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蒼い幻 緋い夢  ~ヴァーゴの聖者~  作者: 西の茶店(にしのちゃみせ)
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~ヴァーゴの聖者~

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)

シルヴェーラ

挿絵(By みてみん)

ガルディエル

挿絵(By みてみん)

デュマ・アルセウス



 蒼い幻 緋い夢  ~ヴァーゴの聖者~


             西の茶店



  序章 次元流砂



 辺り一面、砂、砂、砂。


 その砂に風が多様な模様を描きだす、砂と風の永遠の幻想画。


 客観的に見ればその幻想的で美しい砂漠は、一旦入り込んだらとんでもなく果てしないただの砂の大地と変貌する。




「畜生、あの貧乏国王め!」


 ざくざくと乾いた砂漠の砂を踏みながら、シルヴェーラは思わず叫ばずにいられなかった。


「誰が国の治安よくしてやったと思ってんだ!弱っちい聖馬押し付けやがって!死んだら化けてやるからなーっ!」


 叫びは干涸びた風がさらって行き、シルヴェーラは砂に足を取られてがくんと膝をついた。


 駄目だ、このままだと飢え死により先に、乾燥死だ…。


 このアクエリアス最後の砂漠さえ抜ければ、ようやくマグノリア大陸西部パイシスに入り、最初の国ロメリアナ公国だというのに…!


 肩からずり落ちた皮の荷袋には、もう食料も水も尽きて、防寒用のマントと野営用品が入っているだけだった。


 何が最上級の聖馬だ。水はがばがば飲むくせに、砂漠に入って三日でころっと逝っちまうし、食料は一昨日尽きたし、水は昨日の一口で最後だったし、五日で抜ける予定だった砂漠ですでに十日もたってるし、その内七日は徒歩だぞ、徒歩!


 生憎、転移魔導はまだ上位にならなければ使えない。


 中途半端な砂漠のど真ん中で放り出されて、シルヴェーラは途方に暮れていた。


 まったく砂漠というやつは厄介で、日中は日ががんがん照り付けて気温も余裕で四十度を越えるというのに、一旦日が沈むとゆうに零度近くになるという始末。


 おかげでどんなに日中暑くても、魔導で防寒処理されたマントは手放せない。


 初めの頃こそ提供された聖馬に乗り、楽にロメリアナ公国へ向かっていた。


 目的はパイシスの国をいくつか回り、その先四大陸の一つ、ラトリアナに向かうことだった。


 三日後、聖馬が死に、砂漠越えの重い荷物を持つわけにもいかず、魔導で運びながら進行を続け、運悪く半日以上続く砂嵐に見舞われること数回。


 食料が尽き、水が尽き、やがて日光を遮る魔導を使う体力も尽きた。


 砂に付いた両手を片膝に当てて、身体を起そうとしたシルヴェーラは、ふらりと宙をさ迷うような感覚に包まれた。


「はれ…?」


 気が付いた時には、どさりと砂の上に身体を投げ出していた。


「水が欲しい…」


 呟いたシルヴェーラの後方で、ずず、ずず、という嫌な音が響いた。


 この音…まさか、流砂!?


 慌ててもがき、態勢を整えようとする。


 まずい、まずい、まずい!


 急いで手で砂をかき、足で砂を踏みしめる。


 こんなところで流砂なんて、次元流砂しかありえない!


 そんなシルヴェーラをあざ笑うかのように、突然現れた穴に向かって砂はどんどん吸い込まれていく。


 冗談じゃない!次元流砂にのまれるなんて嫌だぞ!生きて出られるなんて噂、一度だって聞いたことがないってのに…!


 ずず、ずず、ずずず…。


 必死にもがくシルヴェーラは、砂の流れに従って、着実に次元流砂の中心に向かってずり落ちていった。


 そんな馬鹿な…マグノリア三指に入る金の聖魔剣士ともあろうあたしが、次元流砂で死ぬなんて…。



      *



 その昔、神は神界と相反する魔界との均衡と保とうとして、神と魔の間に人間を創り出したといわれる。


 神は人間を神に近い姿のものから、星座十二宮に男女を一人ずつ造り出し、均衡を保つ意を込めて天秤宮から配置した。


 そして最後に造られた人間は最も魔に近く、その人間は己れが醜いのを恨み、魔に魂を売り美しい姿態を手に入れた。


 それが一番最後になった、処女宮の男だと人は言う。


 男は魔界の妖魔を操り、人を食し血を好む、という精神を魔から与えられた。


 それを嘆き悲しんだ処女宮の女は、神に祈りを捧げ聖女になった。


 これが魔界と人界を行き来する魔族の始まりと言われ、魔族は美しい姿態に最も闇に近き色、漆黒を髪と瞳に彩るという。


 そして魔族の証として、額に第三の目を持つ、と。


 その瞳の色は―――紫。


 妖魔とは、魔族が支配する醜い魔界の魔物を差して言う。


 その魔族や妖魔を滅する聖魔剣士や、魔導を使い捕獲や封印をする魔導士は、言わば人界に残された最後の切り札のような存在。


 しかし儲かる仕事ではあるけれども、何より素質が必要であるため、聖魔剣士や魔導士になれる者は希望者に対してごくわずかだ。


 とくに聖魔剣士には稀有な聖剣を必要とし、その聖剣の希少価値に、法外な値が付くことさえあるのだから。




 そして、ひとつだった世界は、人間と、魔族と、神とに分かたれた。


 人の世界は四つの大陸ができた。


 剣技に長けたマグノリア


 武術に長けたメルカルス


 精霊に長けたルドイルド


 魔導に長けたラトリアナ



 すべてにおける最高神の名はティファ・ビシシェナエント


 その神々しい姿は黄金色の髪に翠玉色の瞳を持つという―――




 第一章 聖魔剣士




 なんて妖気だ…。まだまだ街中に妖魔があふれてるな。


 気配を探るために結界を張らず、シルヴェーラは目を細めて佇みながらぽつりとひとり街中にいた。


 旅の途中で寄ったアクエリアスに支配されている小国の一つ、ガイゼラート。 妙に荒廃した街は人影がなくがらんとしていた。


 店も宿も固く扉を閉ざした町は何かにおびえ、妖気がただよっていた。


 情報収集もかねて唯一開いていたギルドに顔を出したシルヴェーラを、人手不足に陥っていたガイゼラートは諸手を挙げて歓迎した。


 突如現れてから街中を跋扈し、人を襲い始めた妖魔を退治できる者を招集しては街へ送り込んでいたギルドだったが、成果は芳しくなかった。


 ギルド所属の聖魔剣士や魔導士も疲弊し、退却して国外退去する者も後を絶たない状態が続いていた。


 そこへ偶然現れた金の聖魔剣士シルヴェーラを、ギルドと国王が見逃すはずがなかった。


 ガイゼラートその国王に妖魔退治を依頼され、はや半月。


 斬っても魔導で封じても、どこからともなく涌いて出てくる妖魔の群れに、いい加減頭にきていた頃だ。


 一対無数の長期戦となれば、不利になるのは目に見えている。何といってもこちらは生身なのだ。


 まったくもう、毎日毎日、きりがないったら…!


 苛立ちと疲れが溜まりに溜まり、日々回復魔導で癒してはいるものの、心身ともに疲労困憊の域を超えていた。


 どうせ黒幕は魔族が傀儡にしてる元人間だったりするんだろう。魔族の奴は自分は出てこないで、裏で楽しんでいるだけなんだ。質が悪いったら…。


 それでも、毎日毎日、やることは変わらない。人に害をなす妖魔を退治しながら、どこかにいる黒幕を見つけて始末しない限り、妖魔の群れは無限に涌き続ける。


 そんなことを思いながら、とにかく一番近くにいる奴から始末しようと、神経を集中させたときだった。


「いやああっ!やめてえっ!」


 甲高い女の悲鳴が聞こえて、シルヴェーラは咄嗟に声のした方へ駆け出した。


 王宮からここ半月ずっと外出禁止令が出てるってのに、誰だ、今ごろのこのこと外歩いてる奴はっ!?


 崩れた瓦礫を蹴散らして角の家を曲がると、広場のような場所に出た。


「あ、ああ、マティアス、マティアス!」


 いくつもある妖魔の触手に動きを封じられた女が、すでに骨に肉が所々ついている程度の人骨に向かって、泣き叫んでいた。


 外出禁止令が我慢できずに逢引きして、襲われた、か…。


 シュウシュウと肉が解ける不快な音がして、シルヴェーラはその人骨に群がる妖魔に目をやった。


 大したことない、低級妖魔か。


「救けて!彼が…マティアスが!」


 救けて、と言われても、骨になった人間に敢えて危険を侵す必要はないからな…。仕方ない、あの女性だけでも救けるか…。


「もう遅い。悪いが、諦めろ」


 場慣れしているせいか冷静に判断しながら、シルヴェーラはすらりと蒼真を抜いた。


 魔に対して、唯一死を与えることのできる聖剣。


 そしてそれを所持できるのは、各四大陸から認められ、聖魔剣士の称号を与えられた者のみ。


 …大丈夫。ただの雑魚だ。


 自分に言聞かせて白銀に輝く刀身を持つ蒼真を構えると、シルヴェーラは女を捕らえている妖魔に斬り掛かった。


「キィィィッ」


 触手を断ち切られた妖魔は怒りに奇声を発し、ぐしゅぐしゅと変体する。


「早く、向こうへ!」


 シルヴェーラは女に魔導で結界を張ってやり、突き飛ばした。


 いくつも触手を持つ肉塊のように醜悪な妖魔は、変体を終えると岩石のように形を崩した。


 中心にあるどろどろと渦巻くような口には、無数の牙が見える。


「…どっちにしても、気持ち悪いな…」


 思わず顔を顰めながらも、シルヴェーラはその妖魔の中心部目掛けて踏み込んだ。


 ズバッとしっかりとした感触が、刀身を伝い、柄を握る手に残る。


 一刀両断——。


 ギリギリ、と真っ二つに断絶された妖魔が、断末魔の悲鳴をあげる。


 命が尽きた妖魔はさらさらと形を崩し、砂塵とへと還った。


 砂塵が風に舞い上がり、まるで嘆くように音を立てて散り去った。


「あっ、逃げるなっ」


 自分より強い相手には刃向かわない、という意外に動物的な習性を持つ妖魔は、一斉に逃げ惑い始めた。


 しめた、今回はこのまま妖魔を追っていけば、こいつらを放った黒幕がいるかもしれない!


 届く範囲の妖魔を次々にぶった斬りながら、シルヴェーラは妖魔を追って街外れの墓場まで足を踏み入れた。


「くそ、逃げ足ばかり早い…」


 連日の戦いに疲弊した体で幾分呼吸の早くなったシルヴェーラは、立ち並ぶ墓碑を見渡した。


 …おかしい、この辺り一帯に気配を感じるのに、姿が見えない…。


 蒼真を握り締めて辺りを伺うシルヴェーラを嘲笑うかのように、くすくすと笑い声がどこからともなく聞こえてきた。


「どこだ…どこにいる?」


「ここだよ」


 いきなり背後から声がして、シルヴェーラはぞっとして両手で蒼真を構えたまま振り向いた。


「誰だ!」


 声の主は脚を持て余すように組んで、苔むした墓碑に腰をかけていた。


 逆光で、顔が見えない!


「ほう、銀髪蒼眼…」


 夕日が逆光になって黒い影でしかなかった人影は、次第に輪郭を表し始めた。


 濡れたように艶やかで長い黒髪、黒い瞳。切れ長の目元、通った鼻筋、鮮血が滴るような赤い唇。


 すらりとした長身を包む黒い衣服は、彼の美貌を一層映えさせる。


 まさか…まさか!


「その指輪、金の聖魔剣士か」


 認定された大陸の印が刻まれた金の指輪は、聖魔剣士の証。


 白金、金、銀、銅、鉄、の位がある。シルヴェーラは順列二位の金に位置していた。

 

  白金の聖魔剣士など、名前だけでお目にかかったことなどない。


 その金の聖魔剣士シルヴェーラの力を持ってしても、全身が否定するのだ。


 この男は、危険だ…。


 喉の奥がからからに乾き、蒼真を握る掌にじわりと汗がにじむ。


 今まで妖魔とは頻繫に対峙していたものの、その黒幕とも言える魔族には直接会ったことはなかった。


 大抵が魔族が操り、傀儡とする元人間だったのだ。


 …どうやら、今回は甘く見すぎていたようだ。


「…魔族の者…?」


 彼が、口元に笑みを浮かべた。


 背筋が冷たくなるほど、美しい…けれど、決して優しくも暖かくもない微笑みは、見るものを圧倒する。


 この威圧感はなんだ?今までの魔族の傀儡とは、比にならないほどの強い妖気。


 これが、真の魔族なのか…?


 問いに答えるかのように、すうっと額に筋が入ったかと思うと、人ではありえない第三の目が開いた。


 黒い双眸と違い、紫水晶のように澄んだ美しい瞳は、言わずもがな、魔族の証であった。


 知識としては知っている。魔力の源。魔族の命。そして、魔族の急所。


 状況さえ頭から消し去れば、そのまま魅了されてしまいそうなほど美しい瞳だった。


「見事な銀の髪…」


 溜め息のようにつぶやいて、彼はシルヴェーラに歩み寄った。


 逃げなければ…!


 そう思ったときにはもう、シルヴェーラの身体はぴくりとも動かなかった。


 しまった、魔導も発動しない!


「金の聖魔剣士よ。おまえに、選ぶ権利を与えてやろう。我の子孫を残すために生き残るか、我の美貌をより増すために、その心臓と血液すべてを我に渡すか、好きな方を選ぶがよい」


 うっとりと聞き惚れそうなほど、その声は低くいつまでも耳に残るように優美で、その微笑みは妖艶だった。


 何が選択だ!いきなり現れた挙げ句、子供を生むか食われるかだと!?


「なぜ…人の女などに、子孫を委ねる?同族はどうしたのだ?」


 どう足掻いても解けない呪縛に苛立ちを覚えながらも、シルヴェーラは睨み付けるのを忘れずに尋ねた。


 抵抗することを止めてしまうと、自分の使命を忘れてしまいそうで自信がなかった。


 それほど、冷たく冴え冴えとした顔は別の意味で、心を惹き付ける。


「魔族に、女はおらぬ。処女宮の女が男を裏切り、己れ一人が聖者となり離別してから、魔族に女は生まれぬ。魔族は、すべて人の女に生ませたもの。人の女がいる限り、魔族は滅びぬ」


 魔族に女は生まれない?処女宮の男女が別離してからって…あの言い伝えは、本当だったのか?


 そこまで言って、彼は思い出したように、ふっと口をつぐんだ。


「少し、話が過ぎたようだ。もう選択はできたであろう?どちらを選ぶ?」


 本来なら斬り掛かりたいところだが、呪縛されて指一本動かせないので、シルヴェーラは精一杯声を振り絞った。


「どちらも、断る!」


「そうか、ならば…」


 それ以上、台詞はなかった。優雅な足取りで、彼が歩み寄る。


 白く細い指が、シルヴェーラの顎を軽く持ちあげた。


 そして、口接け…。


 全身の血が氷りつきそうなほど、冷たい唇。


 目を見開いたまま、抵抗できずに立ち尽くすシルヴェーラの背に、するりと腕が回る。


 …殺される!


 そう思ったときだった。


 バチバチと音がして、気のせいか、何か軽くなったような感覚に包まれた。


 すっと彼が離れ、シルヴェーラの目の前で、緩やかに波打つ長い銀髪をばさりと落とした。


「我らにはないこの美しい銀の髪に免じ、今日のところは引き下がるとしよう。しかし、次見えたときは、必ず…」


 あたしの髪…ばっさりと!


「妖魔どもよ、汝が住みかへ帰れ。この街はもう飽いた。どうせガイゼラートの王に雇われたのであろう?街から妖魔を消したといえば、おまえの手柄になろうぞ」


 馬鹿にしてるのか、本気で言っているのかわからない口調で言って、口元に薄く笑みを残したまま、彼は扉の向こうに消えるようにふっと姿を消した。


 直後呪縛が解けて、シルヴェーラはがくりとその場に崩れた。


 ああ、なんて、なんてすごい呪縛…。


 指一本、動かすこともできなかった…。


 ガクガクと震える身体を抑えるように、シルヴェーラは自分の腕で抱き締めた。


 自分の力が、これほど小さいと思ったのは、あの時以来だった。


 こっちこそ、今度会ったときは、必ず仕留めてみせる…!!


 地面に散った己の銀色の長い髪を見つめながら、シルヴェーラは声もなく、心に誓った。

 第一章 聖魔剣士



 なんて妖気だ…。まだまだ街中に妖魔があふれてるな。


 気配を探るために結界を張らず、シルヴェーラは目を細めて佇みながらぽつりとひとり街中にいた。


 旅の途中で寄ったアクエリアスに支配されている小国の一つ、ガイゼラート。 妙に荒廃した街は人影がなくがらんとしていた。


 店も宿も固く扉を閉ざした町は何かにおびえ、妖気がただよっていた。


 情報収集もかねて唯一開いていたギルドに顔を出したシルヴェーラを、人手不足に陥っていたガイゼラートは諸手を挙げて歓迎した。


 突如現れてから街中を跋扈し、人を襲い始めた妖魔を退治できる者を招集しては街へ送り込んでいたギルドだったが、成果は芳しくなかった。


 ギルド所属の聖魔剣士や魔導士も疲弊し、退却して国外退去する者も後を絶たない状態が続いていた。


 そこへ偶然現れた金の聖魔剣士シルヴェーラを、ギルドと国王が見逃すはずがなかった。


 ガイゼラートその国王に妖魔退治を依頼され、はや半月。


 斬っても魔導で封じても、どこからともなく涌いて出てくる妖魔の群れに、いい加減頭にきていた頃だ。


 一対無数の長期戦となれば、不利になるのは目に見えている。何といってもこちらは生身なのだ。


 まったくもう、毎日毎日、きりがないったら…!


