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今日も最悪な一日だった。夏休みに入り、やることもないだろうからと決めつけられてバイトを増やされ、僕を嫌う連中と何時間も過ごす羽目になった。そんなに嫌なら断ればいいだとか、辞めればいいなんて思うかもしれないけど、実際のところ、僕は時間を持て余していたし、あんなに楽な仕事ならみんなから後ろ指さされようと耐えることができた。
たかが数時間、料理を作り、皿を洗うだけ。みんな僕に話しかけてくることもないから、煩わしい会話もなく、淡々と自分の業務をこなしていく。それでお金をもらえるのなら儲けものだし、これほど楽なことはない。もちろん気まずい雰囲気の中に居続けることは苦行に変わりないけど。
楽だけど苦痛な数時間を過ごして、僕は誰もいない家に歩いて帰っていた。いつもなら通学に使っている自転車でバイト先まで行っていたけど。パンクしたまま放置していて、使い物にならないから面倒だけどここ数日は歩き。
そんなことも気づけば習慣になり、煩わしささえ覚えない。むしろ、家に帰るまでの十数分がなぜか僕にとって特別なものになった。いつも見ている風景が少しだけ新鮮に見えて、僕の知らない世界が周りに隠れているんじゃないかと思えた。それをもっと見つけ出したいと思った。それを見つけ出すことによって、僕はみんなと違う何かを持っていると自分に信じさせたかった。僕はみんなとは違う特別な存在で、だからみんなから受け入れられないんだと……。
現実はまるっきり違うけど。僕は特別なんかじゃなく、みんなに受け入れられようとしていないだけなんだ。
いつも受け身で、拒絶されるのが怖くて、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っている。
わかっていながら、僕は自分を変えられない。いつまでたっても臆病で根性なしの弱虫だ。
いつまでも変わることのできない自分を責め立てながらも、いつもとは違う何かをやっぱり探していた。自分が特別な人間であるという淡い期待を捨てきれないから。
すべてが嫌になってくる。僕を受け入れてくれない人たちに、代り映えしない日常に、何もできない自分に。
気づけば古びた歩道橋の近くまで来ていた。十字路の上に歪に架けられ、僕がいる場所以外の三か所には渡れる不思議な歩道橋。落ち込んだ僕には、そんな状況でさえ疎外感を覚えさせる。僕だけが離れ小島に取り残され、指をくわえて、みんなが交流する姿をみている気分。
このままネガティブに飲み込まれそうだった。
誰にも受け入れられず、孤独に死んでいく。それが僕の人生なんだろう。
行く手を遮る赤い灯を見つめながらそう思った。今一歩踏み出し、猛スピードで行き交う車列の中に身を任せればという考えが浮かぶ。そうすれば、僕の人生はここで終わり、これ以上苦しまなくてすむ。
もしかしたら、そのおかげで初めて誰かに受け入れてもらえるかもしれない。僕の苦しみに考えを及ばせ、同情し、後悔する。僕がいなくなってからでは遅いかもしれないけれど、僕のような人間を救う布石にはなるはずだ。
決心が鈍らないうちにと辺りを見回した。相変わらず信号は赤で、横断歩道を渡ろうとしている人間はいない。買い物に向かう主婦や、学校帰りの学生なんかもちろんいない。絶好のタイミングだと思い、一歩踏み出しかけたけど、僕の足は結局、前に出ない。これじゃ僕を轢いた人が不幸になるという考えが浮かんだから。
僕は誰かを不幸にしたいわけじゃないんだ。僕の不幸を終わらせたいだけ。
どこかほかの場所でと思い直して、すぐに絶好の場所が目に飛び込んできた。目の前に鎮座した古びた歩道橋だ。決心が鈍る前にたどり着けるし、あの高さなら、下手な方法じゃなければ成功するはず。
