5
眩しい日差しと、腰の痛みで目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回し、リビングのソファーで寝ていたことに気づく。いつものリビング。静かな我が家。テーブルの上に置かれたスマホに無意識に手を伸ばす。何の通知もなく何の変化もない。時刻は午前九時を少し過ぎていた。いつも通りの一日が始まった。僕の人生の、誰が決めたかもわからない一年という単位の中の何の意味も持たない一日、何の変哲もない八月四日。
僕はソファーに寝転がったまま、起き上がれなかった。またしても運命のあの娘に会えなかったこと、瑞希との後味の悪い別れが頭から離れなかったから。
何がいけないんだろう。なぜ僕はあの娘に会えないんだ。いつもあと一歩のところまでいくのに。何かに邪魔されて、新しい世界に行かなきゃいけなくなる。少女は、「スイッチを押さなきゃいけなかった」「もっと不幸になっていた」と言うけれど、僕はちっとも実感できない。スイッチを押すたびに大切な人を不幸にしている。坂本君、葵、瑞希、みんなの平穏な生活をぶち壊し、そのまま逃げるように次の世界へと旅立つ。僕は怖いんだろうか。誰かと深い関係になるのが。だから、瑞希との関係も寸前のところであやふやにして、突き放すような真似をしてしまったのか。
もしかしたら、僕はもとの世界に戻った方がいいのかもしれない。誰にも、何にも希望を抱くことのできないあの暗い世界に……。
「お兄ちゃん、そろそろ起きて」
聞き慣れた懐かしい声。ぽんぽんと優しく僕の頭を撫でる小さな手。僕は声の主の方へ顔を向けた。そこには当然、僕の妹がいた。スイッチの少女に会ってからできた妹。いるはずのなかった妹。今ではいなくてはならない大切な妹。
「ソファーで寝ちゃダメって言ったでしょ。ちゃんと自分の部屋で寝てよね。夏休みになってからいつもそうなんだから」
あきれたように葵は言った。僕じゃない僕が何度となく繰り返したやり取り。僕にとってかけがえのないもので、ほかの僕には普通なもの。それを掴むことができた。僕の普通にできた。
スイッチを押しても悪いことばかりじゃない。葵の顔を見てそう思えた。僕にとって大切な人ができたんだ。今まで家族を知らなかった僕に、家族のぬくもりを教えてくれた大切な人が。葵だけじゃない。坂本君や瑞希もそうだ。新しい世界に行くたびに僕は今まで得られなかったものを手に入れてきた。失敗ばかりで、そのことまで目につかなかったけれど。
僕はやれるはずだ。今までの経験を糧にして、運命のあの娘に会うんだ。あの娘に会うことが、傷つけた人たちへの贖罪になるはず。
今までにないほど僕の中に希望が、やる気が湧き上がる。
「瑞希ちゃん来るから、早くご飯食べて」
僕の決意に気づかない葵は、いつまでもソファーに寝転ぶ僕をせっついて食卓へと追いやる。食卓にはいつもの朝ご飯が待っていた。たいして手の込んだものじゃないけれど、僕のために用意された温かいご飯。僕はこの幸せを噛みしめるようにゆっくりと食べた。
スイッチの少女が言ったことは嘘じゃなかった。僕はあのスイッチを押してから確実に幸せになっている。自然と涙がこぼれていた。
「どうしたのお兄ちゃん? 何で泣いてるの? ご飯おいしくなかった?」
いつの間にか僕の前に座っていた葵が、心配そうに僕を見つめていた。
「おいしかったからさ、感動しちゃったんだよ。いつもありがとう」
前にもこんなやり取りをした。その時は泣いていなかったけれど。
僕だけが知っている兄妹の記憶だ。
「おだてても何も出ないからね」
葵は照れくさそうな顔をしている。
「何かこんなこと前にもあった気がするね」
何気ない調子だったから、特に意味はないんだと思う。葵はただそう思ったから口に出しただけ。葵と初めて会った時の記憶を共有できたりしたわけじゃない。それなのに、僕は嬉しかった。スイッチを押してから出会った人々が、今までの世界の葵が応援してくれているような気がしたから。僕は一人じゃない。
朝食を終えて後片付けをしていると、葵は慌ただしく出掛ける準備を始めた。そういえば、さっき瑞希が来ると言っていたっけ。
前の世界で僕が傷つけてしまった瑞希。明るく優しい僕の幼馴染。人の気持ちに敏感で、早合点してしまうところもあるけど、本当にいい娘だ。僕にはもったいないくらいに……。
瑞希に会うのが憂鬱だった。瑞希は前の世界で僕のことが好きだったと思う。僕のために料理を作ってくれたり、二人で出かけ、葵にいろいろと相談していた事実を鑑みれば明白だ。僕はその気持ちに応えるべきだった。瑞希を受け入れるかどうかは別として。それなのに、途中で放り投げた。運命のあの娘に会えそうだったから。瑞希に傾きかけた気持ちをあっさり投げすて、僕はあの娘のところへ向かった。瑞希への態度をあやふやにしたまま。
せめて僕は瑞希に会わなくちゃいけない。この世界で瑞希に謝っても何の意味もないけれど、彼女が幸せであるか確かめなくちゃいけない。
葵が慌ただしく準備をしている中、僕も自分の部屋に戻り、準備を始めた。瑞希に会うための、運命のあの娘に会うための準備を。
自分の部屋で着替えていて思い出した。前の世界で、葵がいればアドバイスをもらえるな、と思っていたことを。でも、葵がいる状況で準備をしているとそうは思えなかった。普段からそういうことをしていなかったから、相談することへの気恥ずかしさで部屋を出られなかった。自分の部屋にこもり、前の世界の記憶を頼りに服装を決めて、スマホの画面を見ながら髪型を整えるしかない。
何とか自分の中で納得できる準備を終えて、バイトを休むことを連絡してから、リビングに何気なく戻ると、瑞希は来ていた。僕と出掛けた時のように清楚なワンピースを着こなして、葵と楽しそうにおしゃべりしていた。夏の申し子のようにはじける笑顔、一緒に話していない人間までも楽しい気分にさせる明るい声が響いている。
改めて僕は思った。何て可愛い娘なんだろうと。僕はこんなに可愛い女の子から好かれていたんだ。何年も関係が希薄でも彼女は思っていてくれた。それなのに僕はあんな態度を取ってしまった。