 苛立ちと疲れが溜まりに溜まり、日々回復魔導で癒してはいるものの、心身ともに疲労困憊の域を超えていた。


 どうせ黒幕は魔族が傀儡にしてる元人間だったりするんだろう。魔族の奴は自分は出てこないで、裏で楽しんでいるだけなんだ。質が悪いったら…。


 それでも、毎日毎日、やることは変わらない。人に害をなす妖魔を退治しながら、どこかにいる黒幕を見つけて始末しない限り、妖魔の群れは無限に涌き続ける。


 そんなことを思いながら、とにかく一番近くにいる奴から始末しようと、神経を集中させたときだった。


「いやああっ!やめてえっ!」


 甲高い女の悲鳴が聞こえて、シルヴェーラは咄嗟に声のした方へ駆け出した。


 王宮からここ半月ずっと外出禁止令が出てるってのに、誰だ、今ごろのこのこと外歩いてる奴はっ!?


 崩れた瓦礫を蹴散らして角の家を曲がると、広場のような場所に出た。


「あ、ああ、マティアス、マティアス!」


 いくつもある妖魔の触手に動きを封じられた女が、すでに骨に肉が所々ついている程度の人骨に向かって、泣き叫んでいた。


 外出禁止令が我慢できずに逢引きして、襲われた、か…。


 シュウシュウと肉が解ける不快な音がして、シルヴェーラはその人骨に群がる妖魔に目をやった。


 大したことない、低級妖魔か。


「救けて!彼が…マティアスが!」


 救けて、と言われても、骨になった人間に敢えて危険を侵す必要はないからな…。仕方ない、あの女性だけでも救けるか…。


「もう遅い。悪いが、諦めろ」


 場慣れしているせいか冷静に判断しながら、シルヴェーラはすらりと蒼真を抜いた。


 魔に対して、唯一死を与えることのできる聖剣。


 そしてそれを所持できるのは、各四大陸から認められ、聖魔剣士の称号を与えられた者のみ。


 …大丈夫。ただの雑魚だ。


 自分に言聞かせて白銀に輝く刀身を持つ蒼真を構えると、シルヴェーラは女を捕らえている妖魔に斬り掛かった。


「キィィィッ」


 触手を断ち切られた妖魔は怒りに奇声を発し、ぐしゅぐしゅと変体する。


「早く、向こうへ!」


 シルヴェーラは女に魔導で結界を張ってやり、突き飛ばした。


 いくつも触手を持つ肉塊のように醜悪な妖魔は、変体を終えると岩石のように形を崩した。


 中心にあるどろどろと渦巻くような口には、無数の牙が見える。


「…どっちにしても、気持ち悪いな…」


 思わず顔を顰めながらも、シルヴェーラはその妖魔の中心部目掛けて踏み込んだ。


 ズバッとしっかりとした感触が、刀身を伝い、柄を握る手に残る。


 一刀両断——。


 ギリギリ、と真っ二つに断絶された妖魔が、断末魔の悲鳴をあげる。


 命が尽きた妖魔はさらさらと形を崩し、砂塵とへと還った。


 砂塵が風に舞い上がり、まるで嘆くように音を立てて散り去った。


「あっ、逃げるなっ」


 自分より強い相手には刃向かわない、という意外に動物的な習性を持つ妖魔は、一斉に逃げ惑い始めた。


 しめた、今回はこのまま妖魔を追っていけば、こいつらを放った黒幕がいるかもしれない!


 届く範囲の妖魔を次々にぶった斬りながら、シルヴェーラは妖魔を追って街外れの墓場まで足を踏み入れた。


「くそ、逃げ足ばかり早い…」


 連日の戦いに疲弊した体で幾分呼吸の早くなったシルヴェーラは、立ち並ぶ墓碑を見渡した。


 …おかしい、この辺り一帯に気配を感じるのに、姿が見えない…。


 蒼真を握り締めて辺りを伺うシルヴェーラを嘲笑うかのように、くすくすと笑い声がどこからともなく聞こえてきた。


「どこだ…どこにいる?」


「ここだよ」


 いきなり背後から声がして、シルヴェーラはぞっとして両手で蒼真を構えたまま振り向いた。


「誰だ!」


 声の主は脚を持て余すように組んで、苔むした墓碑に腰をかけていた。


 逆光で、顔が見えない!


「ほう、銀髪蒼眼…」


 夕日が逆光になって黒い影でしかなかった人影は、次第に輪郭を表し始めた。


 濡れたように艶やかで長い黒髪、黒い瞳。切れ長の目元、通った鼻筋、鮮血が滴るような赤い唇。


 すらりとした長身を包む黒い衣服は、彼の美貌を一層映えさせる。


 まさか…まさか!


「その指輪、金の聖魔剣士か」


 認定された大陸の印が刻まれた金の指輪は、聖魔剣士の証。


 白金、金、銀、銅、鉄、の位がある。シルヴェーラは順列二位の金に位置していた。

 

  白金の聖魔剣士など、名前だけでお目にかかったことなどない。


 その金の聖魔剣士シルヴェーラの力を持ってしても、全身が否定するのだ。


 この男は、危険だ…。


 喉の奥がからからに乾き、蒼真を握る掌にじわりと汗がにじむ。


 今まで妖魔とは頻繫に対峙していたものの、その黒幕とも言える魔族には直接会ったことはなかった。


 大抵が魔族が操り、傀儡とする元人間だったのだ。


 …どうやら、今回は甘く見すぎていたようだ。


「…魔族の者…?」


 彼が、口元に笑みを浮かべた。


 背筋が冷たくなるほど、美しい…けれど、決して優しくも暖かくもない微笑みは、見るものを圧倒する。


 この威圧感はなんだ?今までの魔族の傀儡とは、比にならないほどの強い妖気。


 これが、真の魔族なのか…?


 問いに答えるかのように、すうっと額に筋が入ったかと思うと、人ではありえない第三の目が開いた。


 黒い双眸と違い、紫水晶のように澄んだ美しい瞳は、言わずもがな、魔族の証であった。


 知識としては知っている。魔力の源。魔族の命。そして、魔族の急所。


 状況さえ頭から消し去れば、そのまま魅了されてしまいそうなほど美しい瞳だった。


「見事な銀の髪…」


 溜め息のようにつぶやいて、彼はシルヴェーラに歩み寄った。


 逃げなければ…!


 そう思ったときにはもう、シルヴェーラの身体はぴくりとも動かなかった。


 しまった、魔導も発動しない!


「金の聖魔剣士よ。おまえに、選ぶ権利を与えてやろう。我の子孫を残すために生き残るか、我の美貌をより増すために、その心臓と血液すべてを我に渡すか、好きな方を選ぶがよい」


 うっとりと聞き惚れそうなほど、その声は低くいつまでも耳に残るように優美で、その微笑みは妖艶だった。


 何が選択だ!いきなり現れた挙げ句、子供を生むか食われるかだと!?


「なぜ…人の女などに、子孫を委ねる?同族はどうしたのだ?」


 どう足掻いても解けない呪縛に苛立ちを覚えながらも、シルヴェーラは睨み付けるのを忘れずに尋ねた。


 抵抗することを止めてしまうと、自分の使命を忘れてしまいそうで自信がなかった。


 それほど、冷たく冴え冴えとした顔は別の意味で、心を惹き付ける。


「魔族に、女はおらぬ。処女宮の女が男を裏切り、己れ一人が聖者となり離別してから、魔族に女は生まれぬ。魔族は、すべて人の女に生ませたもの。人の女がいる限り、魔族は滅びぬ」


 魔族に女は生まれない?処女宮の男女が別離してからって…あの言い伝えは、本当だったのか?


 そこまで言って、彼は思い出したように、ふっと口をつぐんだ。


「少し、話が過ぎたようだ。もう選択はできたであろう?どちらを選ぶ?」


 本来なら斬り掛かりたいところだが、呪縛されて指一本動かせないので、シルヴェーラは精一杯声を振り絞った。


「どちらも、断る!」


「そうか、ならば…」


 それ以上、台詞はなかった。優雅な足取りで、彼が歩み寄る。


 白く細い指が、シルヴェーラの顎を軽く持ちあげた。


 そして、口接け…。


 全身の血が氷りつきそうなほど、冷たい唇。


 目を見開いたまま、抵抗できずに立ち尽くすシルヴェーラの背に、するりと腕が回る。


 …殺される!


 そう思ったときだった。


 バチバチと音がして、気のせいか、何か軽くなったような感覚に包まれた。


 すっと彼が離れ、シルヴェーラの目の前で、緩やかに波打つ長い銀髪をばさりと落とした。


「我らにはないこの美しい銀の髪に免じ、今日のところは引き下がるとしよう。しかし、次見えたときは、必ず…」


 あたしの髪…ばっさりと!


「妖魔どもよ、汝が住みかへ帰れ。この街はもう飽いた。どうせガイゼラートの王に雇われたのであろう?街から妖魔を消したといえば、おまえの手柄になろうぞ」


 馬鹿にしてるのか、本気で言っているのかわからない口調で言って、口元に薄く笑みを残したまま、彼は扉の向こうに消えるようにふっと姿を消した。


 直後呪縛が解けて、シルヴェーラはがくりとその場に崩れた。


 ああ、なんて、なんてすごい呪縛…。


 指一本、動かすこともできなかった…。


 ガクガクと震える身体を抑えるように、シルヴェーラは自分の腕で抱き締めた。


 自分の力が、これほど小さいと思ったのは、あの時以来だった。


 こっちこそ、今度会ったときは、必ず仕留めてみせる…!!


 地面に散った己の銀色の長い髪を見つめながら、シルヴェーラは声もなく、心に誓った。




 第二章 水晶宮




「う…」


 胃の辺りをきりきりと締め付けるような痛みが走って、シルヴェーラはふと目を醒ました。


 …水晶と、白大理石でできた美しい部屋…。長い夢を見ていた気がするけど…まだ、これは、夢か?


 ぼんやりしながら、目だけで部屋を見渡していると、横から急に声をかけられた。


「ご気分はいかがですか?」


 シルヴェーラはゆっくりと身体を起こすと、そこにしずかに佇む長い栗色の髪と瞳の女性を見付けた。


「…ここは?」


「ここはガルディエル様の宮殿、水晶宮の一室です。丸一日眠っていらしたんですよ。お食事は取れそうですか?」


 …ガルディエル様?誰だ、それ…。


 にこやかに答えてくれたものの、一体どこでどうなってこうなったのかがわからなくて、夢の続きのようだった。


 しかし、喉と胃の辺りの痛みの原因が渇きと空腹によるものだとわかるまでには、そう時間はかからなかった。


「水、水、は…っ」


「こちらに。慌てずにお飲みください」


 差し出された玻璃の杯になみなみと注がれた水を、こぼれるのも気にせずに飲み干した。


「おかわりなされますか?」


「頼む…」


 今度は水をじっくりと味わうように喉へ流し、シルヴェーラはほうと一息吐いた。


「ずいぶんとうまい水だな…」


 水は塩と柑橘の味がして、今まで味わったことのないものだった。


「この国ではよく飲まれているものですよ。乾いた喉にはよいでしょう?」


 あれほど水に餓えていたというのに、思ったほど喉は乾いてはいなかったことに気づいた。


「発見された時は脱水症状がひどくて、ガルディエル様がすぐに手持ちの水を飲ませて差し上げたそうですよ」


 ふふっと小さく笑って、女はシルヴェーラから玻璃の杯を受け取った。


「飲ませたって、どうやって…」


 まるで覚えていない状況に一瞬嫌な予感がして、シルヴェーラは顔をしかめた。


「口移しだそうですよ」


 ああ、穴があったら入りたい…。いや、穴に落ちたからこうなったわけなんだが…。


「…腹減って、死にそう…」


 情けなさのあまり蚊の鳴くような声で言うと、女は鈴の音のようにころころと笑った。


「ではすぐにご用意いたします。ああ、ガルディエル様にもお知らせしないと…。私はお世話係のアイシュナと申します。少しお待ちくださいね」


 ぺこりと頭を下げてアイシュナと名乗った女は部屋を出ていった。


 確か、あたしは砂漠で流砂にのまれて…やはり、あれは次元流砂だったのか…。


 大陸間の次元の歪みできる次元流砂というものがある。


 その名の通り、どこに転移するかわからない、砂漠だけでなくどこにでも現れる超自然現象の一つだ。


 砂漠の真ん中で次元流砂に落ちたはずが立派な部屋にいるということは、どうやらどこか別の場所に転移したらしい。


 滅多に遭遇するものではないだけに、転移して生存しているという話などは耳にしたことはない。運が良かったようだ。


 シルヴェーラはほっとして額に手をやり、いつもの銀糸の額飾りがついているのを確認して、安堵した。


 そして、砂漠をさまよい砂まみれになっていた自分が、絹の女性用の衣服に着替えさせられていたことに気づいた。


 そうだ、蒼真は…!?


 寝台に腰を掛けると、額飾りと揃いの銀糸で織られた包みに入った蒼真は、きちんと枕元に置いてあった。


「よかった…蒼真…」


 蒼真に手を伸ばすのとほぼ同時に、バタン、と荒々しく扉が開いた。


 咄嗟に蒼真を左手に持ち、シルヴェーラはさっと身構えた。


 姿を現したのは背の高い体躯のよい青年で、蜂蜜色のくせのある長髪を無造作に縛り、こぼれるような前髪からのぞく双眸は、淡い朱を纏った金色。


 装束は鮮やかな緋色で、身に付けた装身具は数えきれないほどだ。


 …ずいぶんと豪奢だな、貴族か?


「…やっぱり、蒼い瞳…セレフォーリア!」


 …え、セレフォーリア?


 青年はカツカツと靴音を響かせてシルヴェーラの前に来ると、その朱金の瞳にじわっと涙を浮かべた。


「よかった…セレフォーリア!」


 青年は叫ぶなり、いきなりシルヴェーラに抱きついたのだ。


「うわああっ!?」


「セレフォーリア!生きていたんだな!?」


 驚くシルヴェーラをよそに、青年は勝手にシルヴェーラをセレフォーリアという人物と思い込み、がっちりと抱きしめた。


「ちょっと待て、放せっ」


「嫌だ、ずっと探していたんだぞ!」


「そうじゃない、人違いだ!」


「そんなわけあるか!俺が見間違えるはずがない!」


「落ち着けと言っている!」


「八年ぶりだぞ、落ち着いていられるか!」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられたまま押し問答を続け、シルヴェーラは仕方なく、ぐいっと左手の蒼真を青年と自分の間に割り込ませた。


「剣を抜くぞ」


 獣が唸るように低く響いた声に、青年はびくりとして抱きしめている腕を解いた。


「…本当に、違うのか?セレフォーリアではないのか?」


 蜂蜜色の髪の奥の朱色をまとった金色の瞳が、不安げに揺れていた。


 演技でもなさそうな真剣な眼差しに、シルヴェーラはふと眉根を寄せた。


「…セレフォーリアという名は、今まで呼ばれたことのない名だ。あたしに何か関係があるのか?」


 それ以上近付けば抜く、という姿勢で蒼真を持ち、シルヴェーラは青年に尋ねた。


 青年は困惑したように、シルヴェーラから視線を逸らした。


「…すまなかった。俺はガルディエル・ヴェイス。セレフォーリアは、一つ下の俺の従妹で許婚だった。銀色の髪に蒼い瞳で、おとなしい娘だった。八年前に行方不明になって、それっきりで…。狩りの途中で倒れてる君を見付けて、あまりにも似てるものだから、つい、ここに運び込んでしまった。悪い…」


 許婚?通りで、大胆な行動だと思った。いきなり抱きつくからびっくりした…。


 青年の勘違いだと理解して、シルヴェーラは蒼真を下して警戒を解いた。


「いや、そのおかげで命拾いしたのだから、こちらこそ礼を言わねば…。ところで一つ聞きたいのだが、ここはどこだ?」


 シルヴェーラの質問に青年は驚いたらしく、きょとんと目を真丸くした。


「どこって…ここは四大陸の一つ、メルカルス大陸。この地はヴァーゴが治めている」


 メルカルス大陸だって!?次元流砂に落ちて、目的のラトリアナ大陸一つ飛び越えてきちまったじゃねーか!それに、ヴァーゴっていえばメルカルス大陸きっての裕福な国家のはず…。


 まてよ…ガルディエル・ヴェイス!?


