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君に会うために僕は  作者: 谷中英男
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 眩しい日差しと、腰の痛みで目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回し、リビングのソファーで寝ていたことに気づく。いつものリビング。静かな我が家。テーブルの上に置かれたスマホに無意識に手を伸ばす。何の通知もなく何の変化もない。時刻は午前九時を少し過ぎていた。いつも通りの一日が始まった。僕の人生の、誰が決めたかもわからない一年という単位の中の何の意味も持たない一日、何の変哲もない八月四日。

 もう一眠りしようかと目を閉じると、聞き慣れた懐かしい声が聞こえる。呆れたように僕に呼び掛ける声。僕は渋々、睡魔を払いのけてソファーから起き上がった。凝り固まった身体をほぐすために背伸びをする。


「ソファーで寝ちゃダメって言ったでしょ。ちゃんと自分の部屋で寝てよね。夏休みになってからいつもそうなんだから」


 葵とのいつものやり取り。平凡な日常。僕は「ごめん、ごめん。気をつけます」とキッチンの方を向いて謝ると、信じられない光景が目に入った。

 いつも僕と葵しかいない食卓に他の誰かがいる。僕と目が合ったその人は気まずそうに会釈する。僕はその人を知っている。その人は僕の人生にとって重要な人。僕にスイッチを渡し、新しい世界へ導いてくれた少女。なんでその少女がここにいるのかわからない。

 呆然と少女を見つめていた。少女も僕を見つめ返した。何がどうなっているのかわからない。記憶を呼び起こそうと過去に集中すると、少女のことが自分の名前を思い浮かべるように自然と思い出された。

 少女の名前は小路綾乃。僕の同級生でクラスメート。去年の夏に僕が告白して、人生で初めてできた僕の恋人。

 思い出には何の違和感もなく、鮮明に刻まれているのに何かがおかしい。綾乃は特別な存在で、スイッチを必要としている人の前にしか現れない特別な存在のはずなのに。それなのに葵と同じ空間に存在して、認識され、僕の記憶にもいろんな人との交流が刻み込まれている。どういうことなんだ?

 ソファーの前で立ち続けるわけにもいかず、食卓について、正面にいる綾乃を見つめる。綾乃は僕が座ってから目を合わせてくれない。俯いて、申し訳なさそうにしている。葵に聞かれないように小声で訊ねた。


「君はどうしてここにいるの? 何か知ってるの?」


 記憶の中では「綾乃」と呼んでいたけど、気恥ずかしくて呼べなかった。

 綾乃はそんなことを気にする素振りもなく、不安そうに言った。


「何も覚えていないの? 前の世界のことを」


 やっと目を合わせてくれた。でも、初めて会った時のように綾乃の瞳は輝いていない。不安と憔悴に支配され黒くくすんでいる。

 僕まで辛くなりながら、前の世界を思い出す。この世界よりも不明瞭になりかけている記憶を悪戦苦闘しながら呼び起こす。

 瑞希に彼氏ができたことを知って、いつもと違う道で歩道橋に向かった。歩道橋で熱中症になりかけて、真壁さんと出会った。そして、真壁さんと歩道橋で過ごすようになり、告白されて、答えを伝えるためにいつもの道を通って歩道橋に向かい……。

 すべてを思い出した。僕は自動車に轢かれたんだ。なのにどうしてここに? どんな奇跡が起こったんだ?


「スイッチを押してないのに、何で僕は違う世界に来れたの?」


 綾乃は今にも泣き出しそうだ。「ご飯は後で食べるから」と葵に言って、綾乃を連れて自分の部屋に行った。

 綾乃は僕の部屋に来ても黙ったままだった。僕は待つことしかできない。俯く可憐な姿を見つめながら。

 十分ほど待って、綾乃は意を決したように話し出した。か細く弱弱しい声で。


「車に轢かれそうになっているあなたを見て、どうにか救いたいと思ったの。でも、私があそこに出ていって、助けるには遅かった。手段は一つしか残されていなかったの。だから、私はスイッチを押してしまった。私はスイッチを押しちゃいけないのに。どうにかしたかった。無我夢中だったの。どんな結果になるかわからなかったけれど、私は押してしまった。それであなたを救ことはできたけれど、私はただの人間になってしまったの……」


 最後はほとんど消え入りそうな声になっていた。僕はそんな綾乃に同情した。そして、感謝した。僕のために自分のことも考えずにここまでしてくれるなんて。


「ありがとう。僕なんかのために」


 綾乃は何か言いたそうな顔をしているけど、言葉が出てこないみたいだ。僕は励ますために言葉を続ける。何度も綾乃に救われてきたんだから。


「人間も楽しいもんだよ。ずっとスイッチを押す人のために生きてきたんでしょ? なら、これからはそのご褒美だと思ってさ、一緒に楽しもう。今は夏休みだし、いろんなことができるから。それに、この世界が気に入らなければ、君の仲間が現れて、またスイッチを押させてくれるよ。それで二人の満足する世界を探そう」


 綾乃は言葉もなしに首を振った。僕はそのしぐさの意味が理解できなかった。何て言ったらいいかわからず、言葉を探すけれど、先に綾乃が口を開いた。


「もうスイッチを押すことはできないわ。この世界から出られないの。私しかスイッチを持っていなかったから。私が人間になったことで、スイッチも消えてしまった……。あなたも私もこの世界から出られないの。本当にごめんなさい。私のせいでこんなことになってしまって」