僕の決心が固まるとすぐに信号が変わり、とめどなく流れていた車列が動きを止めた。唸りを上げて青い光が灯るのを待つ自動車を横目に、歩道橋へと向かう。幅が狭く、段差の低い階段を一歩一歩踏みしめる。すぐに視界が開け、上にたどり着いた。
地面より太陽に近いから心なしかさっきよりも熱い。僕はすぐさま自分の飛び込む場所を探そうと思い欄干に手をついた。
信号につかまっていた時には聞こえなかった喧騒が聞こえる。さっきまでいなかったはずなのに家路を急ぐ人や主婦、学生で溢れている。僕は予想外の人の多さに気圧された。
死への恐怖が喧騒とともに湧きあがり、僕の決心は枯れ果てた。
これ以上ここにいても何もできそうになかった。
ここから立ち去りたい。
好奇の目に晒されていたくない。
僕は何事もなかったかのようにそそくさと道行く人々に混じり、自分の意志の弱さを呪いながら家に帰った。
無言で家に入り、真っ暗な室内に光を灯す。リビングのソファーに倒れこんで、今日の失態を思い返した。あと一歩で変えることができたのに。あと一歩で終わらせることができたのに。自分の不甲斐なさに身もだえし、自分を責め、時間を無駄に過ごした。
空腹が思考を中断させ、時間が思いのほかたっていることに気づいた。ソファーから立ち上がり、キッチンに何かないかと探してみると、出てきたのは買い置きのカップラーメンだけ。選択の余地もなく、夕食は決定した。
当然のごとく無言で食事をすませて、ソファーで物思いに耽る。
いつからだろう、家から言葉がなくなったのは。
いつからだろう、家に帰っても僕を迎えてくれる人がいなくなったのは。
いつからだろう、僕がこんな人間になってしまったのは……。
答えはいつもの結論にたどり着く。
仕事に明け暮れる両親のせい。
一人息子をだだっ広い一軒家に放置している両親のせい。
不満を言う勇気のない僕のせい……。
理由を求め、誰かのせいにし、自分のせいだと気づく。いつもの悪循環を続け、自己嫌悪に苛まれ、こんな社会を、世界を恨む。
もっと自分が変われば、社会が変われば、世界が変われば、と叶わぬ願いが零れ落ち、何も変わらないことに絶望する。
あと少し、ほんの少し変われば幸せになれる歯がゆい世界に僕は耐えられない……。
時計の針は午前零時を過ぎ、明日は今日へ、今日は昨日へと変わっていた。僕の気持ちは日付のように切り替わることはなく、ぐずついた空のように陰惨なままだった。
少しでもこの気持ちを晴らしたかった。
誰もいないこの場所から離れたかった。
僕はまた家から抜け出した。
夏休みになってから、僕はいつものように夜中に家を抜け出していた。理由は様々だった。今日のように気持ちを切り替えるため、眠気を誘うため、ただ風にあたりたいがため、考え事をするためなど。理由は毎日違った。
一歩家から踏み出すと、昼間の熱気が漂い続けるいつもどおりの夏の夜が待ち受けていた。むせかえるような生ぬるい風、騒がしいほどの静けさ、いつもの道。どれをとっても僕の思考とは対照的に、いつもと同じ夜がそこにはあった。
ひっそりと静まり返った街を歩いていると、このままいつもどおりの道を行けば、僕のくだらない人生も変わらないとなぜか思えた。
だからなのか、今日はいつも通っていた道を避けるようにした。
誰もが寝静まり、沈黙が支配する夜道。点々と並ぶ街灯に導かれるように、僕は歩き続けた。こぼれるような光と真っ暗な空が、洞窟にいるような閉塞感をもたらしている。僕はそんな特異な状況に興奮し、いつからか忘れてしまった冒険心が蘇り、どこまでも行けるような気がした。
でも、そんな感覚はすぐに消え去った。今通っている道は結局いつもの道で、無意識にいつもの道を選んでいたんだ。そして、この道はあの場所に続いている。