「…確か、ヴェイス家は、ヴァーゴ王家の!?」


 ぎょっとするシルヴェーラに、ガルディエルはなんでもないように頷いた。


「ああ、俺の父はヴァーゴの国王だが」


 どっと全身から冷汗が吹いて出て、普段は豪胆なシルヴェーラも思わず顔を引きつらせた。


「失礼を致しました。私はマグノリア大陸の金の聖魔剣士、シルヴェーラと申します。ラトリアナ大陸に向けての旅の途中、ガイゼラートの砂漠で次元流砂にのまれ、このヴァーゴの地に転移したものと思われます。この度の数々のご無礼、お許しください」


 シルヴェーラは蒼真を床に置き、片膝を付いて頭を垂れた。


 大陸間にある関所の通行許可もなく、ましてや一国の王子に刃を向けようとしたとは、はっきり言ってただ事ではすまない。


 もちろん、これが依頼されている関係にあれば、立場が大きくなるのは聖魔剣士の方になるのだけれど。


 王子ガルディエルは驚いたように沈黙の後、ははっと笑い飛ばした。


「無礼も何も、連れ込んだのは俺の方だと言っただろう?それに、一匹狼で一ヶ所に留まらない流浪の剣士と風の噂で聞いた金の聖魔剣士か。丁度いい、何かの縁だ。おまえに依頼するとしよう」


 助かった…おまけに、依頼されるとは、なんて好運。路銀も稼げる。


 首が繋がったのを確認して、シルヴェーラはほうっと安堵して顔を上げた。


「ご依頼、喜んでお受けさせていただきます。私に出来ることなら、何なりと…」



      *




「剣術を教えてほしい?」


 久々のまともな食事を済ませて、綺麗な琥珀色の葡萄酒を一本開けて気持ち良くしている時だった。


 やっと話を切りだしたガルディエルの依頼内容に、シルヴェーラは思わず拍子抜けした。


「そんなこと、わざわざあたしに頼まなくても、メルカルスは武術に長けた大陸。探せば剣術師範くらいいるだろう?」


 久々に金になる仕事かと思えば…あたしを馬鹿にしてるのか?この男は…。


 しっかりと対等に話すようになったシルヴェーラは、とくとくと銀杯に葡萄酒を注ぎたして、くいっと軽くあおった。


「それが…雇うにも、今この国には剣術も武術もまともに出来る奴がいないんだ」


「剣術師も武術師もいない?」


 そんな馬鹿な、どの国でも武闘家や剣士ぐらいはいるはずだ。そうじゃなければ、いったい誰が宮殿を警護するんだ?


「なら、騎士団は?ギルドは?」


「今はいない。本当なんだ。ギルドは開店休業で国内にはほとんど聖魔剣士も魔導士も滞在していないらしい。昔は武術大会まであったくらいなのに、今は剣を持つものすらいない。いくら平和とはいえ、名を挙げた武術師や剣士たちが黙っているとは…」


「…妙な話だな。元々絶対数が少ない魔導士や聖魔剣士はしかたないとしても、ただでさえ力のない人間が剣も持たないで、どうやって妖魔や魔族から身を護る?人間の盗賊や侵入者は?」


 まさかはいどうぞ、と命を渡すわけでもないだろうに…。


「それで、宮殿の警護は誰が?」


 シルヴェーラは何となく不安を感じながら、ガルディエルに尋ねた。


「特級魔導士、ディアゴ・ヴァルシュただ一人だ」


「特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュ?知らない名だな…王家に仕えているような五芒星紋なら、大体は覚えているつもりなんだけど…その魔導士は、古株なのか?」


 シルヴェーラの質問に、ガルディエルは少し首をひねり、口元に手をやった。


「いつだったかな…七年前、いや八年前だ。確かセレフォーリアが行方不明になった後、王宮に仕えだしたんだ。多分、その翌年ぐらいに武術大会が中止になったはずだ」


 セレフォーリアの消息、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュの出現、武術大会の中断、ギルドの開店休業…事の中心は、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュ。これは、叩けば埃がでそうな…。


「…おもしろそうな話だな。ちょうど仕事を探してたところだ。剣術稽古と国の異変の原因追求、まとめて金貨五十枚でどうだ?」


 シルヴェーラは葡萄酒の入った銀杯を傾けながら、にやりと笑った。


「原因追求の後、解決もしてくれれば、もう五十枚出そう。受けてくれるか?」


 これはこれは、久々に聖魔剣士だけじゃなく、魔導士の腕を見せることになるかな?


 おまけに、成功すれば金貨百枚だ。


「万が一の保険で、危険が起これば危険手当で五割増し」


「いったい何の保険だよ…了解だ」


「結構。では依頼成立に、乾杯」


 シルヴェーラの声に銀杯を掲げたガルディエルの肩から、するりとマントが滑り落ちて意外にがっしりした肩が現れた。     


 へぇ、中々均整の取れた身体じゃないか。もっと細いかと思ったけど、抱きしめられた時も、胸板がけっこう厚かったな…。                


 二の腕の筋肉の付き方もいいな、などと思いながら軽く葡萄酒をあおると、何かがきらりと反射しているのに気付いた。


 マントから現れた日焼けして少し浅黒いガルディエルの左の二の腕には、小石ほどの大きさの鮮やかな緋水晶をはめこんだ銀の腕輪が、美しく光を反射していた。


 緋水晶か…。かなり大きいな。


「珍しい腕輪をしているな」        


 シルヴェーラの台詞にガルディエルは銀製の腕輪に目をやって、ぱちんと外した。


「この緋水晶の腕輪は、王位継承者の証。緋色の装束は王族しか纏えない。ヴァーゴでは、緋色を神聖な色としている。太陽と人の血液に喩ているらしい」 

          

 ガルディエルが外した腕輪をシルヴェーラに投げて寄越した。くるくると弧を描きながらすっぽりと手の中に入ってきた腕輪を、シルヴェーラはまじまじと眺めた。


 細かに細工を施された、古から魔を退けるといわれている銀にはめこまれた緋水晶は、本当に鮮やかな緋色の光を放っていた。


 鮮やかな緋色…太陽と、人の血液の喩にふさわしい色…。


「…王位継承の証を、そう簡単に外して人に見せるもんじゃない、ガルディエル」


 苦笑いして腕輪を返すと、ガルディエルはあれ?という顔をして首を傾げた。


「そういえば、なんでだろ…。シルヴェーラに対して全く警戒心が起らないんだ…」



         *




 契約締結の後、ガルディエルの水晶宮の隠し部屋とも言えないほど広い鍛錬場で、シルヴェーラは使い方と急所を端的に教えた後、練習用の刃がない剣で直々相手になった。


「腕だけを振るな!下半身を据えて上半身を使え!」


「はいっ」


「力が全然出てないっ!」


「はいっ!」


 実戦を始めて間もないというのに、ガルディエルは慣れない剣を振り回して、肩で息をしながら額から汗をにじませていた。


「馬鹿みたいに振り回すな、次の構えまで無駄が多すぎる!」


「はいっ!」


 罵声を飛ばしながらも呼吸一つ乱さないシルヴェーラは、胴に向かってきたガルディエルの剣を薙ぎ払った。


「遅い!」


 カキーンと金属がぶつかる音がした後、ガルディエルの手から離れた剣がカラカラと床を転がった。


「馬鹿野郎!しっかり握れ!」


「は、はいっ!」


 汗を顎から滴らせたガルディエルは、ぐいっと手の甲で拭って、剣を拾い上げ再び構えた。


「でやあああっ」


「あーまーいっ!」


 ガルディエルの振り降ろした剣を、シルヴェーラはすいっと避けて、足を軽く引っ掛けた。


「う、わあっ!?」


 ガルディエルは見事に転倒し、剣は再び手からすっぽ抜け、床の上でくるくると回って止まった。


「剣先だけに集中するな!足元が隙だらけだ!隙をなくせ!これが本物の剣だったら、今ので首は完全にないと思え!実戦だったら何をしようが、卑怯なんて言葉はないぞ!」


 床の上に大の字になって肩で息をしているガルディエルに怒鳴り付けると、シルヴェーラはほうっと溜息を吐いて覗き込んだ。


「どうだ、きついだろう?」


 声もなくガルディエルが頷いて、シルヴェーラは横に屈んでぱたぱたと手で顔を扇いでやった。


「これがあたしのやり方だ。剣術なんて一応指南は受けたが我流だし、身体で覚えるのが一番なんだ。ついてこれるか?」


「あっ…たりめーだ…」


 案外敗けず嫌いらしく、荒い呼吸のくせに、ガルディエルは無理に言葉をつないだ。


「そうか。じゃあ、まだやれるな?」


「…いや、それは、ちょっと、無理かも…」


 素直に完敗したガルディエルだが、これでも鍛錬場で自主練習で身体は動かしているらしい。


 程よく筋肉がついた身体の理由がわかったと、シルヴェーラはそれなりに機材の揃った鍛錬場を見渡した。


 さすがはメルカルス大陸大国のヴァーゴ。相手がいなかったのが、残念だったな。剣の稽古もしていれば、腕も上がっていただろうに。


「じゃあ、今日の注意点だ。まず腕だけで剣を振らないこと。相手の動きをよく見ること。剣先だけに集中しないこと。むやみに剣を振り回さないこと。動きに無駄が多すぎる。力が弱い、もう少し筋肉を付けること。以上」


「わかった。わかったから。もう少し、休憩…」 


 言ってる側から力尽きたガルディエルはくーくーと寝息を立てだして、シルヴェーラはガルディエルの額を叩いた。


「こら、起きろ」


 呆れるほどの寝付きのよさに、子供か、と呟いた。


「こんなところで寝るな、ガルディエル」


 腕を掴んでみたものの、体格のいいガルディエルの身体が持ち上がるはずもない。


「やっぱり重いな…」


 シルヴェーラは諦めて魔導の力を使った。


 ふわりとガルディエルの身体を持ち上げると、秘密の鍛錬場を抜けて部屋に引き上げる。


 そのままガルディエルを寝台に下ろして寝かせると、シルヴェーラは寝台脇のランタンを消した。


「おやすみ、ガルディエル」


 寝台に腰を掛けて汗をかいた額の髪を払ってやると、なぜかシルヴェーラはころんと後ろに引っ繰り返った。


「おっと?」


 おかしいな、今引っ張られたような…。


 手をついて上半身を起してみると、驚いたことに、ガルディエルがしっかりとシルヴェーラの衣服の腰の辺りを掴んでいたのだ。


「放せ、こら、ガルディエル」


 掴んだ拳はぎゅっと握り締められていて、引っ張っても叩いてもつねっても、びくともしなかった。


「…はいぃ、しかり握りますぅ…」


 こいつ、さっきの練習の夢見て、しっかりあたしの衣服握ってる…。


「うわっ!?」


 むにゃむにゃと寝言を言った後、シルヴェーラの衣服を掴んだままガルディエルがごろりと寝返りをうって、シルヴェーラは見事に腕の間に挟まれた。


 目の前には、子供のように無防備に眠っているガルディエルの顔があった。


 整った彫りの深い顔立ち。今は閉じられた朱を帯びた金色の瞳は、どこか優しさを感じるのはなぜ…?


 シルヴェーラは溜め息混じりに笑って、ガルディエルの額を人差し指ではじいた。


「仕方ない、今晩は一緒に寝てやる。変なとこ触るなよ」


 しっとりと柔らかい月光だけが、ぼんやりと水晶宮を照らしていた。


 不思議だな。怖いとか、気持ち悪いとか、嫌な気持ちを感じない…。


 そっと指でガルディエルの頬を突き、シルヴェーラは少し迷って、唇で頬に触れた。


 気のせいだ。何かの、気の迷いだ。きっと…。


 腕の中は、広くて、思いの外、心地よかった。


「…おやすみ」




      *




『シルヴェーラ』


『なぁに?父さん』


 シルヴェーラの頭を撫ぜる、ごつごつとした大きな手。 刀鍛冶の大きな体。


 父さん、大きくて、強い。あたし父さん好きだよ。


 町はずれの鍛冶屋。母はおらず、一人でシルヴェーラを育ててくれていた父。


 不器用だが、鍛冶師としての腕はアデルバイドの町の誰もが認めていた。


『おまえももう独り立ち出来る歳だ。自分の身は自分で護らなくてはいけない。これを、おまえに渡そう』


 すらりと長い、細身の剣。細工の職人に造らせたのか、細かな細工が施された銀の鞘。


 柄にはめ込まれた水晶は、透き通った吸い込まれそうな蒼。蒼水晶の横に、小さく掘り刻まれた文字は見たこともない古代文字で《蒼真》。


『…剣?』


 鍛冶師の父カインリックは頷いて、シルヴェーラに柄にはめ込まれている大きな蒼水晶を指した。


『これは、お前が記憶を失う前から、大事にしていたものだ。誰にも見せてはいけないよ』


 初めて聞いた話だった。


 記憶を失う前。あたしは、何を大事にしていたんだろう…?


『抜いてごらん』


 元々身体が細く、非力なシルヴェーラに鞘から抜けというのは困難なものだった。


 鞘を足で挟んで柄を握り、やっとのことで剣を抜いたシルヴェーラは、思わず息を飲んだ。


『…綺麗…!』


 寸分の違いもなく鍛えられたその刀身は、陰り一つもなく輝く銀色。


『これはね、父さんがおまえを護りたい一心で鍛え上げた、剣なんだよ。魔に対して、唯一死を与えることの出来る聖剣だ』


 父の言葉も頭の中を素通りしてしまうくらい、シルヴェーラはその剣に心を奪われていた。


 なんて、なんて美しい…!


『名を、蒼真という。どんなことがあっても、蒼真を手放してはいけないよ、シルヴェーラ』


『…ソウマ…?』


 聞いたこともない言葉。なのに、心に響く。


『蒼真を振るえるくらい、強くなりなさい』



  第三章 魔導士



 …蒼真…。


 にぎやかな小鳥の囀りと差し込む朝日で、目が覚めた。


 久々にふかふかとした寝台で眠ったせいで、熟睡してしまったようだ。


 うーん、とシルヴェーラが寝台の上で身体を伸ばすと、ごん、と拳が何かに当たった。


 あっ…昨日はガルディエルと一緒に寝たんだっけ…。


 そろりと身体を起すと、子供のようにすうすうと無防備に眠りを貪っているガルディエルが真横にいて、シルヴェーラは思わず吹き出した。


 こいつ、まだあたしの衣服握ったまんま…。


 昨日から一度も放さず握っているらしく、捕まれた腰の辺りはくしゃくしゃに皺がいっている。


 ガルディエルが起きるまでこのまま待っているのもまずいな…。厚かましく同衾していたなんて…。


 シルヴェーラはガルディエルがぐっすり眠っているのを確かめて、ごそごそと衣服を脱いで寝台から降りた。


 アイシュナが用意していた着替えと蒼真を持って、昨日教えてもらったガルディエルの部屋の隣にある浴室へ向かった。


 黒大理石で創られた艶やかな浴場は、端から端まで泳いでいけるほど大きく、天井は水晶を通して差し込む朝の光に輝いていた。


「いくら資源豊富とはいえ、贅沢だよなー…」


 火山帯があるヴァーゴ国は、周辺の国よりも多く温泉が湧く。 そのため一年中温暖な気候で天候もよい。


 温泉での湯治や、落ち着いた気候で年中咲き乱れる様々な花から取れる香油や蜂蜜、柑橘類を国の産業とすることで、ヴァーゴ国は潤っていた。


 初めてシルヴェーラが口にした塩と柑橘で味付けられた水は、温泉として湧き出るものに特産品の柑橘を絞ったものだという。


 その温泉で満たされた湯槽を足で蹴り上げ、シルヴェーラは大の字になってぷかぷかと浮いていた。 


「まさか、砂漠で乾燥死を覚悟した後で、この温泉での贅沢が待っているとは…」


 次元流砂の転移先が大陸を飛び越えているだなんて。生きているだけでも奇跡だというのに、その先に幸運が待っていたとは。


「さぞ神もびっくりだろう…」


 香りが移るくらい香油の効いた石鹸で髪と身体を洗って、シルヴェーラがご機嫌で脱衣場で身体を拭いていると、壁に填め込まれている銅鏡が目に付いた。


 久しぶりに見た自分の鍛えられた裸体に色気がないと感じながらも、シルヴェーラはくるりと背を向けて振り返った。


「やっぱり、くっきり残ってる…。消えるわけないか、こんな傷…」


 背中に残る爪で抉られたような五本の切傷は、シルヴェーラから過去の記憶を奪った。


 シルヴェーラは覚えてないのだ。この傷より前の記憶は何一つ…。


 父に聞くと、何かに襲われた後、熱で何日もうなされて生死をさ迷ったらしく、記憶がない程度ですんで良かったらしい。


 指でなぞってみても痛みはないが、でこぼことした傷跡は、いつ見ても生々しく消える気配はなかった。


「醜い傷だ…」


 着替えをするりと身に纏い、シルヴェーラは小さく溜め息を吐いた。




 その頃、シルヴェーラが脱ぎ捨てた衣服を握りしめていた自分の手を見て、ガルディエルが何事かと顔から火を噴いていたことを、シルヴェーラは知る由もない。



      *



 その日の午後、シルヴェーラはガルディエルの取り計らいで、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュの宮殿に呼ばれた。


 先日の狩りの途中で、盗賊に襲われたガルディエルを救けたという設定らしい。


 身なりは旅人らしく整え簡素に、肩までの短い髪には少々似合わないが、普段からしている銀糸細工の額飾りをつけていた。


 シルヴェーラの身分を隠すためには、必須のものだ。


 ディアゴ・ヴァルシュは王族と変わらないほどの美しい紫の宮と呼ばれる宮殿に住み、魔導士独特の全身を覆う黒い衣装に身を包んでいた。


 …どういうことだ?いくら王家に仕える特級魔導士とはいえ、この王族と変わらない扱いは…。


「王家に仕える特級魔導士として、礼を言う。面を上げられよ」


 ディアゴ・ヴァルシュに言われて、シルヴェーラは片膝を付いて垂れていた頭を、ゆっくりと上げた。


「…!」


 一瞬、ほんの一瞬。ディアゴ・ヴァルシュの表情が驚きに満ちた。


 ディアゴ・ヴァルシュの髪は薄く淡い茶色、瞳は琥珀。


 確かに、普通の人間としては珍しくない色。


 整った顔立ちだが、人の域を超えているわけではない。


 そして額には、特級魔導士の証の五芒星紋。


 でも、これは…微かな魔の匂い…?


