3
鋭い日差しと、腰の痛みで目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回し、リビングのソファーで寝ていたことに気づく。いつものリビング。無意識にスマホに手を伸ばして時間を確認する。午前九時を少し過ぎたくらい。誰もいない静かな我が家。いつも通りの一日が始まった。
僕の人生の、誰が決めたかもわからない一年という単位の中の何の意味も持たない一日、何の変哲もない八月四日、のはずだった。何の変化もないはずなのに、キッチンから何か聞こえる。何年も聞いたことのない、誰かが調理をしているような音が。
もしかして、スイッチの少女が僕のために朝食を作ってくれているんだろうか? ソファーから起き上がって、彼女の姿を確認しようとするけど、ちょうど僕のところからは見えない。自分のために料理を作ってくれていることに感動しながら、男の性からかそんな光景を一目見ようと僕はソファーから立ち上がった。
キッチンとリビングを隔てるカウンターには二人分の食器が置かれ、その前にある食卓には今までお目にかかったことのないランチョンマットが二つ敷かれている。両親がいる時でさえこんなもの使ったことないのに。彼女の気遣いに感謝するばかりだった。それに加え、空腹の胃を刺激する優しい匂い、ガスコンロや炊飯器の微かだけど心地良い音色が僕の眠気を完全に吹き飛ばし、久しく感じたことのない活力を湧き上がらせた。
純粋に心からのお礼を伝えようと、キッチンへと足を踏み入れた。
そこには手際よく料理する可憐で美しい少女がいるはずだった。でもそこにいたのは僕が想像した人物じゃなかった。可憐だけれど、あの少女よりも幼さの残る可愛らしい少女がいた。可愛らしい薄着のピンクの部屋着、小柄でスマートな身体、年相応な幼さを感じさせるツインテール、楽しげなで愛らしい表情。僕の記憶には存在しない、僕とはかかわることのないような可愛い女の子。僕は何も言えなかった。ただ唖然として、その女の子を見つめることしかできなかった。
そんな視線に気づいたのか、その女の子は僕のほうに顔を向けた。彼女の視線が僕を捕らえ、楽しげだった表情に満面の笑みを浮かべた。
僕はあほみたいに突っ立ったままだった。そんな僕の反応を気にも留めることなく、その女の子は小鳥のさえずりのように軽やかな調子で言葉を紡ぎ出した。
「おはよう、お兄ちゃん。もうちょっとで朝ご飯できるからね」
お兄ちゃん? ということはこの娘は僕の妹? いくらなんでも、この変化は大きすぎないか? 何かの間違いじゃないのか? そう思いだすと、一気にこの世界での記憶が湧き上がってきた。
この女の子の名前は葵。僕の一個下の妹で、僕と同じ高校に通っている。留守がちな両親のせいか昔からお兄ちゃん子で、いつも僕の後ろをついて回っていた。いつからか家事や僕の世話を甲斐甲斐しく焼くようになり、今ではこの家のことを仕切るぐらいに立派に成長している。ただ、まだ子供な部分もあって、僕ら二人で支えあいながら日々を過ごしている……。
まるで登場人物の紹介みたいに彼女のことが頭に浮かび、細かなエピソードも際限なく溢れてくる。あまりの情報量に眩暈が起こるかと心配になったけど、特に問題はなかった。前の世界での経験のおかげか、あまりにも予想外の展開から眩暈を感じる余裕がなかったのかもしれない。
僕はそのまま、自然に「おはよう」と答え、食卓のいつもの位置に座った。もちろんもとの世界ではいつもの位置なんてなかった。
この世界でのいつもに、もう順応してきていた。自分の思わぬ才能に苦笑いしていると、葵は軽やかな声音で楽しそうに僕を叱り始める。
「ソファーで寝ちゃダメって言ったでしょ。ちゃんと自分の部屋で寝てよね。夏休みになってからいつもそうなんだから」
夏休みになってからのいつものやり取り。家族のぬくもりと優しさに包まれる感覚。僕の心は自然と暖かくなり、ささやかでいつも通りな幸せを初めて噛み締めた。
