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君に会うために僕は  作者: 谷中英男
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 うだるような暑さと、腰の痛みで目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回し、リビングのソファーで寝ていたことに気づいた。

 いつものリビング。誰もいない静かな我が家。何の変化もない。もちろん、スイッチを持った少女もいない。あれは夢だったのだろうか? 確認するすべもなく、テーブルの上に置かれたスマホに無意識に手を伸ばした。

 何の通知もなく何の変化もない。時刻は午前九時を少し過ぎていた。いつも通りの一日が始まった。僕の人生の、誰が決めたかもわからない一年という単位の中の何の意味も持たない一日、何の変哲もない八月四日。

 僕を虜にした少女も、魅力的なスイッチも、僕の夢にしか過ぎなかったんだろう。孤独と羨望が生み出した妄想。だから、自分に都合のいい世界への切符が現れ、それに乗せられようとしたんだ。

 僕の心は無意識に変化を望んでいて、現状への不満が爆発寸前なんだ。もう少し気をつけないと、このままじゃ僕は妄想の海に漕ぎ出て、戻ってこれなくなる。妄想の世界なら、自分の望む世界を得られるのだから。

 夢に現れた少女もスイッチも、僕が限界に近づいていることへの警告なんだ。

 そう自分に言い聞かせた後、このままもう一眠りしようかと目を閉じた。視界は途絶え、僕の周りには子守歌のように静寂が漂うはずだった。それなのにその静寂はうるさく鳴り響き、僕を寝させまいと騒ぎ続けた。

 固く目をつむり、睡魔が訪れるのを待ったけど、騒がしい静寂に邪魔されているこの状況じゃ、もちろん来るはずもない。渋々、ソファーから起き上がり、意味もなくスマホを手に取った。ゲームやニュースのアプリを開きはするが、開くだけで特に何もせずに閉じてしまう。そんなことを何度か繰り返し、スケジュールのアプリを開いて気づいた。今日も十二時からバイトがあるんだ。すぐにスマホで時間を確認し、急いで準備を始めた。十二時まで一時間を切っていた。まだ朝ご飯も食べていないのに。

 結局、何も食べずに諸々の準備だけすませ、家を飛び出た。バイト先へ行く途中にあるコンビニでホットスナックを買い、歩きながら食事をすませる。真夏の鋭い日差しが皮膚を焼き、身体から水分を奪い取る。飲み物を買わなかったことを後悔した。

 十二時十分前にバイト先に着き、早足で客席を抜けてバックヤードへ向かった。忙しそうに動き回る同僚たちに、気のない返事が返ってくるとわかってはいるけれど、形式的に挨拶をした。みんな口々に親しみを込めた挨拶を返してきた。気さくな対応にあっけにとられながら、僕は更衣室へと駆け込んだ。あまりにもいつもと違い過ぎる。

 制服に着替えつつ、気味の悪い対応の理由に思いを馳せると、すぐに見当がついた。たぶん、お偉いさんが来ているんだ。挨拶や身だしなみにうるさい人たちが多いから、注意される前に手を打ったという感じだろう。小賢しいやり口に嫌悪感を覚えながらも、少しながら同情も覚えた。僕も彼らの立場なら表層だけでも取り繕うとするだろうし、面倒ごとは僕も嫌いだ。

 そうやって取り繕うことができるなら、普段から表面的にでも僕への対応を変えてくれてもいいのにとも思うけど。

 僕はどれだけみんなから……。

 いつも以上に陰鬱になりながら、更衣室を出た。休憩室には出勤してきたばかりの従業員が何人かいた。僕と同世代で、僕以外のみんなが仲良しな学生たち。彼らが視界に入り、僕の心は一瞬で閉ざれた。彼らも僕に気づき口をつぐむ。僕は「おはよう」と呟き、みんなとは離れた席に腰を下ろした。