「…望みを言われよ。このディアゴ・ヴァルシュ、グリフライト王とガルディエル王子よりそなたの望み叶えるように言い渡されておる」


 すぐに何事もなかったような表情に戻ったディアゴ・ヴァルシュを、シルヴェーラは見逃すはずがなかった。


「…はい、私はしがない旅の剣士。路銀が尽きていたのを王子が知り、水晶宮に招いてくださいました。今しばらくここに留まることをお許し願います。後の旅の路銀は、滞在中に街で働くつもりです」


 名も名乗らないシルヴェーラの望みを聞いて、ディアゴ・ヴァルシュは不思議そうに切れ長の目を細めた。


「おかしなことを言う。欲ある者ならば、一生暮せるほどの金を要求するものを…」


 大体の台詞を計算して、対応を考えていたシルヴェーラは、すかさず言葉をつないだ。


「私は旅をしてこそ生きる者。きっと死ぬまで同じ所に留まることはないでしょう。これもなにかの由縁、旅の話にもなるでしょう。どうか滞在のお許しを…」


 一瞬ディアゴ・ヴァルシュがにやりと笑みを浮かべ、シルヴェーラを射抜いた。


 …なんだ?今の笑みはまるで、獲物を手中に収めたような…。とても、嫌な笑みだ…。


「良かろう、そなたの願いを受ける。王子が許すかぎり、滞在するが良い」


「ありがとうございます」


 とりあえず作戦第一歩成功、と内心ほっとしながら頭を下げた。


「ではこれで失礼する。宮殿の結界強化の時間だ」


 黒い衣服の裾を翻し背を向けたディアゴ・ヴァルシュを、シルヴェーラはじっと見つめていた。


 どこまでも冷たい気配。同じ魔導士といえど、なぜあんなに差があるのだろう…。



      *



「シルヴェーラ!」


 王宮の敷地内を歩いて水晶宮に向かう途中、大きな常緑樹から声が降ってきた。


「ガルディエル?」


 ふと見上げた途端、ばさばさっと枝を揺らし、ガルディエルが飛び下りてきた。


「王子が木に昇って、怪我でもしたらどうするんだ?」


 目立つ緋色の装束を着ていないガルディエルは、まだ完全に少年を抜け出せていない瞳で、屈託なく笑った。


「剣の腕はいまいちでも、木登りで怪我したことなんて一度もないぜ。子供の頃の逃げ場所だったんだ、この樹。ここは人通りが少ないし、上に昇っちまえば葉で下からは見えないんだ。ああそうだ、預かってた相棒…」


「それはあとだ」


 ただの剣士ということにしておいたので、聖魔剣士の証であるメルカルスの印の入った金の指輪と銀糸の包み、魔除けの銀の細工が一際目立つ蒼真を、嫌々ながらガルディエルに預けておいたのだ。


「水晶宮に帰ってからの方がいい。何か変わったことはなかったか?」


「いや、特には何も」


 頭一つ分ほど身長差のあるシルヴェーラは、ガルディエルと並んで水晶宮に向かった。


「特級魔導士になると大抵遠視の力はあるんだ。不思議と水晶は媒体としては遠視に力を貸すけど、遠視による覗きの力は弾くんだ」


「そうなんだ。だから昨日の俺たちのことはばれてなかったのか」


「まあ、それだけではないけどな」


 急ぎ足で水晶宮に着くと、シルヴェーラは徐にガルディエルから指輪と蒼真を受け取った。


「いつも身につけてるんだな、その聖剣」


 銀糸で織あげた包みに入った蒼真を覗き込んで、ガルディエルが言った。


「聖剣と聖魔剣士は一心同体だ。それにこの蒼真は、親父が鍛えあげたものだ。唯一の形見を、片時も手放すわけにはいかない」


「ソウマ?それに、形見って…」


 言ってからはっと気付いて、シルヴェーラは少し微笑んで蒼真を握り締めた。


 なぜだ?警戒心を抱かないのは、あたしも同じだ…。


「古代語で蒼真、こいつの名前だ。親父はこいつを鍛えあげてから原因がわからないまま床に伏して、弱っているところを妖魔に殺された。正義感の強かった親父の魂は、妖魔にとって絶好の生の糧になった」


 三年前、父を無残にも食した後、シルヴェーラにも手を出そうとした妖魔は、シルヴェーラの手の蒼真を見て、逃げだした。


 悔しかった。聖剣を持っていながら、恐ろしくて動くことすら出来なかった自分が。


 自分が振るうことが出来なければ、聖剣も能力を発揮することができない…。


 そうして、シルヴェーラは聖魔剣士になるために修業を積んだ。


 どんなに腕のいい鍛冶屋でも、一生に二度聖剣を鍛えることは出来ない。


 命をとして、出来上がるのが聖剣なのだ。


 全身全霊の願いを込めて鍛えあげた聖剣は、想いが強いほど能力を増すという。


 父がどれほどの想いで創ったなんてわからない。


 ただ、自分の命を削り取ってまでシルヴェーラのために聖剣を鍛えてくれたことに、何か報いたかった。


 蒼真が聖剣として認められてしまえば、聖魔剣士としてシルヴェーラ自身が登録をしなければ蒼真を剥奪されてしまう。


 鍛冶師である父の遺言によって第一の持ち手となったシルヴェーラは、聖魔剣士となることを決めた。


 そして聖魔剣士になった今、あの時親父を襲ったのが、ただの低級妖魔の仕業とわかり、どれほど怒りを覚えたことか。


 蒼真の銀色に光る刀身に触れるだけで、砂塵と化す程度の輩に、みすみす親父を殺されたなんて…。


「大変、だったんだな…」


 ガルディエルがぽつりと呟いて、片手でぐいっとシルヴェーラの頭を引き寄せた。


 不意をつかれて、シルヴェーラはそのままガルディエルの胸に顔を埋めてしまい、慌てて離れようとした。


「シルヴェーラよりずっと甘ちゃんで、頼りないけど、一応俺だって年上だし、男なんだぞ。言いたいことがあるなら、いくらでも言えよ。愚痴ぐらいいつでも受け止めてやる」


 今まで父とある人以外に受けた事がない優しさに、シルヴェーラは思わずガルディエルの胸元の衣服を握り締めた。


「やめてくれ…こんな、優しくなんてしないでくれ…」


 父が死んでから、一度だって泣いたことなんてなかった。


 生きるために精一杯だった。ただ自分を強くするためだけに…。


 ぐっと力を入れて離れようとしたシルヴェーラを、ガルディエルはしっかりと自分腕の中に抱き締めた。


「辛い時は、誰かに甘えればいいんだ。頼る奴がいなければ、俺に頼ればいい。その時は、依頼や仕事の話は抜きだ。俺は自分の意志で、シルヴェーラの力になる」


 ガルディエルに耳元で囁かれて、シルヴェーラは涙こそ出なかったものの、その腕の中で小さく肩を震わせた。


 背中に回されて微動だしないガルディエルの手が驚くほど熱く、シルヴェーラは不思議と安堵すら覚えながら、今まで忘れていた感情をふと思い出した。


 人を信じるのも、悪いことじゃないのかもしれない、と…。



 第四章 蒼真



 妖魔の群れが襲ってくる。 四方から一斉に。


 恐い、恐い…!


『シルヴェーラ!怯むな!おまえには蒼真がある!恐れず切り掛かれ!』


 旅の途中で出会って一緒に行動するようになった魔導士デュマは、結界を張りながらシルヴェーラの背中を押して言った。


『デュマが結界を張っている。大丈夫、やられはしない!』


『でも、結界が破れたりしたら!』


 シルヴェーラはそれまで順列五位の鉄の聖魔剣士として、ギルドでぎりぎりで生き長らえていた。


 一人になり、デュマと出会い、指南することでようやく順列四位の銅の聖魔剣士となったばかりのシルヴェーラは、妖魔の群れは足がすくむほど恐ろしい光景でしかなかった。


『デュマは上級魔導士だ!妖魔ごときに結界を破られたりはしない!デュマを信じろ!シルヴェーラ!』


 信じる…?人を、信じる?


 その言葉にぞっとして、シルヴェーラはびくりと身体を震わせた。


『嫌だ!』


 拒絶とも言えるような叫びに、デュマはふと訝し気な表情をした。


『どうした、シルヴェーラ?』


 己に向けて伸ばされたデュマの手を振り払って、シルヴェーラは血を吐くように怒鳴った。


『嘘だ!人は信じろなんて言って、すぐに裏切る!自分の命や欲望のために、信用を逆手にとって!信じられない…人なんて、信じない!』


 噓、裏切り、見返りの要求、果たされない約束…。


 人は信じてはいけないもの、信じれば裏切るもの。


 旅に出てから、シルヴェーラの身体がそう覚えていた。


 シルヴェーラを覗き込んでいるデュマの翡翠色の瞳が、瞬く間に悲しみに満ちた。


 デュマはふっと目を伏せると、片手を払った。


『妖魔が…!』


 たった今まで醜悪な集団が取り囲んでいたというのに、デュマの強い魔導で一掃したように消えた。


 なんて力!今までこんなすごい魔導、見たこともない!


『シルヴェーラ…』


 突然、デュマに肩を捕まれた。


『デュマが、裏切ったことがあったか?見返りを要求したことがあったか?デュマは裏切らないし、見返りもいらない。シルヴェーラを一人にはしておけないから、一緒にいる。シルヴェーラが思うように、強くしてやりたい。側にいて出来るかぎりのことを教える。

 デュマは、シルヴェーラを信頼しているし、とても大切に思う。なぜデュマを信じない?デュマは、カインリックと約束した。シルヴェーラが立派な剣士になるまで、デュマが面倒を見る、と』


 屈んでいるために、肩から滑り落ちてくるやわらかな亜麻色の髪が、光に透けて金色に見えた。いつも、真っすぐに見据える瞳は翡翠。


『父さん、に…?』


 十四で父を亡くし、マグノリア大陸カプリコンの小国アデルバイドで蒼真を手に、一人残されたシルヴェーラは途方に暮れていた。


 鍛冶は女子供では継ぐことはできない。それはわかっていた。


 問題は手元に残された蒼真だ。聖剣とは聖魔剣士になって初めて持つことが出来るものだ。


 残された聖剣である蒼真を手放さずに済むためには、聖魔剣士になるしかないと知識として得たことで、シルヴェーラの人生は決まった。


 店をたたみ、わずかな路銀を手に旅に出たシルヴェーラがデュマと出会ったのは、半年がすぎてからだった。


 それまで剣士として養成してきたわけではないシルヴェーラは、旅の途中で順列五位の見習いの鉄の聖魔剣士として、隣国リドシウムの魔物退治ギルドに所属することで辛うじて蒼真と離れずに過ごしていた。


 何もできない素人剣士にしては立派すぎる聖剣を持つシルヴェーラに、仲間は羨望と嫉妬、憎悪を滾らせていた。


 その代償として、シルヴェーラは仲間の裏切りあい、仲間に襲われるという信頼と大きすぎるものを失った。


 半年で他人を信用できなくなったシルヴェーラは、仲間に触れられて輝きと力をなくした蒼真と共に死ぬ覚悟で、リドシウムのギルドを抜けた。


 そしてリドシウムの森で単身となり、初めて複数の妖魔に遭遇し死を覚悟したとき、デュマに救われたのだ。


 亜麻色の髪、翡翠色の瞳。


 太陽を背にした姿は、黄金色の髪に。翠玉の瞳に。


 輝かしいその美しい姿に、絶対的な力。


 ティファ・ビシシェナエント―――!


 初めは、天界から舞い降りた最高神が救けてくれたのかと思った。


 その神話の最高神に酷似した、人としてはあまりに美しすぎるデュマは、シルヴェーラの手にあった輝きも力もなくしていた蒼真に触れた。


 たったそれだけで、シルヴェーラの心が晴れるかのように、蒼真は光輝き力を取り戻した。


 それまでどうすれば蒼真の汚れが払えるかわからなかったシルヴェーラは、心からデュマに感謝してやまなかった。


 言葉に、行動に、すべてに、優しさがあふれていて、いつもシルヴェーラを驚かせた。


 旅に出てから、人を信じるということを禁じた心に、少しずつ、少しずつ温かさを教えてくれた…。


 デュマと出会い、シルヴェーラは剣と魔導の指南を受けた。


 半年見習いだった剣の腕はすぐに順列四位の銅となり、デュマを師として魔導士登録をし、順列五位の見習い魔導士、雫紋となった。


『カインリックに約束した。カインリックはデュマの親友だ。親友の約束を反故にするなんて、デュマには出来ない。だから、デュマを信じてくれ、シルヴェーラ…。迎えが遅くなってすまなかった。心に傷を負わせてしまって…カインリックになんと謝ればいいのか』


 強大な力を持つ魔導士でありながら、未だに純粋な瞳のままのデュマは、謝罪するように呟いた。


 ああ、神よ…ティファ・ビシシェナエントよ…。


 デュマと出会うまで、神などいないと信じて疑わなかったのに。


『…ごめん、なさい…デュマ…』


 父以外に、初めて心を許した人だった。



      *



「シルヴェーラ…シルヴェーラ!」


 ゆさゆさと肩を揺さ振られて、シルヴェーラははっとして身体を起した。


「…ガルディエル!?」


 目の前にはガルディエルの心配そうな顔があった。


 よく辺りを見ればガルディエルの部屋で、シルヴェーラは彼の寝台に寝かされていた。


「…いつのまに?ああ、あの時力が抜けて…」


 人の腕の中で安堵するなんて…それも親父や、デュマ以外の人に…。


「ごめん、よく眠ってたんだけど、眠りながら泣くもんだから気になって…」


 ガルディエルの言葉が言い終わらないうちに、つうっと涙がシルヴェーラの頬を伝って手の甲に落ちた。


 夢、だったんだ…離れてもう一年にもなるのか…デュマ…あたしを置き去りにして…。


「…シルヴェーラ?どうしたんだ?」


 シルヴェーラは慌ててぐいっと手の甲で涙を拭うと、蒼真がないことに気付いた。


「蒼真は!?」


 今にも掴みかからん勢いでガルディエルに尋ねると、ガルディエルは呆れたように手に持っていた銀糸の包みの蒼真をシルヴェーラに渡した。


「俺が預かってた。何も触ってないから安心しろ」


 シルヴェーラはガルディエルの言葉を信じ、ただ蒼真を強く握り締めた。


「…デュマって、誰?」


 唐突な質問に、シルヴェーラはぎくりとして危うく蒼真を落としそうになった。


「…寝言でも、言ったか?」


 思わず口元を覆うシルヴェーラに、ガルディエルは素直に頷いた。


「何か他にも言ってたみたいだけど、聞き取れなかったんだ。デュマって言葉以外は」


 くそ、寝言じゃ自制も出来ないし、どうしようもないな…。


 シルヴェーラは自分を殴りたい気分で、少しうつむいてぼそりと言った。


「命の恩人、兼あたしの魔導の師だ」


 無理に隠そうとは思ってないのに、話そうとも思わない過去がガルディエルの雰囲気にのまれて、どんどん流されてしまうような気がする。


「これが証だ」


 銀糸の額飾りを指輪の付いた左手でそっとずらすと、ずっと隠していた望月紋が現れた。


「望月紋!上級魔導士だったのか!」


 ガルディエルが感嘆の声を上げた。


 魔導士の階級は六つ。


 見習いは雫紋、初級は三日月紋、中級は半月紋、上級は望月紋、特級は五芒星紋、最上級は六芒星紋。六芒星紋は一人しかおらず、事実上階級は五つである。


 最上級魔導士を大魔導士とも呼ぶ。


  …もう忘れたいことだってあるのに…。


「親父を亡くし修業に出たばかりのあたしを妖魔から救けてくれ、その後二年間一緒に旅をした。デュマは魔導士で、あたしの剣の稽古をしてくれながら、魔導を指導してくれた。あたしが聖魔剣士と魔導士として独り立ちできると認められた時、この銀糸の蒼真の包みと額飾りを残していなくなった。それ以来、一度も会ってない…」


 黙っていると深く突っ込まれそうなので、大雑把に説明を付け加えた。


 シルヴェーラが一人前の剣士と魔導士になるまで、とデュマは言った。


 でも、正式に銀の聖魔剣士と半月紋の魔導士の称号が与えられた直後に、蒼真の包みと額飾りを残して一人で旅に出るなんて…。


「魔導士デュマって…まさか、あの大魔導士デュマ・アルセウス!?」


 さすがに知識はあるらしく、ガルディエルはすぐに気付いた。


 今のところ生きて大魔導士と呼ばれているのは、デュマ・アルセウスただ一人だ。


 死後に階級を上げる叙勲もあるが、それは正しい力の功績ではない。


「そう、あのデュマだ。魔導士の頂点とも言われる、最上級魔導士デュマ・アルセウス。ただ、あたしがそれを知ったのは、デュマと別れた後だった。デュマは階級を見せずに額飾りで隠していたし、ギルドや魔導士協会で行方を探してはみたが一向に掴めなかった」


 シルヴェーラはふっと視線を落とすと、デュマが残してくれた銀糸の包みをそっと撫ぜた。


 シルヴェーラが蒼真を大切にしているのを知っていたデュマは、銅以上の聖魔剣士になった暁には蒼真の包みを作ってやる、といつも言っていた。


 まさか、額飾りとお揃いのこんな銀糸の高価なものをくれるとは思っていなかったけれど…。


「すごいな、あの噂の大魔導士が師なのか。マグノリア大陸の三指に入る聖魔剣士が、上級魔導の資格まで持っているとなると、十分四大陸に通用するぜ」


 尊敬するような眼差しを向けるガルディエルに、シルヴェーラは低い声で釘を刺した。


「今話した事ついては、一切口外するな。デュマや蒼真などの単語を洩らすことも、許さない。いいな?」


「どうして?何か都合悪いのか?」


 世間に関してはとことん疎いらしく、ガルディエルはきょとんとしてシルヴェーラに尋ね返した。


 つくづく甘ちゃんな王子様だな…。


 こういう奴が、可愛い面した腹黒い女にコロッと騙されて、王宮が滅びる原因を作ったりするんだ。


「いいか?世界には金が有り余っていて、珍しいものが好きな商人や王が結構いたりするんだ。聖剣のことがそんな奴の耳に入ってみろ。金に物を言わせて強奪しにくる奴だっていくらでもいるんだ。それも蒼真はかなり強い力を持っているし、この銀糸の包みは大魔導士デュマ・アルセウスが力を込めてくれたものだ。価値としては、この水宮殿といい勝負だ」


 世の中本当に馬鹿で阿呆の金持ちとやらはいるもので、どれほどこの蒼真を手にしたい、とシルヴェーラの元へ訪れた下衆がいたことか。


「今まで、狙われたことがあったのか?」


「数えきれないね。金を積んで交渉にくる奴はまだまともな方さ。とんでもない奴になると、落ちぶれた剣士や武道家を雇って襲ってくる」


「…襲われたのか?」


「ああ。一度、大男にふっ飛ばされて力ずくで奪われたことがあった。蒼真は邪な心を持った奴に触れられて、輝きと力をなくした。そいつは怒って蒼真を凍える湖に放り投げちまった…。食料を調達に行っていたデュマが帰ってきて、魔導で蒼真を取り戻してくれるまでの数分間…気が、狂いそうだった…。


 当時のあたしはまだ見習いの雫紋でしかなくて、雫紋は半月紋以上の魔導士が隣にいなければ、魔導を発動できない。だから、剣士としても、魔導士としても強くなると誓った」


 蒼真を胸に抱いたまま、シルヴェーラはぎゅっと両腕を掴んだ。思い出すだけで、発狂しそうだった。


 あんな汚らわしい奴に、蒼真を奪われたなんて。己れの力なさにさえ、腹立たしい!


