第一話 泡沫
化物は甘言とともに奇跡を勧める。不要だったはずの奇跡は、和子を飲み込む。
「くそったれ」
私は、世界を、この街を、坂道を、そして自分自身を罵倒する。
高校からバス停までのわずかな坂道。毎朝の行き道を、転倒を恐れ、手を痺れさせながら下り、毎夕の帰り道を、膝の痛みに耐え、息も絶え絶えに登る。ほとほと嫌になってアルミ製の杖を放り投げようとするが、思いとどまる。杖なしでは、わずかしか歩けない。
嘲笑するかのように、弱りかけのひぐらしが途切れ途切れに鳴いた。
……死んでしまえ。
私はひぐらしを呪詛する。
全身を汗に濡らしながら、コントラスト過剰気味に輝くバス停に着く。椅子に座ってスマホをいじっていた同級生二人が、気を遣って席を空けてくれた。
礼をしながらも、私は屈辱を味わう。去年入院するまでは、彼女達と少しばかりの親交があった。今では、学年中から腫れ物扱いだ。
極限まで軽くした鞄から扇子を取り出すと、みっともなくスカートの中を扇ぐ。暑いと膝の痛みが強くなる。
ポケットから取り出したロキソニンを噛み砕いていると、バス停に白色の軽自動車が入ってきた。美和子叔母さんの車だ。
「和子ちゃん、家に送るよ」
叔母さんは開けた窓から、私を車内に誘う。学校への行き来だけで汗まみれになるので、とても助かる。
叔母さんは、もう一人の母親だ。まず、私の名付け親だ。お母さんが、男性アイドルにちなんだキラキラネームを付けようとしたのを、出生届を改竄して阻止した。自分の名前の一部を付けるなんて割と図々しい所はあるが、お母さんに育児適性がないのを見抜いて、私との関わりを保ちたかったのか知れない。
子供が居ない叔母さんは、甘々に可愛がってくれる。それだけが、私と世界を結びつける一縷の望みだ。
私は、助手席に身体を滑り込ませると、杖を膝に挟んだ。きつめの冷房が心地いい。
「多美子も酷いよね。高校まで送迎してあげればいいのに」
叔母さんは、そう嘆くと発車する。多美子は、私のお母さんの名前だ。
「自立を促すためだって」
理屈は分かる。いつまでも親を頼ってはいられない。けれども私が車の免許を取るまでは、待って欲しかった。
昨年、無免許、無保険の車にはねられた。私には障害が残り、運転者は刑務所に入り、そいつの家族には支払能力がなかった。要は、はねられ損だ。
幾ばくかの一時金は手に入ったが、クズとクズの家族はわずかな賠償しかしないだろう。
「多美子は、自分の子供に無責任過ぎるんだよね」
叔母さんは、そう言って自らの妹をくさす。お母さんの子として生まれてしまった以上、どうしようもない。
車は川沿いの道を海に向かって軽快に走る。イオンやデニーズや鯛焼き屋が車窓を通り過ぎた。田舎町とは言え、楽しめる場所はそこそこあった。当たり前だ思っていたものが、今は縁遠い。
「ねぇ、和子ちゃん。いつか海で遊ばない? 多美子に秘密で」
「合う水着ないし、こんなんだから、楽しくないよ」
「自虐しないの。泳がなくてもいいから」
叔母さんはそう言うが、この杖は砂に深く刺さるだろう。そして私は海ではなく、砂に溺れるのだ。死に方としては、あまり美しくない。
「小道から見ているだけでいい?」
「いいよ」
「何処いくの?」
「そうだね、浜茄子浜」
叔母さんは、私に鬱憤が貯まっている事を見抜いている。
積み重なった怨嗟は、自らを傷付ける。もう傷だらけだけど、叔母さんのおかげで、一歩手前で済んでいる。
軽自動車は、川沿いの道を右に折れ、坂道を登り始めた。眼下に浜茄子浜が見える。少しばかり花が多い、ちっぽけな砂浜だけど、海にそそり立つ奇岩の列が珍しいのか、たまに県外から観光客が来ている。本当にたまに。
何回か行った事がある。奇岩はともかく、透き通った水が好きだった。
坂を登り切ってしばらく進むと、鬱蒼とした木々が後ろに過ぎ去り、高台の住宅地が見えてくる。山を削って造成した新興住宅地の一つだ。新興とは言え、もう半世紀は経っている。
叔母さんは北端にある集合住宅の前に車を附けると、助手席側に回って私の降車を手助けしてくれた。
「じゃあね、和子ちゃん。またLINEするね」
叔母さんは窓から身を乗り出すと手を振る。
「ありがとう」
車が遠ざかるのを見送ると、足を引きずって小汚いエレベーターに乗った。残念な事に、我が家は三階だ。避難の時は困るに違いない。
合鍵を使って中に入ると、パートに行ったはずのお母さんが帰っていた。
玄関を通り過ぎると、靴箱の上に積まれていたアイドルぬいぐるみが、落ちて土にまみれた。2LDKと表現すればよいのだろうか。そんな狭い空間に、恰幅のよいお母さんは立っている。
「和子、あまり美和子叔母さんに迷惑かけないの」
……どの口が言う。
踏ん張れるなら、杖で殴ってやりたい気分だ。
「お母さん、どうしたの今日?」
テレビ脇のソファーに鞄を置くと、家にいる理由を尋ねた。
「いやね、盛岡でコンサートあるでしょう。予約取るために早引きしたの」
「首になるよ」
他県まで行くのか。もはや呆れの言葉も出ない。