そんな緩んだ表情が顔に出ていたんだろう、葵は目ざとくそれを見つけて、あきれながら「もう、ちゃんと聞いてよね」と楽しそうに笑った。
そんなやり取りの後、葵はテキパキと盛りつけと配膳をすませて、すぐに朝食になった。炊き立てのご飯と出来立ての味噌汁、半熟の目玉焼きとカリカリに焼けたベーコン、質素だけど、葵の心のこもった優しい朝ご飯。食卓には二人しかいないけど、葵の笑顔と何気ない話で豪華に彩られ、僕はこの時間がいつまでも続けばと思った。
そんなことを思っていたからか、僕の箸は止まっていて、葵を見つめていた。葵は眉間に小さな可愛い皺を寄せて、「もしかしておいしくなかった?」と訊ねた。僕は慌てて、素直に自分の感情を吐露した。
「そんなことないよ。葵のご飯がまずいわけないじゃん。いつもありがとう」
この世界の今までの僕だったら絶対に言わない言葉。僕は言わずにはいられなかった。初めて家族のぬくもりを教えてくれた葵に僕の気持ちを知ってほしかった。
「もう、おだてても何も出ないよ。でも、ありがと……」
普段聞かない僕の言葉のせいか葵は頬を赤く染め、優しく微笑んだ。
朝食も終えて、二人で後片付けを始めた。いつもは手伝わない僕の申し出に葵は「本当にどうしたの? 何かあるの?」と怪訝な表情を浮かべていたけど、すぐに嬉しそうに笑った。
葵が皿を洗う音、僕がそれを拭く音、それだけがキッチンに漂った。そのありふれた音色に僕の心は奪われ、僕の横で真剣に、だけど楽しそうにお皿を洗う僕の可愛い妹を見つめていた。
小柄で子犬のような印象を与える妹。
いつもはしっかり者で母性に溢れているのに、ちょっとしたところで年相応の幼さを見せる妹。
真面目で純粋な妹。
本当に僕の妹だと信じられないくらいできた妹だ。
もとの世界に葵がいれば、何か変わっていたのかもしれない……。
そんなネガティブな思いが表情に出ていたみたいだ。皿洗いを終えた葵が僕の顔を心配そうにのぞき込む。
「どうしたの? 何か今日変だよ?」
大きな瞳を潤ませ心配そうに葵は言った。僕は自分の状況を説明するわけにもいかず、「バイトめんどくさいなって思ってただけだよ」と言い訳して、ごまかすように葵の頭を撫でた。葵は気持ちよさそうに目を閉じて僕の手を受け入れていたけど、恥ずかしさを覚えたのかハッとして、僕の手を優しく払いのけた。
「すぐ子ども扱いするんだから。それに、ちゃんとバイト行かないとダメだよ。皆に迷惑かかっちゃうでしょ」
子供っぽさを挽回するように葵は僕を叱った。頭ごなしに叱りつけるようなものじゃなく、お互いが笑顔になれるような優しいものだった。
後片付けも終え、僕たちはリビングでまったりしていた。僕が後片付けを率先してこなしたおかげか、葵はすこぶる上機嫌だった。
二人でテレビを見ながら、鈴を転がすような葵の心地良い声に耳を傾ける。ニュースに対するコメント、学校の話、昼食、夕飯の話、何気ない会話だけど僕には最高の時間だった。孤独を実感させるだけのリビングが、今では僕の癒しの場になっていた。それだけ葵の存在は僕にとって大切なものだった。
「そういえば、バイト何時から?」
葵の何気ない質問がこの世界に来た理由を思い出させた。僕は歩道橋にいた少女と出会うために来たんだ。いつもでもこの幸福に浸かっていてるわけにはいかない。
「いつも通り昼からだよ。昼ご飯はいらないかな」
葵にはそう言ったけど、バイトに行くつもりはなかった。どうにかしてバイトを休むつもりだった。前の世界と同じようにバイト先のみんなと交流を持っていたら助けてもらうか、もとの世界と同じなら無断で休もうと瞬時に決めた。スマホに手を伸ばし、バイト先のグループがあることを祈ってメッセージアプリを開いた。
僕の願いは通じたのか、バイト先のグループは先頭に表示されていた。昨日の夜も、遊びの約束や他愛ないやり取りをしていたみたいだ。軽く履歴を遡るうちに、バイト仲間との関係が前の世界と同様に良好なものだと確認できて、すぐさまメッセージを送信する。