 綾乃の瞳から光るものが流れ落ちた。

 僕は何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。綾乃が落ち着くのを待つしかなかった――これからのことを考えながら。

 違う世界に行く旅は終わってしまった。正直、後悔がないといえば嘘になる。これまでみたいな出会いがあったかもしれないし、運命の娘に会うチャンスもたぶん一度きりしか残っていないから。それだけど、ここら辺がどちらにせよ潮時だったのかもとも思う。あれ以上あの娘とのすれ違いを経験したら、僕の心は壊れてしまうかもしれないから。無我夢中で道路に飛び出したのがいい例だ。それに僕には大切な人ができた。葵に瑞希、真壁さん、一応坂本君も。綾乃もそれに加わるわけだし、これ以上何を望む必要があるだろう。僕は何度もやり直しをさせてもらって、幸せな時間を過ごした。これ以上を望むなんて贅沢過ぎる。

 人生はやり直しがきかない。だから全力になれる。何年も前に気づいていなければいけなかった大切なことを綾乃が教えてくれた。最高の体験だった。

 こんな経験をさせてくれた綾乃には感謝しかない。

 綾乃のために僕は生きよう。綾乃が悲しんでいれば、それを取り除き笑顔にしよう。綾乃が望む限り寄り添い、恩返しをしよう。

 僕は涙にくれる綾乃の手を取った。言葉が自然に流れてくる。


「泣く必要なんてないんだ。僕が求めていた世界に来れたんだから。本当にありがとう」


 綾乃の目は真っ赤になっていた。それでも僕の言葉を聞いたからか、涙は止まっていた。

 僕らは見つめ合った。初めて歩道橋であった時のように。あの時とは立場が逆になってしまったけれど。これからは僕が綾乃のために生きるんだ。

 僕は笑った。綾乃もつられて笑った。

 最高の笑顔だった。僕は綾乃のためなら何でもできる。



 二人で笑い合った後、僕たちはこれからのことを話し合うことにした。

 まず綾乃の両親のことだ。綾乃の記憶には鮮明に残る両親の記憶だけれど、綾乃は記憶でしか知らない。今日、人間という存在になって、実際にはあったことのない両親の待つ家に帰らないといけない。綾乃にとって不安なことだろう。本当の意味で知っている人間は僕しかいないのだから。

 二人で無い知恵を絞った結果、綾乃がこの世界に慣れるまでの間、僕の家に泊まってもらうことにした。まず葵に相談して、二つ返事で了解を得た後に、難関の綾乃の両親への連絡が待っていた。二人の記憶には厳しい両親だという印象はないけれど、いくら一年近く付き合っているからといって、年頃の娘を異性の家に泊まらせるかはわからない。こればっかりは聞いてみないとわからず、綾乃は不安と緊張が入り混じった表情で電話した。

 話は意外なほどあっさり片付いた。綾乃の母親は「迷惑をかけないように」と言って快く綾乃のお泊りを許してくれた。

 一番の問題が解決して、あとはどうやって綾乃がこの世界に慣れていくかだった。人間として初めて生きる綾乃の気持ちはわからない。曲がりなりにも人間社会に生きてきた僕には。

 二人で悩んで答えを出せずにいたけど、答えはあっさり向こうからやってきた。扉をノックする音が聞こえ、葵が遠慮がちに「買い物に行ってくるね」と言ってきた。僕はその時ひらめいた。スイッチを押してからできた僕の大切な人たちと綾乃が交流すればいいんだ。同性同士だし、僕を見守っていた綾乃も接しやすいはずだ。手早く綾乃にそのことを説明し、了承を得てから、買い物に行く葵についていくことにした。

 空は雲ひとつない快晴だった。葵を真ん中にして三人でスーパーに向かう。初めて葵と買い物に行った時が思い出される。あの時の僕は初めて女の子と出掛けて、腕を絡められて歩いて、狼狽し続けていた。それが美少女で、実の妹なんだから、僕には難易度が高すぎた。でも、葵のおかげで、僕はどの世界でも頑張ることができたし、今日も助けられている。綾乃に楽しそうに話しかける葵を見ていると、いつも思うけど感謝しかない。

 真夏の日差しを浴びて、三人で汗だくになりながらスーパーまでたどり着くと僕はカートを押して、二人の女の子につき従う。葵の無邪気な優しさのおかげで、綾乃もすっかり打ち解けた様子だ。

 三人で楽しく買い物をすませ、また夏空の下を歩く。この空はどの世界でも変わらない。青く澄み渡り、どこまでも行けるような気がしてくる。


「葵、綾乃さんみたいなお姉さんがほしかったんです。頼りない兄ですがよろしくお願いします」


 夏空を見上げていた僕の耳に、からかいつつも、真剣な葵の声が入ってきた。僕は咄嗟に葵に目を向けると、彼女は小悪魔っぽい笑顔で僕と綾乃を交互に見つめる。綾乃は顔を真っ赤にしてあたふたしていた。僕は楽しそうに笑う葵を見ながら、「あんまりからかうんじゃないぞ」とたしなめた。葵は「ごめんなさい」と綾乃に謝ったけれど、笑顔は消えていなかった。葵なりに綾乃の緊張をほぐそうとしたんだと思う。それに、あれは本心だろう。葵の目を見ればわかる。僕は葵の兄なんだから。