僕はいの一番に瑞希に声をかけようと思っていた。それがせめてもの罪滅ぼしとなると思って。この世界の瑞希には、僕のまずい対応の記憶も、悲しい涙の記憶もないのだから。少しでもいい印象を与えたい。
それなのに僕は何も言えなかった。僕にとって大切な二人の女の子の美しさに見惚れたから。姉妹のように仲良く無邪気に話す彼女達はまるで天使だった。無意識に幸せを与え、心にすんなりと喜びと楽しさを伝えることのできる笑顔。それは僕の不幸を取り去り、幸せを届け、不義を許してくれているように思えた。彼女達は僕に何も言っていないのに。
そう思えた一瞬が、僕の、僕なりの謝罪の機会を取り去った。
「おはよう、智くん。デートでも行くの?」
からかうような瑞希の一言。
葵はそれを聞いて「あー、自分が彼氏できたからってお兄ちゃんのことからかってるー。瑞希ちゃんひどーい」と茶化す。
瑞希が顔を真っ赤にさせて反論を始め、僕のことなどお構いなしに、二人は自分たちの世界に戻った。
そんな光景を見て、僕から話しかけなくてよかったと安心した。僕から話しかければ、意味のわからない謝罪が口をついて、二人を混乱させるだけだったと思うから。
「デート」、「彼氏」、「彼女」なんて言葉が葵の口から発せられ、それを聞いた瑞希が顔を真っ赤にさせて照れているのを見ると、瑞希は幸せになったんだと確信できた。
僕の行動が誰かを幸せにしている。僕はスイッチを押してから初めて達成感を、充足感を得た――自分のことでじゃないけれど。
スイッチの少女は自分のために生きろと言ったけれど、それが必ずしも正解だとは思えなかった。誰かの役に立つ、そんなことを今までできなかった自分からしたら、今の状況は凄まじい充足感を得る機会だった。それは裏を返せば人に必要とされているということで、僕が求めてきたものだ。
スイッチを押す前から心の底で求めていたものを得られたのかもしれない。
次はスイッチを押してから求めたものを手に入れなければ。
「お兄ちゃん、それじゃあ行ってくるからね」
二人は気づけば話を切り上げて、出かけようとしていた。僕は二人が何をするのか別段気になるわけでもなかったけれど、兄妹として、幼馴染として、何気なく訊ねていた。
「どこ行くの?」
口に出して気づいた。これじゃ二人を引き留めることになると。二人を見送って、歩道橋に行こうと思っていたのに。
後悔しても遅かった。葵はからかうような笑顔を浮かべて、瑞希と僕、両方に意味ありげな視線を送る。
「今度デートに着ていく服を買いに行くんだよね、瑞希ちゃん」
僕はその言葉を聞いて絶望した。デート? じゃあ、葵に彼氏ができた? どこの馬の骨かわからない奴に僕の可愛い妹が取られるなんて。
僕は絞り出したようなかすれ声で聞いた。
「葵、彼氏できたの?」
葵はきょとんとした顔で僕を見つめてから、納得したように笑った。
「葵じゃないよ。瑞希ちゃんだよ」
よかった、それが心からの感想だった。そう遠くないうちにできるかもしれないけれど、まだその時じゃない。
からかうように葵が笑っている。僕の大切な家族で、最愛の妹。その妹の笑顔を見ているだけで、さっきまでの絶望はきれいさっぱり消え去った。
安心したのも束の間、瑞希に彼氏ができたという事実が僕の心をかき乱す。喜ばしいことなのに、素直に喜べなかった。僕にそんな感情を抱く権利なんかないのに――前の世界で瑞希の好意を退け、傷つけた僕には。それなのに、僕は瑞希の彼氏に嫉妬していた。元気で明るく、優しい瑞希を独り占めできる名も知らぬ男に。
わがままな話だとわかってはいる。瑞希が僕のことを好きだったのは前の世界のことで、僕は瑞希を選ばなかったわけだから。それなのに、僕はこの世界でも瑞希の好意を図々しく求めていたみたいだ。
僕は随分強欲になっているみたいだ。運命の娘と出会うためにスイッチを押し続けてきたはずなのに、何でも手に入れようとしている。
考えに耽る僕の顔に、葵は何か感じ取ったみたいだった。
「もたもたしてるから瑞希ちゃん取られちゃうんだよ」
からかうように葵は言ったけれど、僕の心の中を見透かしているようだった。
笑うしかできない僕を見て葵は満足したのか、今度こそ出掛けて行った。申し訳なさそうに葵の隣で小さくなっていた瑞希も、いつもの明るい笑顔で「行ってくるね」と小さく手を振った。
二人が出掛けてから、リビングは星の見えない夜空のように寂しげだった。そんなリビングでしばらく時間を潰して、歩道橋へ行くことにした。
玄関の扉を開け、一歩踏み出すと、いつもの世界が待ち受けていた。むせかえるような暑さと、肌を焼く鋭い日差し、騒々しい蝉の鳴き声、これだけはどの世界でも変わらない。どんな時でも僕から水分を奪い、肌を焼く。夏の日に外に出れば誰にでも待ち受けることなのに、なぜだか嬉しくなっていた。この暑さを、八月四日の暑さを感じることで、新しい世界に来て、運命の娘に会えるチャンスを手に入れたと実感するからかもしれない。
僕は何度でも挑戦できる。スイッチの少女に出会えたおかげで。少女は諦めそうになる僕を励まし、勇気づけてくれた。僕はあの少女のことを忘れないだろう。スイッチを押してきた人は、最終的に彼女のこともスイッチのことも忘れると言っていたけれど。忘れられるわけがない――あんなに可憐で美しく、清廉な女の子のことを。彼女が僕を変えてくれた。
スイッチの少女のことを考えていると、彼女にまだお礼を言っていないことを思い出した。あの少女には伝えなきゃいけないのに。彼女が現れた時はそれどころじゃなく、いつも新しい世界のことばかり考えている。