引き返すことはできなかった。歩みを進めるたびに、あの橋に向かわなければ、という使命感が強くなってくる。歩みは徐々に早くなる。見慣れた道は、闇に包まれただけで不安を与え、なぜか僕を急かす。
昨日と同じ横断歩道まで来た。昼間、あれだけ交通量があった道には、何も走っていない。無意味に赤く染まる信号だけが僕を待ち受ける。僕は律儀に信号が変わるのを待った。
脅迫的な使命感は消えさっていない。いつもの習慣に従って止まっただけ。
やっと信号が変わり、小走りで歩道橋へ向かった。階段を一つ飛ばしで駆け上がり、昨日、躊躇した場所にたどり着いた。周りには昨日と同じ光景が広がっていた。違うのは夜になって人がいなくなった事くらい。
あれだけ僕を急き立てた何かは消えていた。数時間前に抱いた感情もない。ここに来れば何かが変わると思っていたのに……。
失望と疲労が押し寄せ、欄干に手を置いた。剥げかけて鱗みたいになったペンキと、錆びてざらついた金属の感触。
昨日は感じられなかった感覚に驚き、咄嗟に手を離した。その瞬間、誰かの笑い声が聞こえた。気づかれないように声を押し殺した、小さな笑い声が。僕はその笑い声に凍りついた。誰もいなかったはずのこの場所であんなものが聞こえるはずがないから。風か何かがたまたまそう聞こえたに過ぎないはず……。
自分を落ち着かせるために、念のため耳を澄ませた――振り返る勇気はなかった。聞こえるのは僕の鼓動と、風に揺られる木々のざわめき、遠くから聞こえる自動車の音だけ。
ただの空耳だ。自分にそう言い聞かせ、なんとか平静を保った。それでも、振り返り、辺りを見回す勇気はなかった。欄干から手を離した時の態勢で固まり続けた――。
どれくらい時間がたっただろう。何時間も突っ立っていたような気もするけど、たぶんたいしたことはないんだろう。視界の片隅に映る光は十回くらいしか変わっていない。
そんなわずかだけど貴重な時間のおかげで、僕の恐怖が和らいだ。ここから立ち去る決心もできた。これ以上、ここにいても意味はないんだ。
僕はゆっくりと振り返った。そこに何もないことを証明して、ぐっすりと眠るために。
当然、そこには誰もいないはずだったし、僕はそれを確認してここをさっさと離れるつもりだった。でも、そこには誰かがいた。今まで見たこともないような可憐な少女が。僕は見つめることしかできなかった――まるで絵画から抜け出したように完璧で非の打ちどころのない少女を。つまらなそうに地面を見つめる憂いを帯びた表情、見慣れないセーラー服に彩られた年相応に育まれた身体、どこか未熟さを漂わせる雰囲気、僕とそれほど変わらない年頃のはずなのに僕とは根本的に違って見えた。
僕は彼女のすべてから目を離せずに、ただ彼女の「美しさ」に溺れた。
「美しさ」というものを定義するとしたら、彼女こそがその「美しさ」なんだろう。僕はそう直感した。非の打ち所のない彼女に見惚れた。
今まで悩んでいたことすべてがどうでもよくなった。
僕は彼女を見つめているだけで満足だった。
僕は彼女を不躾に見つめ続けた。
僕の無遠慮な視線に気づいたのか、彼女は怪訝な表情で僕を見た。僕は自分のしていたことが恥ずかしくなり、彼女に向けていた視線を下に向けた。見えるのは僕の薄汚れた靴と、アスファルトだけ。また僕は動けなくなってしまった。
そんな僕の滑稽さゆえか、彼女はまた笑った。優しげで親しみを込めたような笑いだった。耳に心地良く響く彼女の笑い声に、僕の体を拘束していた何かはきれいさっぱり消え去った。僕も彼女の声につられて笑いがこみ上げ、自然と視線は彼女へと向けられる。僕らの視線は重なり、二人で笑い合った。
二人でひとしきり笑い合った後も、僕らは見つめ合ったままだった。お互いに見つめ合い、夜空に輝く一等星のような彼女の瞳に食い入り、いつまでもこの時間が続けばと願った。
