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君に会うために僕は  作者: 谷中英男
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 鋭い日差しと、腰の痛みで目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回し、リビングのソファーで寝ていたことに気づく。いつものリビング。無意識にスマホに手を伸ばして時間を確認する。午前九時を少し過ぎたくらい。誰もいない静かな我が家。キッチンからは何の音も聞こえない。

 僕はソファーから飛び起きて、葵の部屋に駆け出した。

 包み込むような優しさで僕を受け入れてくれる葵に会いたかった。

 誰でも明るくさせる魅力的な笑顔を見たかった。

 ただ葵に会いたかった。

 階段を駆け上り、ノックもせずに葵の部屋に飛び込んだ。

 そこに葵はいなかった。

 きれいに整理された、簡素だけど、女の子らしい空間が広がっているだけ。

 僕は無意識に葵のぬくもりを求め、誰もいないベッドに腰掛けた。微かに葵の香りがする。僕は少しでも葵を感じたくて、枕に顔をうずめ、ここにいない妹の存在を貪った。

 しばらくして、自分の変態的な行動に気づき、僕は我に返った。我に返って、葵がいない理由を思い出した。夏休みを利用して、日本中を飛び回っている両親のもとへ行ったんだ。今までの世界とは違い、家を空けている状況に罪悪感を抱いている両親のもとへ。

 少し複雑な気持ちだった。僕と葵は二人で孤独を乗り越えてきたのに。この世界で両親はもちろん家に帰ることはないけれど、僕らを呼び寄せ、罪滅ぼしをしようという姿勢が見えた。そんな両親の姿に、葵は幸せそうだった。僕は葵を取られたような気がしてならない。

 だから僕は両親のところへは行かない。僕も一緒なら葵はもっと幸せになれると知っているのに。この世界の今までの僕も、今の僕も嫉妬しているんだと思う。心に渦巻く感情が複雑すぎて本当のところはわからないけれど。普段は僕を頼ってくれる葵を取られるような感覚が重く横たわっているのは確かだ。

 少し憂鬱になりながらも、葵が幸せであることに僕は安心した。安心して、運命のあの娘のことで頭が一杯になった。ぎこちないけれども笑顔を見せていた少女。僕はあの娘に出会わなきゃいけない。あの娘を幸せにするために。

 あの娘のことを考え始めたら居ても立っても居られなくなり、とりあえずリビングへと引き返した。今から思えば、この世界でのことを思い出そうとするだけで葵のことも難なくわかったのに。早とちりして取り乱した自分が少し恥ずかしかった。

 罪悪感と羞恥心に苛まれながら、簡単な朝食をすませ、これからのことを考えた。これまでの経験を踏まえれば今日あの娘に会うことはないはず。最初の世界で一日目、次の世界で二日目にあの娘を見つけたんだから。だからといって、それまでおとなしく過ごす気にもなれない。少しでもあの娘を感じていたい。あの歩道橋で運命の出会いを待ちわびたい。

 僕はすぐにバイトを休むことを連絡して、万が一のために歩道橋に行くことにした。たぶん今日あの娘には会えないけれど、会えた時のために人生で初めてと言ってもいいくらい自分の身なりに気を使った。鏡の前でああでもないこうでもないと何度も着替え、寝癖を直す時にしか使わないワックスで延々と髪の毛をいじり続けた。葵がいてくれたらと思わずにはいられない。いてくれれば、からかいながらもアドバイスしてくれたのに。

 自分なりに最低限満足できる格好になるのに長いことかかった。気づけば時計の針は十二時を指していた。歩道橋へ向かう準備は万全、気合を入れるように玄関で靴ひもをしっかり結んで扉を開けた。いつものように身を焦がす眩しい日差しが襲い掛かり、窒息しそうなほどの熱気が僕を包み込む。今日も苛立つほどの青空が広がっている。ここひと月、性懲りもなく地表を焼き尽くす太陽に目礼して、僕の使命は始まった。

 始まったはずだったけれど、家の敷地から出る前に、いきなり関門が待ち受けていた。我が家と、下界を隔てる門扉の前に立つ少女だ。涼しげで清楚さを醸し出すワンピースを身にまとい、茶色がかった髪の毛をショートカットにした可愛い少女。利発そうでお淑やかな雰囲気を纏わせるその少女は、僕と目が合うと嬉しそうに手を振った。身に覚えのない少女に思えたけど、すぐに誰なのかわかった。隣に住む周防瑞希だ。僕の幼馴染で、クラスメートで、妹の葵以外で唯一交流のある女の子。明るく優しく少し恥ずかしがり屋で、クラスメートだけでなく誰からも慕われる、僕とは正反対な女の子。この世界の記憶が一気に溢れ出し、僕は一瞬で理解した。理解したけど、何でここに来たかはわからない。いつもなら、仲の良い葵がいる時に来るのに。僕しかいない時に来るなんて、小学生以来かもしれない。