ふと、「お礼をいいたいから来てくれないか」と願えば少女は来てくれるんじゃないかと思った。僕の願いを聞き入れ現れる彼女ならできるはず。でもすぐに、その考えは無意味なことに気づいた。彼女は僕がスイッチを押したいと思った時にしか現れない。もし現れても「自分のために生きなさい」と怒られるのが関の山だ。それに、この世界で運命の娘に会えたら、スイッチを押すことはなくなる。僕を変えてくれた少女に会うことはできなくなるんだ。彼女にはそれが普通のことで、それが望みだと思う。でも、僕は悲しかった。誰かのために尽くし、幸せを願ったのに、忘れ去られてしまうなんて。人の優しさと、孤独の苦痛を知ってしまった今の僕には耐えられない。家に帰れば家族がいて、他愛のない話ができる友達がいて、僕を思ってくれる誰かがいる、そんな大切な人たちから何気ない優しさを受けることがどれだけ幸せか知らないなんて、悲しすぎる。忘れ去られてしまい、ありふれた幸せを知らない彼女のために、伝えなくちゃいけない。僕の声が届かなくても。
「ありがとう」
青く輝く空に向かって、僕は言った。僕を変えてくれた少女へのお礼を。
歩道橋はどの世界とも変わらず鎮座していた。歪な十字を道路の上に架けた古びた歩道橋。僕はいつもの癖で、信号を渡ってからじゃないと歩道橋に上れない場所へと向かいかけていた。でも、これじゃいつもと変わらないことに気づいた。このままじゃいつまでも変わらない信号を横目に、運命の娘が消え去るのを、指をくわえて見ていることになる。
三度も繰り返し、こんな些細なことに気づかなかった自分に驚いた。僕はいつもの信号のところへ行く道を離れて、違うところから歩道橋へ向かうことにした。
記憶を頼りに、信号を渡った先の道へ向かう。小学生のころ、冒険と称して通った裏道を通り抜け、早足で突き進む。背中だけ汗でびしょしびしょになっていたのが、全身からもれなく汗が噴き出て、絞れば汗が流れ出てくるんじゃないかと思うほど服が汗を吸っていた。
昔の記憶とほとんど変わらない道を歩いていると、幾ばくかの懐かしさが感じられる。あの頃はまだ無邪気に遊びほうけ、後悔や孤独なんて知らなかった。いつまでも楽しい時間が続くと思っていた。何も考えなくても友達ができて、家に帰れば両親がいた。
そんなことも何年かたてば、いつまでも続くものじゃなく、たやすく失うものだと知った。僕はいつでも孤独で、後悔ばかりが募り、楽しいなんて感情は消えた。ただ毎日を過ごし、誰の目にも映らない路傍の石だった。感情は表層から消え去り、心の奥にしまい込まれた。誰の意見に迎合するでも否定するでもなく、ただそこにいる毎日。そして、意見をいわぬ自分に嫌悪し続けた。
そんな過去の暗いことを考えていたせいか、自分の行動に後悔がつきまとい運命の娘に会うという希望が消えかかった。僕が裏道を通って遠回りしている間に、あの娘は歩道橋を通り過ぎているかもしれない。
ずるずるとろくでもない思考に引き込まれそうになる前に、歩道橋の目の前まで来た。左手にはいつも僕を遮る信号がある。こういう時に限って、信号は青。わざわざ遠回りしてきたことを後悔するけど、もう遅い。
幸いにも、歩道橋には運命の娘の姿は見えない。僕はゆっくりと歩道橋を上って、スイッチの少女と初めて会った場所に立った。欄干に手を置き、剥げかけたペンキと錆びた金属の感触、熱したフライパンを思わせる熱さを感じる。スイッチの少女と会った時と同じだった。あの時は真夜中で、欄干はこんなに熱くなかったけれど。
辺りを見回しても、人影は見当たらなかった。運命の娘ももちろんいない。その事実は安堵感を与えてくれたけれども、同時に、失望と後悔も与えた。
またあの娘に会えなかった。
あの娘はもうここを通り過ぎたのかもしれない。
葵を引き留めるようなことをしなければ。
裏道を通るようことをしなければ。
沸々と後ろ向きな感情が湧き出る。けれど、落ち込んでいるわけにもいかない。あの娘に会えないと決まったわけじゃないのだから。今まで、あの娘を見た時はこんな早い時間じゃなかった。バイトをこなしたり、買い物に行ったり、デートまがいのことをしたりしてからだった。空の頂点から確実に陽が傾き始めたころに――まだまだ日差しは鋭かった――あの娘は現れた。
あの娘を見たわけでもないのに諦められるわけがない。
夜の帳が下りてからも、しばらく歩道橋にいた。その間、運命の娘が来ることもなく、枯れてしまうのではと思うほど汗を流し、ただ佇んでいた。
運命の娘が歩道橋に来たか否かわかなないまま、僕は家に帰った。これ以上ここにいてもあの娘が来るとは思えなかったから――あの娘が現れるのは陽の出ているうちだった。日にちは変われど、時間帯は変わらないという妙な確信があった。それに、炎天下の中佇んでいたせいで体力の限界だった。
鋭い日差しに焼かれた疲れとあの娘に会えなかった失望を抱え、我が家にたどり着くと、当然のごとく光が灯っていた。我が麗しの妹が家に帰っているんだ。その事実だけが失望を追いやり、僕は意気揚々と家に入った。
葵は僕が帰るまで夕食を待っていてくれたみたいだ。何の連絡もよこさなかった僕に小言を並べ立てていた。そんな葵の瞳には暖かい優しさが溢れていた。
葵の料理に舌鼓を打ち、楽しい夕食を過ごした後、僕らはリビングでくつろいでいた。二人でソファーに座り、テレビを見ながら他愛のない話をする。至福の一時だった。葵の誰をも癒す可愛い笑顔、小鳥のさえずりのような心地良い声、この瞬間はスイッチを押してから手に入れた最高のものかもしれない。葵と出会ってからこの家が好きになった、家に帰りたいと思うようになった。「葵が僕の妹で本当によかった」と、葵と出会ってからいつもそう思う。
そんな風に何気ない幸せを感じていると、葵は唐突に話を切り出した。
「瑞希ちゃんがお兄ちゃんのこと好きだったって知ってた?」
僕は知っていた。前の世界での瑞希の態度を見れば明らかだったから。でも、僕は瑞希の気持ちに応えなかった。前の世界では運命の娘のために、今いる世界では気恥ずかしさと現状のままぬるま湯に浸かっていたいと思ったから。どちらにせよ身勝手な考えだ。瑞希はどんな結果になろうと前に進もうとしたのに、僕は足踏みしたままだった。そんな感情を葵が知るわけもないから、僕は正直に答えるべきだった。
「え? そうなの?」
それなのに僕は嘘を吐いて誤魔化した。一言「知っていた」と答えれば葵にすべてがバレてしまう気がしたから。バレてもどうなるということはないはずなのに。僕の不甲斐なさを知ってほしくなかった。