残念ながら彼女はそう思わなかったらしい。小さなこぶしを口元へ運び咳払いをした後、僕の方へと歩みを進める。歩みを進めるといってもたかが数歩、ほんの数秒。そんなわずかな時間の何気ない仕草でさえ優雅で気品を感じさせる。その一瞬に見惚れているうちに、彼女は僕の目の前で歩みを止めた。おもむろに腕を組み、深く息を吸ったかと思うと、僕に問いかける。
「あなた、この世界に満足していないでしょ?」
急な問いかけに理解が及ばず、僕は黙っていることしかできなかった。そんな僕の様子など意にも介さず、彼女は言葉を紡ぐ。
「私はあなたみたいにこの世界を去ろうとした人に、違う世界へ移るチャンスを与えているの」
違う世界? チャンス? 彼女が何を言っているのかわからなかった。もしかしたら、僕のことを騙してどうにかしようとしているのではとも思えた――幸運の壺とか適当なことを言ってくだらないものを売りつけるあれだ。でも、彼女の瞳からそんなことは感じ取れず、僕の直感も彼女を信じるべきだと告げていた。告げていたけれども、僕は身構えずにはいられなかった。おそらく、彼女の浮世離れした美しさのせいだろう。彼女は僕とあまりにも違い過ぎる――同じ人間とは思えないほどに。
僕は恐る恐る訊ねた。
「君は一体何者?」
明らかに話の流れを断ち切る悪手だった。頭に浮かんだことをそのまま吐き出しただけ。対人関係が苦手な僕らしい行動で、あとから自分の要領の悪さにもだえる一手。しかも彼女を疑っているかのような声音だ。
そんな一手を繰り出し、後悔が僕の中に渦巻いた。二人で見つめ合った時の心地良さは消えた。
僕は自分の愚行に呆れ果て、二人の時間が終わることを予期したけど、彼女にその気はなかった。僕の質問に可愛らしい微笑みを添えて答えた。
「私はね、あなたみたいな人にやり直しの機会を与える特別な存在なの」
そう言って、彼女が差し出した右手の掌にはハーモニカぐらいの大きさの何かが乗っていた。赤と青のおもちゃのようなスイッチがついた何か。彼女はそれを僕に見せながら話を続けた。
「これはね、あなたにチャンスを与える装置。この赤いスイッチはこことは少し違う世界に連れて行ってくれるの。そして、青いスイッチはもとの世界に戻るためのスイッチ。両方ともそれぞれ制限があって、赤いスイッチは人によってそれぞれ何回押せるか決まっていて、何百回も押せる人もいれば、数回でスイッチが使えなくなってしまう人もいる。押せなくなった人は見たことないけど。そして、赤いスイッチは、進むことしかできないの。例えば赤いスイッチを五回押したとして、やっぱり二回目の世界が良かったと思っても、そこには戻れない。今いる世界に残るか、今まで行ったことのない世界に行くことしかできないの。青いスイッチは一度しか使えなくて、一度使えば、もとの世界に戻って、スイッチ自体がなくなってしまう。違う世界に行くことができなくなってしまうの」
滔々と話した彼女の掌には気づけば何もなくなっていた。あの装置はマジックみたいに忽然と消えていた。
「僕は何回押せるの?」
彼女の言葉が真実であると無意識に受け入れていた。なぜ受け入れられたかはわからない。彼女の真剣な面持ちからか、この世界に飽き飽きしていたからか。そのスイッチを押したいという衝動が溢れ、そう訊ねずにはいられなかった。
「その気になってくれたみたいね」
彼女は僕の言葉ににっこり微笑み、嬉しそうに僕の質問に答え始めた。
「それは私にもわからないの。私にこの仕事を与えてくれた存在にならわかるかもしれないけれど、それ
を聞くことはできないし、たぶん教えてくれない。でも、私が今まで会った人の中で、スイッチを押せなくなった人はいないから安心して。それに、ほとんどの人は一、二回押せば満足して、スイッチの存在すら忘れてその世界で生きているから。あなたもすぐに気に入る世界を見つけられるはず」