 いつもなら、僕の存在にも、言ったことにも、何の反応も無しに会話に戻っているはずだった。それなのに、僕が出勤してきた時と同じように、みんな口々に親しみのこもった挨拶を返した。僕はそんな彼らの行動にあっけにとられ、「お偉いさんが来ているから」と自分に言い聞かせ平常心を保とうとした。お偉いさんはこの場にはいないけれど。仮にいたとしても彼らは十代特有の反骨精神でいつもの振る舞いをしていたはずなのに。現に僕もいつも通りの形式的な行動しかしていない。それなのに何で彼らは自分の信念を曲げてまで、僕に構うんだろうか。特に理由も思いつかず、就業開始の時刻まで五分を切っていたから、一足先にタイムカードをスキャンすることにした。

 いつものように皿洗いや調理をこなし、ピークを乗り切ると、殺伐としていた空気が一変した。調理時間や止まることのない注文から解放され、各々が仕事をこなしつつも、おしゃべりができるまったりとした雰囲気。みんなは待ってましたとばかりに他愛もない会話を始める。

 僕はこんな雰囲気が苦手だった。自分だけ蚊帳の外にされ、孤独をより一層実感するから。こんな中に一人取り残されるくらいなら、忙しく動き回れるピークが延々と続いた方がいい。そんなことはありえないし、続いたら続いたで嫌気がさしてくると思うけど。

 僕がひたすらに黙々と夜の準備を進めていると、一緒にキッチンで働いている同級生の坂本君が話しかけてきた。僕は最初、坂本君が話しかけてきていることに気づかなかった。坂本君の声のトーンが、僕以外に話しかける時のそれだったから。だから僕は坂本君の声に耳を貸さず、仕事に打ち込んでいた。

 坂本君は自分のしていた仕事を一旦中断して、僕の方へつかつかと歩み寄ってきた。僕の肩をたたき、心配そうに顔を覗き込む。


「体調でも悪いの? なんかいつもと違うけど」


 随分親しげで、心配そうな声。やけになれなれしい態度に違和感がこみ上げる。坂本君は僕を毛嫌いしている筆頭だったのに。これは僕を貶める何かの罠かと疑い、「大丈夫」と適当にあしらって、仕事に戻るように促した。坂本君は渋々といった感じで、もとやっていた仕事に戻った。僕は坂本君の態度をいぶかしがりながらも、自分の仕事に集中しなおした。

 違和感を抱えながら仕事を進めていると、なぜかそれは徐々に薄まりだした。なんてことのない無色に薄まり続ける感情に困惑していると、不可解な記憶が浮かび上がってくる。

 坂本君とのありきたりな出会い、坂本君を含めた学生たちとの交流、職場での楽しい思い出。なぜか相反する記憶が本物のように感じ、僕が本物だと思っている苦々しい記憶は出来の悪い嘘のように思えてくる。

 今まで感じたことのない奇妙な感覚に困惑し、自分の中で納得のいく答えを導きだせないまま、気づけば退勤の時間が近づいていた。店長室に閉じこもっていた店長が気怠そうにキッチンに入ってきて、僕と坂本君に指示を出した――ちょっとした掃除とごみ捨て。

 僕はいつものごとく誰もやりたがらないごみ捨てをすることにした。生ごみがごちゃ混ぜになった異臭漂うごみ袋をいくつか集めて、外のごみ収集場所へと持っていくんだ。

 いつもは水分たっぷりの重い袋を僕が持っていても、誰も扉を開けたり、ましてや運ぶのを手伝ったりしてくれることなんかない。掃除しているふりをして、適当に時間をつぶしているのがみんなのお決まりだ。だから僕は今日も一人で重い袋を運んでいた。両手に重い袋を抱えて、外への扉へふらふらと歩いていく。扉の前で一旦ごみ袋を置いて錠前に手をかけたところで、ごみ袋を置く音がした。誰かがごみ捨てに行く僕を見て、ついでに捨てさせようと持ってきたんだ、と見向きもせずに勝手に納得した。僕は念のため、振り向かずに袋を置いた人物に注意を向けたけど、僕に対して何の反応もない。