「やっぱり鈍感なんだから。お兄ちゃんが瑞希ちゃんの気持ちに気づいてたら、瑞希ちゃんが葵のお姉ちゃんになってたかもしれないんだよ? 本当に残念。まぁ、イケメンの坂本先輩にお兄ちゃんが敵うわけもないから、しょうがないけどね」
坂本君が瑞希と付き合ってる? いの一番に坂本君に対する嫉妬が湧いたけれど、ある意味安心した。どこの馬の骨とも知らない奴に瑞希を任せるよりはましだ。スイッチを押してから知ったけれど、坂本君は友達思いで優しい人だ。そんな坂本君になら僕みたいに瑞希を泣かせることはない。坂本君になら瑞希を幸せにできる、心からそう思えた。けど、後悔がないとは言えない。瑞希の優しい笑顔を僕が独占できたかもしれないんだ。
「そんなしょぼくれないで。お兄ちゃんの優しいところに気づいてくれる人もいつか出てくるから。お兄ちゃんが優しいってことは葵が一番知ってるけどね」
僕の表情を見て、葵は励ますように言ってくれた。そんな優しさがいつものように僕を救ってくれた。瑞希と坂本君を心から祝福しようと思えた。
次の日、葵に起こされるよりも早く起きて、歩道橋に行く準備にかかった。昨日より早く準備をすませ――時間を無駄にしたくなかったから――朝ご飯を食べるためにリビングへ向かった。キッチンでは葵が朝ご飯を作っていて、僕が「おはよう」と声をかけると、「どうしたの、お兄ちゃん?」と目を丸くして驚いていた。僕が葵に起こされる前に起きたことがよっぽど意外だったらしい。確かに僕が葵に起こされずに起きるなんてめったにないけど、そこまで驚くことだろうか? 僕は「ちょっと出掛けるからさ」と正直に白状して、葵を手伝った。
二人で食卓に着いてご飯を食べ始めると、驚きが冷めたのか葵は僕をまじまじと眺め、訳知り顔で微笑んでいた。たぶん葵は僕が女の子と出掛けると思っているんだと思う。僕が昨日も今日もちゃんとした格好をしているから。実際、目的は女の子だけど、名前も知らない、会えるかもわからない女の子に会おうとしているとは思わないだろう。
もし本当のことを葵が知ったらどうなるだろう。僕は違う世界から来た僕で、一人の女の子のために世界を渡り歩いていると知ったら。まぁ信じないだろう。仮に信じたところで、僕のストーカーともとられかねない行為に嫌悪感を抱いて、これまで通りの関係なんか続くわけもない。だから、葵には勘違いしておいてもらうしかない。
僕は朝食を終えると、後片付けをさっさとすませた。すぐに歩道橋に向かおうと、慌ただしくリビングを出る時、葵は意味ありげな笑顔を浮かべながら「がんばって」と言っていた。やっぱり勘違いしているみたいだ。僕にとっては好都合だから、特に訂正もしなかった。
玄関を飛び出るように外に出ると、今日も空は晴れ渡っていた。鋭い日差しに少し目がくらんだけれど、僕は勇んで歩き出した。
昨日と同じ裏道を通って、歩道橋へ向かった。昨日と同じ真夏の下を、昨日のように汗を流しながら歩き続ける。今日は出会えそうな気がする――突然僕の第六感がささやいた。家を出て蒸し暑い中を歩道橋に向かって歩いていると、いつもそう思っている気がするけれど。今日は出会える気がするんだ。
出会えなかった時の悲しみや苦しみは微塵も感じない。運命の娘に会えるという希望で溢れている。自分でも驚くぐらい前向きだ。もしかしたら、昨日から使い始めたこの裏道が、僕にとって特別な何かになってきているのかもしれない。こんな体験を前にもした。バイト帰りや深夜に家を抜け出した時に特別な何かを感じた。それは僕が特別でありたいという願いみたいなものだったけれど、僕は実際に特別な存在になった。
僕はスイッチを押せば違う世界に行くことができる。今、何かを感じているとしたら、自分の望む世界に行けるという優越感なのかもしれない。それを、いつもと違う道を使っているという事実に投影し、「違う」を「特別」と同一視して、自分の虚栄心を保とうとしている。誰に見せることもないのに。
今までの僕からじゃ想像できない考えだ。でも、そういう変化が運命の娘に会うために必要なのかもしれない。
今日も歩道橋には誰もいなかった。眼下を行き交う自動車の音と騒々しい蝉の鳴き声だけが響いている。僕だけがこの世界にいるように感じる。僕のために創られて、存在している世界。その世界はいつも同じ光景を見せる。まるで出来の悪い絵画だ。いつ誰が見ても同じ感想しか抱かせないつまらない絵画。僕はその絵画を眺め続けている。新しい発見をするために。でも、僕は新しい発見をできない。夏の暑さにへたれた木々、暑苦しい太陽、古びた歩道橋は夏の暑さに対する嫌気を抱かせるだけ。僕の求める希望や変化は見いだせない。
太陽はいよいよ隆盛を極めていた。この世のすべてを焼き尽くすかのように強烈な日差しを振りまいている。僕の血肉は急激に熱せられ、とろけ落ちそうだった。ここに来る前に飲み物を買ってくるべきだった。でも、もう遅い。僕はもう歩道橋にいて、これから何かが起こるという根拠のない脅迫概念が頭の中を支配して、僕を歩道橋に釘付けにしていた。
全身から汗が流れだし、思考と体力を奪い去る。何も考えられなくなってきた。動くこともできない。身体が鉛のように重いのに、雲の上にいるような浮遊感も感じる。何もかもが現実離れして他人事のように感じる。
視界は霞がかったようにぼやけ、視野が徐々に狭くなってきた。本能が危険を告げている。それなのにやっぱり僕は動けない。顔から血の気が引いていくのがわかる。僕は引き返せないところまで来てしまったのかもしれない。
「先輩、何してるんですか? こんなところで」
僕を現実に連れ戻すように、誰かが声をかけた。猫を被ったような少し高い声。聞き覚えのある声だ。さっきまで身体が動かなかったのが嘘みたいに、僕は咄嗟に声の主の方に目を向けた。
そこにはどこか見覚えのある制服をおしゃれに着崩した、モデルのような女の子がいた。
「どうしたんですか? すごい顔色悪いですよ」
