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鏡門から水晶塔(1)

 一 鏡門(きょうもん)から水晶塔


 三十に手が届くという年齢に差しかかり、私は未だ、世間に順応することのできない生活を送っていた。週に数日という世の人々よりもうんと少ない日数の労働から帰宅し、シャワーを浴びてしまえば、もうすべきことは何もなかった。惰性で煙草に火を点け、煙を吐いた。それが狭いワンルームの天井に届くのを見届けると、背後から真っ黒な、現実という名の化物が迫ってくるような気がした。私は買ってきたアルコール飲料を開けた。質の悪い酔いに、私は刹那(せつな)の忘却を求めていた。

忘れたいことは(いく)らもあった。まともな社会人たり得ない自身の身の振り方、堕落の文字しか見えぬ未来、為すべきこともないまま流れでてゆく毎日、公共料金滞納の通知書。その他、本来取るに足らないことばかりがさも人生を決定する重大な事項のように感ぜられ、私の生を(にご)らせていた。

 なんのために生きているのだろう。

 煙草の煙と共に吐きだした、あての無い問いかけは次々に姿を変え、私を(さいな)んだ。

 どうして私は生きているのだろう。

 何を期待して私は生き続けているのだろう。

 何故(なぜ)、私は死なないのだろう。

 いつになったら、私は死ぬのだろう。

 くだらぬと、分かってはいた。考えたところでどうにもならぬとも、分かっていた。しかし、私の身に染み込んでしまった悪癖(あくへき)は、もはやどうにもならなかった。

 いつから私はこうなってしまったのだろう。

過去を見渡すと怒号と叱責ばかりが思い返された。自身の無力と怠慢、それから世間の批判を恐れたために、私はいつからか、何もできなくなっていたのであった。

 湧きあがる自身への嘲笑を、アルコール飲料で嚥下(えんか)した。酔いはなかなか回らず、私は二本目の缶を開けた。

 私が世間の人よりも虚弱で怠慢なのか、世間が一体強すぎるのか、今もって分からなかった。私とて、人並みには苦労もしたつもりであった。我慢もしたつもりであった。成長しようという気概がなかったとも思えなかった。しかし、そんな私は今、最低限のまともにすらなれず、隙間風の入ってくる安いアパートで死が長い道程を経て訪ねてくるのを、腐敗しながら待っているのであった。

 どうしてこうなったのだろう。

 不随意に湧きあがる疑問に終止符を打つ言葉を知っていた。

 これが現実だ。

 そう。現状が世界の在り様なのだ。現実とはどうやら何処までも容赦なく、弱者に対して残酷であるようだった。いかに物語や創作の上で美しい言葉を使ってこの世界を称賛しようと、所詮(しょせん)、それはまやかし。現実とは苦悩の上にも苦悩を重ね、人を服従させるものであるようだった。人並みの幸いを願ったとて、それを達成する力と運のない者には何も与えられはしない。それが現実なのだ。ここまで思考が及んでいても、明日一日、自身を変えるため、未来のために、有意義に時間を過ごそうとすら思えない私は、いよいよ世間の落第者であるようだった。逃れるように、私は残っていたアルコール飲料をひと息で飲み干した。


 私が寝床へ入ったのは東の空が明るくなり始める直前のことであった。かろうじてまだ暗い部屋の中に目を閉じていてさえ、不安は肥大していった。もしも、このまま(みじ)めな生が後、数十年と続いたら。もしも、明日にでもわずかな収入でさえ、失くすような状態になれば。もしも、まともに戻るための道筋が既に絶たれているとしたら。呪詛(じゅそ)のような“もしも”は酔った脳髄(のうずい)に際限なく湧き続けてきた。

 数刻、一向に訪れる気配のない睡魔を求め、寝返りばかりうっていた。私はふと、違和感を覚えた。自責や後悔、自己否定の渦巻く思考に、不純物を認めたのであった。思考の中にそれらの断片を(とら)える度に、脳髄の流動は一時、中断せられた。