 何も言わないあたり、いつもの職場に戻ってきたことを実感する。みんなからの不気味な対応に困惑していた側からすれば、いつもの爪弾きの立場に戻って、少し安堵した。

 優しさに慣れていない僕は、あんな時どうすればいいかわからない。友好的な環境へのあこがれが湧いたのは言うまでもないけれど。

 僕はあんな環境にあこがれていたんだ。いつも除け者な僕を受け入れ、一人前に扱ってくれる場所を、仲間を。現実は誰も僕を認めない。ここにいるのに、存在しないかのように振る舞う。家具や家電みたいに必要な時だけ使い、用がなければ注意すら払わない。僕はそんな存在。もう受け入れていて、違和感も抱かなくなっている。だから、このごみ捨ての件も気にしない。現状を受け入れて、いつもの自分に戻る時だ。

 扉を開けて、外に転がっているストッパーで扉を固定する。僕は振り向いて、重くて臭いごみ袋を手にしようとした。もちろん、そこには誰もいないはずで、身構えなんてするはずもない。だから、扉の前に置いていたごみ袋を持っている坂本君を見て僕は飛び上がった。

 坂本君は僕の反応を見てにやりと笑い、「さっさと終わらせよう」と僕の横をすり抜けていった。ごみ捨て場に袋を投げ捨て、満足そうに手を叩いた。僕は坂本君のそんな行動を理解できず、突っ立ったままだった。

 みんなの不気味な対応は終わったはずなのに。なのに、坂本君は今まで触りもしなかった重くて臭いごみ袋を嫌な顔一つせずに、自分から運んだ。

 いったいどういうことなんだ?

 坂本君との嫌な思い出が頭に浮かび、僕の記憶違いでも、彼の気まぐれでないことも実感する。坂本君は僕に対して、冷酷で意地悪で攻撃的だった。でも、坂本君の奇妙な振る舞いは、また別の鮮明な記憶をも呼び覚ます。その記憶の中では、坂本君は僕に対して優しく、友人のように振る舞い、僕が何かに手を焼いていれば、すかさず手を貸してくれる。僕が想像し切望した最高の友人がそこにはいたんだ。

 相反する記憶が頭の中を激しく動き回り、僕は混乱した。頭を揺さぶられたような感覚だ。僕はその場から動けず、石像のように硬直していた。何も目に入らず、思考は停滞したまま。そんな僕を見ていた坂本君は僕に心配そうに声をかけた。


「やっぱり体調悪いんでしょ? 無理すんなよ」


 坂本君はそう言って、残りのごみ袋も始末してくれた。僕はそんな坂本君の思いやりのこもった行動を、不躾にも見ていることしかできなかった。心配する坂本君をよそに、僕は消え入るような声で「ありがとう」と呟くので精一杯だった。

 腑抜けた僕を心配する坂本君に引きずられるようにタイムカードをスキャンしに行った。僕の様子に、みんなは口々に心配そうに声をかけてくれた。坂本君がそんなみんなに心配をかけないように取り繕って、僕もそれに合わせてぎこちない笑顔を振りまいた。

 そのまま、二人で休憩室に下がり、坂本君は僕を家まで送っていくと言って譲らなかった。僕はこの状況を受け入れることが出来ずに「疲れただけだから」と坂本君の提案を断った。坂本君は心配の言葉をかけ続けてきたが、僕は適当にあしらって更衣室に飛び込んだ。

 今まで触れたことのない優しさと、異様な環境から僕は逃れたかった。今の状況を整理したい気持ちで一杯だった。今ここで考えこめば、坂本君のお節介に邪魔されるのは目に見えている。僕はそそくさと着替えて、坂本君の制止を振り切り、店を出た。



 真夏の日差しに晒されて、家とは反対方向にしばらく走った。坂本君が追ってきていないのを確認して、息を整える。

 むせるような暑さと慣れない運動のせいでなかなか息が整わない。しばらく木陰で佇んで、なんとか息を整えると、店を出た時の事が頭に浮かんだ。

 みんな口々に声をかけてくれた。けど、僕はみんなの心配を無視して店を飛び出してきた。自分の非常識な対応に虫唾が走る。明日のバイトが憂鬱になり、みんなから嫌われてしまうかもしれないという恐怖が湧きあがる。