僕の顔を見た女の子は少し慌てているみたいだ。猫を被るのも忘れて心配そうに上目遣いで僕を見つめる。どこかで見たことのある顔だった。端正な顔立ち、意志の強さを窺える大きな瞳、夏らしくアップにまとめた髪、白く透き通るような肌、メリハリのついたスレンダーな身体、どこをとってもモデルみたいだ。こんなきれいな娘を忘れるはずがないのに、僕は誰なのかわからなかった。それだけ意識が混濁していた。今にも倒れそうだ。
僕はそんなきれいな女の子に子供のように手を引かれ、歩道橋を降りて、木陰にあるベンチまで連れていかれた。傍から見れば情けない光景だったけれど、それどころじゃない。あのまま歩道橋にいればたぶん死んでた。
僕をベンチに座らせた女の子は、慌ててどこかに駆けていった。僕はその後姿を見ることもできず、頭を垂れて揺れる地面を見つめるしかなかった。
長いこと地面を見つめていた気がするけど、たぶん数分だったと思う。僕の後輩とおぼしき女の子は何事か声をかけた後に、冷たい液体を僕の頭にかけた。茹で上がっていた頭が少し冷めた。
「これ飲んでください」
キャップの開いたペットボトルを無理矢理押しつけ、冷たい何かを首元に押し当てた。
彼女の迅速な対応のおかげで、僕の意識は徐々にはっきりしていった。僕が飲んでいるのは経口補水液で、首元に押し当てられていたのは凍ったペットボトルだとわかる。そして、この親切な女の子は僕のバイトの後輩、真壁さんだということも思い出した。僕の一つ年下で、有名な進学校に通い、誰からも慕われる、才色兼備という言葉がよく似合う完璧超人だ。
この世界でしか記憶にない真壁さん。そして、特に交流があったわけでもない――まだ頭がはっきりしていないから断言はできないけれど。
僕の意識がはっきりしてきてから、二人で近くの小さなショッピングモセンターに移った。瑞希と行った所とは比べ物にもならない小さな場所だ。スーパーといくつかの雑貨屋、小さなフードコートしかない。僕らはその小さなフードコートで涼んでいた。僕がいらない、家に帰ると言っているのに押しつけられたカップのソフトクリームをもって。
しばらく言葉もなしに二人で涼んで、僕の顔色がよくなったのか、真壁さんはすごい剣幕で問いかけた。
「あんなところで何をしてたんですか? 真夏の真っ昼間に何を考えているんですか?」
僕はその勢いに押され「いろいろあって」と、もごもご言い訳した。もちろんそんなことで真壁さんの怒りは静まるはずもなく、僕を責め立てる。
「何か理由が合うのかもしれないですけれど、子供じゃないんで、ちゃんと考えてください。あんな日陰も何もない場所に何時間もいたら死んじゃいますよ」
真壁さんは顔を真っ赤にして言葉を並べ立てた。そんな真っ赤な顔を見ていると、僕もこんな感じで顔を赤くしていたのかなと思って、何だかおかしくなった。
そんな風に思っていたのが顔に出ていたのか、真壁さんの怒りは静まることを知らず、僕を叱り続ける。
「先輩、何を笑ってるんですか? ちゃんと聞いてください。熱中症は本当に危険なんですよ。重篤な障害が残ったりするんですよ? 最悪、死んじゃうんですよ? わかります?」
これじゃどっちが年上かわからないな、なんて真壁さんの真っ赤な顔を見て思いながらも、ここまで心配してくれる彼女の気持ちに応えるべく、僕は言った。
「心配かけてごめん。ありがとう」
僕が正直に謝るのを聞いて、真壁さんは急にしおらしくなって「わかってくれたならいいです」と呟いた。
おとなしくなった真壁さんとカップにひたひたになったソフトクリームを食べた。真壁さんは何か思うことがあるのか喋らない。僕も真壁さんとの話題が思いつかず黙っていた。
気まずい沈黙が二人の間に流れる。これなら怒られていた方がましだとも思えた。でも、そんなことを言えば余計気まずくなるのはわかっていた。何か話題はないかと考えていると、一つ思いついた。さっきの飲み物と食べるというより飲んでいるソフトクリームのことだ。
「真壁さん、飲み物とソフトクリームのお金、これで足りるかな?」
たいして入っていない財布からお札を抜き出し渡した。真壁さんは仏頂面で「ちょっと多いです」と言って小銭を出そうとした。僕は「細かいのはいいから。お礼としてもらっておいて」と言って財布をしまった。真壁さんは納得していないような顔だったけれど、思い直したのかお金をしまって、液体になったソフトクリームをかき混ぜていた。
気づけば陽も沈みかけていて、ずいぶん時間がたっていた。そして、こんな状況になってしまった理由も思い出した。僕は運命の娘に会うために、あの歩道橋にいたんだ。
「今日は本当にありがとう。ちょっと行かないといけないところもあるし、暗くなってきたから帰ろうか」
ほんの少しの時間しかないけれど、歩道橋であの娘に会える可能性を信じて、解散を提案した。僕の考えでは二つ返事で真壁さんがそれを受け入れるはずだった。なのに、真壁さんは首を縦に振らなかった。僕がまた歩道橋に行くと確信している様子だった。でも、そんなことは一言も言わずに「心配だから家まで送る」と言って聞かない。
しばらく押し問答が続き、絶対に歩道橋に戻らずに家に帰ると約束させられて解散することになった。嘘を吐いて歩道橋に行こうかとも考えたけど、もうあの娘は来ないはずだと自分に言い聞かせて、おとなしく帰ることにした。また明日に賭ければいい。今日、あの娘が歩道橋に現れた証拠はないんだから。
僕は改めてお礼を言って我が家に向けて歩き出した。家を出た時よりは足取りは重いけど、ショッピングセンターに来た時よりは軽くなっていた。明日起こるであろう運命の出会いに考えを集中させようとすると、真壁さんが僕を呼び止めた。
「大門先輩!」
真壁さんは二人別れたところから一歩も離れていない。
「もしかして、明日もあそこに行く気じゃないですか?」
僕はぎこちなく笑って「行くわけないじゃん」と否定したけど、信じてもらえなかった。女の子には嘘を吐けない。すべてお見通しだ。
「先輩、嘘へたですね。一人で行くなら今日のこと葵ちゃんに言っちゃいますよ」
痛いところを突いてくる。葵に本気で怒られたら僕が言うとおりにすることを知っているなんて……。いや、でも待て、「一人で行くなら」って言ったよな。じゃあ、誰かいればいいのか?