「今日、体調悪いんだけど、誰か代わってくれない?」
当日にいきなりこんなことを言われて代わってくれる人はいるのか、冷や冷やしているとすぐに返事があった。それは坂本君からで、「こっちで何とかしておくから、お大事に」と頼もしいものだった。この世界でも友達でいてくれる坂本君に複雑な感情を覚えながらも、僕はその言葉に甘えることにした。
家を出るまでの時間、僕は葵との時間を堪能した。もとの世界の僕だったら、話題を思いつかず、へたな相槌と気まずい沈黙しか使えず会話が苦痛でたまらなかったと思う。でも、この世界では今までの積み重ねのおかげか、すらすらと言葉が紡がれた。もちろん、葵が話しているのが大半だったけど。そんな葵の姿を見ているだけで幸せで、ふとした拍子に訪れる沈黙でさえ楽しむことができた。
そんな他愛のないやり取りをするうちに、幸福な時間は例のごとく瞬く間に過ぎ去り、僕の出掛ける時間が迫っていた。僕はどうせバイトには行かないから、もう少し葵と一緒にいようと思って、リビングから動こうとしなかった。そんな僕の姿に葵は唇を尖らせ、急き立てる。
「今日バイトでしょ? 準備しないと遅れちゃうよ。ほら、早く着替えて」
腰に手を当て、小さな胸を張って僕を咎めるように見つめる。この家の小さな権力者に逆らうことはできない。僕は葵が怒り出す前にそそくさと準備に取り掛かった。
僕が準備を終えて、焼けただれるような暑さの中に繰り出そうとすると、葵が切り火でもしそうな勢いで玄関までついてきた。この世界の僕だったら、鬱陶しく思って無下にしていたと思う。こんな経験が記憶にしかない僕は、妹の健気な優しさに心打たれるばかりだった。
妹に門出を祝われるかの如く見送られた後、僕は一直線にあの歩道橋に向かった。運命の人に会うはずの時間はまだ先だったけど。前の世界のように邪魔が入るかもしれない、この世界では出会う時間が違うかもしれない、ということも考慮して僕はあの場所で彼女を待つことにした。
ちょうど十二時に、運命の人を見つけた横断歩道にたどり着いた。例のごとく僕の歩みを止める赤い灯を睨みつけながら、彼女がいないことに安堵する。でも、そんな気持ちはすぐに霧消し、少女と入れ違いになっていないことを祈るばかりだった。
やけに長い信号をやっとの思いで渡り、古びた階段を上り、前の世界ではたどり着けなかった歩道橋にたどり着いた。
運命の人はその場にいるわけもなく、辺りを見渡してもそれらしい人影はない。僕は一応安堵し、もとの世界でスイッチの少女に出会った場所で欄干に手を置いた。掌に剥げかけたペンキの鋭利な感触と、砂のようにザラザラとした錆びた金属が触れ、あの夜を思い出させる。
あの日のおかげで、運命の人を知ることができた。あの日のおかげで、僕の人生をやり直すことが出来た。
どこまでも広がる青い空と、ソフトクリームのようにそびえたつ雲を見つめてそう思った。スイッチの少女には感謝しかない。彼女のおかげで僕はここまで来られた。この世界で運命の人と出会うことができるから、もうあの少女とは会うことはない。一抹の寂しさと、お礼を言えなかったことへの後悔だけが募る。
燦々と日差しが降り注ぐ真夏の午後に、外を出歩く人間はほとんどいなかった。もちろん、歩道橋で誰かを待つ酔狂な人間は僕だけ。青く澄み渡る空に少しだけ近い歩道橋から、下界をまばらにそぞろ歩く人々に、働き蟻を観察するように陳腐で好奇な視線を向ける。あれは日課の買い物に赴く主婦、あれは部活動で青春を謳歌する学生、あれは長くもあっけない夏休みを満喫する子供。そうやって高みから彼らの役割を、彼らの行動を分析する。これはまさに高尚で全能な気分に浸れる貴重な瞬間。自分の役目も役割も忘れてこの幼稚な行為に没頭しそうになる。