 小学生以来……。今までいつもクラスが一緒だったのに、中学生くらいから僕らは少しずつ疎遠になっていった。家は隣だし、葵とも仲のいい瑞希はよく家には来ていたけど。僕が中学生特有の異性に対する気恥しさで瑞希をなんとなく遠ざけていた。

 門扉を開けて、僕の方へ歩いてくる瑞希。手には買い物袋が下がっている。瑞希は僕のところまで来て、「ありがと」と言って袋を差し出した。僕は状況が理解できないまま袋を受け取り、ずんずんと進む瑞希に連れられ、旅立ったはずの我が家に舞い戻った。


「わざわざ外まで出てこなくてもいいのに。でも、ありがと。荷物まで持ってくれちゃって。いつの間にこんなに気が利くようになったの?」


 眩しいほどの笑顔で偶然を好意的に解釈する瑞希に困惑しながら、リビングへと導かれる。瑞希は買い物袋からなぜか食材を取り出して、自分の家のように冷蔵庫に詰め始めた。まぁ、葵とよく料理していたりするから、勝手知ったるものかもしれないけど、今日、葵はいないんだ。瑞希の勢いのせいで、その事実を伝えられていなかった。


「今日は葵いないんだけど……」


 ある意味初対面だからか、久々に話し掛けたせいからか、随分おどおどした声音。自分でも笑ってしまいそうなほどぎこちないものだった。瑞希はそんな僕の調子など気づいていないのか明るい調子で言った。


「知ってるよ。葵ちゃん今日お出掛けしてるんでしょ」


 冷蔵庫に隠れていた顔を僕の方に向けて、瑞希は続ける。


「だから、お昼ご飯作りに来てあげたんでしょ。葵ちゃんから聞いてない?」


 満面の笑みを浮かべて僕を見つめる瑞希。僕は愛想笑いを浮かべて、葵とのやり取りを思い出していた。昨日の朝、送り出した時は怠惰な生活をするなと言われたくらいだったはず。葵の伝え忘れ? でも、葵が伝え忘れるなんて……。念のため、スマホを確認すると、昨日の時点で葵からメッセージが来ていた。


「瑞希ちゃんがお昼ご飯作りに来てくれるから、家にいるように」


 たぶん身支度や朝の混乱で、気づかなかったんだろう。


「迷惑だった?」


 困惑が表情に現れていたみたいだった。瑞希なりに僕の表情を解釈したみたいで不安そうに僕を見つめる。

 本当は今すぐに歩道橋に行きたかったけど、瑞希にあんな表情で聞かれたら嘘を吐くしかない。「迷惑なわけないだろ」と適当にごまかしておいた。お昼もまだだったし。

 瑞希は僕の言葉にほっとした表情で何かを呟いていた。その何かは僕にはわからなかった。

 何とか場を収めて、安心したのも束の間、何かに気づいたのか瑞希は瞳に涙を浮かべている。


「何かいつもと雰囲気違うね……。もしかして今からデート……?」


 目まぐるしく変わる瑞希の心境に、あたふたしていると、この世界の記憶が僕に語り掛ける。瑞希は少し恥ずかしがり屋で、優しくて、明るく、気が利いて、ちょっとだけ思い込みが激しいと。その記憶のおかげで、瑞希は僕の服装や髪形を見て、勝手にデートだと決めつけて、自分が邪魔していると思い込んでいると何となく察することができた。自分の行動をお節介だと決めつけて、罪悪感とやるせなさから泣きそうになっているんだと思う。

 僕を見つめ、今にも泣きだしそうな瑞希。女の子を泣かせるわけにはいかない、たとえ嘘を吐くことになっても。それが幼馴染ならなおさら。それに、もし泣かせたら後で葵に何を言われるかわからない。僕は瑞希の誤解を解くためにできるだけ優しい口調で話した。


「デートなんかじゃないよ、彼女もいないのに。瑞希が来るからちゃんとした格好してただけだよ」


 瑞希を悲しませないために吐いた嘘とはいえ、多少心苦しかった。僕の言葉を聞いて、嬉しそうに顔を輝かせている瑞希を見たら、そんな気持ちも消し飛んだけれど。それだけ魅力的な笑顔だった。

