第三話 非道
自らの過ちに気がついた和子は、叔母さんを助けるために街を駆ける。
私の鍵で家に入った美和子叔母さんは、ずかずかと居間に直行する。
「お姉さん」
それを見たお母さんは、顔色が蒼白になった。
叔母さんは、お母さんに近づくと、頬を平手で二回叩く。
「多美子、家族との約束も守れないの?」
「な、何の事」
「和子ちゃんの銀行口座の事。銀行から連絡があったよ。勝手に引き出していたんでしょう」
お母さんは、アイドルグッズを取り落とすと、床に土下座する。
「許して、必ず返すから」
毎回そう言うが、嘘ばかりだ。
お母さんは委任状を偽造して私の口座からお金を引き出していたが、三回目で怪しまれ、私への意思確認を行うと申し渡された。それでカードを持ち出したけれども、そちらも暗証番号を間違ってロックされた。
引き出された金額は五十万円に達する。盛岡のチケットという話を越えている。
「すぐ返せる金額ではないでしょう? 当分パートの給料全部召し上げね」
「許して」
「今から、祐二さんに電話します」
「それだけは」
お母さんは、叔母さんの足に縋り付いたが、振り払われた。
お母さんの不義理が、叔母さんにばれた翌日。
私は椅子に座ったまま、不遜な態度でお母さんに要求する。
「ねえ、私を海に連れて行って」
私はお母さんを生け贄にして、泡沫に差し出す事に決めた。そうすれば叔母さんを危険に晒す事はなくなる。
「えっ?」
「お金を貸したんだから、わがまま言ってもいいよね」
私はあくまで傲慢に要求する。今やお母さんとの関係は、お金だけが繋ぐ。
「何を言っているの、和子? ほら、その足じゃ行けないでしょう」
「少し足がよくなったよ」
松葉杖を放り出したまま、私は立ち上げる。言うほど楽ではない。
「えっ?」
「やっぱり、覚えていない。盛岡のコンサート前日だったものね」
「分かったから。分かったから、もう私を虐めないで」
私は、ぶちまけた牛乳が腐臭を放つ瞬間を見てしまった。
お母さんの赤い車は、浜茄子浜の駐車場に入った。
罰を与えるという全能感からだろうか。車の中で、私は高揚する。
今日は曇り気味で、日射しはそれほど強くない。家にあった日焼け止めは干からびていたので、諦めて塗っていない。
「ここに残っていい?」
車を駐めたお母さんは、もう弱音を吐いた。
「倒れたら起き上がるのに時間がかかるんだよ。助けてくれないの」
私は巣穴を震わす蟻地獄のように、お母さんを浜に誘い込む。
「和子、昨日から変だよ」
……いったい、誰のせいだ。
お母さんは諦めると、折りたたみ椅子を運んだ。
緊張で指が震える。私は、二度と海を楽しむ事はないだろう。
お母さんが、椅子に座るのを尻目に見ると、ミュールをビーチサンダルに履き変え、ワンピース姿のまま砂浜を越える。
泡沫の言う奇跡を使って以降、砂浜もよろけずに歩ける。関節が骨に食い込んで痛いのは、変わらない。
泡沫への生理的嫌悪を抑えて、浜茄子浜の海に入る。
サンダルを越える寄せ波が、足を冷やしていく。波頭の泡全てが、あいつの仲間だとするならば、やつらは私の一挙一動を見ているのだ。
私はそのまま沖に進む。次第に冷たく、深くなる海に、くるぶしまで浸かると、急に深くなる箇所に足を踏み出す。
私は仰向けに転び、お尻から先に落ちて水しぶきを上げた。砂混じりの海水が口の中に入り、とっておきの白いワンピースは濡れそぼった。
「いやぁー」
私は、椅子でスマホをいじっているお母さんに、助けを求める。とんだ茶番だ。
慌てたお母さんはパンプスのまま走り、砂浜の際から手を伸ばす。私はその手を掴むと、思い切り引いた。
バランスをくずしたお母さんは、顔から海水に突っ込む。それを不自然な引き波が攫い、波頭がお母さんをもて遊ぶ。
今度はお母さんが悲鳴を上げる番だ。
「助けて、和子。助けて、泳げないの」
溺れそうになったお母さんは体を変えてると、仰向けになって助けを求めた。
その悲鳴に、我に返る。
やらかした事の醜悪さに気が付いて、精神的高揚から覚めたけども、波間に揺られている私は、物理的にお母さんを助ける事が出来なかった。
「お母さん。助けるから、ちょっと待って」
私は浜まで必死に這いずる。
「お願い、和子。見捨てないで」
違う、そうじゃない。そうだけど、そうじゃない。
「助けるから、助けるから」
私は、一旦波打ち際まで身体を引きずると、お母さんに手を伸ばした。
「ぎゃあああぁー。足が、足が」
お母さんが絶叫を上げたのは、その時だった。私の腕が強く握られる。
「お母さん、落ち着いて、落ち着いて」
食い込んだ爪が私を傷付けた。
「痛い、痛い、足が痛い」
海水を飲んで溺れながら、途切れ途切れにお母さんは悲鳴を上げる。
私は、両足を波打ち際に固定し、二本の手で、お母さんの腕を思い切り引っ張った。右足に激痛が走る。
寄せ波に乗って、ようやくお母さんは、何者かから解放された。私の力ではそれ以上引きずる事は出来なかった。
「足が、動かない。動かない」
お母さんのむせび泣きに、デジャブを感じる。私が車に轢かれて、足を失った直後と同じだ。