 邪な心を持つ他人に触れなければ汚れることはないのだが、その一件以来、シルヴェーラは片時も蒼真を手放さなくなった。


 そんなシルヴェーラを心配して、デュマは汚れを防ぐ銀糸の包みを贈ってくれたのだ。


「…命に代えても、蒼真を汚し奪う奴は、許さない」


「命に代えても?」


 最後の台詞をガルディエルが繰り返して、訝し気に首を傾げた。


「蒼真が大切なのはわかるけど、蒼真のために命をかけたら、蒼真の主がいなくなるじゃないか」


 ガルディエルの素直な答えに、シルヴェーラはくくっと喉を鳴らした。


「あたしは死なない。蒼真のためにも、自分のためにも。そして、蒼真を鍛えてくれた、親父のためにも…。生まれ変わっても、蒼真の元へ戻ってくる。必ず」


 ただ、特別に護る人はいない。だから、今あたしの側にいる人だけでも、この手で護ってやりたい…。


「…蒼真を、見せてくれないか?」


 ガルディエルの呟きに、シルヴェーラはふと眉根を寄せて目をやった。


「見せる?蒼真を…?」


「いや、その、まだ聞いたことしかなくって、その、一度見てみたいなって…いや、いい。ごめん、シルヴェーラの大切なものだもんな…」


 睨んだわけでもないのに、ガルディエルは一人で慌てて、勝手に結論を出して肩を落とした。


 シルヴェーラは黙ったまま、手の中の蒼真の銀糸の包みを解いた。


「…シルヴェーラ?」


 柄の蒼水晶は決して人に見せてはならない、と父に言われたのを思い出して、シルヴェーラはしっかりと蒼水晶を上から握り締めた。


 銀の装飾が美しい鞘ごと包みから出すと、すらりとその細く長い刀身を引き抜いた。


「す、げぇ…」


 ガルディエルの声が驚きのあまりに低くかすれて、それ以上の言葉はなかった。


 輝く刀身は白銀。寸分の曇りもなく、蒼真は銀色の光を放っていた。


「聖剣はその持ち手が少しでも邪にかられた心を持つと、刀身の輝きと力をなくす。自分の心を試す勇気があるなら、蒼真の刀身に触れてみろ」


 今のシルヴェーラなら、精霊と魔導を行使すれば汚れた蒼真も元に戻すことが出来る。


 これは、賭だ。もし蒼真が輝きをなくしたら、あたしは契約を破棄して旅に出る。


 もし輝きが増したなら…どんなことがあっても、あたしは必ずガルディエルの力になる。


「俺の心…試してやる…」


 ガルディエルが息を飲んで、そっと蒼真に手を伸ばした。


「俺は邪な心なんて持っていない!」


 手が、蒼真の刀身に触れた。


「うわっ!?」


 ガルディエルの触れた部分から銀色の光が発し、シルヴェーラは思わず手を翳した。


 蒼真が、輝きを増した!


「…光が…!?」


 蒼真がこんなに輝いたことなんて、デュマ以来だ…。


 本当、ガルディエルの人の良さが現れてるな…。


「…合格だ。蒼真は、おまえが気に入ったらしい」


 輝きに目を細めるようにして微笑むと、ガルディエルは驚いたように目を丸くした。


「どうかしたのか?」


 シルヴェーラが不信に思って尋ねると、ガルディエルは人好きのする笑顔を、満面に浮かべて言ったのだ。


「だって…シルヴェーラがそんなふうに笑ったの、初めてじゃないか…。そんな、嬉しそうな笑顔なんて…」


 シルヴェーラははっと口元を覆うと、ふいと顔を背けた。


 今までこんな気持ちになったことなんてなかったのに!


「シルヴェーラ?」


「見るな!」


 こんな…こんな感情を剥出しにするなんて、あたしじゃない!


 カッと耳まで熱くなって、シルヴェーラははぐらかすように顔を背けて蒼真を鞘に収めた。


「あのさ、無理に冷静に繕わなくてもいいと思うんだ、俺は…。シルヴェーラは、本当はすごく表情豊かなのに、隠しすぎるんだよ。だから、今みたいに笑ってくれよ。シルヴェーラは、笑った方が、その…可愛いと思うよ、俺」


 恥ずかしい台詞を照れなら言うガルディエルに、シルヴェーラは呆れる反面、羨ましく思った。


 ガルディエルは、なんて自分に素直なんだろう、と…。


 自分が意図して失くしてきたものを、今更ながらに気づかされる。


 これなら、蒼真にも気に入られるはずだ。


 たぶん、心はあの優しい瞳のデュマと同じくらい純粋なんだ…。



   第五章 蜂蜜亭



「へえ、これが城下町…!」


 上ずる声を上げたガルディエルに、シルヴェーラはどすっと肘で脇腹を小突いた。


「おとなしくしろ、ガル」


「いたた…もうちょっと、優しくしてくれ、シルヴィ」


 いたっていつも通り男性用の剣士の衣服を着たシルヴェーラと、目立つ蜂蜜色の巻き毛を頭に巻いた布できれいに隠した、同じく剣士の衣服のガルディエルだ。


 開店休業のギルドを見に行くと言ったシルヴェーラに、どうしても一度でいいから城下町に行ってみたいとごねにごねたガルディエルが同行したのだ。


「なんで普通に女性の服装をしないんだ?並んで歩くなら、不信感抱かれないんじゃないのか?」


「ギルドに行くのに普通の女性がのこのこ顔を出すわけないだろうが。おまえは何をしに付いてきたんだ?」


 腰に挿した剣をポンと叩かれて、ガルディエルは「見てみたかっただけだよ」とぼやいた。


「地図の上では、この通りを過ぎて、右だったな」


 下調べで地図は確認してきたシルヴェーラだったが、いきなり王宮に入ってしまったきりで街へ出るのはこれが初めてだった。


「へえ、思ったより栄えてるな。今まで見てきた中で、一番の城下町だ」


「そうなのか?シルヴィはどれくらいの国を回ったんだ?」


「マグノリア大陸なら、半分は」


「すごいな。今度ゆっくり聞かせてくれよ。いつも剣の稽古ばかりじゃくて」


「おまえが契約したのは、剣の稽古だろう?まあ、他国の情勢を知っておくのも悪くはないが…」


 …思ったより箱入り王子だな。外交なんかには出てないのか。


 にぎわう大通りを歩いていた二人に、小走りに走ってきた若い男がぶつかった。


「気をつけろっ」


 苛立ったように言い捨てた男を、シルヴェーラはぐいと腕をひねって締め上げた。


「気を付けるのはどっちだ?」


「い、いてえっ」


「その男、捕まえて―!」


 男が走ってきた方から、女性の声がした。


 どうやらすりでもしたのだろう。よく前も見ずにシルヴェーラにぶつかったようだ。


「捕まえて、と言っているぞ?」


 一見華奢に見えるシルヴェーラに簡単に腕を掴まれ、男は身動きできず驚いていた。


「放せっ、おい、女っ!」


 …この男、ムカつく。


「ガル、街中に衛兵はいないのか?」


「いないことはないはずだが、どこに駐屯しているかまでは、把握していないな。すまん」


「放せよ、この男女っ!」


 すり男以上に苛立ったシルヴェーラが、締め上げた男の手の関節をばきっと外した。


「ぎゃあああっ」


 放り出されてのたうち回る男の懐を探り、結構重い金子袋を取り出すと、追いついた若い女性に手渡した。年頃はシルヴェーラと同じくらいだ。


「すられたんだろう?」


「は、はいっ!お店の買い出しに出て、すぐに…ありがとうございます!」


 くせのある赤毛の女性は、頬を染めて頭を下げた。


「助かりました!これがなかったら、今日お店が開けないところでした。よかったらお礼に、うちのお店に来てください。ごちそうします!蜂蜜亭っていう食堂してます。王子様の髪の色と同じ!帰りに寄ってください!わたし、アスターシャといいます」


「わかった、後で寄らせてもらおう」


 にこりと笑ったシルヴェーラにぺこぺこと頭を何回も下げ、アスターシャは買い出しに戻った。


「おい、何事だ!」


 人ごみをかき分けて、衛兵やってきた。遅い到着のわりには偉そうな態度に、シルヴェーラは呆れてふいと顔を背けた。


「すりを捕まえて、ちょっと懲らしめただけだ。周りが証人だ。連れて行ってくれ」 


「なんだおま、え、は…ああっ!!」


 代わりにガルディエルが答えると、途中で衛兵の声が大きくなった。


 あ、ばれたな…。どうする?ガルディエル。


「黙って!内緒だから!」


 声を上げかけた衛兵を口を抑えて、ガルディエルがひそひそと耳打ちした。


「はい、はいっ!承知しました!ではっ!」


 どうしたものかと、様子を見ていたシルヴェーラはガルディエルがうまく言いくるめた手腕に感心していた。


 なんて言ったんだか。やるじゃないか。王宮育ちの純朴王子様だと思ったけど…。


「待たせたな。行こうか」


 ついと肩を抱くガルディエルの手をぺしっと叩いて、「逢引きじゃないんだぞ」と睨みつけた。


「王子様の髪の色と同じ蜂蜜亭だって。おまえの追っかけだったりしてな」


 わざとツンとしてそう言ったシルヴェーラに、ガルディエルの顔色が変わる。


「な、なんで俺の髪色がばれてるんだよ!?」


「おまえの国の国民だろうが。知ってて当然だろう」


「そ、そうか…俺、王子だったな…」


「自覚がなさすぎるぞ、ガル」


 肩をすくめて半ば呆れながら、シルヴェーラはガルディエルと通りを右折した。途端に、人が少なくなる。


「シルヴェーラ、あそこじゃないか?」


「名前を呼ぶな、ガル」


 咎めようとして、指差された先を見て、シルヴェーラは足を止めた。


 かつて人がいたのはいつのことかと疑いたくなるほどの、荒廃ぶりの建物。


 煉瓦と木の組み合わせで出来てはいたが、扉もなく、窓も割れて人がいないのは一目でわかった。


「放置されてずいぶん経っているな。徹底的に聖魔剣士も魔導士も追い出したってわけか」


「なぜだ?」


「ギルドを残しておくと、あたしみたいに何も知らない異国の者が登録に来るだろう?それすらさせないために、つぶされたんだよ。誰かにな」


 だれ、とは言わずシルヴェーラは言葉を濁した。


「そうか、なら収穫はなさそうだな」


「ないことはない。ギルドが稼働していないってことは、妖魔は出没しないようだな。問題はすりがうろちょろしてることだ。街の警備はもう少し手を入れた方がいいぞ。女子供には危ないからな」


「ああ、俺もそう思う。父に進言しておこう」


 街の衛兵も王子がお忍びで現れて、今頃さぞかし慌てているだろう。平和惚けした国にはいい刺激だ。


「さて、思った以上に予定が早く済んだな。蜂蜜亭に寄るまでにどこか行きたいところはあるか?」


 ひとりなら適当に武器商など回るところはあるんだがな…。さすがにガルディエルを連れてあまりうろつくわけにもいかないし…。


「行きたいところ…ひとつあるんだが…宝飾店、でもいいか?」


「宝飾店?かまわないが、王宮にいてまだ足りないものがあるのか?」


「まあ、そんなところだ」


 言葉を濁したガルディエルに、シルヴェーラは呆れて肩をすくめてみせた。


 贅沢なもんだ。普段あれだけ身に着けていて、何が欲しいんだか…。


「さすがに場所を覚えてないから、大通りに戻るか」


「大丈夫だ。俺がなんとなくだが、覚えてる」


 来た道を戻りながら、ガルディエルがシルヴェーラの手を引いた。


「大通りのもっと先に、店があるはずなんだ。行こう」


「ちょっと、手…」


 離せ、と言いかけて、シルヴェーラは言葉を飲み込んだ。


 今だけ。ほんの少し。まあ、いいか…。


 少しの間手を引かれていたが大通りまで戻るとさすがに人目が気になり、シルヴェーラはガルディエルから手を離した。


「なんで手を離すんだ?」


「いいか、あたしは男装だ」


「…そうだったな」


 渋々の体でうなずいて、それでもガルディエルは街歩きが楽しい様子だ。


 …初めての王子の休日か。記念になっていいか。


 城下町の大通りだけあって、午前中から店はほとんど開いていた。


 食べ物を売っている屋台では、男たちがにぎやかに飲み食いしていた。


 野菜や果物を売っている元気な市場。たくさんの花束を売っている花屋。特産の蜂蜜屋。温泉から取れる塩や調味料を売る店。


 香油やせっけんを扱ういい香りのただよう、女性客が集まるかわいい店。生地の良い服飾を扱う店。


「そろそろだな」


 一通り店が出てきたところで、窓から飾られた銀細工が見える店があった。


「銀細工、銀の葡萄だって。入るか、シルヴィ」


 ガルディエルは再びシルヴェーラの肩を抱いて、屋号になっている銀色の葡萄が飾られている店の扉を開けた。



     *



「いらっしゃいませー!あ、あなた方は!」


 昼を回った頃、二人は蜂蜜亭の扉を叩いた。元気な声がして、アスターシャが振り返った。


「寄らせてもらった。昼をもらってもいいか?」


「もちろん!好き嫌いがなかったら、うちのおすすめでいいかしら?」


 前の客の皿を下げながら、アスターシャはシルヴェーラとガルディエルに中央の円卓を勧めた。


「あと、葡萄酒をもらおう」


「上機嫌だな、シルヴィ」


「今くらいいいだろう?」


 めずらしく上機嫌のシルヴェーラに、ガルディエルが安堵の表情で問いかけた。


「気に入ってくれたみたいで、安心したよ」


「…嬉しかったのは、本当だ」


 礼を言ったシルヴェーラの両耳には、銀製の葡萄の房の耳飾りが煌めいていた。

 

 銀の房に混じり、紅玉と蒼玉とがそれぞれ一粒ずつ。元々は銀製の房だけだったものに、ガルディエルが特注で作らせたものだった。


 どうしても紅玉と蒼玉の宝石を入れたいと、ガルディエルが譲らなかったのだ。


 そしてそれを誰に贈るのかと眺めていると、ガルディエルははにかみながらシルヴェーラの耳にそっとつけたのだ。


 ——今日のお礼だ。受け取ってくれないか?