 何かがおかしい。

 まるで自身の思考の中に別な人間の思考が混ざっているようで気味が悪かった。やがて私はその不純物に意識を集中させている間、不快な黒い感情から解放されていることに気がついた。穏やかな入眠へ向かう手段として、私は意図的に不純物に集中した。私が不純物と称したそれは、言語化されていない、純粋な概念たちであるようであった。興味をひかれた私は、それらに言語としての(から)を与える試みを開始した。私に蓄積されたささやかな語彙(ごい)の中から、最もその概念に近いものを当てはめる。ひとつずつ、ひとつずつ。

長い時間かかってようやく、私は幾つかの概念たちに名称を与えることができた。

 夢、旅、消滅、現実、浸食、水晶、創作。

 (おおよ)そこんな概念たちが私の思考に入り込んできていたのであった。それらは互いに何かしらの関連があるようでもあり、また、全然関係がないようでもあった。彼らの正体を探り終えた途端、脳髄がようやく疲労を感じたようで、少しずつ、私は眠りへと落ちていった。入眠と覚醒の狭間(はざま)で、誰かの声を聞いた気がした。


 ふと気がつくと私は夜空の下、湖のような広大な水面に浮かぶ、ささやかな陸地に立っていた。背の低い植物が茂る陸地の端には大きな三つの輪を貫く、銀の柱が立っていた。輪は音も無く、互い違いにゆっくりと回転していた。見上げた夜空は黒曜石のようで、そこには満天の銀河がちりばめられていた。そしてそれが()いだ水面に映り、私は暫時(ざんじ)、宇宙の中に居るのかと錯覚した。

 夢の中に居るという自覚はあった。しかし、心の何処かには、これはただの夢ではないという直感もあった。

「やあ、主人。来てくれたんだね。ありがとう」

ふいに声をかけられ、私は振り向いた。ひとりの青年が薄いコートを羽織り、片手に小さな荷物を持っていた。彼の耳や首元には異国の風情が漂う装飾品が幾つもあった。

「君は……」

私のことを、主人と呼んだその青年を見るのは初めての(はず)であった。しかし、無条件に直感していた。私は、彼を知っている。

「主人。僕だよ。トアノだ」

夏の木陰に吹く涼風のような声で、彼は名乗った。トアノ。その文字列と韻律(いんりつ)が私の記憶に激しく作用した。トアノ。忘れてはいけない筈の名前だった。

「君が創った物語の上で、たくさんの場所を旅した、旅人のトアノだよ。きっと君は完全に僕のことを忘れてはいない筈。だから君はここに来られたんだ。君は僕を生んだ主人だよ」

彼の言葉に、私は忘れかけていた記憶を取り戻した。かつての私は創作に()りつかれていたのであった。己の内に湧きあがる情動を止めることができず、文字に託して世界を表現していたのであった。そして創作を重ねるにつれ、幾人かの人物がとりわけはっきりとその姿を現したのであった。旅人のトアノもそのひとり。私の空想上にある土地を、彼はなん箇所も渡り歩いてきたのであった。夢の中とはいえ、これまで私の空想の中にしか居なかった筈の人物が、確かに目の前に存在していた。

「君だったのか、トアノ」

「ああ。思いだしてくれたかい。主人」

彼が手を差し伸べ、私はその手を取って、彼と握手を交わした。彼が見せた微笑みに、かつての私であれば、涙を流して喜んでいたであろうと考えていた。しかし、今の私には、トアノの姿を見ることが苦しかった。彼はかつての夢みがちで幼稚(ようち)な私の生みだした、気恥ずかしい遺産であった。こんな夢をみてしまう私は、未だまともになりきれない人間に違いなかった。

「トアノ。君に会えるなんてね。流石は夢の世界だ。本当のことを言うとね、私はもう、創作とは決別していたつもりだったんだ。しかし、こんな夢をみてしまうだなんて、私はまだ創作に未練があるらしい」

「夢をみることは、いけないことかい」

トアノは寂しそうな顔で尋ねた。

「いけないってことはないんだろうけど、人はいつか、夢から醒めるものさ。いつからか私が創作をしなくなったようにね」

「ねえ、主人。僕を見てよ」

突然、トアノは大きく両腕を広げた。

「君が生んでくれたままの姿で、僕は今も存在している。作者である君が、僕を本当に消し去りたいと思ったならば、僕はここに居ない。僕たちはそういう存在なんだ。主人の中には、まだ夢みる力が残っているんだよ」