「お母さん、救急車呼ぶから、手離して」
指を強引に一本ずつ剥がすと、私の腕を引き抜く。
砂浜をふらつきながら、荷物の所まで辿り着くと、消防に電話をかけた。
私は、砂の上に崩れ落ちる。呼吸が深く速くなり、意識が薄れる。
「和子、助けて」
「助けてよ、和子」
「お願い、痛いの」
「足が、足が動かない」
そんな悲鳴をずっと聞きながら、私は虚ろに空を仰いだ。
救急車の音が東から西に騒々しく近づいてくる。
救急隊員は、お母さんを浜から抱き上げストレッチャーに乗せると、救急車に乗せた。その右足は有り得ない方向に曲がっていた。私は救急車に一緒に乗ると、叔母さんに電話をかけた。
病院の救急外来で、私は泣き続けた。
私の邪悪さは、泡沫と同じだ。確信を持ってお母さんを傷付けてしまった。
泡沫が近しいものと指定したぐらいには、お母さんを大事に思っていたのだ。
お母さんに対する一時的な怒りで、奇跡に頼ったのがいけなかった。
お母さんに対する一時的な侮蔑で、泡沫に与したのが悪かった。
「祐二さん、新幹線で来るって」
叔母さんが、私の肩に手を置く。
救急の先生は叔母さんに病状を説明した。お母さんの右足は、ズタズタに骨が折れている。警察の調べでは、海底の岩に足を挟んだ事になっていた。
「和子ちゃん、明日は学校でしょう。早く帰って」
叔母さんは、私の背中をポンと叩いた。
「うん」
泣き疲れた私は、次の日学校に遅刻した。もちろん授業なんて、頭に入ってこなかったし、噂を聞いた同級生の慰めだって、蝉の鳴き声と区別がつかなかった。
結局、先生が勧めるまま早退した。
校門から伸びる小道を曲がって、バス停に続く国道を、バランス悪く登る。
その時、時間が止まった。泡沫だ
私は、ここが陸である事に気が付いた。
「さぞや、満足でしょうね。泡沫」
私は、ありったけの棘を含ませると化物にあてこする。
『まずは感謝しよう』
後ろから、邪悪な魔物の声がする。
「脚を得たんだね、それで土の上を歩いている。後悔しているよ、こんなやつを野に放ってしまった」
『だが、人間になるには足りない』
「人間になりたかったの?」
『そうだ、でも人間には満たない。河海では水際、陸では、おまえの行きと戻りが重なる場所しか歩けない』
「よく分からないけど、それって帰り道って事?」
『そう寄せては返す波のように。ようやくそれが重なる場所を見つけた』
なるほど、泡沫は浜茄子浜から離れ、校門脇の池に辿り着いて、そこから私を追跡したのだ。
「それで?」
『もっと多く、もっと多く欲しい。そうすれば完全な脚を得られる』
「もう駄目だよ。叔母さんは渡さない。足全部を失っていい、だから私から奇跡を奪い去って」
『それで、脚が満たされるとは限らない。もっとだ、もっと連れてこい。奇跡を受けたのだろう』
「ふざけるな! 私の前から消え去れ」
私は、泡沫の自分勝手な論理に激昂する。
その瞬間、時間は進み始めた。
「落ち着くんだ、私。叔母さんを守る方法は何?」
泡沫が喋った内容を反芻する。やつが人間になりたがっている事なんて関係ない。
やつは陸に上がったが、私の帰り道しか歩けないと言った。
放課後、学校前のバス停で私を出待ちしている叔母さんが危ない。仙台から家に戻っているお父さんも危険だ。
生きている限り、泡沫は追ってくるだろう。
みんなを守るためには、死ぬしかない。どうせ捨てるつもりの世界、泡沫を道連れに自殺するのも、一興じゃないか。
心残りはあまり無いけど、叔母さんだけには知らせなきゃ。
ごめんね、叔母さん。最後に電話していい? 私がどういう気持ちで自死を選んだか、説明してもいい?
充電を忘れて残量二十パーセントのiPhoneを取り出すと、電話をかけた。
「和子ちゃん、どうしたの? 早退かな、家まで送ろうか」
「ごめんなさい、叔母さん。さよならを言わなきゃ」
「気づいていたけど、力不足だったかな。とにかく、少し待って」
叔母さんは、私の厭世観を把握している。
「ごめんなさい、叔母さんを守るためです。これしかないんです」
「そっか。でも私が迎えにいくまで、待って。何処にいるの?」
「駄目です。化物が近くにいます。お母さんの足を喰った化物です。やつが次狙うのは、叔母さんです」
「ば、化物? ……なら、何でもいいから、今すぐ全力で逃げなさい」
「えっ、何処に?」
意表を突かれて、私は自殺衝動を一時的に忘れてしまった。
「何処でも」
「はい」
私は、電話を切る。逃げよう、とにかく逃げよう。
やつが言った事を信じるならば、水際に寄らず、今まで通った事がない道を選べば、追いつかれない。それにやつも、脚で歩く事には違いないし、ましてやワープする訳ではないだろう。
私は鞄を捨てると、バス停と逆方向に走って左に折れた。そのまま速度を落とす事なく、ひたすら走り続ける。悲鳴を上げる足は痛みを通り越して、妙な多幸感さえももたらした。何度も転んでは、起き上がり、再び走る。
林に隠れた小さな社に辿り着く頃には、限界まで息が上がり、涎が地面を濡らした。