 気を取り直して鼻歌交じりに料理する瑞希を見ながら、どうやったら歩道橋に行けるか考えていた。瑞希のご飯を食べて、適当な理由をつけて瑞希を帰そうとすれば、また悲しい表情を見ることになる。それだけは避けたい。幼馴染を笑顔にできない人間に、あったこともない人を笑顔にするなんてできるわけがないんだから。だから、しっかり料理を褒めて、瑞希の機嫌をよくしてから、いい気分のまま自発的に帰ってもらうしかない。それから歩道橋に行って、運命の娘との出会いに備えればいい。会えるかどうかは別としても。

 本当に現金な人間だと自分でも思う。目の前の女の子の涙を見たくないから嘘を吐きながら、すぐに違う女の子のことを考え始める。今までの自分からは想像もできない。それだけ、運命のあの娘は僕にとって大切なんだということなのだけれど。

 自己嫌悪と言い訳の連鎖に陥りながらも、結局は来たる運命の出会いに思いを馳せていた。あの歩道橋で、あの娘に笑顔を咲きほこらせ、僕を知ってもらい、彼女を知る。方法なんてどうでもいいし、あの娘に会えれば何とかなる。なぜかわからないけどそう思える。新しい世界に来るたびに自信が増して、あの娘への思いは強まっていく。

 ずぶずぶと妄想に引き込まれ、出会った後のことまで考えが及んでいると、妄想は瑞希の声で中断された。料理ができたみたいだ。食器に料理を盛りつける音と、かすかに香るどこか懐かしく鼻孔を刺激する甘美な匂い。あの娘を思うあまりに消えていた食欲がどこからか現れ、腹の虫が鳴き始めた。

 いつもの癖で手伝いを申し出たけど、固辞され、食卓でおとなしく席に着いた。料理が出てくるのをただ待っているなんて状況は、葵との生活ではお目にかかれない。自分の家なのに、お客さんかのようだ。葵に知られたら、怒られるかもしれない。この世界の葵は前の世界よりもいい意味で小うるさいから。

 そわそわと座って待っていると、瑞希が料理を持ってきてくれた。きれいに盛りつけられた肉じゃがと白く艶めく白米、湯気煙る味噌汁。どこか郷愁漂う献立。

 二人で両手を合わせ、昼食は始まった。始まったけれども、瑞希がじっと僕を見つめるので、居心地の悪さから僕は箸を動かせない。


「あんまり見られると食べづらいんだけど」


 僕は恐る恐る言った。瑞希がまた変に気を遣うんじゃないかと思ったから。瑞希は僕の言葉にハッとして「ごめん」と小さく呟き、箸を動かし始めた。僕もその姿に安心して、やっと食べ始めることができた。

 葵の手料理に慣れすぎていた僕は、瑞希の料理が口に合うか心配だった。もちろん、合わなかったからといって、そのことを瑞希に伝え、幼馴染を悲しませるつもりはない。頑張り屋な幼馴染を悲しませないように、嘘を吐くと思う。だけど、これ以上嘘は吐きたくない。罪滅ぼしにはならないかもしれないけれど、心から「おいしい」と伝えたかった。

 喜ばしいことに僕のくだらない心配は杞憂に終わった。料理を一口頬張るごとに葵の料理とは違う新鮮さと誰もが思う懐かしさが味蕾を駆け巡り、僕は夢中になって瑞希の料理を堪能した。料理の感想とお礼を伝えるのも忘れてしまうほどに。

 無言で食べ続ける僕を、瑞希はまた心配そうに見つめていた。僕はその視線の意味が一瞬理解できなかったけれど、すぐに瑞希に心からの言葉を贈った。


「おいしいよ。ありがとう。毎日食べたいぐらいだよ」


 ありきたりで、平凡で、月並みな誰にでも言える言葉。こんなことを言っている人がいたら、こっちが恥ずかしくなるくらいにひどいものだった。でも、少しでも瑞希に僕の感謝の気持ちが届けばと願わずにいられなかった。純粋に湧き出る心からの言葉だったんだから。

 僕の言葉に瑞希は誇らしげに胸を張って「当然でしょ」と顔を赤らめ答えた。僕の気持ちは伝わったみたいだった。瑞希は僕の言葉に安心したのか、昔のように何のわだかまりもなく話し始めた。僕もそんな瑞希につられ、葵と話しているみたいに自然と話せた。

