畳運んできて、私たちの足元へと敷いた。
「ああ、それから、こう暑くてはかなわん。確か、冷えた甘酒があったであろう。あれを持ってきてくれるか」
ひとりの禰宜が何処からか小さな甕を持ってきて畳の上へ置くと、彼らは待ち杉に深く頭を下げて戻っていった。
私は杉の木陰の中で、待ち杉と差し向かいになって腰を下ろした。
「道中は暑かったであろう。こう暑い日にはな、これに限る」
待ち杉は二つの湯のみに甕から甘酒を注ぐと、ひとつを私に勧めた。湯のみを持つと刺すように冷たい感覚が手に伝わった。ひと口飲むと、麹の華やかな香りと共に濃厚かつ爽やかな甘みが口内に広がり、身体に溜まっていた夏の暑さが抜けてゆくような気がした。
「さて、ではお前がここに来るべき時が今であった理由の一端を見てみよう」
甘酒を飲んでいた待ち杉が湯のみを畳へ置くと同時に周囲の拝殿や木々が消え失せ、何処までも広がる砂利の平面だけが残された。
「映せ」
待ち杉が声をあげると、その空間に私が辿ってきた旅路が次々と映しだされた。鏡門から水晶塔、汽車から終の町、バスで常夜ヶ原を経て船宿、そしてオールトの図書館。わずか数秒のことでありながら、私はそれを見て終の町に朽ちていた廃屋の鉄骨の形状やオールトの図書館の本棚の隅にあった本のタイトルまで、鮮明に思いだすことができた。それらは皆、私がゲンジツから救えなかったもの、自らの手で崩壊に導いたものであった。もはやそれらは今、世界に存在しないのだという自覚が、強烈な現実感を伴って胸を焦がした。
「なるほど。良き旅をして、良き者たちに出会ったのだな」
待ち杉が手をひとつ振ると砂利道が水面となり夜空が広がった。遠くの方に銀柱の立つ浮き島が見えた。水面に立つ四人の影。トアノ、アリスエ、ウツギ、そしてキミ。
「この者たちのうち、三人は睡中都市の崩壊と共に消え、ひとりの客人は現実の正しい時間軸へと引き戻された。私が言うまでもないことかもしれぬが、気を落とすでない。三人の姿は消えたとて、存在が失われたのではない。そして客人との縁も切れてはおらん。いつか必ず、会うべき時に再会できよう」
待ち杉は甘酒を注ぎ足しながら断言した。
「本当に、再会できるでしょうか」
私は不安から逃れるようにして尋ねた。
「この待ち杉が保証する。人々が広義の創作に生きるようになれば、再会は、成る。安心して待っておれ」
周囲の景色が晴れ、再び神社へと戻った。私はトアノたちとの思い出から完全な崩壊を目前とした世界へと連れ戻されたのであった。知らぬ間に日が傾いていたようで、かすかに黄金色を帯びた光が、待ち杉の枝葉を通して差し込んできた。
「さて、ここからが本題だ。お前が今、私に会うべきであったわけ、私が今、お前に伝えるべきことを伝えよう」
私は正座のままで、待ち杉の言葉を待っていた。
「お前は、作家だな」
「はい」
今や、迷いは無かった。
「この世界で体験したことを物語に書き、人々に夢を思いださせ、現実の在り様を語り、いずれ睡中都市を再興するのだな」
「そうです。直ぐにでも」
待ち杉は落ち着いた声で逸る私を留めた。
「そう焦るな。急いては事を仕損じるぞ。全てのことは機が熟した時のみ現れる。私が案じているのはその先だ。今、お前が睡中都市の物語を完全に書き終え、それを誰もが読めるという状況下になったとする。さあ、お前はどうする。今のお前が情熱を傾けるものが一応の成立を見せた時、お前はどうする。物語は終わったとて、お前の生はまだ続いておるぞ」
睡中都市執筆後の未来を、私は想像することができなかった。
新たな作品の執筆? 睡中都市のプロモーション? 繰り返される日常への同化?