 家に帰ってから、三人で他愛のないおしゃべりをしたり、映画やドラマを見て過ごした。かけがえのない幸福な時間――こんな時間を過ごしていると、いつまでも続けばと願わずにはいられない。大切な人たちが笑顔で過ごす時間、僕が求めた瞬間だ。

 夕食は葵の手料理に舌鼓を打った。初めて経験する食事という行為に綾乃は興奮しっぱなしで、葵のいない時に「私も作ってみたい」と息巻いていた。

 夕食の後、葵に「夫婦みたい」とからかわれながら綾乃と二人で後片付けをした。三人でまたテレビを見て、各自入浴をすることにした。まず、綾乃が入ることになった。葵曰く「お客様が一番」だそうだ。僕は何の異論もなかった。綾乃が入浴している間、葵とテレビを見て時間を潰し、綾乃が戻ってきた時、僕は思わず息を呑んだ。葵に借りた可愛いピンクのパジャマを着る綾乃は美しく妖艶だった。しっとり湿った黒い髪、火照ったし白い肌、淡く上気した頬、僕は不躾に見つめていた。

 綾乃はそんな僕の視線に恥じらったように自分の胸を抱いていった。


「何か変かな?」


 僕は一瞬言葉に詰まりながら「問題ないです」となぜか敬語で答えていた。

 そんな姿を見て葵はニヤニヤ笑いながら、浴室に向かった。

 僕たちの間にはそんなことがあってか、葵が戻ってくるまでぎこちない空気が流れた。

 僕も入浴をすませ、ダラダラと三人で過ごし、もうあとは寝るだけだった。ここまで考えないようにしていたけど、葵以外の女の子と初めて一夜を過ごすことになる。僕はリビングのソファーで寝るつもりだけれど。それでも、僕のベッドで綾乃は寝ることになるはず。思春期の男子高校生にはあまりにも刺激の強すぎる体験だ。

 僕はできるだけそのことを考えないようにしていると、葵が「綾乃さん、今日は一緒に寝ましょ」と言って、綾乃を連れて自分の部屋に退散してしまった。

 残念じゃないと言えば嘘になるけど、綾乃が小さく手を振って「おやすみ」と言ってくれたから僕は満足だった。

 一人になった僕は心安らぐ自分の部屋に戻り、ぐっすり眠った。


 次の日の朝、僕はいつも通り葵に起こされた。眠気が冷めやらぬまま、リビングに行くと綾乃の姿はなかった。今まで存在していなかったかのように。もしかして、昨日のことはただの幻だったのか、もしくは綾乃はルールを破った罰を受けて消えてしまったのではないかと思った。僕は今にも泣きそうだった。そんなことは受け入れられない。僕のために人が消えてしまうなんて。

 僕は観葉植物のようにただそこに立っていた。そんな僕を葵は不思議そうに見つめて「ご飯できたよ」と呼びかける。僕はその声に反射的に反応して席に着いた。暖かな料理が運ばれてくるけど、何の興味も持てない。

 そんな僕の反応を気にも留めていなかった葵が、思い出したように言った。


「そういえば、綾乃さん、家に着替え取りに行くって言ってたよ」


 その言葉を聞けたおかげで、目の前に置かれた物体が途端に色付き、意味を持った。

 今日も葵の料理は完璧で、素晴らしい一日が始まる!

 そうは言っても、綾乃が帰ってくるまで不安でたまらなかった。

 ちゃんと家までたどり着けるだろうか。

 何か事故や事件に巻き込まれたりしていないだろうか。

 両親とうまくいくだろうか。

 僕は何も集中できぬまま、綾乃の帰りを待った。

 昼頃になって、やっと綾乃は帰ってきた。大きなスーツケースと紙袋を抱えて。紙袋はお母さんからのお土産だそうだ。葵は喜んでお土産を受け取った。中身は高級そうなお菓子だった。

 綾乃は何も言えない僕の顔を見て、心情を察したのか、満面の笑みを浮かべてVサインをした。家族との邂逅は成功したんだ。

 その日の午後、瑞希が訪ねてきた。葵から綾乃が来ているのを聞いたみたいだ。クラスメートである瑞希と何の違和感もなく話す綾乃を見られて、僕は嬉しかった。

 綾乃がどんどん幸せになっていく。

 女の子三人で盛り上がった後、みんなで近くのショッピングセンターに行くことになった。瑞希が今度のデートのために新しい服を買いたいそうだ。

 僕たちはそそくさと戸締りをすませて、近くのバス停へ歩いて行った。ほんの十分ほどの距離。真夏の日差しが僕たちを焼き尽くそうと降り注いでいる。四人とも汗だくだった。今までの僕ならすぐに引き返していたかもしれない。三人の楽しげなおしゃべりと今までの経験が僕を勇気づける。みんなの言葉には力があった。周りの人間を明るく元気にさせる力が。だから僕もその力に後押しされて、バス停へとずんずん進めた。