 楽しい昼食は終わり、家主としてやっと瑞希をもてなす出番がきた。もてなすと言っても、後片付けをするくらいなものだけど。

 軽く洗い物をして、リビングで僕を待つ瑞希のもとへ戻った。面接でも受けるかのように背筋を伸ばしてソファーに座る瑞希。何をそんなに緊張する必要があるんだろう。幼馴染の家にいるだけなのに……。

 僕は昔のように瑞希の隣に座った。小学生の頃に幾度となく二人で座ったソファーに。瑞希は僕が来るのがわかっていたはずなのに、隣に座ると驚かされたように跳ね上がった。けれど、僕の方を見るわけでも、何か言うでもなく、平日のつまらないテレビ番組を見つめるだけ。僕はそんな瑞希の反応と、記憶に眠る過去を懐かしみながら、何の気なしに瑞希を見つめていた――思いやり溢れる優しい瑞希を。

 僕たちが疎遠になった過去を思い出し、自分の幼さに飽き飽きしていると、瑞希が緊張している理由がわかった気がした。幼馴染と、異性と二人きりだから緊張しているんだろう。僕たちの年齢も考えればなおさら。

 クラスのみんなから慕われる瑞希でもそんなことを考えるのかと親近感を抱いたところで、僕にも緊張の波が押し寄せた。葵ぐらいとしか女のことは話さないのに、一緒にご飯を食べて、しかも同じソファーに座っている――二人きりで。鏡を見ずとも自分の顔が赤くなってくるのがわかる。僕は咄嗟に瑞希から視線をそらした。自分の醜態を晒したくなかったからか、瑞希を女性として意識し始めてしまったからか、わからないけれど。その瞬間から、瑞希をただの幼馴染としてじゃなく、一人の女性として意識し始めたのは確かだ。

 僕らは食卓を囲んでいた時のあの和やかな雰囲気を忘れ、この気まずい状況が沈黙によって解消されるとでも言うかのように黙っていた。リビングには平日昼間のつまらないテレビ番組の音声だけが響き渡っている。

 歩道橋に行かないといけないのに……。

 それなのに僕はこの状況を打破できなかった。何も思いつかず、隣に座る瑞希の存在をより意識して固くなるだけだった。

 貴重な時間は刻々と過ぎ去っていく。僕はなすすべもなくそれを受け入れるしかない。いや、何かできるはずなのに、瑞希に頼って何もしていないだけだ。

 言い訳を並べ立て、人に頼ろうとしている。

 今までの世界で少しは成長できた気がしていたけど、そんなことはなかった。どの世界でも僕は変わらず、いくら世界を渡り歩いても成長していない……。していないけれど、ここで成長すればいいことは確かだ。友達や妹との関係は決して無駄じゃなかったはず。ここで行動すればいいんだ。

 僕は意を決して瑞希に声をかけようとした。内容なんて何も考えていない。口を開けば何か言葉が出てくると願うしかない。


「あのさ……」


 僕の決心は幸か不幸か瑞希の一声に先を越された。内心ほっとした。口下手な僕よりも、友達の多い瑞希の方が話をふるのがうまいはずだから。女の子にリードさせるのは男としてどうかとも思ったけれど。一応、沈黙は破られたからよしとしよう。

 瑞希の問いかけに、顔を向けることで僕なりに応えた。瑞希もそれに応えるかのように僕の方を向く。力強く光を放つ瞳、わずかに上気する頬が僕の目に飛び込み、瑞希を直視できない。視線をあらぬ方向にさまよわせながら「どうした?」と平静を装い話の先を促す。


「この後一緒に出掛けたいなって思って。どうかな?」


 瑞希なりに勇気を振り絞った結果なんだろう。祈るように握った手が震え、輝く瞳に不安が陰る。僕にもその気持ちはよくわかった。運命の人に断られたらと思うと、不安と恐怖で押しつぶされてしまう。僕は瑞希のように行動に移せたわけではないけれど。だからこそ、瑞希の気持ちに応えたいと思った。ここで瑞希を受け入れたら、僕も運命の人から受け入れられるような気がしたから。


「いいよ。どうせやることもないから」


 僕がそう言うと、瑞希の瞳に輝きが戻った。瑞希は近くの大型ショッピングセンターに行きたいと告げ、そそくさと準備をすませ、散歩に連れて行ってもらえると知った子犬のようにはしゃいで僕を急き立てた。