「でも、私がいてもいいなら、今日のことは秘密にしてあげます。先輩一人だとまた今日みたいになっちゃいますから」
ニッコリ微笑む真壁さんを見て冗談かとも思った。けれど、目は笑っていない。有無をいわせぬ迫力がある。
僕は渋々だけど受け入れることにした。この世界での運命の娘との邂逅を諦めようかとも思ったけれど、僕の確信はまだ消えていなかった――絶対にあの娘に会える。真壁さんと秘密を共有すれば。
僕らは明日の集合時間を決めて、今度こそ解散した。帰り道、僕の心には面倒くさいという感情で溢れていた。運命の娘と出会う瞬間に邪魔されたくはなかったし、口やかましく指図されるのも嫌だったから――今日は本当に助かったけれど。でも、家に近づくにつれて、違う感情が芽生えてきていることに気づいた。それは秘密を共有できた嬉しさだ。
僕はスイッチを押してから初めて安心して眠れた。少しでも秘密を共有できる仲間ができたから。
昨日と変わらず優しいまなざしを投げかける葵を尻目に、今日も昨日と同じ時間に家を出た。嫌味なほど空は晴れ渡り、気が滅入るほど鋭い日差しが降り注いでいる。もちろん死ぬほど暑い。いつでも夏空は変わらない。そんな中を昨日と同じ様に遠回りして歩道橋に向かう。
昨日と同じ裏道を歩いた。周りの景色は昨日と何ら変わりない。この世界が同じ一日を延々と繰り返している様にさえ感じる。でも、僕は確実に変わってしまった。真壁さんと秘密を共有することで、友達や幼馴染、妹とは違う仲間ができた。しかも、僕がスイッチを押してからできた秘密を共有している唯一の存在。みんなの、そして僕の記憶にしかない僕の秘密じゃなく、スイッチを押して、僕が実際に経験したことを共有できる唯一の存在。歩道橋にいて熱中症になりかけたなんていうくだらない秘密を共有するだけだけど、本当の僕を知ってもらえた気がした。みんなの記憶にあるいつもの僕じゃない、スイッチを押した本当の僕を。
歩道橋の近くにあるコンビニでスポーツドリンクを二本買った。真壁さんに何も持ってきていないのを怒られないために、そして昨日のお礼のために。
歩道橋に真壁さんはまだ来ていなかった。一瞬、寂しさも感じたけれど、時間についてアバウトな表現だったからしょうがない。それに女の子を待たせるわけにはいかないし。
待ち人が来るまで、いつものように周りを見回すことにした……。
相も変わらず歩道橋からの景色は変わらない。ただただ殺風景で、なんの面白味もない。通勤、通学の時間じゃないせいもあってか人影はなく、時間の止まったような空間をひたすら眺めるしかない。
面白いくらい動くものがない世界を見ていると、自分のせいでこうなっているような気がしてくる。僕がここにいるから誰も近寄れず、僕が見ているからすべてが静止してしまった世界。視界の隅に映る信号が唯一の変化を表しているけれど、色の変わるその瞬間を目にすることはできない。あたかも、初めからその色だったかのように頑なだ。
何度も来た歩道橋、この場所で誰かと待ち合わせするのは初めてだ。来るかもわからない運命の娘を待つより、心に余裕がある。会えるかどうかで不安になって、会えなくて絶望しなくてすむ。スイッチを押してから偶然得られた幸福と違って、事前に知ることのできた必然の幸福が僕を待ち受けている。いや、もうすでに幸福は始まっているのかもしれない。僕は真壁さんを待っているこの時間が嫌じゃない。真壁さんと約束して、来ることがわかっているから。
いつ現れるのかわからない人を待ち続けて疲れたのかもしれない。決して、運命の娘を諦めたわけじゃないけど、確実に得られる幸福がほしくなった。真壁さんと特別な関係になりたいわけじゃない。それは断言できる。僕は秘密を共有する仲間と、時間を共にしたいだけ。
何の変化もなかった世界が唐突に終わった。子供が遊びに出掛ける時のような軽快で楽しげな音が響き渡る。その音を合図に世界は動き出した。どこからともなく人々が現れ、自動車や自転車が我先にと信号目指して突き進む。鳥のさえずり、風のざわめき、人の営みが辺りに満ち、僕がいつも眺めた日常は帰ってきた。
雑多に溢れたいつもの音の中でも、始まりの音はしっかりと聞こえる。階段を上り、僕のいるこの場所を目指す音が。
「早いですね、先輩」
媚びるような甘い声が聞こえ、真壁さんは現れた。昨日と変わらず美貌を振りまいている。
「今日も暑いですね――」
猫を被っていたのは最初だけで、すぐに素の自分を曝け出して真壁さんは話し出した。僕が何でこの場所にこだわるのか、何をしているのかは聞いてこない。無邪気にいろいろな話をする。よくもまあこんなに話題が出てくると感心するほどだ。それも、ただ自分が話し続けるわけじゃなく、僕を会話に引き込み、知らないうちに二人で笑い合っている。
真壁さんといるこの時間がただただ楽しかった。僕がこの場所に何のために来ているのか忘れかけるほどに。でも、まばらながらも、歩道橋を行き交う人が僕の目的を思い出させる。あの中に運命の娘がいるかもしれない。僕は運命の娘に会わなければいけない。そのためにここまで来たんだ。後輩の女の子と炎天下の中で楽しくおしゃべりするためじゃない。運命の娘が現れるまでは、真壁さんと楽しくおしゃべりしていたいけれど。
真壁さんの話に耳を傾けつつ、横目で通りすがる人たちを見ていた。運命の娘も見知った人もいない。僕にとって無関係な人ばかり。その人たちがいなくなり、二人の会話に本腰を入れなおそうとすると、真壁さんは再生の終わったテープのようにぴたりと話すのを止めた。僕がちゃんと話を聞いていないことに腹を立てているのかと思ったけれど、そうでもなさそうだ。物思いに耽るように遠くを見ている。憂いを帯びた横顔は魅力的だった。何か助けにならないかと真剣に思わせた。
「どうした? 急に静かになって」
いつまでも物憂げな表情を見ていたいとも思えたけれど、僕は恩返しのために訊ねた。成り行きとはいえ僕と秘密を共有して、本当の僕を知ってもらった恩人のために。
「ちょっと相談があるんですけど、聞いてもらっていいですか?」
さっきまでとは打って変わって不安そうな声音。藁にも縋るような表情。僕は「いいよ、話してみて」と先を促した。あんな表情で話されたら誰だって断れない。
「あの、友達の話なんですけど。その友達、好きな人がいるんです。その人は一つ年上で、学校は違うんですけど、いつも優しくしていい人なんです。でも、なかなか話す機会がないし、アピールしても気づいてくれないみたいで。先輩はどうしたらいいと思いますか?」
運命の人に気づいてもらえない――知り合えてもいないけれど――僕からしたらこっちが聞きたいくらいだ。でも、話を聞いた手前、そんなことは言えない。僕の方が年上だし、頼られて悪い気はしないから。それに、その友達に親近感を覚えた。気づいてもらえない悲しさ、受け入れてもらえないかもしれないという恐怖は人一倍わかる。
「思い切って自分の気持ちを伝えたらいいと思うよ。断られたら、なんてことは考えずに」