彼女は楽しそうに僕に説明した。僕も彼女の雰囲気にのまれ、今すぐにでもスイッチを押そうかと思った。けれど、さっきから彼女の言葉に引っかかるものがあった――くだらないことだけど。
彼女は彼女自身と、スイッチを与えた人物について、「存在」という言葉を使った。あのスイッチ自体、人間が生み出したものではないことは容易に予想がつくけど、なぜか僕の好奇心に火がつき、それをはっきりさせずにはいられそうもなかった。
「君は人間じゃないの?」
彼女は呆れたようにため息をついて、とげとげしい口調で捲し立てた。
「本当にあなたたちは細かいところまで気にするのね。チャンスをもらえたのなら、それでいいじゃない。でも、それのせいでこの機会をふいにするかもしれないのなら教えてあげる。そうよ、私は人間じゃない。もちろん、私にこの仕事をくれたのも人間じゃない。あなたたちとは違う何か。それしか答えられないし、それしか私は知らない。これで満足?」
大袈裟に両手を広げて、小首を傾ぐ彼女。ほかに何かあればどうぞ、とでも言いたげな表情だ。
いつもならそんな彼女の視線に遠慮して何も言えず、もやもやしたままこの機会をふいにしていた。それなのに、いつもなら飲み込んでいたはずの言葉はいともたやすく流れ出た。
「スイッチを押すことで何か失ったりするの? 君は何か得るものがあるの? 何で僕が選ばれたの?」
彼女は真剣な表情で話を聞き、小さく頷いた。
「スイッチを押すことによって、あなたが直接的に失うものはないわ。違う世界にいることになった時に、もとの世界のものを失うことにはなるけれど、それは気にしないで。そのうちもとの世界のことは忘れてしまうし、あなたには関係のないことになるから。あなたが幸せになればそれでいいの。次は私の得るものだったわね? 私はあなたのような人にチャンスを与えるために生まれ、存在しているの。だから、得るものはない。強いて言えば、与えられた仕事を達成できたという充足感が得られるくらい。私はそれで満足だし、そのために生きているから気にしないで。最後になぜあなたが選ばれたかだけど、さっきも話したけど、あなたには機会が必要だったからよ。あなたは昨日、この橋で死のうとしたでしょ? でも、思いのほか人が多くてやめた。そうやって自分の中で納得していたけれど、それは心の片隅にまだ死にたくないという気持ちがあったから。だから、飛び降りなかった。周りの人たちを理由にしていたけれど。私はそんな人に、機会があれば変われるけど、機会が訪れない人に機会を与えているの。だからあなたの前に現れた。あなたに変わってほしくて」
僕の瞳を見つめ彼女は語った。まだ僕の中に彼女に対する疑問は残っていた。なぜ、歩道橋での愚行と葛藤を知っているのかという疑問が。
でも、疑問は無理やり飲み込んで、気にしないことにした。たぶん、彼女は答えてくれないだろうし、答えたとしても詳しく教えてくれるわけじゃない。それなら、そういうもんだと割り切って受け入れたほうが楽だ。それに、僕のために真剣に語る彼女を見れば、そんな些細なことはどうでもよくなってきた。言葉や仕草、その他すべてに彼女の誠実な思いが詰まっている。彼女は本気で僕のことを思っている。
僕のために現れた少女。僕はその気持ちに応えたいと、応えなければいけないと思った。
それなのに、この世界へのほんの少しの未練が僕を押しとどめた。
もしかしたら、両親が僕のために時間を割くようになるかもしれない。
もしかしたら、味気ない人間関係が変わるかもしれない。
そんな淡い期待が表情に出ていたのかもしれない。彼女は困ったように笑った。
「もう少し時間が必要みたいね。時間はいくらでもあるから。あなたが決心するまで待つわ」
そう言って、彼女は踵を返して歩道橋を降り始めた。