 瑞希の意外な一面を見られて僕は嬉しかった。学校で見せる年相応の節度ある明るさとは違う、信頼した人にしか見せない本当の自分を曝け出してくれていたから。小学生の頃に戻ったようだ。二人でいつも遊び、何の隔たりもなかったあの頃に。



 僕たちは戸締りをすませて、近くのバス停へ歩いていた。ほんの十分ほどの距離。真夏の日差しが僕たちを焼き尽くそうと降り注いでいる。二人とも汗だくだった。僕一人ならすぐに引き返していたかもしれない。瑞希のはしゃぎようと楽しげなおしゃべりが僕を勇気づける。瑞希の言葉には力があった。周りの人間を明るく元気にさせる力が。だから僕も瑞希の力に後押しされて、バス停へとずんずん進めた。

 幸いにもほとんど待つことなくバスに乗れた。思いのほか空いていた車内で、僕らは自然と二人席に腰を下ろす。家でのことがおままごとに思えるほど、僕らは密着していた。二人の腕がしっかり触れ合い、汗と体温が交差する。想定外の接触に僕の鼓動は跳ね上がった――瑞希に僕の緊張がバレてしまうのではと思うほどに。瑞希はそれに気づいていないようで、楽しそうに景色に目を向けながらおしゃべりを続けていた。少し顔が赤くなっていた気もしたけど、たぶん僕が意識しすぎなだけだと思う。瑞希は時折スマホを確認して、熱心に誰かとやり取りをしているぐらいなんだから。


 ショッピングセンターは夏休みのせいもあってか、人で溢れかえっていた。あらゆる年齢層が入り乱れ、最低限の秩序のもとにひしめき合っている。瑞希に誘われなければ来ることはなかっただろう。

 僕はその空間に足を踏み入れた。もしかしたら、この瞬間にも運命のあの娘は歩道橋にいるかもしれないと思いもするけれど、ここまで来たからには気にしていてもしょうがない。瑞希を悲しませたくなかったんだ。

 僕は瑞希に連れられて、いろいろな店に行った。服屋ではカップルと間違われ二人で真っ赤になりながら否定し、喫茶店ではいちゃつくカップルばかりでお互いに目のやり場に困って笑い合った。バスの中と同様に誰かと連絡を取り合う瑞希が気になりはしたけど、素敵な時間だった。今までわざと瑞希を遠ざけていた自分を叱ってやりたいくらいに。

 二人であてどなくぶらついていると、また瑞希はスマホを熱心にのぞき込んでいた。そんな瑞希を見て「これが人気者の宿命か」と同情を抱いていた。それと同時に、自分では認めたくないけれど、ある感情が芽生え始めているような気がした。そんなことはありえないのに。この感情は瑞希に対して抱くものじゃないのに。

 僕の頭は混乱していた。その感情が本当にそれなのか確認する必要があった。どこか一人で静かに考えられる場所に行かないと……。

 一人になるための適当な口実を考えていると、瑞希がここに誘った時のようなか細い不安げな声で訊ねた。


「あのさ……。最後に行きたいところがあるんだけど、いいかな?」


 頬を林檎のように赤くさせ、不安そうに上目づかいで聞かれたら、断るわけにもいかない。ひとまずあの感情の確認は置いておいて、僕は瑞希のお望みの場所に行くことにした。

 そこはこのショッピングセンターの中でも指折りに騒がしい場所だった。カラフルな光が雑多に絡みあい、歓喜と驚嘆と嘆息が無秩序に響き合う場所。ゲームセンターだ。大小様々なアーケードゲームやクレーンゲームが所狭しと並び、一種の迷路のように狭い空間を区切っている。


「何かしたいゲームでもあるの?」


 瑞希がゲームセンターに来たいと言ったのが意外だった。まだ僕たちが仲のよかった小学生の時でさえ瑞希がゲームをしていたのを見たことがない。


「せっかくここに来たから、記念にプリクラ撮りたいなって」


 僕を導く瑞希の顔は見えなかった。たぶん、また顔を赤らめていると思う。声はいつものように力強く明るい瑞希らしいものだったけれど。今日の瑞希を見ていればわかる。瑞希が何か提案した時や、見ようによってはデートとも捉えられかねないことをしている時には、瑞希は顔を赤らめていた。もちろん僕も顔が熱くなったし、今も熱い。耳まで真っ赤になっているかもしれない。