 幸いにもほとんど待つことなくバスに乗れた。思いのほか空いていた車内で、僕らは自然と二人席に腰を下ろす――僕と綾乃、葵と瑞希という具合に。いつかの世界で瑞希と二人でバスに乗った時とよく似ている。僕はその経験があるから、平然としていられると思ったけど、そんなことはなかった。二人の腕がしっかり触れ合ったところで、僕の鼓動は跳ね上がった。綾乃にバレていないかこっそり表情を確認すると、真っ赤な顔をして、綾乃も僕を見ていた。二人とも同じだった。

 ショッピングセンターは夏休みのせいもあってか、人で溢れかえっていた。瑞希と訪れた時と同じ、あらゆる年齢層が入り乱れ、最低限の秩序のもとにひしめき合っている。瑞希と一度来ていなければ、逃げかえっていたかもしれない。

 僕と綾乃は葵と瑞希に連れられて、いろいろな店に行った。服屋では女の子同士の話についていけず、一人疎外感を感じ、みんなで行列に並んでクレープを食べ、喫茶店で僕と綾乃の馴れ初めを根掘り葉掘り聞かれた。二人で赤くなる僕らを葵と瑞希はからかい、四人で他愛のないは話を楽しんだ。

 今までの経験が存分に生かされた時間だった。

 そして、僕と綾乃はよりお互いを知れた。

 存分に四人の時間を楽しんで僕たちは最後にあるところに行くことにした。

 カラフルな光が雑多に絡みあい、歓喜と驚嘆と嘆息が無秩序に響き合う場所。大小様々なアーケードゲームやクレーンゲームが所狭しと並び、一種の迷路のように狭い空間を区切っている。瑞希と来た時と何も変わらない。騒がしく活気あふれる場所、ゲームセンターだ。

 目的の場所について、みんなでクレーンゲームやったりしていると、葵と瑞希が「買い忘れたものがある」と言って二人でどこかに行ってしまった。

 僕らは行くところもないから、そのままゲームセンターで時間を潰すことにした。綾乃は目を輝かせていろんなゲームをやりたがった。葵たちといる時は普通にしていたけれど、綾乃にとってはすべてが初めてなんだ。僕は無邪気にはしゃぐ綾乃と一緒にいろんなゲームに挑戦した。僕も綾乃もうまいことできなかったけど満足した。お互いが笑顔ならそれで満足なんだ。

 僕らはいろいろなゲームをしながらどんどん奥に進んで行き、見覚えのある場所にたどり着いた。プリクラの機械が建ち並ぶエリアだ。綾乃の記憶にもプリクラは色濃く残っていたみたいで、「プリクラ撮ろうよ」と言って僕の袖を掴んではしゃいでいる。初めて会ったころからじゃ想像できない変わりようだ。これが本来の綾乃の姿なのかもしれない。仕事のために自分を殺していただけなんだ。


 僕らはプリクラを撮った。白く輝く空間で、もちろん二人きりで。


 落書きを終えて、出てきたプリクラは一生の思い出だった。

 この世界にいるはずのなかった二人の、二人だけの証。

 それから少しして、葵から「先に帰ってていいよ」と連絡が来て、僕たちは家路につくことにした。葵なりにお節介を焼いたんだと思う――本当にできた妹だ。

 僕達はその好意にあやかり、二人の時間を過ごすことにした。僕達には二人の時間が必要だったから。今までの時間を再確認するために。そして、これからの二人の思いを確認するために、

 行きと同じく、思いのほか空いているバスに乗り、二人席に腰を下ろした。この世界でも行きのように緊張することはなかった。綾乃との幸福を噛みしめ、いつまでも続くことを願った。綾乃も同じ気持ちだったと思う。プリクラを嬉しそうに見つめ、満面の笑みで「また行こうね」と言ってくれたから。

 僕達の思いは通じ合っている。

 二人でおしゃべりを楽しむ間にバスはどんどん進む。瑞希と下りたバス停も過ぎて、あの歩道橋が近いことに気づいた。僕と綾乃が出会い、二人の運命を変えた場所。あの場所で運命の娘との出会いを幾度となく夢想し、挑戦し、失敗した。

 今から思えば、おかしな話だ。話したこともない女の子のために、何度も違う世界に行くなんて。魅力的で僕に思いを寄せる女の子がいたのに。僕は最高にあほだ。でも、そのあほな考えのおかげで綾乃とこうしていられる。

 バスは僕の未練を断ち切るように平然と歩道橋を通過する。その間、僕は黙って歩道橋を見ていた。そこには誰もいなかった。

 いつもの古びた歩道橋しかない。

 誰かの運命を劇的に変えた場所なんて思えない。

 歩道橋が後方に消え去り、僕の意識は隣に座る大切な恋人に戻った。綾乃は何か思いつめたように静かだった。どこを見るでもなく視線は虚空をさまよっている。もしかしたら、僕の頭の中を覗かれてしまったんじゃないかと不安になる。綾乃は僕が何を考えているかわからないはずなのに。僕を救ったことで、スイッチも、人の考えを読み取る能力も失ってしまったのだから。