 そう思った時、またあの違和感を覚えた。なんで僕はみんなから嫌われることを恐れているんだ? もともと嫌われているのに。なんで僕の記憶に、感情に相反するものがあるんだろう。

 僕は違和感の理由を見つけ出すために、歩くことにした。夏休みに入って毎晩繰り返されているように。家に帰るでもなく、どこか目的地があるわけでもなく、ただ歩き続けた。

 何時間も歩き続け、見覚えのある所にたどり着いた。少し先に古びた歩道橋が見える。何日か前にこの世から別れを告げようとした場所。今まで考えていた違和感なんてどうでもよくなった。ただあの場所に行かなければいけない気がした。僕は無心で歩みを進めた。

 あっという間に歩道橋の目の前まで来ていた。あとは横断歩道を渡り、階段を上るだけ。なかなか変わらない信号を時折にらみつけ、歩道橋を見つめる。目の前を猛スピードで通り過ぎる自動車のせいで、砂ぼこりが舞った。僕は咄嗟に目をつぶった。

 いつか似たようなことを経験した気がする。直視するのも憚られる美少女といる時に。

 ざらついた風は一瞬で収まった。目をこすり信号を見やると真っ赤に染まったままだ。どうやら既視感は思い過ごしだったらしい。目の前に美少女はいないし、そういえばあれは夢だったんだ。

 代わることのない信号にしびれを切らして、いい加減信号を無視しようかと思うけど、自動車は途切れることなく猛スピードで通り過ぎる。

 あきらめて、意味もなく歩道橋に視線を向けた時、僕は凍りついた。そこには一人の少女がいた。整った顔に悲しげな雰囲気をまとわせ、何かに追い詰められ、どこからか逃げ出しているかのように足早に歩いている少女。僕と同い年くらいの少女。

 僕は彼女から目が離せなかった。彼女の悲しみを取り去りたいと、彼女の顔に笑顔を咲かせたいと激しく思った。理由はわからない。彼女は今まで出会った誰より美しいわけでも、誰よりも外見的に優れているわけでもなく、もちろん知り合いでも顔見知りでもない。

 ただ僕は彼女のために尽くしたいと思った。たぶん、世間ではこんな経験を一目惚れというんだろう。でも、僕はそんな浅薄で軽妙な言葉を使いたくなかった。

 これは運命なんだ。僕は彼女と出会う運命。今までの人生は彼女と出会うためにあって、これからの人生は彼女と過ごすためにある。僕はそう確信した。僕は今にも駆け出したかった。

 それなのに、僕の願いは受け入れられず、車列が濁流のように僕を邪魔する。僕は彼女を見失わないように、見つめ続けるしかできない。悲しげな表情とは反対に愉快に揺れ動くポニーテールを、雪原のように白く美しい肌を、皺ひとつない純白のセーラー服とそこに隠された肢体を、悲しげな表情を目に焼きつけた。目の端に移る信号はまだ赤いまま。

 止まることのなかった車列はついに動きを止めた。いよいよ信号が変わる。

 彼女と出会える!

 はやる気持ちを押さえつけ、僕は信号を目の端に捕らえたまま、彼女を目で追い続けた。

 もう数秒で彼女は僕の視界から消えてしまう。今すぐ信号が変わり、僕が走って追いかければ彼女に追いつくだろう。そして、彼女に話しかける。

 話しかける? いったいどんな話をすればいいんだろう。見ず知らずのさえない高校生に話しかけられて、彼女は不審に思うはずだ。適当にあしらわれてまともに相手にされないに決まっている……。