どれもが空振りの解答であった。
「私が伝えるべきはそれだ。よいか。物語の執筆が完了した後に、お前がするべきこと。私の提示する解答は、正しく待つ、ということだ」
「正しく、待つとは」
「よいか。お前はきっと、読むべき人物に睡中都市が読まれるようにと願っているのであろう。ならば、正しく待っていることだ。伝わるべきものは、伝わるべき形で、伝わるべき者に、伝わるべき時に、必ず伝わるのだ。それを信じて、待っておればよい。この考えは一部の者からは迷信だとか、腑抜けの姿勢だとか呼ばれるが、そうではない。世界にある、真理のひとつなのだ」
私も、どうやら一部の者であるようだった。そんな心を読んだように、待ち杉は話を続けた。
「全ては縁の引き合わせよ。人事を尽くしたと思うのならば、心穏やかに、天命を待つのだ」
杉の木の上から、鴉の鳴き声が聞こえてきた。
「待っているだけで、本当に伝わるのでしょうか」
ただ待っているだけで、望みが叶う筈がないという、およそ絶対的とも思える道理に突き動かされ、私は超常の存在に疑問をぶつけた。
「並々ならぬ情熱で物語を書こうというのだ。その疑問も当然よ」
待ち杉は困ったような笑みを見せた。
「しかしな、それでもだ。必ず伝わるべきことは伝わるのだ。何故といって、そう。例えば世界中の歴史を見渡せば、どんな人間からも顧みられることのなかった書物というのは、存在した」
待ち杉の断言が私に絶望の予感を降らせた。
「しかしな。そんな書物を全て、読んだ存在があるのだ。分かるか?」
風に木漏れ日が揺れ、私の目を光が刺した。
「神仏だ」
辺りの静寂に、待ち杉の短い言葉が際立った。
「誰にも顧みられなかったものであっても、それは確かに存在している。そして神仏はその価値を、作者が込めた心を、知っていなさる。神仏は人が心を込めて向き合った広義の創作を必ず、受け取るのだ。もしも神仏の心を激しく揺さぶるものがあれば、神仏はそれをもとに人々に天啓を与え、作者の心を広く、世界に伝えるのだ。そうして世がより良き方向へ向かった事例は幾らもあるのだ。あり得ぬと、そう思うか?」
これが人間からの問いかけであれば、私は信じることができなかったかもしれなかった。しかし、今、私の前に居るのは千年以上を生きた杉の木の化身であった。また、現実からかけ離れ得た現象ばかり起こる睡中都市での旅を経た私は、人知を超えた存在が私の作品を読むという可能性を捨てきれなかった。
「信じても、よいのでしょうか」
「案ずるな。自身に蓄積した概念の外にも世界はあると、お前は旅で学んだであろう。安心して、待っておれ」
待ち杉は湯のみに残っていた甘酒を一気に飲み干した。物語を書き終えた未来の展望は決して隈なく晴れ渡ることはなかったが、遠い果てに霧に霞む灯台を見た気がした。どんな形であれ、私の意思が伝わり、睡中都市が再興されるならば、それ以上私が望むことは無かった。
「明日もお前と会うことになる。知っておるか」
ひぐらしの鳴き始めた別れ際、待ち杉が私に問いかけた。
「ええと、祭り、でしょうか」
「そうだ。詳しいことを聞いていないのであれば、明日までにお前の祈りを決めておくがよい」
「祈り?」
「そう。誰へ向ける、どんな祈りでも構わぬ。ではな」
手を振る待ち杉に、落ちてゆく陽が差し、顔に暗い影を生んだ。歩きだそうとした私を待ち杉が呼び止めた。
「あまり人の縁に介入することは好かんが、ひとつ、言っておこう。どのような縁も無下にするな。例え、それがお前の望まぬ縁であってもだ。全ての巡り合わせには意味があるのだ」
待ち杉の言葉を反芻しながら、私はトキハシの家まで歩いた。日は随分と傾き、橙色に空が染まり、暑さが少し和らいでいた。