 綾乃と一緒にいるのに運命の娘のことを考えていたから、後ろめたさを感じたんだと思う。何だか恋人を持ったことを実感させられる出来事だとも思えるけど、通じ合っていた僕らの思いが幾ばくもなく千切れたようにも思える。これが誰かと付き合うということなのかもしれないけれど、僕にはよくわからない。この世界での僕も、今の僕も何もわかっていない。霧のように形を持たないあやふやな何かを掴もうともがいている。

 その後、僕たちはまた話し始めたけれど、どこかにしこりを抱えたようなぎこちない会話だった。

 家に帰ってもぎこちなさは消えなかった。お互いに気持ちはすれ違い、それを気にしないようにするせいで、たいして話したことのない顔見知りといる時のようによそよそしく振舞う。何をしても悪い方向に転んでしまう。

 葵が帰ってきてもそれは変わらない。葵がいなくちゃ会話が成り立たず、葵が席を離れると、気まずい沈黙が漂うか、短い言葉が二三交わされるだけ。そんな僕たちに葵は気づいていつも以上に明るく話していたけど、どうにもならなかった。

 僕はどうしたらいいかわからなかった。綾乃も同じだと思う。同じ気持ちを共有しているのに、僕たちはわかり合えない。ほんの数時間前まで、何の滞りもなかったのに。今じゃ川の淀みみたいに濁って相手のことがわからない。

 僕たちの雰囲気にのまれ、葵も口数が少なくなっていった。いつもの楽しい夕食も、食卓に並ぶ豪華な食事と裏腹に梅雨時みたいに陰湿だった。一人で寂しさを噛みしめる食事よりもつらい時間。今すぐにでも自分の部屋に逃げ込みたかった。でも、それはできない。

 綾乃は僕にとって大切な人だから。その大切な人のために生きようと僕は誓った。こんなことで諦めてなんかいられない。僕たちが乗り越えなきゃいけない障害はこれからも腐るほどあるんだから。僕がどうにかしないと。

 そんな風に思ってもすぐに何か浮かぶわけもなく、気まずい食事を終え、三人で黙々と後片付けをした。その間に、今まで渡り歩いた世界の記憶に答えがないか巡っても、何も見つからない。いや、見つからないどころか思いつきもしない。一体どうしたらいいんだろう。

 葵は片付けが終わると、僕に鋭い視線を投げかけて自分の部屋に引き上げてしまった。二人の問題なんだから二人で解決しろということだろう。僕もいつもの関係に戻りたいのは山々だけど、まだ何も思いつかない。

 綾乃と二人でリビングのソファーに無言で座ったまま、虚しくテレビの音だけが響く。僕はスイッチを押してから最大の危機に陥っているかもしれない。今まではただ運命の娘に会うことを考えてきた。でも、その目的がなくなって、どうやって問題を解いたらいいのかわからなくなっている。答えはわかっているのに――綾乃を幸せにしたいだけなのに。

 運命の娘を求め、がむしゃらに過ごしたあの日が懐かしい。あの時はただ必死だった――運命の娘と、その世界で出会った誰かのために……。

 不安そうに隣に座る恋人を見て、初めて彼女に出会った時のことを思い出した。

 不安に苛まれていた夏空、絶望と希望を抱いた夜道……。

 あの時が今の僕を創ったのかもしれない。

 あの時間があったから、僕は誰かと向き合い、最善の方法を導き出す努力ができた。

 一人で歩いたあの時間。暑さにもまれ、汗にまみれた一時……。

 そんな時間が僕には足りていなかった。どの世界でもその時間があったからこそ成長できた。今の僕はその時間を放棄している。その時間に身を置き、その時間を綾乃に知ってもらうことで、僕たちはよりわかり合える気がする。


「綾乃!」


 僕は唐突に呼びかけた。

 綾乃は少し飛び上がり、背筋を伸ばして僕を見つめる。いつだったかの僕を見ているみたいだ。


「少し散歩にでも行かない?」


 僕はできるだけ優しく訊ねた。少しでも間違えれば僕たちの関係は修復できないように思えたから。綾乃は僕の通り雨みたいな問いかけに一瞬目を丸くしたけど、満面の笑みで「うん」と頷いてくれた。

 今まで見たどんな笑顔よりも素敵だった。綾乃のためなら身命を賭してもいいと思えるほどに。



 誰もいない夜道には、スイッチを押す前から親しんだ光景が広がっていた。蝉の鳴き声のように騒がしく生命力著しい昼とは打って変わって、死んだように静かで自分しかいないように思わせる夜。時たま通りかかる人や自動車が、僕だけしかいないという錯覚を打ち破る。それでもそう思えるのは一瞬で、静寂が僕を俗世から切り離す――いつもだったら。でも、今日は綾乃がいる。綾乃に僕の見てきたものを知ってもらえる。口下手な僕にできる精一杯の手段だ。それで僕の気持ちが伝わるかはわからない。でも、やらないといけない。行動に移さずに後悔なんてしたくない。僕はスイッチを押してから学んだんだ。

 綾乃は僕の隣を静かに歩いた。点々と続く街灯、暖かな光が溢れる家々をぼんやりと眺めている。月の淡い光に照らされた横顔は、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で神秘的で美しく完璧だった。僕の隣を歩き、存在していることが疑わしくなる。でも、綾乃は存在している。僕の想像もつかない高尚な存在としてではなく、一人の女の子として。