僕はもう彼女に会えないんじゃないかと焦った。絶好の機会をふいにして、彼女の期待を裏切ったのではと不安になった。不安と焦りが一気に表出し、遠ざかる彼女の背中に縋るように問いかけた。
「スイッチが必要になったらどうしたらいい?」
彼女は振り返ることなく「あなたが望めば現れるわ」と言って後ろ手を振った。僕はその場に立ち尽くしたまま彼女の背中を見つめていた。徐々に遠ざかる後ろ姿。いつまでも眺めていたいと思った。
真夏には似つかわしくない冷たい突風が吹きすさぶ。まるで真冬の寒空の下に放り出されたみたいだ。どこからともなく砂ぼこりが舞い上がり、僕は思わず目を閉じた。風が止み、いつもの夏が戻ってくると彼女は暗闇の中に消えていた。
僕の願いは相も変わらず、叶わない。
突き刺さるような日差しと蒸し暑さで僕は起きた。身体にまとわりつく不快感と眠気に抗いながら、枕元にあるスマホで時間を確認する。午前九時を少し過ぎていた。アプリを起動して、バイトの有無を確認する。八月三日は午後十二時から。バイトまで三時間もない。
渋々、僕を無条件で受け入れてくれるベッドから這い出して、すぐさまバイトの準備を始めた。いつもならバイトのことを考えるだけで憂鬱になり、避けることもできないのに、だらだらと時間を消費しているはずなのに。今日は初めてバイトへ行くかのような期待感があった。何か変わるんじゃないかという漠然とした淡い期待。たぶん、スイッチの少女に会い、彼女の話を聞いたおかげだと思う。違う世界に行けるという希望。それが僕を前向きにさせている。
それでも、やっぱりあの時に湧いた未練は消え去っていない。もしかしたらスイッチなんて押さずに現状が変わるんじゃないか、変えられるんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。慣れ親しんだこの世界から抜け出さずにすむならそれに越したことはない。だから、僕は儚い期待を抱いてバイトに向かった。
結果から言えば僕の期待はあっさり裏切られた。今まで変わらなかったことが、僕の淡い期待が、何の努力も要しないただの願いごときが、たかだかほんの数時間で変わるわけがないんだ。
バイトではいつものごとく除け者にされ、苦痛の時を過ごした。何とか苦行を耐えて、陰鬱な気分で家に帰っていると、両親からの業務連絡のように淡白な文面で、僕の孤独な生活が続くことを知らされた。
本当のところわかってはいたけれど、あまりにも短時間のうちに事が起きて心の整理ができない。
ただただ消極的な考えが湧き出てくる。
僕は誰からも必要とされず、誰の役にも立てない。
苦痛に彩られた人生に自分で区切りをつけることもできず、忌み嫌われながら生きていくしかない。
怠惰で空虚で粗末な人生。それが僕の現在で未来だ。ただ存在しているだけ。僕はそんな人間で終わりたくはない。誰かに必要とされ、何かの役に立ちたい。
そんな些細で漠然とした稚拙な願いすらこの世界では叶えられない。今までの人生がそれを証明し、僕に現実を突きつける。僕はその事実に耐えられそうもなかった。どうにかして抗うべきなのに、僕はこの世界から消えたいと願うことしかしなかった。
僕はどこへ行くでもなくさまよい続けた。その間僕の頭の中では憂鬱な思考が延々と繰り返されていた。
とどまることを知らなかった僕の陰鬱な思考は足の痛みに取って代わられた。我に返り、辺りに意識を向けると、突き刺すような夕陽が辺りを毒々しく染め上げていた時刻はとうに過ぎ去り、不気味な静けさと蒸し暑さが織りなす重厚な暗闇が佇んでいた。
周りを見渡し、自分がどこにいるのか確認した。しばらく自分がどこにいるのか検討がつかなかったけど、少し大きな道に出たところでおおよその見当はついた。家から四十分くらいのところのはず。何とか帰れる。痛む足を引きずり、のろのろと家を目指した。