 僕は瑞希とプリクラを撮った。白く輝く狭い空間で、もちろん二人きりで。


 取り出し口から出てきたプリクラを見て、また二人で赤面した。プリクラには二人で顔を真っ赤にさせた初々しいカップルが写っていたから。

 それから僕たちは家路につくことにした。行きと同じく、思いのほか空いているバスに乗り、二人席に腰を下ろした。今度は行きのように緊張することはなかった。幸福と安心と充足で満ちていた。瑞希も同じ気持ちだったと思う。プリクラを嬉しそうに見つめ、満面の笑みで「また行こうね」と言ってくれたから。多分に漏れず、時折スマホを熱心にのぞき込んでいたけど。

 葵といる時とは違う幸福感で満たされた時間だった。瑞希とならどんなことでも乗り越えられると思えた。二人でいろんなことを経験していきたいと思えた。

 瑞希との関係が希薄だった時間が悔やまれる。あの数年間でどれだけの瑞希のことを知れただろう。どれだけ瑞希と過ごすことができただろう。僕だけど僕じゃない過去の自分に腹が立つ。もちろん、過去の記憶をたどればこの世界の僕の言い分もわかる。思春期特有の異性に対する気恥ずかしさや、幼さのせいで瑞希を遠ざけてしまった。そんなことは誰にでも起こりえること。瑞希のような存在がいなかった僕にもわかるくらいだ。両親からの優しさを知らず、他者からの優しさを受け入れられなかった。どうすればいいかわからず、無愛想に遠ざけることしかできなかった。

 そうやって僕は孤立を深めた。相談する人もいなく、いつしかそれが普通になって、周りが僕を受け入れてくれないと嘆くことしかしなかった。

 だけど、僕は学んだ。あのスイッチを押して、もとの世界とは少しだけ違う世界に来て、友人、家族の優しさを知った。助けを求め、相談すれば応えてくれる人がいることを。僕が変われば、世界も変わることを。

 僕はここで変わらなければいけない。思いつきはしても、口に出さなければ意味がないと知った。もし、自分の望む結果が得られなくても、口に出せば何かを変えられるはずなんだ。


「瑞希、途中で降りて歩いて帰らない?」


 僕はこのまま瑞希と別れ、幸せな時間を終わらせたくなかった。少しでも瑞希と一緒にいたかった。今までの僕なら口にしなかった言葉だけれど、僕は言った。後悔しないために。断られる可能性が高いのはわかっている。ショッピングセンターを散々歩き回った後に、炎天下の中を歩くんだから。


「うん、いいよ」


 瑞希は一切逡巡することなく答えてくれた。嫌な顔なんて一つもない、澄み渡った青空のようにすがすがしい笑顔とともに。

 騒々しい蝉の鳴き声とむせかえるような熱風。日が沈みかけていても、夏はいやらしくも僕らをあざ笑うように鎮座していた。滝のように流れ出る汗が不快感を催すけれど、隣に瑞希がいるからそれさえも快感に思える。

 僕たちは炎天下の中、離れていた時間を取り戻すかのようにいろいろな話をした。葵のこと、友人のこと、学校のこと、自分達のこと。これで今までを埋め合わせられるとはもちろん思わない。だけど、これからの二人の関係を深めるためには必要なことだということは確かだ。

 僕は伝えなくちゃいけない。自分がこれまで瑞希にどれだけ愚かなことをしてきたのかを。僕たちの関係をどうしていきたいかを。


「瑞希……」


 自分でも意外なくらい深刻そうな調子で、僕は言葉を発した。


「どうしたの、智くん?」


 優しさ溢れる瑞希の声音。可愛らしく小首をかしげ、覗き込むように僕を見つめる。瑞希のそんな姿が僕に勇気を与え、彼女への思いが深まる。瑞希のためなら何でもできる。この気持ちを瑞希に伝えなくちゃ。


「本当に今までごめん。瑞希は僕のこと気にかけてくれてたのに、遠ざけるようなことして。瑞希の気持ちも考えず――」


「いいよ。私は気にしてないから。こうやって昔みたいに智くんと話せるようになった、それで充分」


 瑞希は僕の言葉を遮り、真っ直ぐ見つめて言った。吸い込まれるように透き通った瞳が僕を離さない。なんて美しい輝きなんだろう、どうして今まで気づかなかったんだ。後悔が押し寄せるけれど、それを上回る希望が湧き上がる。ここからやり直せばいい。新しいスタートだ。