 僕はつぶやくように綾乃に言った。


「僕はこんな景色が好きなんだ。陽の光もなく、純水のようにどこまでも透き通って、静かなこの風景が。この風景が僕をここまでくる決断をさせて、僕を導いてくれたと思う。もちろん君という存在がなかったら、ここまで来れなかった。この静かな時間があったから、君との関係を真剣に考えられたんだ。この時間と風景が、君との未来を確実に鮮明なものへと変貌させたんだ。僕は綾乃が必要なんだ。綾乃がいなかったら、僕は自分の存在を保てない。綾乃と関係を持てない有象無象で、特別な何かも失ってしまう。綾乃には本当のことを言ってほしい。僕にとって大切な存在だから。綾乃なしでは生きていけない。綾乃のすべてがほしい。綾乃に僕が必要なくなっても」


 僕はこの時初めて綾乃を名前で呼んだ――記憶の中では何度も呼んでいたけど。

 綾乃は涙していた――僕にその理由はわからないけど。

 嗚咽も漏らさず、ただ瞳から雫を流す綾乃は完璧だった。今まで綾乃が美の化身と思っていたけど、それが誤りだったことがわかる。綾乃が美そのものなんだ。「美」という概念そのものが綾乃という存在から発している残光でしかない。綾乃がいなければ「美」は生まれなかった。綾乃がいなければ世界は「美」という概念を知りえなかった。

 綾乃は「美」という概念をまざまざと、そして無意識に見せつけつつ、僕に静かに語り掛けた。


「私は怖かったの。あなたに捨てられるんじゃないかって。あなたしか知る人のいない世界で見捨てられるんじゃないかって。だから、あなたが歩道橋を見つめている姿を見た時、あなたに縋りつこうとした。でもそれはできなかった。私の中に微かに残る特別な存在という自負が、あなたに縋るのを止めさせた。私はまだ特別で、スイッチを持つ特別な存在に戻れると囁いたの。だから、あなたの姿を見ても何も言えなかった。私を見捨てないでと言えなかった。あなたを見守る存在でいようとして、あなたの気持ちを知っていながらあなたを突き放そうとしてしまったの。でも、それは間違いだった。あなたは私のことを第一に考え、私のために動いてくれた。私がすべて間違っていたの。自分の本心を押し殺して、傍観者でいることは間違い。私はこの世界の一部になってしまったんだから」


 綾乃はどこまでも続く闇夜のような目で僕を見つめた。


「智洋君、私はあなたを愛してる。いつまでもあなたと一緒にいたい」


 綾乃も初めて名前で呼んでくれた。

 僕たち二人にとって新しい始まりだった。



 その時があってから、僕たちはお互いを今まで以上に思い合った。お互いの幸せのために過ごして、考え続けた。お互いに意見が衝突すれば納得いくまで話し合った。

 真壁さんとこの世界で出会った時が最たる例だ。

 僕と綾乃は残りわずかとなった夏休みを満喫して、いつものように、夕飯の買い出しに出掛けていた。そのころには葵は僕たち二人の時間を作るかのように買いだしをせっついて、日常化していた。

 いつものスーパーに行って、葵と綾乃が考えた献立の食材を買いに行く。時折、寄り道をしたり、いつもと違うところに買い物に行く、綾乃と僕の日常。そんな時に、僕たちは出会ってしまった。僕をこの世界に閉じ込め、綾乃を人間へと変えてしまった遠因に。

 それは通り雨のように唐突にやってきた。いつものスーパーではなく、近くの小さなショッピングセンターにやってきた時だ。

 僕たちは手早く買い物を終え、小さなフードコートでカップに入ったソフトクリームを食べていた。小さいけれど幸福な時間。僕も綾乃もそんな時間が好きだった。今まで得られなかった幸せを噛みしめ、思い出を作っていけるこんな時間が。

 そんな時間を無意識にぶち壊す存在が現れた。媚びるような猫を被った声。綾乃の幸福そうな表情は消え、彫刻のように無機質な顔へと変わる。僕たちの関係を裂くようにひょっこりと、輝かしい笑顔が割って入る。

 真壁さんだった。真壁さんとの出会いが僕たちの運命を変え、唯一真壁さんだけが僕に気持ちを伝えた存在だった。真壁さんは僕への思いを隠さなかった。正々堂々と僕と対峙し、僕に思いを伝えた。綾乃にとって最大級の宿敵だった。真壁さんのせいで、僕はこの世界に幽閉され、綾乃自身も力を失った、と綾乃は思っているはず。綾乃を見ればわかる。無表情な仮面の下には憎悪と嫉妬が渦巻いている。僕が初めて秘密を共有した人なのだから。その真壁さんに、僕を取られると思ったとしても不思議じゃない。綾乃はいつでも不安で一杯なんだ。僕しか本当に頼れる人はいないんだから。