 いや、彼女と出会うのは僕の運命、彼女と話すことができればいい、彼女に僕の存在を知ってもらえばいい。そうすれば歯車は回りだし、僕たち二人の運命は動き出す……はず。

 僕の儚い願望をよそに、彼女は僕とは反対方向に向かっていて、もう見えなくなりかけていた。僕を惹きつける彼女はもう後頭部しか見えない。僕は苛立ちながら、目の前の信号を見た。まだ赤いままだ。だけど、道路の動きは完全に止まっていた。もう数秒もすれば、信号は青に変わる。

 僕はそのわずかな時間さえ我慢できなかった。彼女が僕の視界から消え去ってしまったから。今すぐ追いかけなければ、もう彼女に会えない気がする。

 僕はいてもたってもいられなくなり駆け出した。流れの止まった道路を走りぬけ、目の前に鎮座する歩道橋へ一直線に突き進む。彼女への距離が少しずつ縮まる。その事実が僕の足を今までにないほど早く動かす……はずだった。

 僕の最高の走りは予期せぬ声のせいで終わった。僕を呼ぶ声だと思ったんだ。

 僕を呼んだなんていう確証はないはずなのに。僕は反射的に止まってしまった。それが当然かのように。今まで、誰かが僕に外で呼びかけるなんてことはなかったはずなのに……。

 本当に今までこんなことはなかったのか? ただ忘れているだけじゃないのか? まだ憂いを知らない子供のころの記憶じゃないのか……?

 どうにか思い出そうとしていると、坂本君や、バイト仲間に街中で声をかけられ、何気ない会話をする場面が僕の頭に溢れた。経験したことがないはずなのに。なぜだか鮮明に思い出せる。

 僕は相反する記憶の増大に混乱して、眩暈がした。彼女に会わなければいけないのに……。

 膝に手をつき、眩暈を消し去ろうとするけど、奇妙な記憶のせいで上手くいかない。目を閉じてみても、記憶は増大し続け、それが本当のように思えてくる。

 記憶は僕を痛めつけ、彼女はどんどん遠ざかってしまう。

 そうこうしている間に、僕の名前を呼ぶ声が近づいてきた。


「大門君、大門君!」


 切迫して心配そうな声色。ばたばたと走り寄る音。眩暈は消え去らず、まぶたを開けることができない。頭の中をかき回されているみたいだ。

 僕の肩に優しく手が置かれた。僕は搾り出すように「大丈夫」と答え、ゆっくりと目を開けた。眩暈は消えたみたいだった。世界は静止して、いつもの平穏を取り戻していた。

 目をつぶっていたせいで、少し視界が霞んでいるけれど問題はない。声をかけてくれた人のことも忘れて、すぐに彼女を追いかけようとしたけど、強引に腕をつかまれた。僕はむっとして腕をつかんだ人物の方に視線を向けた。そこには眉間に皺を寄せた坂本君がいた。


 

 僕たちは近くにあったコンビニのベンチに腰掛けていた。僕はすぐにでも彼女を追いたかったけど、坂本君のあまりの剣幕に従うほかなく、ここまで連れてこられた。

 仕方なしに、僕は坂本君の買ってきてくれたスポーツドリンクを飲みながら、どうやってこの状況から抜け出そうかと思案していた。

 坂本君は背もたれに腕を掛け、足を組んで日差しを諸共せずに空を見ている。不意をついて駆け出せば逃げ切れるかもと思いもしたけど、運動不足で、しかもコンディションも悪い状況じゃ無理だろう。それに、いくら十分程度しか時間がたっていないとはいえ、どこに向かっているのかもわからない人間を探し出すのは厳しいものがある。坂本君の厚意を無碍にし続けるわけにもいかないし。

 そんな考えのせいか彼女を見つけた時の喜びは萎えて、彼女に出会うためのチャンスを失ったことに絶望を感じ始めていた。

 僕がもっと早く気づけば、もっと早く走れれば、眩暈が起きなければ、坂本君に見つからなければ……。

 僕の陰気な雰囲気に坂本君は気づいたようだった。鋭い日差しを諸共せずに空を見上げていたはずなのに、僕の顔を心配そうに覗き込んできている。僕は坂本君の視線には応えず、地面を見つめ続けた。しばらくの間坂本君は僕を見つめていた。何かいいたげな視線と沈黙に気まずさを覚えたけど、自分から話す気にもなれず僕は黙ったままだった。