だけど、時折歩道橋に現れる、僕の理解の及ばぬ狂人からの不躾で無遠慮な視線が高貴で幼稚な暇つぶしを邪魔する。己を追い込み残酷なまでに自らを鍛え上げる修行僧、もしくは日ごろの怠惰を少しでも挽回しようとその場限りの懺悔に駆られた罪人が僕を睨みつける。まるで、何もしていない僕を非難するか、自分で課した責務を僕から押しつけられた理不尽な罰かと思っているように。
そんな妄想とも現実ともつかない考えと格闘しながら、僕は歩道橋で運命の人を待ち続けた。身体から毟り取られた水分を補給するために何度か歩道橋を渋々離れたけど、周囲に細心の注意を払い、少しでも離れている時間を短くするために全力で飲み物を買いに走っただけ。
そんな苦労も一切報われず、前の世界で彼女が現れた時刻が過ぎても、出会うことができなかった。
いつまでも僕を焼き続けるように思われた太陽も沈み、昼間の業火を惜しむようにむせるような熱気が漂う。僕は運命の人との出会いが失敗に終わったのでは、と気が気ではなかった。この世界に来たのが間違いなのか、それとも運命の出会いの機会はすでに失われたのか、僕の中に後ろ向きな考えが湧き続ける。そして、自らの選択への後悔と糾弾が弾けそうになった時、不意の振動が不穏な考えを断ち切った。震源はズボンのポケットに入れていたスマホ。振動は数秒続いて止まった。たぶん葵が心配しているんだろう。そんな経験なんてないのに、この世界の記憶のおかげですんなりとそう思った。スマホを確認する前から、葵からのメッセージが来ているかもしれないという考えだけで、僕の不安は吹き飛んだ。
期待というより確信に近い気持ちでスマホを確認すると、やっぱり葵からの心配のメッセージだった。
「バイト長引いてるの? ご飯はどうする?」
どちらかと言えば簡素で業務的な内容だったけれど、真冬に飲むココアのように感じた。今まで享受できなかった家族のぬくもりと言うやつなんだろうか。僕の浅薄な経験からでは答えを導き出せなかったけれど、家に帰ろう、そう思った。
葵に「友達と話してたら遅くなっただけだよ。ご飯は家で食べから」と返信して、家族の待つ家に帰ることにした。
家に着くころには二十一時を過ぎていた。玄関に光が灯っていることに感動しながら家に入り、リビングへ向かう。そこにはもちろん光が溢れ、僕の帰りを待つ人がいる。今日初めて会ったけれど、生まれた時から知っている僕の妹。僕を慕い、心配してくれる最愛の妹。
リビングへの扉を開けると、ソファーに座っていた葵が僕の方へ顔を向けた。僕を包み込むようなやさしい笑顔が華やいでいる。妹のそんな笑顔に心奪われ、可愛い妹を心配させたことに後悔の念を覚えた。兄を慕う健気な妹を心配させるなんて、しかも嘘まで吐いて。僕は大げさなほどの謝罪をし、妹への感謝を伝えようとした。葵は僕の仰々しい謝罪が滑稽に見えたようで、笑いながら「じゃあ、ご飯にしようか」とキッチンへ向かった。
葵が手早く料理を温め、いつもの、そして初めての夕食が始まった。葵の何気ない話を楽しみながら、愛情の詰まった料理を堪能する。完璧に幸福な時間。僕が求めていた家族の形がここにはあった。
二人で他愛のない会話を楽しんでいると、葵が唐突に訊ねた。
「お兄ちゃん、もしかして彼女できた?」
僕は予想外の質問に面食らって、咄嗟に否定した。
「いや、いないよ。てか、何で?」
「うーん、最近、帰りが遅かったりするから。よくバイト終わってから話し込んでるとか言ってるし」
どこか不満げに口を尖らせる葵。僕は言い訳するように言葉を続けた。
「連絡しないのはごめん。それと話し込んでるのもただの友達だから」
「ふーん……。まぁ、遅くなるのはいいけど。そうなんだ……。お兄ちゃんに彼女ができるわけないよね」
どこかうれしそうにしたり顔で葵は言った。
僕は葵の機嫌がよくなったのに満足し、話の流れから葵に何気なく聞いた。
「葵は彼氏作らないの?」
この世界での記憶から葵に彼氏がいないことを思い出し、素朴に抱いた疑問。贔屓目に見ても、これだけ可愛い女の子なら彼氏がいてもいいはず。それなのに浮いた話ひとつない理由がわからなかった。