僕は運命の娘と出会えた時のことを考えて、自分の気持ちをそのまま伝えた。僕にはこれくらいしか言えることはない。断られた時のことなんて考えたくもないし、僕にはそんな経験が微塵もない。だから、僕の実体験の伴わない、ただの心構えしか話せない。これで満足してくれるかわからないけれど、これが僕の精一杯だ。
真壁さんは続きがあることを期待しているのか、黙って僕を見つめている。
「以上ですが……」
僕の言葉に目をぱちくりさせて、「終わりですか」と落胆している。
「彼女とかいたことないし、告白する機会もなかったから――」
予想外の落胆ぶりにあわあわと言い訳を並べ立てるしかできない。かなり情けない姿だった。自分でも恥ずかしくなるぐらいに。
そんな僕の情けない姿に真壁さんは笑い出した。僕もつられて笑ってしまった。こんなことが前にもあった気がする、この場所で。
二人でひとしきり笑い合った後、満面の笑みで真壁さんは言った。
「先輩がモテないのはよくわかりました。頑張ってくださいね。あと、ありがとうございます。真面目に答えてくれて。参考になるかわからないですけど、友達に伝えておきます」
それから僕たちはまた他愛のない話をして過ごした。学校やバイト、家族、友達のこと。時間はあっという間に過ぎて、気づけば陽は沈んでいた。一人ならこのまま歩道橋にいたかもしれないけど、今日は真壁さんがいるから、帰ることにした。真壁さんにそのことを告げると「もう少しお話したかったですね」と少し寂しそうに笑った。
僕はその笑顔を見て咄嗟に「暗いし、送っていくよ」と言っていた。真壁さんは少し驚いていたのか目を丸くしていたけど、すぐに嬉しそうに「ありがとうございます」と言って歩き出した。
生ぬるい夜風が漂う中、僕らは歩いた。どこからか夕飯の匂いが香るのに静まり返った住宅街は、孤独を強烈に感じさせる。だけれど、蝶が舞うように優雅で楽しげな響きがそれをさせない。寂寞の夕闇を繁華な舞台に変え、孤独から僕を引き上げる。孤独から抜け出した僕は安寧を享受する。
いつまでも続いてほしい時だけれど、いつまでも続けば目的を達成できない。すべてを手に入れることはできず、何かを諦めなければいけない。いずれこの時が終わることはわかっている。真壁さんが僕に構うのは、僕に対して彼女なりの責任を持ってしまったから。放っておけば、無謀なことをしかねないと思っているから。だから、僕が歩道橋に行けば、真壁さんも訪れる。この夏が終わり、暑さにほだされることがなくなるまで。
「明日も行くんですか?」
真壁さんは何気なく聞いた。
「うん。明日も行くよ」
僕はどこまでも続く街灯に目を向けて言った。呆れたようなため息が聞こえる。でも、優しい表情をしているはずだ。顔を見なくてもわかる。真壁さんはそういう娘だ――今日一日で充分わかった。
「じゃあ、明日も行きますね」
柔和な口調だけれど、僕に断らせる隙を見せぬ物言いだった。僕は嬉しかった。また真壁さんに会えるから。
真壁さんを送り、葵の待つ家に帰った。静まり返った夜道、孤独はいたるところに潜んでいたけれど、明日への希望に溢れた僕には関係のないことだった。
次の日も朝早くに起きて、葵に見送られて歩道橋に向かった。
この世界に来てお馴染みになった裏道にはもう孤独は潜んでいない。陽の光を浴びた吸血鬼のように跡形もなく消え去っていた。代わりに僕が昨日の夜に振りまいた希望が燦然と輝いている。今までにない変化がこの世界に訪れている証だ。僕はこの世界で今度こそ望みを叶えるはずだ。秘密を共有できる仲間をみつけたことによって。
歩道橋のいつもの場所で、いつものように辺りを見渡した。相変わらず世界は動きを止めている。動きを止めているけれど、新しい始まりを今や遅しと待ちわびる前向きな静止に思える。殺風景に思えた景色も白黒写真に色をつけたように華やかだ。
この静止が終わり、世界が動き出せば、昨日よりも幸福な時間が訪れる。そんな風に思わせる力が今日の景色にはあった。心境の変化を安易に反映した結果かもしれないけど。どちらにせよ、僕の心境は変わったし、この世界に属する僕が変われば、世界が変わったと言っていいはずだ。取るに足らない微細な変化だったとしても、変化は変化なんだから。
僕の願いが叶うのは時間の問題だ。昨日という日が、真壁さんという存在が、暗雲のたれこみやすい僕の心を、頭上に広がる晴れ晴れとした青空に変えた。僕の心に迷いなんて生じる理由がなくなった。僕の心には尽きることのない希望が溢れているから。僕はその希望を糧にして、自らの道を突き進む。
強い思いが、希望があれば願いは叶うんだ。僕の思いがスイッチの少女を引きつけたように。
真壁さんは昨日と同じくらいの時間に現れた。今日は猫を被った調子じゃなく、最初から素の調子で挨拶してくれた。昨日から真壁さんの定位置になった僕の隣で、楽しそうにおしゃべりを始める。僕も真壁さんの楽しそうな雰囲気に乗せられ、おしゃべりを楽しんだ。
おしゃべりが一段落して、心地良い沈黙が流れる。自然にほころんだ表情を見せる真壁さんの横顔は美しかった。いつもより大人っぽく上品な印象を抱かせる服装も相まって。
どこかに出掛けるのだろうか? だとしたら、引き留めておくのも悪い。僕は気を使わせないために聞いた。
「今日、用事でもあるの?」
真壁さんは不意を突かれたようで、少し飛び上がって驚いた。
「何にもないです。何でですか?」
少し慌てて、ほんのりと顔を赤らめながら答える真壁さん。
「いつもよりおしゃれな気がしたからさ。それと、遠慮しないで何かあったら帰ってもいいからね。僕のことは心配せずに」
真壁さんは嬉しそうに「大丈夫です」と言って微笑んだ。
今日は昨日より人も自動車も少ない。雑多な騒音はほとんど聞こえず、まるで世界に真壁さんと二人きりになったようにさえ思える。不思議な感覚だ。葵に瑞希、坂本君、その他大勢の人がいるはずなのに。
僕のためだけに存在しているように感じていた時は確かにあった。でも、今は、真壁さんとの二人の時間を演出するために存在するように感じる。陽の光を存分に浴び木陰を作る木々や夏の一時を彩る草花、僕らを引き合わせた歩道橋、その他雑多な日常の切れ端、すべてが僕らの時間を退屈にしないための駒。
真壁さんは指差し言う。「あれが私の通っていた小学校です」「あっちに桜がきれいなところがあるんです」「あの雲、映画とかで出てきそうですね」。
僕も真壁さんに倣うように「あっちの方に家があるんだ」「あの公園でよく遊んだよ」「明日も暑いのかな」と言う。何気ないやり取りだけど、バイトでの日常的で普遍的な交流とは違う。開放的で非日常なこの場所だからこそできたことだ。だからこそ、僕らはお互いをより知ることができた。
やっぱりこの歩道橋は僕にとって特別だ。灰色だった人生に彩りを与え、僕を助けてくれた大切な場所。
例のごとく楽しい時間は瞬く間に過ぎ去る。あれだけ輝いていた太陽は西の彼方に消え、辺りは黒く染め上げられていく。