 そんな不安を察知しながらも、僕は真壁さんに愛想よく振舞った。真壁さんには何の非もないから。無意味に彼女を傷つけたくはない。


「奇遇だね、こんなところでどうしたの?」


「最近、バイトはどう?」


「久々に会えてうれしいよ」


 真壁さんは綾乃の冷たい視線を知ってか知らずか、無邪気に答える。


「友達と遊んでたんです」


「大門さんがいなくて寂しいです」


「運命かもしれませんね」


 無邪気に笑う真壁さんを見ていると、それは穢れを知らない本心で、一切悪気のないように思える――実際そうなんだろう。でも、綾乃の意見は違うようだった。葵や瑞希といる時のように会話に参加せず、静かに視線を向けるだけ。一見、人見知りのせいで黙っているようにも思えるけど、それは違う。綾乃は人見知りなんかじゃない。葵や瑞希とすぐに打ち解けていたのを見ればわかる。僕に無言の圧力をかけているんだ。そして、真壁さんへの強硬な牽制。僕の推測するに女同士の駆け引きだと思う。僕を飛び越えて、交わされる攻防。そのことを後に綾乃に訊ねてもはぐらされるだけだったけど、僕はそう思う。

 楽しそうに僕と会話していた真壁さんだったけど、綾乃の無言の剣幕に押されて、おずおずと友達のもとへ帰っていった。二人の間に言葉は必要なかったんだろう。二人とも一切言葉を交わさず、存在を認識していないように振舞った。真壁さんがその場を離れるまで。

 僕たちは久々に気まずい沈黙を過ごした。黙々とソフトクリームを平らげ、まだまだ暑いながらも、どこか秋を足音が聞こえる街中を歩いて家へと向かった。

 綾乃はポツリと呟いた。


「智洋君が取られちゃうんじゃないかって不安になったの。ごめんなさい」


 綾乃の瞳から、純粋で、尊い心の欠片が零れ落ちそうだった。

 僕は綾乃の気持ちを受け入れ、心から言った。


「僕の方こそごめん。綾乃を不安にさせてしまって」


 綾乃は僕を見つめて笑ってくれた。

 僕にはそれで充分だった。

 綾乃の笑顔をまた見られたのだから。


 

 始業式を目前に控えたある日、僕と綾乃は二人でリビングにいた。葵は友達と出掛けて、我が家は完全に二人だけの空間だった。優しく降り注ぐ陽光を浴びて、どこまでも続く草原に二人で座って空を眺めているような幸福な時間。綾乃の春風のようにさわやかな呼吸を耳に感じ、曇りのない純粋な瞳を見つめて、時折二人で微笑み合う。二人の間にほとんど会話はなかった、必要なかった。僕たちは完璧にわかり合えていた。相手の仕草や表情だけで、すべてがわかる。僕たちは一緒にいることができればそれで充分だった。

 そんな時間がいつまでも続くと信じていた。それでも、もしかしたら、この幸福がいつの日か消え去ってしまうかもしれないという恐怖が時折ちらついた。僕はこの気持ちをどうにかして消し去りたかった。一人になるとそのことばかり考えて、綾乃に「本当のことを言ってほしい」といっておきながら、僕は自分の中に渦巻く不安を告白できないでいた。でも、そんな不毛な日々も昨日の夜に終わりをつげた。僕のベッドで静かに眠る綾乃を見つめている時に。

 二人であの歩道橋に行こうと決意した。そして、今までの世界との決別の意味も込めて、綾乃に僕の気持ちを改めて伝えたい。あの歩道橋の下をバスで通った後や、真壁さんと会った後にも僕の気持ちを伝えたけど、それはお互いのぎくしゃくした関係を修復するためのものだった。もちろんそれは必要に迫られたゆえの嘘だったわけじゃない。僕の本心で、綾乃もそれに全力で答えてくれた。でも、だからこそ、僕は改めて綾乃に気持ちを伝えなきゃいけない気がした。上質紙のようにまっさらな状態から僕たち二人の未来を描いていくための一歩。

 僕が何か考えていることに気づいたのか、綾乃は可愛らしく小首をかしげ僕を見つめる。その仕草を見ているだけで僕は幸せだった。これからしようと思っていることなんて必要ない気がしてくる。でも、そうやってあやふやにしてしまうことで、僕は何度も後悔してきた。ここでこの関係を後悔するなんてことはしたくない。


「行きたいところがあるんだけど、一緒に行ってくれる?」


 綾乃は星の煌めきのように儚くきれいな瞳で僕を見つめ、頷いた。



 騒々しい蝉の鳴き声とむせかえるような熱風。陽が沈みかけていても、夏はいやらしくも僕らをあざ笑うように鎮座していた。滝のように流れ出る汗が不快感を催すけれど、隣に綾乃がいるからそれさえも快感に思える。

 僕たちは炎天下の中、いろいろな話をした。葵のこと、瑞希のこと、真壁さんのこと、これからの学校のこと、自分達のこと。記憶にしかない思い出を新たに焼き直すように話し続けた。これからの二人の関係を深めるためには必要なことだ。

 僕たちが出会った歩道橋の所まで来ていた。ここで、綾乃に会い、二人で笑い合った。綾乃の奇想天外な話を聞いて、彼女の真剣な眼差しで僕はそれを信じることにした。本当にいろいろなことがあった。綾乃のおかげで僕はすべてを手に入れたと思う。友達も家族も恋人も。