「葵が先に恋人作ったらお兄ちゃんが可哀想だから作らないの。それに、周りはみんな子供っぽいし。お兄ちゃんみたいな人がいたらわかんないけど……」
最後は消え入るような声で、顔を赤らめながら葵は言った。そんな葵の反応のせいか、僕も一緒になって赤くなった。
そのまま会話も弾まず夕食は終わった。なんとかいつも通り会話しようとしたけど、僕と視線が合うだけで葵は目を伏せ、せっせと料理を小さな口へと運んだ。その後、また二人で後片付けをしたけれど、葵はどこかよそよそしく、僕もそんな葵の雰囲気に飲まれ、うまいこと話せなかった。
葵はそのままお風呂に入り、すぐに自分の部屋に引き上げた。僕はこの微妙な気まずさのまま一人で悶々としていた。この状況を打破する方法を考えたけど何も浮かばず、何が原因なのかも判然としないままお風呂に入り、自分の部屋に僕も引き上げた。
何をするでもなくベッドに横たわり、この世界の記憶を思い出す。記憶の中にはいつも葵がいた。葵の笑顔と優しさで溢れている。幸せな毎日。両親がいなくとも二人で乗り越えてきた。
葵との幸せな記憶を思い出しながら、僕はいつの間にか眠っていたみたいだった。扉をノックする音で目が覚める。昼間、炎天下の中で立ち続けたからか身体が重い。ノックに気づかなかったふりを決め込もうかとも思ったけれど、葵のか細い声が聞こえた。
「お兄ちゃん、もう寝ちゃった?」
僕はその可憐で控えめな響きに庇護欲が刺激され、睡魔を振り払い、「寝てないよ、どうした?」と言って葵を部屋に招きいれた。
ベッドに腰掛け、自分の枕を抱きかかえる葵はいつもより幼く見えた。まだ小さかった頃の葵を見ているようだ。あの頃の葵はホラー映画や怖い夢を見た時には決まって僕と一緒に寝ていた。両親がほとんどいない不安もあったのかもしれない。いつからかそんなこともなくなって、しっかり者のできた妹になっていたけれど。
僕が昔日の記憶を懐かしんでいると、葵は恥ずかしそうに俯きながら口を開いた。
「怖い夢見たから、一緒に寝ていい?」
いけないことをしてしまった子供のような恐々とした声音。予想通りで記憶通りな葵の行動。この世界の僕なら、葵を落ち着かせ、葵が寝るまでそばにいると言って、やんわりと同衾を断っていたと思う。残念なことにこの世界での記憶にそんなものは存在しなかったけれど。葵が大きくなってからはこんなことはなかったから。だから、僕は今までの記憶と経験から、兄としての最善の方法を慌てずに導き出さなきゃいけなかった。でも、今の僕は女の子と自宅で二人きりになったこともないし、ましてや、寝間着姿の美少女に頼られたこともない。簡単に言うと、圧倒的に経験が不足していた。
僕は不安そうな表情を湛えた美少女と一緒のベッドで一夜を過ごすことがどんな意味を持つか考えもせずに、ただ受け入れてしまった。妹の不安を取り除きたいと純粋に思ったから。
電気の消えた真っ暗な僕の部屋で、狭いベッドに二人で横になった。暗闇のせいか、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていた。葵から微かに漂う甘く芳醇な香り、艶っぽく零れる吐息、微かに触れ合い伝わる体温。この状況に追いやられてから初めて、自分の過ちに気づいた。いくら妹とはいえ、可愛い女の子と同じベッドで寝れば、僕みたいな人間はまともに寝られるわけない。エアコンが効いて涼んでいるはずなのに、身体は火照って汗ばみ硬直し、心臓が激しく鼓動して、葵に変な勘違いをされるのではと気が気でなかった。幸いなことに、葵は僕の焦燥に気づくことはなく、僕の隣で眠りに落ちているように思われた。規則的に零れる吐息と、時折聞こえる布の擦れる音だけが僕の耳に響く。