幸い足の痛みのせいで思考が逆戻りすることもなく、真っ直ぐに帰ることができた。
いつものごとく誰もいない我が家に無言で帰宅した。真っ暗な室内が待ち受けているはずだったのに、リビングの扉から光が漏れている。電気を消し忘れていたのか、と特に気にも留めずに扉を開けた。
誰の迎えの言葉もなく、虚しい空間が広がっているはずだった。だけど、僕の予想は裏切られた。
我が家では久しく聞かなかった言葉が聞こえた。僕は予想外の出来事に、何も言えなかった、考えられなかった。ただ、声の主の方へ視線を向けることしかできない。
何も言えず硬直した僕を、声の主はきょとんとした表情で見つめる。そして「おかえりなさい」と僕を見つめて繰り返し言った。声の主は僕にスイッチの話をした少女だった。
ソファーに行儀良く腰掛け、小さく可憐な手でグラスを包み込んでいる。彼女は何も言えずにいる僕ににっこりと微笑みかけ、グラスを口元へと運んだ。艶めかしく光る唇にグラスが触れ、透明な液体が流れ込んでいく。なんてことのない日常で、些細なはずの行為が、僕には崇高で優美なものに見えた。まるで、高尚な絵画でも見ているような感覚。言葉では言い表せない感情と感動が湧き起こり、いつまでもこの光景を見続けたいと願った。
そんな儚い願いは当然叶わず、崇高で優美な行為は終わりを告げた。グラスはもとの位置に戻り、彼女は再び僕を見つめ口を開いた。
「いつまでそこに立っているの?」
僕はローテーブルをはさんでスイッチの少女と向かい合っていた。彼女は相変わらずソファーに行儀よく腰掛け、僕を見つめる。なぜか僕は彼女の対面で正座をして、家主にもかかわらず緊張して小さくなっていた。
彼女の真っ直ぐな視線に耐えられず、彼女の細く白い足や、セーラー服を押し上げる魅力的な胸元、肩口をくすぐる緩くウェーブした美しい髪などに視線を動かし続けた。
そんな僕の行動など気にも留めず、彼女は本題に入るため咳払いをした。
「私がなぜここに来たかわかる?」
心地良い声音に僕の心は囚われ、見目麗しい彼女の言葉を理解するのに少し時間を要した。彼女の美しい調べを言葉に変換し、意味を汲み取る。そして、僕は発すべき言葉を構築し、発信する。無意識にやってのけるべき事柄を、わざわざ意識づけなければならないほど、彼女の声は特別だった。
その声に応えるべく、僕は言葉を発した。彼女の声を聞いた後では耳障りな醜い声で。
「僕がこの世界から消えたいと願ったから?」
彼女の前では空虚で滑稽に思える声に僕は思わず赤面した。自分の無様さを嘆き、無意識に俯いた。逃げ去ることもできず、この場から「消え去りたい」と願うことしかできない。
そう願った時、僕は気づいた。こういうことなんだ。僕はこうやって無意識に願い、その結果彼女を引き寄せた。需要と供給が合致したんだ。彼女が再び現れたのも、僕がもう一度願ったからじゃない。僕のこの消極的な考えを自覚させるために間を置き、認識できる機会が訪れたから現れたんだ。
彼女の真意にたどり着けた気がして、なぜか気持ちが軽くなった気がする。テーブルに注がれていた視線も、再び彼女へと向けることができた。今度は自信をもって、臆することなく彼女を真っ直ぐと見つめる。彼女は微笑みながら軽く頷いた。僕が彼女の思いを理解したことに気づいたんだろう。心なしか満足げで、得意げな微笑みに見えた。僕も思わず微笑んだ。
二人でしばし微笑み合った後、彼女は右手を差し出した。その可憐で小さな掌にはあのスイッチが乗っていた。簡素でおもちゃのようなスイッチ。普段なら何の意味も持たず、記憶にも残らないものが、すさまじい羨望の的になる。僕の欲求はそのスイッチにだけ向けられ、あれだけ僕を虜にしていた彼女の存在は何の意味も持たなくなった。新しい世界への期待が増大し、この世界への未練は霧消した。
僕は赤いスイッチを押した。