 瑞希に対する気持ちを、二人のこれからのことを話そうとした。

 でも、僕は気づいてしまった。僕たちが立ち止まっているこの場所が、あの歩道橋の近くだということを。あと数十メートル歩けば、僕を幾度となく阻んできた信号がある。

 何で気づかなかったんだろう。無意識にこの場所を目指していたんだろうか? 嫌な予感がする。今日はその日じゃないはずなのに。

 瑞希に伝えようとしていた言葉は、霧のように曖昧になって消えた。何を言おうとしていたかさえ覚えていない。運命のあの娘のことしか考えられない。僕の視線はあの歩道橋に漂い、来るかもわからないあの娘を探していた。

 硬く根ざしていた足は、自然と動き出した。瑞希のことなど忘れて。

 僕は歩道橋を目指して走った。周りのことなど目に入らない。あの場所に行かなければ、あの娘に会わなければという焦燥感だけが僕を突き動かした。

 歩道橋の目の前まで来ていた。後はあの横断歩道を渡るだけ。渡るだけなのに、僕はとことんついていないみたいだ。忌々しい赤い灯火が僕の行く手を阻む。信号を無視しようとも、猛スピードで走る自動車がそれを許さない。

 僕の予感は的中した。僕の運命の人が、ポニーテールを軽快に揺れ動かし、歩道橋を渡っている。悲しげな顔をするでもなく、ぎこちない笑顔を湛えるでもなく、心からの笑顔を浮かべて。その笑顔に僕は見惚れた。やっぱり、あの娘には笑顔が必要だった。あんなに魅力的な笑顔は見たことがない。夏空に映えるひまわりのような笑顔だ。あの笑顔が僕に向けられたものだったらと思わずにはいられない。あの娘の笑顔を向けられた人間が羨ましくてたまらない。僕があそこにいるはずなのに。僕があの娘を幸せにできるはずなのに。あの娘の笑顔は三人の女の子に平等に向けられている。僕は遠目から見つめることしかできない。あの娘の笑顔が僕に向けられることはない。

 運命の人はどんどん遠ざかっていく。笑顔が僕の位置から見えなくなり、きれいに結われたポニーテールが別れを告げるように揺れ動く。

 信号はまだ変わらない。

 僕はあの娘の所へ行けない。

 この世界への希望が薄れてゆく。

 こうなるかもしれないと予想できなかった自分に腹が立つ。

 運命の人が見えなくなって少ししてから、信号が変わった。あの娘を追いかけることはしなかった。どうせ追いつけるわけがない。前の世界で学んだ。あの歩道橋でしかあの娘に出会えない。いくら追いかけようと、探し回ろうと意味はない。

 いつの間にか追いついていた瑞希が心配そうに僕を見つめて言った。


「どうしたの? 誰かいたの?」


「いや、何でもない……。ただ、ちょっと……」


 言える訳がなかった。瑞希といるのにほかの娘の事を考え、その娘に会うために瑞希のことを忘れて走ったなんて。

 瑞希は微笑みながらも悲しそうに僕を見つめていた。


「帰ろっか」


 優しく、努めて明るく瑞希は言った。僕は黙って頷くしかできなかった。

 僕たちはそれから黙って歩き、僕の家の前で別れた。瑞希は「楽しかったね」と言ってくれたけれど、あんな終わり方じゃ楽しいわけがない。瑞希の優しさから出た言葉だというのは一目瞭然だ。僕は自分の無礼を謝って、瑞希の優しさに感謝するべきだった。

 それなのに別れの言葉を残して去ることしかできなかった。

 僕は逃げ帰るように家に入った。スイッチの少女がいてくれればと思ったけれど、サウナのように蒸し暑いリビングには誰もいない。エアコンもつけず、ソファーに倒れこんだ。

 今すぐにでもあのスイッチを押して、新しい世界へ行きたかった。何であの少女はいないんだ? 僕が願えば、いつの間にか現れているのに。

 スマホの着信音が鳴った。誰かから電話みたいだ。ポケットからスマホを取り出し、誰からかかってきたのか確認もせずにでた。


「何で電話してきたかわかる? お兄ちゃん」


 電話をかけてきたのは葵だった。今まで聞いたことのないような冷たい口調。たぶん怒っているんだと思う。


「えっと、安否確認?」


 何も心当たりがない僕はおどけてそう答えた。なかなかの悪手だった。場の雰囲気を和ませようとした言葉は、火に油を注ぐことになった。怒鳴られるよりもつらい、冷静で蔑むような冷めた口調。

「瑞希ちゃんに何したの? 瑞希ちゃんがどんな思いでお兄ちゃんに会いに来たかわかる?」

 面と向かって話していたら心が折れていたかもしれない。いつも優しくて明るい葵が……。

 悲嘆にくれかけ、僕は気づいた。何で葵こんなことを言うんだ? 瑞希が家に来ることしか知らなかったはずなのに……。

 瑞希と連絡を取り合っていたのは葵?