 ガルディエルの持つ王家の緋色に、あたしの、瞳の色…。


 なぜだかそれが、言葉にできないほど、嬉しくて。


 装飾品など興味なかったはずのシルヴェーラが、生まれて初めて耳飾りを贈られて、とてつもなく嬉しかったのだ。


「少し、落ち着かない気がするがな…」


 左耳の葡萄の房を指でいじり、シルヴェーラがはにかんだ。


 戦うときは、邪魔かもしれないけど…たまにつけるくらい、いいか。


「似合ってるよ、シルヴィ」


「仲がいいんですね」


 アスターシャが葡萄酒を持ってやってきて、「どうぞ」と玻璃の杯を置いた。


「かわいい耳飾りね。とても似合ってる。蒼玉はあなたの瞳の色ね。紅玉は、何の意味なの?」


「俺の気持ちだよ」


「まあ…」


 ガルディエルの言葉に照れたアスターシャが、ふふっと笑ってシルヴェーラの肩を叩いた。


「よかったですね」


「…なんのことだ?」


 意味がわからず訝し気な顔をしたシルヴェーラに、アスターシャが「ええっ!」と声を上げた。


「この国で紅いものを贈って自分の気持ちだと言ったら…」


「彼女は、異国の人だからね。知らなくてもいいんだよ」


 ガルディエルがいたずらっぽく唇に人差し指をあてて、アスターシャにそれ以上言わないように止めた。  


「だから、どういう意味なんだ?」


「そのうちわかるさ」


 機嫌よく葡萄酒の瓶を持ったガルディエルが、シルヴェーラの前の杯に注いだ。


「お、おい、ガル…おまえが注ぐことはないんだぞ…」


 一国の王子が旅の聖魔剣士に酒を注ぐなど、聞いたこともない。


「俺だって酒くらい注ぐさ。気にするな」


「じゃあ、おまえのはあたしが注ごう」


「あ、えっと…」


 困ったようなガルディエルから葡萄酒の瓶を受け取って、シルヴェーラが杯に注いだ。


「乾杯」


 シルヴェーラが杯を上げた瞬間、息をひそめていた店中の客がわっと歓声を上げた。


「おめでとう!」


「おめでとう、やったな、兄ちゃん!」


「よかったな!俺たちが証人だ!」


「よかったですね!求婚成功されて!」


 どうやら途中からガルディエルとシルヴェーラのやり取りを聞いていた客たちは、ガルディエルが求婚したことに気づいていたようだ。


「…え、えええええっ!?」


 赤面したシルヴェーラがゴン、と杯を円卓に置いて、雄叫びを上げた。


「ちょっと待て、あたしはそんなことは知らん!!無効だー!!」



 シルヴェーラの叫びは、客たちの歓声によってかき消された――。




 第六章 聖女



「でやあああっ!」


 ガルディエルの振り降ろした剣を横に向けた剣で受けて、弾き返すのと同時にシルヴェーラはガルディエルに向かって振り降ろした。


「くそっ!」


 ギイィイイン、と鈍い振動が腕に伝わってきて、指先を痺れさせる。


「腕上げたじゃねーか!」


 ガルディエルが払った剣を後ろに下がって避けて、シルヴェーラは防具の奥でにやっと笑った。


「そりゃ、師範がいいからだろ!」


 ガキッ、と顔の前で十字に合わさった剣を、シルヴェーラはすいっと力を抜いて横に流した。


「うわっとっと!」


 ガルディエルがよろめいて、慌てて体勢を直して剣を構えた。


「誉めたって何もねーぞ!かかってこい!」


「ちっ!」


 短く舌打ちしたガルディエルが、すっと膝を落として剣を横に払った。


 いい攻撃!


「まだまだ!」


 ガルディエルの剣をはじき、シルヴェーラは身体をひねった。


「ほら、がら空きだぞ!」


「空いてねえよ!」


「空いてるって、言ってる!」


 空を舞って、シルヴェーラの足が軽くガルディエルの胴を蹴る。


「がはっ!」


 苦し気にうめいて、ガルディエルがゲホゲホとむせた。


「おい、そんなに力は入れていないはず…」


「くそっ!」


「ぐっ!」


 一瞬気を抜いたシルヴェーラは、ガルディエルが苦し紛れに払った剣をまともに腹部に食らってよろめいた


「シルヴェーラ!?」


 体格差を考えて防御の魔導を施していた防具のおかげで、衝撃はほとんど吸収していた。


 見た目ほどの衝撃はなかった。


「…大丈夫だ」


 シルヴェーラは一瞬ふらつたものの身体につけた防具を脱ぎ捨てた。


 そのまま休憩するように、壁に背を預け座り込んだ。


「馬鹿力め!」


 危なかったと安堵しながら、シルヴェーラは心配そうに覗き込んでいるガルディエルに向かって言った。


「なんて情けない表情してるんだ。防御がなければこのあたしをふっ飛ばしていたんだぞ?少しは喜べ。反射力と攻撃力が付いてきた証拠じゃないか」


 ガルディエルはほっとしたように笑みをこぼして、シルヴェーラの隣にすとんと腰を降ろした。


「よかった。まさかシルヴェーラがまともに食らうとは思ってなから、思いっきり振っちまったんだ。大丈夫か?」


 すっとガルディエルの手が伸びてきて、シルヴェーラの頭をそっと気遣うように優しく撫ぜた。


「痛くなかったか?」


 ここ連日の訓練のせいで、めっきり力強くなったガルディエルの胸を隣に感じて、シルヴェーラはどきりとして目を逸らせた。


「大丈夫…それより、あまり近付くな。汗臭い…」


「あ、ああ、ごめん…」


 自分できつい言葉ばかり言っているとわかっていても、ついシルヴェーラはガルディエルと近付くことを敬遠していた。


 ギルドへ行くと言って二人で城下町へ行ったとき、どさくさ紛れに求婚されてしまっていたことに、答えていなかったからだ。


『この国で紅いものを贈って自分の気持ちだと言ったら…』


 まさか、それが求婚になるなど、異国の民であるシルヴェーラが知る由もなかった。さらにその上で互いに酒を注ぎあって呑むと、受諾なのだそうだ。


 ガルディエルもわかっていたからこそあえて黙っていたのに客に騒がれて、ばれてしまったのだが。


 その後は、店にいた客たちにお祝いだなんだと大騒ぎになり、否定も肯定も出来ていないままだった。


 胸の奥で、何かが引っ掛かる。言葉では、言い現わせない。


 ぐにゃぐにゃして、もやもやして、形にならなくて…。 それを、なんて言えばいいのかがわからない。


 ガルディエルはずずっと身体を少し離しながら、片膝を抱えて顔をシルヴェーラの方に向けて頭を乗せた。


「…シルヴェーラ、最近俺のこと避けてないか?」


 ぎく、と心臓が縮み上がりそうになって、シルヴェーラは慌てて愛想笑いを浮かべた。


「気のせいだろ?あたしは、別に避けてなんか…」


 いない、とはっきり言い切れなくて、語尾が濁った。


 あたしを見ないでくれ。頭の中がぐちゃぐちゃになる。今までなかった感情が、あたしの知らない感情が頭をもたげる!


「あ、血がでてる、唇の端…」


「え?」


 不意にガルディエルに言われて、シルヴェーラはつっと唇を薬指でなぞった。


「ああ、さっき一撃くらった時に、つい反射で食いしばって切れたんだろ。大したことない」


 ぺろっと血が付いた指先を嘗めると、じっとシルヴェーラを見ているガルディエルと目が合った。


「まだ血が滲んでる、じっとしてて」


 そう言うなり、ガルディエルは身を乗り出すと、くいっと片手でシルヴェーラの顎を持ちあげた。


 何事か、と考える暇もなく、ガルディエルは唇の端に口接けた。


 え…?


 思わず目を見開くシルヴェーラの目の前に、目を伏せたガルディエルの顔があった。


 まつげ、長い…。


 一瞬関係のないことを思って、ガルディエルがふと顔を離した瞬間、シルヴェーラははっと正気に戻った。


「離せっ!」


「嫌だ」


 突き放そうとしたシルヴェーラの手を、ガルディエルは素早く掴んで壁に押しつけた。


「やめ…!」


 シルヴェーラが避けるよりも早く、ガルディエルはシルヴェーラの唇に自分の唇を強く重ねた。


 唇が、熱い…身体が、熱い!


 身体中の血が、全身を駆けめぐる!


 だんだん真っ白になっていく頭で、シルヴェーラはさっきまで形にならずよくわからなかった、一つの感情に辿り着いた。


 嘘だ、こんなことって…あたしが、ガルディエルを…!


 強く重なった唇は、一瞬離れかけて、今度は激しくシルヴェーラの舌を絡めとった。


 意味を知った上で、外せなかった耳飾り。


 どうして、いつのまに…こんなに胸の中に入り込んでいるなんて!


「好きだよ、シルヴェーラ…」


 唇を離したガルディエルが、シルヴェーラの銀色の髪に頬をうずめて囁いた。


「この前のこと、考えてくれないか…?」


 崩れ落ちそうなシルヴェーラはただ、ガルディエルの背に手を回し、その存在を確かめるように力を込めた。


 蜂蜜色の髪が零れ落ち、シルヴェーラの首筋をくすぐる。そこから、不思議なくらい幸せな熱が帯びてくる。


 セレフォーリア…許してくれ…。すぐに、消えるから。あたしはすぐにいなくなるから…ここにいる、今だけだから…!


 互いの鼓動が聞こえる。吐息が触れる。


「だめだ、ガルディエル…」


 精一杯の抵抗。これ以上、抗えない。


 身体が熱い。瞼が震える。


 恐怖に?歓喜に?


 ああ、わからなくなる…。


「いやだ、嫌いなら、殺してくれ…」


 ガルディエルが苦しげに呻いて、蒼いシルヴェーラの瞳と目を合わせた。


 朱を帯びた金色の瞳が、熱にうるんでいる。


 おまえの鼓動がこんなにも早いのは、どうして?ガルディエル…。


「シルヴェーラ…死んでもいい…おまえを抱けるなら…」


「…おまえが初めてならよかった…。そうしたら、これほど幸せな言葉はないのに…」


 仲間の裏切り、暴行、幾度となく要求された見返り。力もなく、金もなく、ただ持っていたのは自分自身のみ。


 なまじ外見がよかったがために起こった、どうしようもない、代償という名の暴力。


 辛かった。そんなことを言わなければならない自分自身が。


「そんな悲しいことを言わないでくれ。初めてでいいんだ。俺が初めてで…」


 ガルディエルの言葉に、シルヴェーラの目から涙があふれた。


 自分を綺麗に見えないようにし、いつもボロボロの旅装束を着ていた。男の形をしていた。言葉使いも悪くしていた。すべて、自分を守るため。


 誰の目にも、止まらぬように。誰の興味も、引かぬように。


 けれど、ガルディエルの優しさを知った。温かさを知った。


 それに気付かないように、目を瞑ろうとして、避けようとしていた。


 それでも今、その腕に、その胸に、抱かれたいと、望んでしまった。


「刻み込んでくれ。二度と、忘れないように…」


 涙が零れ落ちる前に、ガルディエルはシルヴェーラを力強く抱きしめた。


 その腕の中は、逞しく、熱く、シルヴェーラを陶酔させた。


 ああ、初めてだ。こんなに幸せを感じるのは…。


「泣くな。愛してる。シルヴェーラ」


  


 それは夢か現か。


 あまりにも儚い、ただ一度きりの逢瀬——。



      *



 ゆらゆらと湯槽の湯が揺れた。


 シルヴェーラは浴槽に両腕を乗せて水晶宮の天井を仰ぎ、先程のガルディエルとの会話を思い出していた。




『ヴァーゴの国では、今まで王族の中で処女宮に生まれたものは、一人もいない。唄を聴いたことあるか?古の唄。その唄の一部が、予言みたいになってるんだ。


  時は満ちやがてきたる


  魔族が生まれ二千年の時を経て


  蒼き聖剣と共にヴァーゴの聖者


  ヴァーゴの大地に降り立つ


  ティファ・ビシシェナエントの名の下に


 その聖者とは、人間が創られた時に、魔族になった男を嘆き悲しんで女が祈りを捧げ聖女になったといわれたことから、ずっと女だと伝えられているんだ。


 そして、十七年前、処女宮の満月の晩に生まれた娘がセレフォーリアだ。


 十七年前、唄によるとちょうどその二千年目に当たるんだ。つまり、その聖者はセレフォーリアって事になる。セレフォーリアは父の妹が嫁いだ先のフォンブルグ家の生まれで、王家ではないけど王族の血を継いでいる。


 生まれた時から、セレフォーリアにはずっと護衛が付いていた。館から出ることさえ許されず、いつも消えそうな笑顔を見せるだけだった。


 そのセレフォーリアが、叔母が亡くなってまもなく消えたんだ。きっと、セレフォーリアは伝説の聖者だったんだ…』


 そう言って、ガルディエルはシルヴェーラを腕に抱いたまま、鍛錬場の天井を見つめた。


 ガルディエルが何を思っているのかなど、シルヴェーラにはわからなかった。


 ただ、ガルディエルはもうセレフォーリアを諦めている、それだけが伝わってきた。


『そういえば、明日は満月だったな…。もしセレフォーリアが生きてるなら、明日で十七になる。セレフォーリアが十七になったら俺と結婚するはずだったんだ…。


 俺も今年で十八歳になるし、それこそ父さんがぶっ倒れでもしたら、即行に結婚させられることになる。セレフォーリアがいない今、相手が誰になるかもわからない。


 もしよければ、このままここに留まらないか?シルヴェーラが嫌じゃなければ、父さんたちに会ってほしいんだ…この前耳飾りを贈ったときに言った言葉は、嘘じゃない。俺の気持ちだ』


 少し気恥ずかしさをまといながらも、真剣な眼差しでガルディエルは言った。


 シルヴェーラは、何も答えられなかった…。


『…とにかく、明日は俺の正式な王位継承式一円の始まりとして、酒宴があるから絶対に出席してくれ。俺の護衛だといって、同席できるようにしておく。正装は明日の朝用意させるから。俺は、本気だから…』


 愛おしそうに、ガルディエルはシルヴェーラを抱きしめた。


 背中に回した手が、傷痕に触れる。


『気付かなかった…怪我の痕か?』


 そっと背を撫ぜられて、シルヴェーラが思わず身をよじる。


『触るな。くすぐったい』


『ああ、悪い、つい…。見ても、いいか?』


『見るようなものじゃない。醜い傷痕だ』


『おまえに醜いなんて、似合わない言葉だ』


『かいかぶり過ぎだ』


『かいかぶりなもんか。俺が惚れた女だ』 


 他愛ない言葉遊びに、不思議と笑みが零れる。


『恥ずかしい奴だな』


『その顔、好きだ』


 ガルディエルがシルヴェーラの唇をついばむように口接る。


『こら、いい加減にしろ』


 照れ隠しに顔を背けると、ガルディエルはシルヴェーラの耳朶にある葡萄の耳飾りを食んだ。


 チャリっと、房がすれる音が響く。


『嫌だ』


『おまえは!そればっかり!』


『シルヴェーラだって、だめばっかり』


 ぐうの音も出ずに、シルヴェーラはガルディエルの胸に顔をうずめて降参した。


『あれから、耳飾りずっとつけてくれてるんだな』


『…それは、おまえにもらったものだから…。頼むから、明日の打ち合わせをさせてくれ』


『せっかくなら、もっと色っぽい話をしたいもんだけどな』


 シルヴェーラの髪を撫ぜながら、ガルディエルがいたずらっぽく言った。


『わかったから…明日はできるだけ、席が離れないようにしておいてくれ。何があっても、おまえを守れるように』


 蒼真の輝きで、必ずガルディエルの力になると決めたから…。


 そんなことは知らないガルディエルが、困惑したように呟いた。


『守られるのが前提で、剣の稽古をしてたわけじゃないんだけどな。俺だって、自分の身くらい、自分で何とかしたいし』


『何ともしなくて構わない。あたしは金の聖魔剣士だ。誇りをかけておまえを守る。約束だ。無茶はしないでくれ。今はそれが一番の心配だ』


 下手に剣など教えなければよかった、と今はほんの少し後悔しているシルヴェーラだった。


 素人を少々訓練したところで、焼け石に水だ。変に自信を持たれた方が厄介だ。


『シルヴェーラにとったら、俺は頼りない男なんだな…』


『勘違いするな。おまえは王子、あたしは剣士。役割が違うだけだ。王子が剣に長ける必要はない』


『優しいな。シルヴェーラは』


『優しいのは、おまえの方だ。ガルディエル』


 上半身を起こし、シルヴェーラはガルディエルの額に口接けた。


『約束してくれ。無茶はしないと』


『あ、ああ。わ、わかった』


 シルヴェーラからの初めての口接けに、ガルディエルは驚いて目を丸くして口ごもった。


『じゃあ、あたしはここの風呂を借りるから。入ってくるなよ?』


『え、だめなのか?』


『だめに決まっている!おまえは自室へ戻れ!』


 シルヴェーラは真っ赤になって衣服を胸にかき集めると、ガルディエルの額をぺしっと叩いて立ち上がった。


『じゃあな、おやすみ!』


 そう言って短い逢瀬の後、シルヴェーラはそそくさと鍛錬場を出て隣の小さな浴場へ入っていった。




 ガルディエルの、王位継承式…。もし、何者かが王宮を狙っているのなら、きっと国の上方機関が集まる酒宴に何か仕組むだろう…。


 特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュの目は、明らかにシルヴェーラを狙っていた。王家のガルディエルではなく、シルヴェーラ個人を。