自分一人だけが意識していただけみたいだ。これが思春期のなせる技。血のつながらない異性と同衾ならまだしも、今いるのは血のつながった妹だ。そう思えたおかげで、硬直していた身体は弛緩した。だけど、さっきまで高鳴っていた鼓動のせいで眠気は訪れそうにない。今さらベッドから抜け出すわけにもいかず、睡魔が僕を襲うのを待ったけれど、肝心な時に限って現れない。いつかは眠気が来ると期待して、今すぐに眠るのは諦めた。無理に閉ざしていた瞼を開けて、真っ暗で何も見えないけど、そこにあるはずの天井を見つめる。そして、これからの妹との関係に思いを向けた。いくらこの世界の記憶があるからといって、やっぱりそれだけでは対応しきれないことばかりだ。特に今の状況なんて最たる例だ。
まだまだ不慣れな僕だけれど、今日みたいに葵と一緒に経験して答えを出していけば、今まで以上にいい兄妹になれる気がした。
この世界では葵のことばかり考えている気がする。もちろん、歩道橋で見つけた運命の人と出会うために僕はこの世界に来た。でも、妹の、葵の幸せを第一に考える自分もいる。それはこの世界での僕が妹を大切に思ってきた証で、その思いを無下にはできそうにないし、する気もない。いつかどこかで折り合いをつけないと。選択を誤れば後悔する。だからこそ、ここにいるのだから。
一日の疲れと、心が落ち着いたおかげか、ゆっくりと眠気が忍び寄ってきた。暗闇を見つめるために開かれていた瞼が自然と閉じていく。意識は徐々に混濁し始め、睡眠のことしか考えられなくなる。
睡眠へ至るまでのもどかしく心地良い瞬間が僕を襲っている時に、葵の微かな声が聞こえた。
「お兄ちゃん、好きだよ……」
どこか艶っぽく、不安そうで、どうしようもないほど誠実な声音。僕はどうすればいいかわからなかった。この場を穏便にやり過ごすことしか頭に浮かばない。寝たふりをして、葵に背を向けるように寝返りを打った。葵との物理的な距離が、冷静な判断が下す手助けになると思ったから。
そう思えたのも一瞬だった。葵が僕の背中にぴったりと寄り添い、「お兄ちゃん……」と僕を求め縋るように呟いた。背中に伝わる葵のぬくもりと柔らかな感触。一瞬、背徳感と幸福感が奇妙に入り乱れた複雑な感情が湧きあがったけど、それは本当に一瞬で、動悸と冷や汗がこれでもかと押し寄せた。どうしようもないほどのパニックも押し寄せ、頭の中は台風が直撃したような大混乱。葵の身体を強引に引き離すことも、葵の行為をそれとなくたしなめることも、ベッドから出ることもできずに、これ以上の事態が起こらないことを祈って朝を待つしかできなかった。
僕の祈りは通じたのか、それ以降何も起きることはなかった。葵の静かな吐息に誘われ、僕もいつしか眠りについていた。朝方、頬に何かが触れたような感覚と、昨夜聞いた言葉がもう一度聞こえた気がしたけど、たぶんそれは夢の中の出来事で、葵が何かしたとかそんなんじゃない……。思春期特有の青い妄想が昨日の異常な状況のせいで現れただけ。そうやって無理矢理納得して、僕の心を激しく乱した小悪魔を探したけど、僕の横に微かなぬくもりだけを残していなくなっていた。
いつもの癖で、意味もなくスマホで時間を確認する。今日も午前九時を少し過ぎたあたり。何の変哲もない八月五日が始まっていた。始まっていたけれど、今日は何の変哲もないなんて口にする気はない。今日こそ、運命の人に会わないと。
そう決意した時に、いつもの聞き慣れた声が聞こえた。
「お兄ちゃんご飯できたよ、起きてー」
昨日のことなんて微塵も気にかけていないような、明るく楽しげな声。あんなに緊張していたのが馬鹿みたいに思えてくる。これが兄妹の、葵の普通で、僕がこの環境に慣れていないから右往左往してしまうだけなんだ。もちろん、この世界の記憶にはこんな経験はないけれど。
今日という日を特別にするために、洗面所でさっぱりして気合を入れてから、葵の待つリビングへ向かった。リビングの扉を開くと、空っぽの胃を刺激する芳しい匂いが僕の鼻孔に流れ込む。僕の心はそれだけで幸せで満たされ、今日一日の活力が湯水のごとく溢れ出す。
「やっときた。ご飯冷めちゃうよ」