 放っておけばいつまでもこの状況が続くかと思われた。時が止まったようだった。

 僕の予想はあっけなく外れて、坂本君はあきらめたのか手足を放り出し、空を見上げた。


「なんか俺がしちゃったみたいだな。よくわかんないけどごめん。でも、大門君も何か話してくれたってよくないか? 友達の様子がいつもと違かったら心配になるだろ? ましてやいつものように一緒にいる仲のやつがさ」


 坂本君の友達思いな発言を黙って聞いていて、今までの違和感が何だったのかわかった気がした。おそらく、僕は違う世界に来てしまったんだろう。

 たぶん心のどこかではわかっていた。あまりにも変化が局所的過ぎて信じられず、みんなの優しさに面食らって、受け入れようとしていなかっただけなんだ――それにあのスイッチも、スイッチの少女もいなかったから。

 しょうがないことに思えるけど、単に僕は受け入れるのが怖かったんだ。僕の求めていた世界があることを。僕がどれだけ不遇な世界にいたかを。

 これですべての説明がつくはずだ。奇妙な記憶も、みんなの変化も、眩暈も。まぁ、眩暈についてはあの少女は何も言っていなかったけれど、たぶん珍しいことで省いていたんだろう。大雑把な説明しかしていなかったし、僕もそこまで求めなかったからしょうがない。

 だからといって、運命の人との出会いが損なわれたことが、なかったことになるわけじゃない。この世界での坂本君との仲が出会いを邪魔したと言っても過言じゃない。もとの世界だったら、誰かに邪魔されることもなく彼女と出会えたはずだ……。

 いや、でも、この世界での違和感を見つけ出すためにこの暑い中を僕は歩き続け、あの歩道橋にたどり着いた。あの出来事がなければ、彼女の存在を知ることさえできなかったかもしれない……。

 思考が堂々巡りを続けそうだったので、この問題は一旦考えないことにした。今考えないといけないのは、この場からどう逃げ出すかだ。正直、僕は坂本君のことが好きじゃない。嫌いまである。いくらこの世界で僕らの仲がよかったとしても、もとの世界での出来事は僕の頭の中に刻み込まれている。それを払拭することはできない。確かに僕はこんな関係に憧れていたけど。

 それが実現しても、坂本君では受け入れられない。

 どれだけこの世界の坂本君が優しくても……。


「今日は本当にありがとう。最初から言うことを聞いとけばよかったよ」


 この場からさっさと離れるために、僕は精一杯の作り笑いを浮かべて、坂本君に感謝を述べた。精一杯とは言ったものの、たぶん、笑顔と呼べるのか怪しいものだったと思う。

 坂本君は怪訝な顔で僕を見つめている。この世界の僕とあまりにも違い過ぎるからだろう。この世界の僕だったらこんな状況でももっと軽快に話して、場を和ませていたのかもしれないな。今の僕にはなんとか笑顔を維持して、なんてことはないとアピールを続けるのが関の山。

 坂本君は僕を見つめたまま何も言わない。

 僕は笑顔を浮かべ続けるしかない。

 なんだかこの状況が心底滑稽に思えた。自分の望んでいたものがこんなに面倒なものだとは。手に入ってしまえば、煩わしさから逃げ出してしまいたくなるなんて。本来なら、何とか折り合いをつけて、今後の関係に支障がないようにしていたんだろう。