「もしかして、今日のこと全部知ってる?」


「本当は言いたくなかったけど……。全部知ってる。葵がいろいろアドバイスしてたの。料理とか、お出掛けとかプリクラとか。だからお兄ちゃんが瑞希ちゃんを置いて、走っていったのも知ってる」


 瑞希が熱心にスマホを見つめていた理由がわかったのはよかったけれど、今はそれどころじゃない。


「えっと、友達がいてさ……。それでちょっと……」


 瑞希にしたような無様な言い訳しか出てこない。それで葵の怒りが収まるわけもなく、地獄のような責め苦は続く。


「葵に言っても意味ないでしょ? ちゃんと瑞希ちゃんに伝えて、謝って。瑞希ちゃんはね、またお兄ちゃんと仲良くなりたいって、昔みたいに一緒にいたいって勇気出したんだよ。それなのにお兄ちゃんはあんなことして。あんなことされて、どんな気持ちになるかわかる? 瑞希ちゃん泣いてたんだよ?」


 葵の言葉が耳に痛い。結局、僕は瑞希の行動の真意を読み取る努力もせずに、表層を取り繕うとしていただけなんだ。自分の立場が悪くならないように、関係に波風が立たないように保身に走っただけ。本当の瑞希を見ていなかった。謝らなくちゃ。

 僕は葵との電話を終えて、隣の瑞希の家へ行った。インターホンを鳴らすと瑞希が玄関に出てきた。葵が根回ししてくれていたんだろう。瑞希は僕の方を見るでもなく、俯いて玄関に立ったままだった。昼間の楽しそうな瑞希の見る影もない――しおれた花のようだ。

 僕はそれだけ瑞希を傷つけてしまった。

 僕は瑞希の所まで行って、頭を下げた。


「今日は本当にごめん。瑞希のことも考えずに、あんなことして」


 瑞希は僕の言葉を聞いて、俯いていた顔を上げた。目元が真っ赤に腫れている。


「いいよ。また智くんと一緒に遊べたから。それに、ちゃんとした理由があったんだよね」


 瑞希は笑顔で言ってくれた。痛々しいほど無理をした笑顔だった。瑞希は僕を受け入れようとして

くれている。僕はその気持ちに応えないといけなかった。


「たまたま友達がいてさ、伝えなきゃいけないことがあって……」


 僕の口から出てくるのは嘘だけだった。瑞希の優しさを踏みにじる嘘。僕はどうすればいいんだ。僕は違う世界の僕で、運命の人に会うためにこの世界に来たと言えばいいのか? そんなこと言えるわけがない。それこそ本当に瑞希の優しさを踏みにじることになる。まぎれもない真実なのに。

 だからしょうがないんだ。適当に嘘を並べ、納得してもらうしかない。昼間、あれだけ嘘に対して罪悪感を感じていたのに。


「それじゃあ仕方ないね」


 瑞希は僕の言い訳を聞きながら、ぽつりと言った。瞳から一筋の光が流れ落ちた。

 やっぱり嘘はよくない。真実を述べるべきだった。突然の夕立にやられてずぶぬれになったような気分になるくらいなら。

 僕は瑞希の涙について触れずに、すぐに帰った。瑞希は何も言わなかった。ただ僕を見送るだけだった。

 またソファーに倒れこみ、憂鬱に蝕まれていた。僕がもっとうまくやれていれば、瑞希にあんな表情をさせずにすんだのに。新しい世界に来るたびに、誰かを不幸にしている気がする。スイッチを押すべきじゃなかったんじゃないか?


「そんなことない。あなたは押さなければいけなかった。じゃないともっと不幸になっていた」


 僕の心の声に答えるようにスイッチの少女は言った。いつの間にか現れ、ソファーに僕がいるせいか今日は正座してお茶を飲んでいる。


「あなたはもっと自分のために生きなさい。あなたが幸せになれば、周りも幸せになるわ」


 少女は生真面目な表情で言った。

 随分強引な理論にも思えたけど、そんな強引さが僕を救ってくれたのも確かだ。今までの経験を生かして、新しい世界で今度こそ運命の人と会おう、そう思えた。


「はい。新しい世界があなたを待ってるわ」


 差し出された掌には見慣れたスイッチがある。何も悩むことはない。僕は少女からスイッチを受け取り、この世界から去った。


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