それでも(なお)、私にとって夢みることは未成熟で(おろ)かな過ちだった。

「主人。夢というのは、何も君たちの創造や睡眠の中にだけあるものじゃないんだ。夢の世界は存在している。今、君と僕がこうして話しているようにね。そしてそこでは僕たちのような創られた者と君たち作者とが接続されているんだ。夢と現実は密接な関係にある。そして、だからこそ、危険なんだ。夢の危機は、現実の危機でもある」

妙に込み入った夢であった。

「夢の危機ってなんだい」

私は半ば投げやりに、物語としての夢を前進させるべく質問した。トアノは柔和(にゅうわ)な表情から一転し、真剣な眼差しを私に向けていた。

「今、夢の世界は消滅の危機にあるんだ。夢の世界が消えれば、現実もどうなるか分からない。ねえ、主人。君はまだ、作家だ。僕と一緒に来てくれるかい」

「一緒にって、何処に」

私が問いかけると、トアノは私の背後を指した。そちらを振り向くと、私の身の丈を優に超える程の巨大な鏡があった。

「あそこが睡中都市(すいちゅうとし)に通じている」

「睡中都市?」

「そう。僕たち創られた者の住まう場所さ。もっとも、ここも既に睡中都市の一角とも言えるわけだけれどね。まあ、そんなことよりも、今は先ず、主人に来てもらいたい」

トアノは大きな歩幅で鏡の方へと歩きだした。トアノと、彼の鏡像との距離が少しずつ、縮まっていった。

「さあ」

鏡のすぐそばでトアノは振り返り、私の方へと手を差し伸べた。まるで私を主人公にした物語のように展開される夢に苦笑しながら、私はもう少し、この妙な夢に身を(ゆだ)ねることにした。

 一歩ずつ、ゆっくりと巨大な鏡の方へと歩みを進めた。緩やかな風が、辺りの水面を()でるようにして吹き抜けていった。満天の銀河とわけの分からぬ銀の柱に旅人のトアノ。こんな夢なら、幾日か続けてみても悪くないかもしれないと思い始めている自分を発見し、その単純と未成熟に苦笑した。鏡の中の私との距離は縮まり、やがて私はトアノの隣に立って鏡像と対峙(たいじ)していた。

「行こう!」

彼は私の手を強く引っ張ると鏡の中へと踏み込んだ。錯覚ではなく、天地がぐるりと回転した。


「さあ、着いた」

トアノの声がすると同時に視界が戻った。私たちは並んで、とある都市の上空に浮遊しながら立っていた。

「ようこそ、主人。ここが僕たちの住む睡中都市だ」

眼下に展開されていたのは、その名に違わぬ、夢想的な街並みであった。洋の東西や時代の今昔(こんじゃく)が統一されていない種々の建造物、つまりは教会、寺院、鉄塔、民家、あばら家、庭園、屋敷、蔵、共営団地、学校、墓地が不快でない不自然をまとってモザイクアートのごとく密集していた。悠然(ゆうぜん)と中天へ向かってそびえる水晶塔を囲うようにして!

私はただ、広大な夢の都市に圧倒されていた。

「これが、睡中都市」

「そう。君たちの創作によって生まれた都市さ。たくさんの名がある。ユートピア、ガンダーラ、マグメル、エメラルドシティ、ザナドゥ、リンボ、アトランティス、ムー、アガルタ、ジパング、空き地、楽園、街角、ネバーランド、イーハトーヴ、宝島。君たちの創ったあらゆる創作はここに集積する。そして君たちは広い意味での夢をみるという行為によって、この世界と(つな)がるんだ」