 僕たちにとってこの場所は特別だ、と改めて思う。二人が出会い、この世界へと導いた特別な場所。たぶん、この場所じゃなかったら、綾乃と出会い、お互いを思い合うなんて関係にはなっていなかったと思う。この場所だから特別になれた。いつだったか、この場所が出来の悪い絵画のように思えた。いつ見ても同じ印象しか受けず、新しい発見のない場所。でも、それは完全な間違いだった。ここに吹く暑苦しい風、縦横無尽に形を変える雲、有象無象に思えた人々、僕の掌に伝わる感触、その他すべてが「今」しか感じられない特別な一時だった。

 今、綾乃といるこの時もそうだ。あの時とほとんど変わらず、まだまだ夏は続きそうだけど、どこか秋を感じさせる何かがある。肌にまとわりつく熱風に、青々と繁る木々に、騒々しい蝉の鳴き声の中に僕は変化を感じる。僕たちにとってその変化が喜ばしいものだと願ってやまない。

 綾乃は人間として初めて見るこの場所からの景色を感慨深そうに眺めていた。僕も一緒になって何の特徴もないありきたりな風景を眺めた。

 改めて僕は思った。綾乃は完璧な女性だと。誰もが羨む美貌を持ち、誰にも負けない優しさを持っている。僕にはもったいない女性だ。だからこそ、僕は綾乃に見合う男にならなきゃいけない。綾乃を助け、支えられる存在に。

 僕は綾乃に釣り合う人間になれるだろうか。

 本当に隣にいていいのだろうか。

 綾乃を助けられるだろうか。

 綾乃を支えられるだろうか。

 綾乃のために生きることができるだろうか。

 不安はとどまることを知らない。氾濫した河川のように混沌として終わりが見えない。僕の決意は濁流に巻き込まれそうになっていた。だけど、ここでやめるわけにはいかない。僕は綾乃に伝えないといけない。今までの感謝を。僕の気持ちを。

 スイッチを押して人間になる前から、綾乃は僕が何を思っているか知っていた。僕がどれだけ綾乃に感謝しているか――綾乃に届くかもわからずに感謝を述べたことも。でも、面と向かって、僕の人生を変えてくれたこと、僕に希望を与えてくれたことにお礼を言えていない。

 僕の口から発する言葉を聞いてほしい。

 綾乃の耳に僕の言葉を届け、心に伝えたい。

 そう思っていた。言葉はほとんど出かかっていた。でも、綾乃に送ろうとしていた言葉は、霧のように曖昧になって消えた。何を言おうとしていたかさえ覚えていない。

 運命の娘が歩道橋に向かって歩いているのを見つけてしまったから。運命の娘のことしか考えられない。僕の視線は彼女を捉えて離さない。

 愉快に揺れ動くポニーテール、雪原のように白く美しい肌、皺ひとつない純白のセーラー服とそこに隠された肢体が僕の目に焼きつく。

 あの娘に笑顔を届けるために僕は世界を旅してきたんだ、と改めて思いだす。それなのに、あの娘はすでに満面の笑みを浮かべていた。もちろん僕のためにじゃない。隣を歩く男のために。見覚えのない高校の夏服をさわやかに着こなした青年。身長も高く、顔も整った、僕とは正反対の位置にいるような青年。その青年はあの娘に笑顔を届け、幸せを分かち合っている。

 僕の心には絶望と怒りと嫉妬が渦巻いていた。

 僕はもうほかの世界に行けず、あんな光景を見せつけられ、あの二人が幸せに生活する世界に居続けなければいけない。

 僕がどれだけ思おうと、あの娘は振り向いてくれない。

 僕は強く願った。この世界からの脱出を――僕を傷つけ続ける世界からの脱出を。

 絶望のあまり強く握っていた手に何かが握られていた。小さくて四角い、長方形の何か。何かを握りしめた固いこぶしを、胸の前まで持ってくる。手に握られていたのはハーモニカほどの大きさで、見覚えのある何かだ。

 隣にいることさえ忘れていた綾乃が息を呑む音が聞こえる。彼女は僕の手にある何かの正体に気づいたみたいだ。

 僕はゆっくりと手を開いた。そこには赤と青の小さなスイッチが、僕の運命を変え続けた装置があった。

 綾乃は僕に縋りついて、哀願する。


「お願い、押さないで。私を一人にしないで」


 僕の耳には届かない。僕の意識は赤いスイッチでしか占められていない。赤いスイッチを押せば、この世界から消え去り、新しい世界へ行ける。傷つけられることがなくなる。

 綾乃の声が聞こえる。

 何を言っているか僕にはわからない。

 悲しげな声音しか僕にはわからない。

 その声も僕の心には響かない。

 テレビやラジオから流れる赤の他人の声と同じ。

 僕を傷つける二人はどんどん僕らの方へやってくる。

 時間はほとんど残されていなかった。

 綾乃の制止の声は聞こえなくなった。諦めたのだろうか。それとも、僕が無意識に綾乃の声を締め出した? そんなことが一瞬、頭をよぎったけど、僕には関係なかった。

 赤いスイッチを押すしかこの悪夢のような状況から抜け出すすべはない。

 僕は赤いスイッチを押した。

 目の前が真っ白になる。

 絶望も怒りも嫉妬も悲しみもすべてが消え去った。

 雲一つない青空のように、僕の心は澄み渡っている。


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