 この世界での今までの僕のように。

 幸運なことに今の僕は違う。この状況から永遠におさらばできる。相手のために妥協して、自分を殺す必要はない。

 スイッチの少女の言葉が頭に浮かぶ。


「今いる世界とは少しだけ違う世界に行くことができる」


 その言葉が僕に勇気を与えた。相手の心情や、今後の関係を気にする必要は一切ない。運命の出会いも成功させることができる。あのスイッチを押せば……。

 そうだ。あのスイッチを押せば、出会うことのできなかった少女との出会いを果たせる。彼女の憂いを取り去り、笑顔を届けることができる。

 僕の心は自信に満ちていた。失敗する要素も光景も想像できない。ここで自分を殺して、相手の顔色を伺っている一分一秒が惜しい。

 すぐにあのスイッチを押さなければ。

 そう決意して、僕は顔面に貼りつけていた下卑たる醜悪な表情を取り去った。そんな行為だけで、坂本君に対して感じていた嫌悪も、バツの悪さも消え去った。この世界でのことはどうでもよくなった。


「じゃあ、もう帰るね」


 僕は坂本君の反応も見ずにベンチを離れた。

 坂本君の立ち上がる気配は感じたけど、追ってくることはなかった。たぶん、僕の表情から坂本君なりに感じるものがあったんだと思う。

 坂本君の賢明な判断に感謝しつつ、僕は我が家を目指した。

 激しく身を焼く日差しの中を汗だくになって歩き続けた。たかが数分の距離なのに、新しい世界への羨望のためか、身を焼く日差しのせいか、地獄で永遠の責め苦を受けているように感じられた。何度も心が折れそうになった。

 運命の娘のために、新しい世界のために歩き続け、何とか家にたどり着いた。僕を待ちうけ、迎え入れる人のいなかった我が家に。

 日差しから逃げるように、僕は家の中に入った――いるだけで言葉を失っていた場所に。

 熱気のこもった廊下を静々と歩き、リビングへの扉を開いた。


「ただいま」


 今まで自分から発することのなかった言葉。それなのに自然と、当然のごとく僕の口からこぼれた。たぶん、無意識にあの少女がいることを望んでいたんだと思う。あの少女に「おかえりなさい」と迎えてほしかったんだ。あの少女に会いたかったんだ。

 リビングから心地良い冷気が流れ出し、望んだ言葉が僕を迎えた。

「おかえりなさい」

 声の主は以前僕を迎え入れたように、礼儀正しくソファーに座っていた。今日は満面の笑みを浮かべている。



 今日もローテーブルを挟んで少女と僕は相対していた。もちろん僕は正座。そして、彼女の笑顔に美しさに献身に見惚れた。彼女との出会いが、彼女の存在が、違ったものだったらと思わずにはいられない。でも、これだけは変えられない。僕がこの世界から消えたいと願ったから彼女が現れたんだから。

 彼女は僕がそう願わない世界へ行くことを願っている。

 僕の目の前に座る可憐な少女は優しく微笑んでいた。すべてを知り、僕を受け入れてくれているかのように感じる。僕は目の前の少女のためにも新しい世界で願いを叶えようと誓った。

 僕は黙って、スイッチのことを、運命の少女のことを考えた。

 僕は新しい世界で少女と出会わなければいけない。

 少女は僕の思いを察して、折り目正しく優雅に、小さい掌を差し出した。そこにはあのスイッチが乗っていた。


「本当にいいのね? スイッチを押したらここには戻ってこられないわよ」


 彼女の声音、仕草、表情から、僕のことを思っているとわかる。この世界で触れたものとは違う優しさだ。僕のためだけに向けられた献身的で、自己犠牲もいとわない無常の愛。

 僕は彼女の思いに報いるために、頷いた。

 彼女も頷いた。優しげな表情で僕を見つめながら。

 彼女は何も言わずスイッチを僕に手渡した。

 僕の手に彼女の手のぬくもりが伝わる。

 彼女の優しさも、励ましも言葉を解さずとも伝わった。

 僕らは何もしゃべらなかった。

 僕らに言葉は必要なかった。

 お互いの気持ちはわかっていたから。

 僕は自分の掌に視線を落とした。

 僕の運命を変えるスイッチ。

 この世界と決別するためのスイッチ。

 僕は運命の人を思ってスイッチを押した。

 押した瞬間、僕はふと思い出した。

 目の前に座る少女に僕の考えが筒抜けなのを……。


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