24
夏も終わりの頃。
その女はある日ふらりと城に現れた。
収穫の時期を迎え、城内も城外も慌ただしいその雑踏に紛れ、少しの伴を連れた身なりの小綺麗な訪問者は目立つことなく城に迎え入れられた様だった。
その女は謁見の間ではなく、執務室に連れて来られると、頭から被っていた布をほどいた。
はっとするほどの美しい容貌で、生き生きとした若さの象徴のようなバラ色の頬に可愛らしい唇だが、大きな目は憂いを帯びたように潤んでいた。
彼女はリシャールを見ると更に目を潤ませると、可憐にスカートをつまみあげ深々と頭を下げる。
「謁見をお許しいただき、光栄にございます。アンリの妻マグリットでございます。」
頭を下げると共に、その瞳からポロポロと雫が落ちるのが見えた。
「お久しぶりです。姉上。遠路さぞお疲れでしょう。お元気でいらしたか?」
リシャールは大きな歩幅で彼女の前に進みながら声をかける。
「はい。本日はご報告がございまして、内々に参代させていただきました。」
リシャールは微笑みながらも、少し困った顔をしていた。
「姉上、遠慮はいりません。どうぞ顔をあげてください。何か飲み物でも?」
そう言うとリシャールは彼女の小さな肩を優しく抱き、椅子に座るように進める。
すると、彼女はリシャールを見上げ、更に宝石の様な涙をポロポロとこぼす。
胸の中で何かが渦巻くようにざわざわとしている。
これは、好きな男を前にした女のする顔だ。
彼女は明らかに、リシャールの事が好きなのだ。
静かに涙をこぼす彼女をリシャールが抱きしめる姿を直視出来ずに、床の模様を見つめていると、
思いもつかぬ言葉が耳に入った。
「あなたのお子を。連れてまいりました。」
咄嗟にあげた顔は、必然的にリシャールの驚いた顔とその胸に顔を埋める彼女を目の当たりにした。
リシャールは肩に置いた手で彼女をゆっくり体から離すと、問いただす様に彼女を覗き込み顔を近づける。
「それは、誠に私の子なのですか?」
それを受け、彼女は涙をこぼしながらも、毅然とした顔でリシャールの顔を見つめて答える。
「はい。アンリ殿とは、一度も寝所を共にしたことはございません。あるのは、貴方様の寝所に伺ったあの日だけです。・・・子を。・・・見ていただけますか?」
執務室の扉が開き、侍女が布に包まれた赤子を連れて部屋に入ってくる。
おれは、それを迎え入れる振りをしてそっと執務室から抜け出した。
見ていられなかった。
その場に居ることが出来なかった。
もう、何も聞きたくなかった。
すれ違いざまに見た小さな命は、柔らかな優しい匂いがしていた。
まるで、幸せの象徴の様な存在。
体の奥底でその存在への必要以上の慈しみがふつふつと湧き上がる。
ここに来る前。
前世で小さな赤ちゃんに触れたときの記憶が蘇る。
いつか、この手で我が子を抱きかかえる日がくるだろう。
そう、漠然と思った。
祖母がしてくれたように、我が子を愛する日がくるだろう。
そう、願った。
涙が溢れて止まらなくなった。
足は自然と人気のない城の最上階へと向かっていく。
外に出ると、頬に当たる強い風が髪を揺らし、物見台から見える景色は、活気づいていた。
刈り取られる麦や、忙しく働く人々。
突き抜けるような青い空。
今はすべてが憎らしく、妬ましく感じた。
握る手の平から血が滲み出ていた。
剣を振るい、鍛える事によって手に入れた屈強な躰。
ゴツゴツとした豆だらけの手のひら。
楽器を奏でる為に出来た指先のタコ。
持て余した感情で叫ぶ声は低く太く、鳥たちが驚いて羽ばたいてゆく。
叫びながら壁にぶち当たったり殴ったりするけれど、鍛えた躰は少ししびれる程度だ。
対して思い出すのは彼女の柔らかな儚い表情、小さくか細い声、柔らかでしなやかな躰が動くと、それに合わせてふわりと動く衣服。
それに合わせたきらびやかな宝石に可愛らしいリボン。
後悔など、したことはなかった。
この世界に来て、心底良かったと思っていた。