運命の娘は今日も現れなかった。
今日はもう解散しないと。真壁さんを送らないといけないし、明日もあるのだから。仕方のないことだ。僕が、世界が変われば、あの娘が来る時間も変わる。会えない時間が、あの娘に会えた時の喜びを強くするんだ。
二人で楽しく夜道を歩き、真壁さんの家はもうすぐそこまで迫っていた。信号を渡って五十メートルほど先にある。周りの家々と同じように、家族を迎え入れるため暖かい光が灯っている。その光を眺めながら、僕らは信号が変わるのを待っていた。この信号が青になれば、楽しい時間は終わる。真壁さんは家族の待つ家に帰り、僕は歩道橋に行くのを心待ちにしなければいけない。
新しい世界に行くたびにことごとく僕の邪魔をする信号だけど、今日は僕の味方みたいだ。真壁さんとの時間を少しでも長くするため赤い光を灯してくれている。
存分に二人の時間を作ってくれた信号も、ついには青になった。僕は「今日もありがとう。気をつけて帰ってね」と別れを告げた。そして、真壁さんの後ろ姿を見送り家路につこうかと思っていた。でも、真壁さんは横断歩道を渡ろうとせず、僕の顔をひたと見つめて口を開いた。
「私、先輩のことが好きです。付き合ってください」
僕は突然の告白に言葉を失った。そして、混乱した。まともに話すようになってから日が浅く、秘密を共有する仲間として大切にしたいと思っていた後輩から告白されるなんて。
あまりの衝撃に銅像のように硬直していた。
真壁さんはそんな僕の反応を予期していたのか「明日、あの場所で答えを聞かせてください」とだけ言って駆けていった。
僕はその場から動けなかった。信号が何度も変わり、道行く人が不思議そうに僕を見つめる。まともに考えることができない。真壁さんに告白されるなんて……。
葵からの電話で僕は我に返り、僕は家に帰った。
家に帰って、心配する葵をよそに、僕は部屋にこもった。頭の中を整理しなくちゃいけなかったから。ベッドの上で今日のことを考えるけれど、いくら時間がたとうとも頭の中は整理されない。
なぜ僕なんだ。
なぜ僕は答えなかったんだ。
なぜ断れなかったんだ。
なぜ僕は望むものを手に入れられないんだ。
なぜ運命の娘は現れないんだ。
次から次へと「なぜ」が溢れて、一睡もできぬまま朝を迎えた。
葵が起きる前に家を出た。家でじっとしていても何も考えられる気がしなかったし、葵の顔を見れば頼ってしまいそうな気がしたから。真壁さんとのことは自分で解決しなきゃいけない。仲間として秘密を共有し、僕を思ってくれた真壁さんへの感謝と恩返しのために。
早朝の清々しくも気だるい雰囲気の中を歩く。駅へ急ぐサラリーマンや学生の足音、猛スピードで走るトラックの音がまばらに響き渡る。昨日の帰り道や部屋にこもっている時よりも頭ははっきりしてきた。適度な騒音が考えを集中させるのに一役買ったようだった。
僕はあてどなく歩き続けた。陽が昇り、町が動き始める中を。まるで、歩いていれば僕の求めた答えに行き着くかのように。
そして、慌ただしい朝の時間が去り、静寂の舞う空虚な時間が訪れると、僕の本当の気持ちはやっと整理できた。
僕は真壁さんの気持ちを受け入れることができない。
それが答えだった。確かに真壁さんはいい娘だ。器量もよくて、優しく、何より一緒にいて幸せだ。理想的な恋人で、誰もが羨むはずだ。でも、僕にはここまで追い求めてきた人がいる。僕はその人のためなら何でもできるし、いろいろなものを犠牲にして実際にここまでやってきた。変わらず僕はその人を求めている。その人の笑顔を独り占めしたい、その人の隣にいたいと強く願っている。
改めて、運命の人への気持ちを認識し、いかに特別か思い知った。そして、真壁さんの気持ちもわかった気がする。真壁さんにとって僕は大切な人だったから、僕を本気で心配して怒って、僕といるために歩道橋で何時間も一緒に過ごしてくれたんだ。
僕は真壁さんの恋人にはなれないけれど、本気で人を好きになったもの同士だ。だから僕は真壁さんに本当のことを話そうと思う。信じてくれなくてもかまわない。僕に全力で向き合ってくれたことへのお礼として話したい。
僕の中で考えが固まっていくにつれて、無意識に歩道橋へ向かっていたみたいだった。見慣れた景色が目の前に広がっている。行く手を阻む信号と、その奥に鎮座した歩道橋。いつもの道、いつもの光景……。意識していなかったせいでいつもの裏道を通り過ぎてしまっていた。でも、裏道にこだわる意味もないし、今さらこの炎天下の中を戻る気も起きずに、僕は歩道橋を目指した。
歩道橋には珍しく人影が見えた。僕がいつもいる場所に佇む女性の姿。たぶん真壁さんだ。僕の答えを聞くために、いつもの場所にいるんだ。真壁さん以外にこんな時間にあんなところにいる酔狂な人がいるわけがない。
これから真壁さんに僕の気持ちを告げるのは気が重い。心の片隅には、スイッチを押してこの世界から逃げたいという気持ちもある。でも、それは真壁さんに対する裏切りだし、ここで逃げれば運命の人との出会った時に思いを告げることができない気がした。
真壁さんとしっかり向き合うため、僕は歩道橋の人影を見詰めた。逆光のせいで僕に気づいたかわからない。僕は早足で横断歩道に向かう。僕をいつも邪魔する信号までもうすぐ。
僕は手でひさしを作って、歩道橋の人影に目を向けた。横断歩道まではほんの少しの距離。お互いに視認できるはずだ。だけどその人影は僕に見向きもせずにどこか遠くを見ている。そして、その人影は真壁さんではなかった。僕は愕然とした。僕がいつもいるその場所に、待ち焦がれた人がいたから。
僕は何も考えずに、ただ運命の人を思い、見詰め、走り出した。
今日こそは出会うことができる。運命の娘は今までのように立ち去ることなく、佇んでいる。たかが数十メートルの距離だ、絶対に会える。
僕は運命の娘のことしか考えていなかった。歩道橋には横断歩道を渡らなければ行けなくて、信号はいつでも僕を邪魔することも忘れて。
僕は横断歩道に飛び出していった。信号を確認することもせずに。
耳をつんざくクラクションと急ブレーキの音が聞こえる。その音が聞こえて僕はすべてを悟った。信号はやっぱり赤で、当然、車道には自動車が走っていて、僕はその一台に轢かれてしまうと。
あと一歩だったのに。あと一歩で僕の願いは叶ったのに。
自分を制御できなかったせいで、僕の命は消え去る。
僕を呼ぶ声がする。
もうどうすることもできない。
誰かの悲鳴が響き渡たる。
目をつぶってすべてを受け入れた。
目の前は真っ暗になった。自動車がぶつかる衝撃はない。もうぶつかっているのかもしれない。でも僕にはそれがわからない。意識が遠のき、眠りにつく時のような浮遊感が全身を包み込む。
これが死ぬということなんだろうか。
暗闇の中、微かに残った意識が漂っている。遠くで何かが光っている。トンネルの出口のようだ。それはどんどん近づいてきて、僕は眩しさのあまり目をつぶった。