テレビの前で椅子を占めると、Switchの電源を入れた。陸上部も辞め、学校から無為に帰るしかない私は、スプラトゥーンでガキンチョ相手の闘争を始める。
「何が面白いんだか、分からない」
「面白いの!」
男性アイドルの追っかけを、高校生の頃から続けているお母さんには、言われたくない。
「さっぱりしたね。和子ちゃん」
叔母さんは、私の髪をほめる。
その週の土曜日、私は久しぶりに街の中心部に出かけた。貞子のように長く伸びた髪は、肩口でバッサリと切られている。
「満足した」
私は、ストパーしてもらった癖毛を指でくるりと巻くと、叔母さんに感謝する。これで櫛通りもよくなるし、ドライヤーも苦労しない。なにより涼しい。
「何言ってるの、美容院はいい訳でしょ」
叔母さんは、日焼け止めとビーチサンダルを投げて寄こした。
「そうだった」
「じゃあ、出発」
浜茄子浜は、河を挟んで家とは反対側だ。子供の頃、お母さんと叔母さんに連れられて何回か遊びにいった事が有る。奇岩で遮られた小さな湾で、入れないよう閉鎖された水没洞窟がある。浜は礫が崩れて出来た灰色の砂が広がり、名前の由来である浜茄子が沢山生えている。綺麗な名前だが、本当の名前は坊主浜だ。
叔母さんは、三つしかない駐車場に軽自動車を駐めると、後部座席から組み立て式の椅子二脚を取り出した。
「日焼け止めは塗った? 帽子はかぶった?」
「うん」
私は叔母さんが差しだした手に掴まると、杖を支点にして足の力を入れる。尻を滑らせて立ち上がると、麦わら帽子を直した。
叔母さんが保つ絶妙な距離感が好きだ。気遣いはあるけど、人間として扱ってくれる。そんな簡単な事なのに、世界はそうではない。両極端だ。
椅子に座ると、両足を砂の上に投げ出す。太陽が暖めた砂も、日陰では温い。身体を後ろに伸ばすと、クーラーボックスからミネラルウォーターを取り出した。
叔母さんはUVパーカーを脱ぐと、カーゴパンツにTシャツ姿になる。相変わらず綺麗だ。何歳だっけ。
叔母さんは隣に座ると、浜の照り返しに身を晒した。白いTシャツが光輝く。
肌からじんわりと汗が滲み出した頃、横から尋ねられた。
「和子ちゃん、最近、学校はどう?」
「行くまでで、疲れちゃって。後は耐えているだけと言うか」
「朝、送ってあげられたら、いいんだけどね」
デザイン系の自営業で、夜型の叔母さんは朝寝ているのだ。
「学校、行きたくない」
「行きたくないなら、行かなくてもいいんだよ。ちゃんと勉強すれば」
「お母さん、怒るし」
「多美子がねぇ、そんな事言うんだ」
お母さんは素行不良だった。手を焼いたらしい高校の先生や、万引きされた本屋さんから、嫌みったらしく言われる。
……本人に言えよ。
「ねぇ、私の子供にならない? 甘やかすよ」
「うん」
いいかも知れない。生みの親を唾棄する程じゃないけど、離れて暮らせるならば生きている事に絶望しないだろう。
「冗談」
叔母さんは舌を出して茶化すが、私は救いを求めて手を伸ばす。
手は絡め取られて、肩に回された。
「叔母さん?」
「足だけでも、海に浸かって見ない?」
「うん」
叔母さんに支えられる形で、熱い砂の上をたどたどしく歩く。このわずか十数メートルが、私と海を隔てている。でも叔母さんの手助けがあれば、この断絶を越えられるのだ。
次第に砂が冷え、寄せ波がサンダルを越える。足先を海水が冷やし、引き波がサンダル回りに模様を作った。綺麗な水は、私の怨嗟を洗って日本海に流す。
「じゃあ、戻ろうか」
叔母さんは、顔を寄せて私の耳に、ささやいた。
「また、海に来たい」
「いいよ、言って」
波打ち際から砂浜に上がろうと向きを変えた瞬間、誰かの声がした。
『陸に上がりたい。脚が欲しい』
清々しい声だが、言う事は卑しい。
振り向くが、斜めに突き立つ奇岩ばかりで、誰も居ない。
辺りは時間が止まったかの様に静かだ。いや、止まってる。叔母さんが片足を上げたまま、微動だにしない。
周りを見渡そうと、前を向いた所で、言葉が続く。
『おまえに決めた。足が欲しいのだろう。取引しよう』
私は、得体の知れない存在に怯える。足だって?
「誰?」
『泡沫』
鴨長明? (淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて……)って学校で習った。ともかく、見えないそれは、違和感しかない名を名乗った。
「叔母さん、助けて」
逃げようとして、自分の不甲斐ない足を思い出した。なにより、叔母さんは固まったままだ。
『先に与えよう。後で返してもらう。必要になったらそれを使え』
悪夢の世界は、そこで終わった。私は叔母さんに縋り付く。
「和子ちゃん、どうしたの?」
叔母さんは、不思議そうな顔をして尋ねた。
あの白昼夢は何だったんだろう。今も震えが止まらない。
「う、うん、大丈夫」
全然そうじゃなかったけど、私は嘘をつく。
濡れた足跡を残して椅子に戻ると、動揺をおさえるためミネラルウォーターに手を伸ばした。その時、右の掌から、角形の、そして金色の何かが砂に落ちた。
理性は叫ぶ。拾っちゃ駄目と。
にもかかわらず、私はそれをカーゴパンツのポケットに隠した。