「一体、何があるというんだ…?」 


 シルヴェーラはざぶんと湯槽に潜ると、軽く黒大理石の浴槽を蹴った。


 すっかり身体に馴染んだ温泉は心地よく、ヴァーゴに来てからシルヴェーラの肌と髪は見るまに艶やかになった。


 脱衣場に近い浴槽の端に着いたシルヴェーラは、雫を散らして立ち上がった。


「とにかく、すべては明日だ!」



      *



「ちょっと待て、これが正装だって?」


 次の日の朝。ガルディエルがアイシュナに言って用意させた正装は、絹で出来た真っ白な襞がいくつも付いた華麗な女剣士用ものだった。


 しかも、襞の一枚一枚に銀糸と蒼糸で大輪の花が刺繍されていた。 


「そうだけど、何かまずいか?」


 わざわざアイシュナに付いてきたガルディエルは、鮮やかな緋色に金糸の刺繍の衣装をまとった立派な王子姿。


 いつも無造作に束ねている蜂蜜色の巻き毛を下ろし、黙っていればその朱金の瞳に惑わされる女もいるのではないだろうか、と思うほど見違えていた。


「まずいも何も…あたし、今までこんな派手な正装なんて着たことなんてないぞ。普通の男性剣士用のものはないのか?」


 今までずっと旅をしながら妖魔退治をしてきたのだ。ぴらぴらと邪魔になる衣服を着ていては命にかかわる。


 それに、いくら剣士用に仕立てあっても、正装用の女物となるとやはり襞は多いし裾も長くなる。


「せっかくだからたまには着飾ってみろよ。絶対似合うと思うけど」


 他人事だと思って簡単に言ってくれるガルディエルに、シルヴェーラはむっと膨れながら衣の襞をちょんと摘んだ。


「こんなに襞がついていたら、踏んでしまうだろう」


「そんなこと言ったって、他はもっと襞や飾りが多いのばっかりで、シルヴェーラに似合いそうなの選んだつもり…あ…」


 はっとして口元を覆うガルディエルに、シルヴェーラはにやりと口元に笑みを浮かべた。


「これ、ガルディエルが選んだのか?」


「ま、まぁな…」


 アイシュナに用意させるって言ったくせに…。


 一生懸命シルヴェーラに似合いそうな衣装を探しているガルディエルの姿が浮かんで、思わずシルヴェーラはガルディエルの頬にそっと手を当てた。


「な、なんだ?」


 ガルディエルが怒られるとでも思ったのか、びくりとして声を上擦らせた。


「仕方ない、仮にも王子の護衛がみすぼらしい姿をしていては、王子の器量が問われるからな」


「そうか。よかった。俺が選んだんだ。これもつけてくれ」


 ガルディエルは嬉しそうに言って、持ってきた装身具を入れた宝石箱を置くとシルヴェーラの部屋を出ていった。


「やれやれ、まさかあたしまでこんな格好させられるとは…」


 シルヴェーラは溜息を吐きながら、諦めて衣装箱に入っている問題の衣装を取り出した。


 一人旅の間はずっと綿や麻の旅装束や剣士の衣装を好んで着ていたのだが、水晶宮に世話になり始めてからはガルディエルの意向か、アイシュナが用意するのは男性用でも絹でできた上物ばかりだった。


 大体妖魔退治につき確実に一着ぼろぼろになるんだから、絹なんて勿体なくて着れなかったんだよな…。


 すべすべしている絹の衣をまとって、ガルディエルが持ってきた宝石箱を開けて、シルヴェーラは中に入っている宝石に思わず目を覆った。


「これ、全部つけるのか?」


 装身具はシルヴェーラの髪と瞳の色に合わせたかのように、すべて銀細工と蒼玉で出来ていた。


 本当、ある所にはいくらでもあるんだな、金目の物って…。


 髪飾り、首飾り、額飾り、腕輪、指輪、どれをとっても、高価なものばかりだった。


 その中に、耳飾りはない。蒼玉と紅玉が入った葡萄の房の耳飾りはそのままつけてほしいということだろう。


 女は長髪が当たり前のこの世界で、肩のあたりまで短くなったシルヴェーラの髪はどれほど物珍しそうに見られることか。


 あの魔族に切られていなければ、あたしだって…。


 髪飾りは付けなかったものの、金目の物が自分の身体にぶら下がっていると思うと、それだけで肩がこりそうだ。


 銀糸の額飾りはつけたまま、銀細工の額飾りを上から被せた。デュマからの贈り物には、外せない訳がある。


 しかし銀でそろえられてしまうと、どうしても聖魔剣士の金の指輪が浮いてしまう。


 仕方なく麻ひもに指輪を通し、シルヴェーラは首にかけると正装の胸元へ滑り込ませた。


 指輪そのものに力はないが、身分を証明する一つであり、なくすと面倒になる代物だ。


「シルヴェーラ、準備は出来たか?」


 扉の外でガルディエルの声がして、シルヴェーラはいつもより襞の多いすそを気にしながら、銀糸の包みごと蒼真をしっかりと腰に挿した。


「今行く」


 そろそろ太陽が真上にくる。ガルディエル王子の王位継承の酒宴が、始まる。




 第七章 魔族襲来



「…シルヴェーラ…綺麗だ…」 


 部屋から出てきたシルヴェーラを見るなり、呆然として言葉を失っていたガルディエルがやっと口にした台詞に、シルヴェーラは微かに赤面した。


「綺麗って…そんな恥ずかしいことを言うな」


 じろりとガルディエルに目をやって、シルヴェーラは腰に下げた蒼真を確かめて、王宮の庭園にある会場に素早く目を走らせた。


「恥ずかしいなんて、シルヴェーラが今までそういう格好をしなかったからだろ?すごく似合うのに」


 だからこういうことをしたら、無駄に命とは関係のない危険度が増すんだよ。まったく、人の気も知らないで…。


 しつこく食い下がるガルディエルに、シルヴェーラは今度こそ睨み付けて、低い声で言った。


「いいかげんにしろ。国の上層機関が集まる以上、何があるかわからないんだ。剣は、持ってるな?」 


 はっとしてガルディエルは真剣な表情に戻り、こくりと頷いた。


「よし、無茶はするなよ。それより、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュはどこだ?さっきから気になってるんだが、姿がないぞ?」


 シルヴェーラは目だけで会場を追いながら、ディアゴ・ヴァルシュの姿を探していた。


 必ず、あいつが何かの鍵を握っているはずなんだ…。


「ああ、ディアゴ・ヴァルシュはこの酒宴に使う酒を皆に配るんだ。もうすぐ来るはずだけど…」


「ディアゴ・ヴァルシュが?…万が一のことがあると困る、酒は飲むなよ」


 シルヴェーラは小声で言って、もう一度会場に目を通した。


 グリフライト王、ルーベリー王妃、フォンブルグ家の主人ベリアルディと長男アリアカルム、叔父、その妻と息子と娘。その他の親族、大神官、大臣…やっぱり、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュ以外の魔導士や剣士が一人もいない。普通騎士団ぐらい、準備するものを…。


 ディアゴ・ヴァルシュ以外の面子が揃い、シルヴェーラはしかたなくガルディエルと離れて席に着いた。会話はできないほど離れてはいるが、護衛ということで末席ではない。


 卓上には豪華な料理の他に細工の美しい銀杯が置かれていたが、酒はどこにもなかった。


 ディアゴ・ヴァルシュが運んでくるつもりか?


 その時、もわっと白い煙が中央に上がり、ディアゴ・ヴァルシュが姿を現した。


「王家の葡萄園で取れた葡萄酒です。今日はガルディエル王子の王位継承の酒宴。みなさま心ゆくまでお楽しみください」


 ディアゴ・ヴァルシュがすいと指を動かすのと同時に、各席に葡萄酒の瓶が現れふわりと浮き上がった。


 すでに栓が抜かれている瓶は、ディアゴ・ヴァルシュの魔導でひとりでに銀杯に琥珀色の葡萄酒を注ぎだした。


 集まった人々の間から、ほう、と感心する溜息が漏れて、ガルディエルは葡萄酒の注がれた銀杯に指をかけた。


「乾杯」


「乾杯!」


 ガルディエルは銀杯を掲げ、皆が各自の銀杯に注意が行ったのを見計らって、口元へやっただけで口を付けずに卓上に置いた。


 何かあった時に酔っ払っていては困るので、シルヴェーラも今日は大好物の葡萄酒も控えている。目の前にあって飲まない、というのは結構辛いものがある。


「どうしました、王子?今日は王子のための酒宴、主賓が飲まずにどうして祝賀といえましょう?」


 せっかく周りを誤魔化せたというのに、シルヴェーラはディアゴ・ヴァルシュの目敏さに内心舌打ちした。


 ガルディエルが困ったようにシルヴェーラに視線を流して、シルヴェーラは自分の銀杯に注がれた葡萄酒をゆらりと揺らして一口飲んだ。


 …本物、だな…銀杯だから毒ではないだろう。仕方ないか、皆注目してしまってるし…。


 シルヴェーラは軽く頷くと、飲んでもいいという合図を送った。


 ガルディエルは口元へ銀杯をやると、琥珀色の葡萄酒を一気に飲み乾した。


 その様子をじっと見ていたディアゴ・ヴァルシュが、にいっと口元に笑みを浮かべた。


「では、この辺で余興を楽しんでいただくとしましょう。そうですね、お手伝いは、王子の護衛の方にしていただきましょうか」


「なに!?」


 ぎょっとするシルヴェーラに構わず、ディアゴ・ヴァルシュはパチンと指を鳴らした。


 シルヴェーラの身体はふわっと宙を舞い、長方形になって向かい合っている卓のぬけた中央に降ろされた。


「なにをする!」


 人形のように扱われて苛つきながら睨み付けるシルヴェーラに、ディアゴ・ヴァルシュはしれっとした顔で言った。


「なに、少しばかり、余興の手伝いをお願いするだけのこと」


「断る!」


 にやり、と笑みを浮かべたディアゴ・ヴァルシュは、ガルディエルに尋ねた。


「よろしいか?ガルディエル王子」


 ガルディエルが承知するはずないだろうが!


 ふん、と鼻で笑った直後、シルヴェーラは見事に裏切られたのだった。


「構わぬ、好きにしろ」


「ガルディエル王子!?」


 シルヴェーラはガルディエルを凝視し、その瞳に何も映っていないのに気付いた。


 まさか、操られてる!?


「正気に戻れ!ガルディエル!」


 駆け寄って肩を揺さ振るシルヴェーラに、ガルディエルはうるさそうに手を振り払ったのだ。


 シルヴェーラはガルディエルの銀杯を取り、わずかに残った液体を舌先に付けて、顔をしかめた。


 毒じゃない。でも、これは、人を操るための呪液!


 直後、ディアゴ・ヴァルシュがけたたましい笑い声を響かせた。


「無駄だ、普通の人間が一旦呪液を口にすると、呪を解かないかぎり正気になど戻らぬ。余興のために、おまえだけ普通の葡萄酒を飲んでもらったのだ。存分に、我を楽しませてくれよ。飽いたが最後、死ぬ時だと思うがよかろう」


「貴様…一体何者だ!」


 ガルディエルを背にかばいながら言うシルヴェーラに、ディアゴ・ヴァルシュはさもおかしそうに目を細めた。


「おもしろい、我に名乗らそうというのか?聞かぬ方が良かったと、必ず後悔しようものを」


 ばさり、とディアゴ・ヴァルシュは頭に深くかぶせた黒い衣を後ろに払った。


 顔が、違う…!?


 濡れたように艶やかな漆黒の長い髪、黒い瞳…目を見張るほどの美しさは、忘れもしない、ガイゼラートでシルヴェーラの髪を奪った魔族。


 特級魔導士の証、額の五芒星紋も今は消え、代わりに魔族の証、第三の目、紫の瞳がシルヴェーラを見ていた。


 すべてはまやかしだったのだ。


「貴様ぁっ…!」


 宮殿に漂う気配は、紛れもなく魔力。


 シルヴェーラは甦る屈辱に肩を震わせ、ぎりっと睨み付けた。


「我は魔族最高神官ディアゴ・ヴァルシュ。二千年前魔族の長となったヴァーゴの末裔。この国は我ら魔族の支配下に墜ちるのだ!」


 魔族最高神官…!?


「させるか!」


 シルヴェーラは一瞬怯んだものの自分の周りに結界を張り、蒼真を引き抜いた。その手で、膝から下の裾を切り裂いて捨てる。


 ああ、やっぱり邪魔になる!


「小娘ごときに何ができる!」


「試してみなければ、わからん!」


 魔族最高神官ディアゴ・ヴァルシュのあざ笑う声に、シルヴェーラの感情の中から綺麗に恐怖を拭い去った。


 今あるのは、ただ怒りのみ。


「屈辱は二度と受けん!」


 ダッと駆け出すと、ディアゴ・ヴァルシュに向かって蒼真を振り翳した。


 ギイィイイン、と剣と剣がぶつかり、シルヴェーラはぎょっとして身を引いた。


「ガルディエル!?」


 いつのまにか、ディアゴ・ヴァルシュの前にガルディエルが腰の剣を抜いて、立ちふさがっていたのだ。


「相当力が有り余っているように見えるのでな、おまえが疲れてくれるまで、ここにいる我の傀儡でも相手してもらおうと思うてな。よい考えであろう?」


 蒼真を構えて、じり、と足を焦らすシルヴェーラに、ガルディエルは無表情のまま剣を構えた。


「少々傷つけてもかまわぬぞ?我が必要なのは、その王子の血肉だけ。妖魔を相手にするより、さぞ楽しめるであろう?行くがよい、王子ガルディエルよ!」


 ディアゴ・ヴァルシュの声に、ガルディエルはシルヴェーラに向かって剣を振りかざした。


 まさか、こんな所でガルディエルと戦うなんて!あたしは自分と戦わせるために、ガルディエルを鍛えたって言うのか!?


 振り降ろされる剣を受けて、シルヴェーラは思わずぐっと足を踏張った。


 最初の頃と違って力が、強い!


 ガルディエルの剣を横に払った瞬間、シュッとシルヴェーラの頬を何かがかすめた。


「大臣!大神官まで!?」


 操られた人形のような彼らは、手に手にナイフやフォークを持ち、シルヴェーラに向かってきているのだ。


「確か聖剣は人を斬ってはならぬはず。我の傀儡を相手にどこまで出来るか、我はここでゆるりと見物させていただくとしよう」


 ディアゴ・ヴァルシュは軽やかな笑い声を残して、ふわりと宙に身体を踊らせた。


「待て!卑怯者!」


 後を追って宙に浮いたシルヴェーラに、ディアゴ・ヴァルシュはにやりと笑みをこぼすと計算通り、とでも言うように優雅に指を鳴らした。


「おまえが相手をせぬというのなら、あやつらに踊ってもらうのもよかろう。殺せ、殺すのだ。王子よ、おまえの手で!」


 ディアゴ・ヴァルシュの嬉々とした声に、シルヴェーラははっとしてガルディエルに目をやった。


 見下ろすシルヴェーラの視界で、ガルディエルは剣を手に年老いた大臣に切り掛かった。


「やめろ、ガルディエル!」


 止めに入ろうとしたシルヴェーラの周りを囲むように、何かがきらりと光った。


「そう簡単にやめさせるわけにはいかぬ。早々に切り上げては、余興にならぬであろう?どうしても止めるというのなら、この水晶弾を始末してから行くが良い」


 きらきらと光が踊るように、槍の先端のように尖った水晶弾がシルヴェーラの結界目掛けて激しく攻撃し始めた。


 バチンバチンと結界が水晶弾を跳ね返してはなお、何度でも撃ちつけてくる。


 魔導の結界を揺るがす唯一の攻撃…水晶弾。


 力の差は歴然。


 すべて、ディアゴ・ヴァルシュの手の中で踊っているにすぎないというのか!?


 腕を斬り、身体を傷つけながらも、ガルディエルは決して大臣を一撃で仕留めようとはしない。


 他の人間は呪が解けていないのに、血まみれの大臣だけは激痛のために正気に戻り、必死にガルディエルから逃げ惑っている。


「断末魔の叫びほど、楽しめるものはないよの」


 まるで宴か舞踊でも見ているかのように、うっとりとした声を漏らし、ディアゴ・ヴァルシュは満身に喜びを浮かべて観覧している。


 水晶弾は容赦なく結界に激突し、少しでも弛めようものなら、突き破る勢いだ。


 人の動きを封じた挙げ句、殺し合いを観覧させるなんて、なんて卑劣な!


 ぎり、と歯軋りするシルヴェーラに、ディアゴ・ヴァルシュはよろよろと倒れた大臣につまらなさそうに目をやった


「もうよい。その男は飽いた」


「よせ!」


 シルヴェーラが止める暇もなく、ガルディエルは躊躇いもなくずばっと大臣の首を刎ねた。


 なんてことを…!自分の手を汚さず、ガルディエルに手懸けさせるなんて!


「さあ、どうする?王子を止めるならば、行けばよかろう?」


 薄く笑みを浮かべながらも、水晶弾の攻撃を弛めないところが、かなり性格の悪さを示している。


 いくら悪態を吐いたところで、シルヴェーラはどうにもしようがなかった。


 ディアゴ・ヴァルシュ自体、シルヴェーラが一撃で仕留められるような相手ではなく、水晶弾の攻撃を防ぐので精一杯と言ってもいい状態なのだ。


「ほう、大臣ごときでは動じぬと見られる。ならば、どうやっても動いてもらうようにするまでのこと。王子よ!己れの手で、王と王妃を血に染めるがいい!」


 なんて、なんてことを!


 じわりと手に汗を握らせながら、シルヴェーラは蒼真を持つ手に力を込めた。


 殺し合いなんて、させるわけにはいかない!まして、血の繋がった親子でなんて!


「やめろーっ!」


 まさに切り掛かる瞬間、シルヴェーラはガルディエル、グリフライト王、ルーベリー王妃を別々に結界に封じた。


 一瞬、己の結界が緩むのがわかる。


「馬鹿め!」


 直後、ディアゴ・ヴァルシュの勝ち誇った声が響いて、結界を突き破った無数の水晶弾がシルヴェーラの身体に襲いかかった。


 もうだめだ!…蒼真!