二度と戻りたくないとまで、思っていた。
それなのに、女を失った事に絶望する日がくるとは思わなかった。
分かっていたはずだった。
彼が領主であり、王子である以上、子どもを持つことは必然である事。
誰も口にしないでいてくれたから、知らずにすんでいたけれど、彼にも婚約者が居るであろう事。
ひだまりの中、走り回る子ども達の声を聞きながら、幸せそうに笑うリシャールと彼女を想像したくないのに思い描いてしまう。
側に居たい。
ただ、それだけだった。
それだけで良かったはずだった。
自分だけを見てほしいなんて、そんな事、考えてはイケナイ事なのだ。
自分だけを抱きしめてほしいなど、思ってはイケナイ事なのだ。
けれど、彼女には許される事なのだ。
リシャールに触り、リシャールに口づけをして。
彼を独り占めしてもいいのだ。
そんな事。
耐えられない。
見たくない。
足は城内に引き返し、誰とも合わないようにしながら城外へと向かっていった。
そのまま自然と向かったのは、城下街。
リシャールと初めてあった日に行った宿屋。
食堂ではおかみさんの元気な声が聞こえている。
こんな白けた顔を見せるのもなんだか気が引けるし、リシャールの話になったらせっかく止まったのに、また泣いてしまいそうだ。
気づかれないように店の前を通り過ぎると、武器屋の親父の店へとトボトボと赴く。
親父は剣を研いでいた。
声をかけるにもかけづらく、しばらく眺めていると、親父が顔をあげた。
「おぉ! 何だ。ジャンか。びっくりするじゃねぇか。来てるなら声かけろよ。どうした。シケた面して。剣の調子でも悪いか? それとも、腹の調子でも悪いのか? 何か、まずいものでも食ったのか? ん? 」
「・・・ううん。何も・・・。食ってないよ・・・。」
「あぁん? 腹減ってんのか? ちょっと待ってろ。飯食わしてやっから。ほら。そこに座ってろ。」
そう言うと親父は店の中の椅子に座らせる。
もう、気力がなくなってしまい、ただ、されるがままにうなだれるように椅子に座っていると、外から高らかな声が聞こえた。
「ジャン! やっぱり! どうしたんだい。あんたうちの前通ったろ。」
「・・・おかみさん。」
「まぁまぁ。どうしたんだい・・・。この世の終わりみたいな顔して。なんだか様子がおかしかったから追いかけてみたんだけど・・・こりゃ、重症だねぇ・・・。」
店先の声を聞き親父が奥から顔をだす。
「おう。うるせぇと思ったら、宿屋のばばぁじゃねぇか。」
「ばばぁって言うんじゃないよ。あんた相変わらず1言多いね。そんなんだから嫁に逃げられんだよ。」
「うるせぇ。お前も多いじゃねぇか。それよりなんだ? 重症って。なんか悪い病気か? 今、腹減ったって言うから飯食わそうと思ってたんだが。食わさねぇほうがいいのか? 」
「この顔がどうして腹減ってる顔だと思うんだよ。そんなんだから駄目なんだよ。」
「っち。なんだよ。じゃぁオメェは判るっていうのかよ。」
「バカ言うんじゃないよ。判るに決まってるじゃないかい。これは、あれだね。恋煩いだね。」
おかみさんはそう言うと、ぼんやりと会話を聞いていたおれの頬に手を当てると、優しく笑いかけてくれた。
「ジャン。そうだろう? 違うかい? 」
「・・・恋・・・?」
「うん。そうだよ。リシャールと、なんか、あったのかい? 」
「おれ・・・が、リシャールに? 」
「ちがうのかい? 」
そう言いながらおかみさんが優しく頭を撫でてくれた。
それがリシャールと被って、涙がこみ上げて、溢れ出し止まらなくなる。
おかみさんの手渡してくれる布をビシャビシャにするほど泣いていると、お客が来たようで、親父が店先に出て声をあげる。
「おう。兄ちゃん。いらっしゃい。」
「・・・ジャン? 」
「あぁ。なんか、アイツ、調子悪いみたいでな。」
「あら。イケメンのお兄ちゃん。ジャンの知り合いかい? 」
そう言われて顔をあげて見ると、驚いたような顔のルーが立っていた。
青天の霹靂