創作、そして夢。睡中都市の見事な景観に視界を満たしながらも、私はこれらの言葉を忌避(きひ)していた。それは現実に生きなければならない私を堕落に繋ぎ留める鎖であるように思えた。確かに、かつての私はそれらの持つ力を信じ、魅了されていた。創作に打ち込む時間がまさに夢のようで、このために自分は生まれてきたのだと錯覚したこともあった。しかし、今は分かっていた。それら皆、なんにもならぬと。今の私は夢を放棄し、物質世界に生きているという自覚を、確かに持っていた。これこそ正しい生き方であり、成熟した判断であった。

 理想を書き連ねた創作、夢物語に一体なんの意味があろう。現実逃避でしかない。人間は生きてゆく上で成長し、それらから解放されてゆくのだ。それこそが現実なのだ。

「主人。僕はさっき、この睡中都市が危機にあると言ったね」

依然(いぜん)、私たちは中空に立ち尽くしていた。何かを踏みしめている感覚は無くとも、落下していなかった。

「作家である君に頼みがある。睡中都市を消滅から救ってほしい」

このままこの夢の世界に浸っていれば、後戻りはできなくなる。そんな実感に、私は冷徹(れいてつ)な感情を無理矢理、呼び起した。

「トアノ。君はそう言うけど、私にとってこの世界はやっぱり夢だよ。目が覚めたらそれまでさ。消滅の危機と言ったって、私にとって、ここは初めから存在していないも同じなんだよ。夢だの創作だの、もともと在りもしないものだよ」

創作によって生まれたという巨大都市。私が生んだ旅人トアノ。私は夢の誘惑を振り切るのに精いっぱいであった。創作も、夢も、所詮(しょせん)はごく限られた者、選ばれた一部の者にしか許されない娯楽だ。

「ねえ主人。もしそれが、君の本音だとしたら、僕はどうしてここに居るの? 君はどうしてここに居るの? 僕たちの存在自体が、君がまだ夢に生きる作家だっていうことの証じゃないか。何より、君はそんなにも苦しそうな顔をしている。捨てることができないでいるんだろう? 夢を」

そう言って私の顔を(のぞ)き込むトアノの瞳の色を、見た。

 夢みることを諦めなくてもよいのかもしれない。

 湧きあがった感情を肯定することは、現実に生きてきた私の過去を否定することに等しかった。大切な友に向けるべきでない言葉が、勝手に(あふ)れてきた。

「君はいいさ。最初からこんな素敵な場所に生まれたんだから。でも、私の身にもなってくれ。現実の世界で人並みにすらなれない怠惰を続けることしかできない。創作なんて、才能がなければ結局は(みじ)めな自己満足だ。私の()した創作がなんになった。少しでも私の生活を豊かにしたか? 夢をみたって、そんなの、実現しやしない。だから私は、そんなまやかしは忘れて生きていくしかないんだ。いいか、これが現実なんだ」

「止せ!」

トアノは突然、大声をあげ、(つか)みかからん勢いで私を制した。

「それ以上言うな!」

トアノが私に怒号を向けた次の瞬間、異変が起こった。周囲の音が一瞬間消失し、肌寒いような感覚が駆け抜けた。思わずトアノの目線を追うと、水晶塔が黄金の輝きをまとっていた。初めは淡かった発光が急激に増し、(まばゆ)い程の明るさになったかと思うと、それが耳を(つんざ)く程の高音で鳴り始めた。私もトアノも、思わず耳を塞いだ。

「なんだ、これは」

耳を塞いでいても尚、不快に神経を刺激するその音が鳴り響く中、水晶塔の上空にペンを持った巨大な手と、百科事典のごとき本が現れた。手が動き始め、何かを書き記す振動が辺りに伝播するとトアノは顔をしかめた。私は身体の(ずい)から危険信号としての、極寒にも似た不快感がこみ上げてくるのを感じていた。

「書き換わるぞ」

トアノがそう呟いた途端、書き記す音とともに水晶塔の高音と発光が激しくなり、とうとう目を閉じていてさえ眩しい程に辺りを染めあげた。

 その輝きも高音も収まった頃、私は惨状(さんじょう)を予感しながら目を開けた。不吉な予感に反して、眼下にはなんの変化も無いようであった。私たちの身体は浮力を消失したようにゆっくりと睡中都市の中へと降りていった。


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