いつもどおり鈴の音を鳴らすような声が僕を迎える。その声を聞いただけで僕の心は満たされ、自然と葵のほうへ視線がいく。葵はキッチンで料理を温めていた。
「もう盛りつけるだけだから、座ってて」
葵に促されて僕はいつもの席につく。いつもの朝のいつもの光景。やっぱり僕の考えすぎで、葵は兄妹の何でもないスキンシップくらいにしか思っていないんだ。僕は安心して胸を撫で下ろした。
二人の朝食はいつも通り進んだ。葵の他愛ないおしゃべりが続き、僕はそれを楽しみながら葵の心のこもった料理を堪能するはずだった。
それなのに、いつも通りの朝は、葵が時折見せる不意の沈黙と熱い視線で落ち着かないものになった。僕はその沈黙と視線を料理への感想を求めているだけだと思い、昨日のように素直な気持ちを葵に送った。昨日のように軽くいなされるだろうと予想していたけど、葵は耳まで赤く染めて俯きながら「ありがとう」と呟くだけだった。
そんな光景を見て、昨日のあれが過ちだったのではと思いだした。昨日の僕のミスのせいで兄妹の歯車を狂わせてしまった。
僕は葵の話にそっけなく答えながらさっさと食事をすませ、すぐに自分の部屋へと引き上げた。僕が足早にリビングを去る時に葵の見せた表情は今までにないほど悲哀に満ちたものだった。だから、僕はベッドの上で葵に対する罪悪感で押しつぶされそうになっていた。僕がこの世界に来た理由も忘れて。
もっとほかにやり方があったんじゃないか、葵に言い聞かせるべきだったんじゃないか……。後悔が絶えないけど、僕にはああするしかなかった。あれ以上の方法を知らなかった。経験が足りないから。
二時間ほどたっただろうか。僕は何もせず、自分の過ちを責め続けていると、弱弱しいノックの音が聞こえた。僕が返事をすると、葵が不安そうに僕に問いかけた。
「買い物に行きたいんだけど、付き合ってくれる?」
今にも消え入りそうなか細い声だった。そんな声を聞かされて、断れるほど僕は冷酷な人間じゃない。僕は朝の態度を改めるように、努めて明るく返事をした。するしかなかった。
あんな不安そうな葵の声を聞きたくない。
葵にはいつも元気でいてもらいたい。
僕の浅はかな行動のせいで、葵が道を踏み外したとしても。僕も一緒に踏み外せば、そこは僕らの普通になる。
空は雲ひとつない快晴だった。葵の問いかけの後、僕たちはすぐに準備をすませ、近所のスーパーへ買い物に出かけた。何てことのない、いつもの買い物。この世界の記憶にも数え切れないほどある些細なこと。
そんないつもの買い物のつもりだったけれど、葵は外に出るなり、僕の腕に自分の腕を絡ませ寄り添って離れない。真夏の真っ昼間に二人で密着すればどうなるかはわかっているはずなのに。葵は嫌な顔一つせずに、むしろ心底幸せそうに寄り添った。僕の腕には控えめだけど確かな柔らかい感触が伝わる。邪な感情が湧かなかったと言えば嘘になるけど、それ以上に僕はこの幸せがいつまでも続けばと願った。
真夏の日差しを浴びて、二人で汗だくになりながらスーパーまでたどり着くと葵はさすがに腕を放した。たぶん周りの視線が気になったんだと思う。カートを押す僕の横を、食材に目を向けながら葵はちょこちょこと歩き回る。今日の夕飯や今後の献立、僕の食べたいものの話をニコニコしながら葵は話した。僕もそんな葵の姿を見ているだけで笑顔になった。葵はそんな僕の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「葵たちどんな風に思われてるんだろう。兄妹? それともカップル?」
予想外の問いかけと、昨日の出来事が頭によぎって僕は何も言えなかった。ただ顔を赤らめるだけ。つくづくはっきりしない人間だと思う。ここに来るまでに心を決めていたのに、兄として、一人の男として、結局何の答えも出せないままだった。
葵はからかうように笑っていた。
買い物もすんで、また二人で真夏の空の下を歩いていた。帰りは荷物をもっていたから、葵は腕を組もうとはしなかったけど、楽しそうに僕の隣を歩いた。僕は葵の歩調に合わせて歩き、少し遠回りしているのに気づきながらも、葵の好きなようにさせた。二人で大汗をかいて、真夏の日差しに上気しながら歩き続ける。
葵の楽しそうな姿を見ていて気づくのが遅れたけど、僕たちはあの歩道橋の近くまで歩いていた。運命の人に会うはずの場所に。僕はその時になって、運命の人がもしかしたらあの歩道橋にいるかもしれないと思った。あの娘に合う時間はもっと後なはずだけど、昨日会えなかったことを考えると、日付だけじゃなく、日時も変わるのでは、と不安にならずにいられない。それと同時に、あの娘への思いが消えずに、しっかりと残っていることが嬉しかった。やっぱり僕はあの娘に会わなきゃいけない。名前も知らず、話したこともないけれど、あの娘じゃなきゃいけない。
何度も行く手を阻んできた信号はすんなりと僕たちを通してくれた。ゆっくりと横断歩道を渡る。葵の話に耳を傾けながら、何の気なしに歩道橋を確認した。
あの娘は歩道橋にいた。黒く艶光るポニーテールを愉快に揺れ動かし、歩道橋を渡る僕の運命の人。前の世界とは違って、一人で悲しげな表情を浮かべてはいない。女の子の友達と二人で話しながら歩いている。決して心から会話を楽しんでいるようには見えない。お互いにぎこちない笑顔だった。それでも前の世界より何倍もいい顔をしている。
僕はそんな彼女を見て安心した、嬉しかった。彼女には笑っていてほしかったから。だけど、彼女の横で、彼女を笑わせているのは僕でありたかった。今すぐにでも彼女のもとへ駆けていき、彼女の友達も気にせずに、運命の出会いを果たしたかった。
僕は駆け出すことができなかった。できるわけがない。僕の隣には葵がいるんだから。楽しそうに話す妹を置いていくわけにはいかない。葵のおかげで家族のぬくもりを知ったのだから、葵のおかげであの娘にまためぐり合えたのだから。
僕は運命の人への思いをぐっとこらえ、葵のおしゃべりに集中した。チャンスはいくらでもある。この世界にもあの娘がいるのを確認できたんだから。いくらでも時間はある。今この時だけは、葵のために尽くそう。
あの時の僕の判断は間違っていた。次の日から、あの娘に会うために毎日、歩道橋に行ったけれど、一度たりとも会うことはできなかった。ましてや、あの娘が着ていた制服もあれ以来見ていない。僕は日に日に憔悴していった。あの娘に会えない一日一日が僕を苦しめる。食欲もなくなり、口にするのは歩道橋で飲むスポーツドリンクぐらいなもの。
そんな僕の姿を見て、葵も衰弱していった。自分のせいで兄が苦しんでいると自らを責め、僕が何も食べなければ葵もそうした。何度も葵のために僕のことは気にするなと言ったけれど、無駄だった。まるで苦しみを一緒に分かち合おうとでもするように、葵は自らを追い込んだ。
僕はあの娘に会えない現実と、葵の衰弱していく姿を見て自分を責めた。責めるだけで何もしなかった。ただ自分の不幸を嘆き、誰も救えない世界にはいたくないと心の底から思うだけだった。
僕の願いは速やかに叶えられた。ある日の夜中、葵は部屋に引き上げ、リビングにはしょぼくれた僕がいるだけ。そんな状況にスイッチの少女は現れた。今までと何も変わらない格好で、険しい表情を浮かべ、リビングのソファーに腰掛けていた。少女は何も言わなかった。目の焦点の定まらぬ僕を見つめ、スイッチを差し出した。僕の運命を変え、僕を救ってくれるスイッチを。
僕はすぐにでも少女からスイッチを奪い取り、違う世界へと行こうとした。でも、葵のことが脳裏をよぎった。健気で優しい僕の妹。僕がこの世界を去ることで、葵は余計不幸になってしまうかもしれない。
僕の迷いにスイッチの少女は気づき、優しく教えてくれた。
「スイッチを押せばあなたの妹はこの苦痛から解放されるわ。絶対に」
少女の真剣な眼差しで、僕の心は決まった。
新しい世界で妹を幸せにして、運命のあの娘に会う。
少女の血色のよいきれいな手からスイッチを受け取り、僕は新しい世界へと飛び立った。