 どうにも出来ず、ただ蒼真を握り締めて目を閉じた時だった。


 蒼真から強大な力があふれだし、目を閉じていてなおまぶしい閃光が空間を揺らしたのだ。


 何が起ったのかわからなかった。


 目を開けたシルヴェーラの手の中で、蒼真はまばゆいばかりに蒼く輝いていた。


 ただ呆然とするシルヴェーラの視界の隅に、同じように輝く赤い光を見付けた。


 あれは…ガルディエルの緋水晶!


 光が、すべての力を無に還した。水晶弾は力を失ってバラバラと落ちていき、シルヴェーラもディアゴ・ヴァルシュも己の力を失った。


 庭園の床に叩きつけられる寸前で態勢を整え、二人は地上で向かい合った。


 …蒼真の刀身が、白銀から青銀に!


「それは、伝説の蒼き剣…。王家の緋水晶と共鳴するのはただ一つ、聖女セレフォーリアが持っていた蒼水晶のみ…貴様、生きていたのだな!?」


 あたしが、セレフォーリア!?


 ガン、と頭を殴られたような気がした。


 蒼水晶って…この、蒼真の柄にはめこまれた蒼水晶が、セレフォーリアが持っていたもの!?


「どうやら、八年前しとめそこねた貴様が落ちた亀裂が、次元流砂だったようだな。このようなことになるのなら、完全に息の根を止めていたものを…!」


 忌ま忌ましそうに呟いたディアゴ・ヴァルシュの言葉で、シルヴェーラはそれまで見え隠れしていた真実がやっと見えた気がした。


 背中の傷跡は、ディアゴ・ヴァルシュによるものだった。


 襲われた時に次元流砂に落ち、偶然マグノリア大陸のアデルバイドに転移したのだ。


 そして転移先で記憶をなくしたまま、親父に拾われて…。


「まとめて灰にしてくれようぞ!」


 怒りに声を震わせたディアゴ・ヴァルシュのつぶやきが聞こえ、シルヴェーラは咄嗟に全員に結界を張った。


「させるか!」


 宮殿内がゴウッと朱炎の海と化したのは、その直後だった。


 用済みとなった人々を屑のように燃やそうなんて、どこまで人を虫けらのように思っているんだ!


 怒りに震えながら、シルヴェーラは自分の望月紋の能力に不安を感じた。


 一人しか存在しない六芒星紋デュマ・アルセウスを除けば、事実上順列二位に位置する望月紋。五芒星紋は近いと思っていたのに。


 こう人数が多くては、火炎の温度を上げれば結界が破れるのも時間の問題だ…。勝負する以外、生き延びる道はなさそうだな…。


 蒼真をしっかりと握り締め、自分自身の結界を強化した。


「ティファ・ビシシェナエント!ガルディエルの緋水晶と共に、ヴァーゴの民をお救いください…!」


 いまだかつて口にしたことすらない祈りの言葉を紡ぎ、気を失っているガルディエルの緋水晶が煌めいているのを確認してシルヴェーラは覚悟を決めた。


 一刻も早く勝負を付けないと、あたしの体力が持たない!デュマ、親父、蒼真…!あたしに、力を…!


「貴様、あれだけの人数を結界で維持し、その中から離れるとは…上級魔導士か!?」


 炎の中でシルヴェーラを包む結界が、そこだけなにもないかのように丸く浮かび上がっている。 


 水晶弾のような物質を遮断するのは相当な力がいるが、火水風などの自然を相手にする場合、魔導士は少ない力で効力を発揮する。


「正確には特級まであと一歩の上級魔導士と、マグノリア三指に入る金の聖魔剣士だ!行くぞ!」


 手札は多い方がいい。しかし、相手には知られない方がいい。上級魔導士という切り札を隠しておいたのは正解だったようだ。


 デュマ・アルセウスの贈り物、銀糸の額飾りは魔導士の証の額の紋章を気配から絶つ。


 同様に蒼真の銀糸の包みも聖剣の気配を隠す。


 つまり、能力のあるものほど、シルヴェーラ本人さえ気を付ければ、気配は一般人と受け取ってしまうのだ。


 シルヴェーラは一気に炎の中を突っ切りながら、朱炎をまとうディアゴ・ヴァルシュに切り掛かった。


 ばさっと黒い袖が翻り、蒼真は空を斬った。


「笑止!いくら魔導士や聖魔剣士といえども、その身体には痛みが付きまとうもの。どこまで耐えられるか、試してもらおうぞ!」


 直後、風が囁いたかと思うと、目に見えないかまいたちがシルヴェーラを襲った。


 自分以外にも結界を張っている分、普段より自分の結界の力が弱っているのに!


「くそっ…!」


 なんて威力だ…!こんなもの、何度も持たないぞ…!


「どうした、まだまだこんなものではないぞ!」


 ディアゴ・ヴァルシュの楽し気な声が響き渡る。


 その声にすら、苛立ちを覚える。


「うるさい!」


 結界がたわむ。保ち続ける時間も気力も持ちそうにない。


「口だけは強者のようだ!」


「黙れ!」


「黙るのは貴様であろう!」


「ああ、黙らせてやるさ!根競べは嫌いな質でね!」


 シルヴェーラは覚悟を決めて蒼真の刀身を媒介に、魔導の精霊交渉に出た。


 精神力を異常に消耗する精霊交渉だけは、使いたくなかったのに!


「我を加護するすべての者、我を認めし聖なる者よ。汝等、我に敵対する魔族より、ここにありし我以外のすべての人の命を加護されん!我が名はシルヴェーラ!」


 蒼真の刀身からきらきらと光が煌めいて分離し、ふわりと舞い上がる。


 ここで自分と他の人間全員と言ってしまえば、精霊は迷わずシルヴェーラを優先してしまう。


 わかっているからこそ、加護に己は含めない!

 

 ―――シルヴェーラ、シルヴェーラ、シルヴェーラ…それで、いいの…。


 かまいたちの中に、精霊たちのささやきが聞こえる。


「あたしはいい!願いを聞き届けてくれ!」


 ———シルヴェーラ、シルヴェーラ…願い、聞こう…。


 やがてそのささやきが光となって集まり、大きくなって、ガルディエルを含む王族たちを包み結界と成した。


 …よかった、メルカルス大陸では初めてだったけど、成功した!


 それを見たディアゴ・ヴァルシュの目付きが豹変した。


「小賢しい!気が変わったわ、貴様からなぶり殺しにしてくれる!」


 精霊交渉の呪文詠唱で維持する精神力ががっくりと落ちたシルヴェーラの結界は、勢いを増したかまいたちによって絹を裂くように破れた。


 次の瞬間、シルヴェーラの肌に激痛が走った。


 これが、魔族の最高神官の力か!?今まで戦ってきた妖魔とは、比較しようがない!


 見る間に純白だった衣が深紅に染まる。


 熱と真空の刃は嘲笑うかのように、シルヴェーラに襲いかかった。


「あっ…!」


  パシッと音がして、左の耳飾りがはじけ飛んだ。ガルディエルが贈った、蒼玉と紅玉の入った銀の葡萄の耳飾りが。


「…畜生…!!」


 ここであたしが敗けても、精霊たちの加護で王宮の面子は守られる。でも、ディアゴ・ヴァルシュの攻撃がここで留まるはずがない。


 ヴァーゴ国民に広がり、やがてはメルカルス大陸をのみこむだろう。


 でも、いまは…!


 青銀に光る刀身の蒼真を握り締め、シルヴェーラは膝をつくことなく、ぎりぎりと歯を震わせた。


「まだ立てるか。おもしろい…貴様が命乞いする姿、是非見とうなったぞ!」


 敗けるわけにはいかない!この国が滅びようと、そんなこと関係ない!


 あたしは、あたしは、ガルディエルを護る!初めて愛した男を!


「神よ、最高神ティファ・ビシシェナエントよ。ヴァーゴの聖者の名にかけて…ディアゴ・ヴァルシュ、おまえを討つ!」


 志は一つ!それがどんなものよりも、力の源になる!


「おのれ、小癪な!」


 蒼い光が、シルヴェーラを包む。


 シルヴェーラは無意識のうちに、蒼真の結界に包まれていた。


 力を貸せ、蒼真!


「ディアゴ・ヴァルシュ、覚悟!」


 狙うのは額にある第三の目!


 その紫の瞳に宿る、魔族の命!


「死ぬがいい!」


 シルヴェーラに向かって放たれた真空の刃は、蒼真の結界に弾かれ消し飛んだ。


「なぜ、その傷付いた身体で…!」


 青銀に輝く蒼真が、ディアゴ・ヴァルシュの第三の目を貫いた。


「消えろ…!」


 シルヴェーラに渾身の力で第三の目を貫かれ、ディアゴ・ヴァルシュの黒い双眸が驚きに満ち、そして絶望へと変わっていった。


「おのれ…人など…弱く、醜いだけの、物に…」


 最後まで自分の力を信じて疑わなかったディアゴ・ヴァルシュの肉体は、呟き終わるとさらさらと崩壊し、砂塵へと還った。


「…かっ、た…」


 身体中の力が抜けて、シルヴェーラはがくんと膝をついた。


 朦朧とする意識の端で、ガルディエルが駆け寄ってくるのが見えた。


 ああ、ガルディエル…無事で、よかった…。


「シルヴェーラ!」


 倒れる寸前で抱き留められて、シルヴェーラは意識を手放した。


 

 …助けてくれたんだ、セレフォーリアと、おまえの心が…。




 第八章  耳飾り



「明後日、戴冠式か…」


 寝台に寝転んだまま、シルヴェーラは水晶宮に差し込む光を眺めていた。


 ディアゴ・ヴァルシュとの戦いの後、シルヴェーラは延々一週間もの間昏睡状態に陥り、ようやく目覚めたのだ。


 つい先ほど様子を見にきたガルディエルが、王が王位をガルディエルに譲ると決めたことを告げた。 


 ディアゴ・ヴァルシュのせいで少しずつ狂わされていた歯車を、元に戻さなければならないからだ。新しい王政に、古い王はいらない。


 誰も知らなかった、戦いの裏に隠されていた真実。八年前ディアゴ・ヴァルシュによって、葬られたはずのヴァーゴの聖女セレフォーリア。


 養父によって生き延び、金の聖魔剣士シルヴェーラとして再びヴァーゴに戻り ディアゴ・ヴァルシュを討ち果たした。


 それは、かまわない。ガルディエルとの契約でもあったのだから。


 運命は、生まれた時から決まっていたのだろうか…?


「ガルディエル…どうすればいい…?」


 両目を手で覆って、シルヴェーラはかすれた声で呟いた。


「あたしが、セレフォーリアだったなんて…」


 その時、コンコンと扉が叩かれ、ガルディエルと長男アリアカルムに肩を支えられたフォンブルグ家の主人、ベリアルディが扉を開けて立っていた。


 ディアゴ・ヴァルシュの戦いに巻き込まれて大怪我を負った一人だ。


「叔父が、どうしても逢いたいと言うから連れてきた。身体は大丈夫か?」


 シルヴェーラは頷いて、枕を背中に敷いて身体を起した。


 自己回復の治癒魔導と深い眠りによってシルヴェーラはほぼ回復していたのだが、ガルディエルがまだ寝台から出ることを許さなかったのだ。


「私はただ、貴女と話がしたいだけなのです…」


 ベリアルディは微笑むと、ゆっくりと椅子に腰を降ろした。


 ベリアルディは金髪碧眼で、どちらかというとあまりシルヴェーラとは似ていなかった。


 それに比べて、長男のアリアカルムは淡い金髪に蒼い瞳、顔立ちもどこかシルヴェーラに似ていた。


 覚えてはいないが、亡くなった母親に似ているということだろうか。


「何か、御用ですか?」


 さり気なく言って、シルヴェーラは蒼真が銀糸の包みに入っているのを素早く確認した。


 ガルディエル曰く、駆け付けた自分が一番に蒼真を鞘に納めて銀糸の包みに収納し、シルヴェーラのそばに置いたのだと。


 おそらく血まみれなっていたシルヴェーラのおかげで蒼真の蒼水晶まで気が回らなかっただけで、ガルディエルもじっくり見せるともちろん気づくはずだ。


 蒼真の蒼水晶が見つかったりしたら、あたしはセレフォーリアに戻らなくちゃならない…。


「…貴女は、本当に私の娘によく似ている…」


 ベリアルディの台詞に、ずきん、と胸が痛んだ。


 この人は、まだセレフォーリアを忘れていない…!


「酒宴で初めて貴女を見た時、女剣士の姿をしていて驚きました…。セレフォーリアはおとなしい娘でした。ですが元々王家の騎士だった私の血を引く娘です。もしかしたら、内情は激しかったのかもしれません」


 ベリアルディとアリアカルムが目配せをし、シルヴェーラを見ていた。


 ガルディエルも、もう一度答えを待っている。


「君は妹の、セレフォーリアでは、ないのですか?」


 アリアカルムが、念を押すように尋ねた。


 追いつめないでくれ…。これ以上、あたしを追いつめないでくれ!今ここで立ち止まったら、もう二度と歩きだせなくなる!


 震えそうになる手を握りしめ、シルヴェーラはかすれる声を絞り出した。


「ガルディエル王子にも、同じ事を尋ねられました…。でも、あたしはマグノリア大陸の鍛冶屋カインリックの娘、シルヴェーラ。貴族でも何でもない、旅と共に生きる、聖魔剣士です…」


 アリアカルムに支えられていたベリアルディは残念そうに俯き、うっと低くうめいた。


「ほら、医師に止められてるくせに、歩いたりするからだ。部屋に帰ろう。邪魔して悪かったな」


 シルヴェーラは微かに首を振ると、ガルディエルとアリアカルムに抱えられる様にして出ていくベリアルディの背中を見ていた。


 …あたしはもう、セレフォーリアには戻らない。一度篭から放された鳥が、二度と篭には戻らないように。シルヴェーラにとってセレフォーリアという名は自分自身の檻にしかならないんだ…。


 扉が閉まるのを待ちきれないように、握り締めた拳の上に涙が落ちた。


「…ごめん…さよなら、父さん…兄さん…」



      *

 


 翌日の夕方、すっかり回復したシルヴェーラはガルディエルに再び旅に出ることを告げた。


 驚いた様子ではあったものの、報酬を用意するので取りに来いと言われていたので、シルヴェーラはガルディエルの部屋を訪れていた。


「約束の金貨だ。危険手当で五割増しにしてある」


 円卓に向かい合って、ガルディエルはジャラッと音をたてて、大き目の皮の袋を差し出した。


「…これで、雇用関係も終わりだな」


「ああ、そうだな…」


 ヴァーゴの王宮に転がり込んで約ひと月。持てる時間はすべてガルディエルに費やした。こんなことは、未だかつてなかったことだ。


 後ろ髪を引かれる。わかっている。そんなこと。


「依頼は果たしたし、これだけあればこれからは楽に旅ができるだろ…」


 ずっしりと重い金子袋を受け取って中を覗くと、まばゆいばかりの金貨が一杯に詰まっていた。


 楽な旅どころではない。豪遊しなければ大陸を回って釣りが来そうだ。


「…本当に、出ていくのか…?」


 縋るようなガルディエルの声に、シルヴェーラは少し苦笑して言った。


「…出ていく、とは言わないだろ。あたしはここの人間じゃない。元々目的だった、デュマを探す旅に戻るさ。師匠に修行をつけてもらって、特級魔導士に昇級したいしね…」


 これ以上話していたら、ガルディエルの眼差しに吸い込まれてしまいそうで、シルヴェーラはふっと俯いた。


「明日の戴冠式は、見てくれるだろう?」


「ああ、戴冠式の後、行くよ…」


 なんとなく手持ち無沙汰で金子袋をいじっていたシルヴェーラの手を、ガルディエルの手がそっと握った。


「本当だな?」 


 上目遣いで確認し、ガルディエルはシルヴェーラの左手をとって、その金の指輪に約束の口接けをした。


「約束、だからな」


 蜂蜜色の髪の奥で、不安げな朱金の双眸が揺れていた。


 シルヴェーラは気持ちを押し殺して薄く微笑み、ガルディエルの手をゆっくりとほどいた。


「わかったから。あたしは部屋へ戻る」


 気持ちのこもっていない約束は、心が痛かった。


 


 幸いなことに、ディアゴ・ヴァルシュとの戦いの間の会話は、衝撃で倒れて気を失っていたガルディエルたちには届いてはいなかった。


 シルヴェーラは自分の正体が知られていないことにほっとしたのも本当であり、また嘘でもあった。


 思ったより沈んだ気持ちで自分の部屋に戻り、アイシュナに用意してもらった男性用の旅装束に着替え、身支度を整えてずっしりと重い金子袋を腰に結わえ付けた。


 命からがら稼いだ金貨だ。大陸を渡って回るには十分すぎるほどにある。


 これからは面倒事に巻き込まれさえしなければ、ずいぶん楽な旅ができそうだ。


「行こうか、蒼真…」


 すらりと抜いた蒼真の刀身は、白銀。


 もう、蒼銀に輝く蒼真を見ることもないな…。王家のガルディエルの緋水晶が揃ってこそ、蒼真は唄の《蒼き聖剣》になるのだから…。


 蒼真の蒼水晶を返そうかとも考えたシルヴェーラだったが、返してしまえばせっかく否定した自身の出生を認めてしまうことになる。


 そうなればまたセレフォーリア問題が持ち上がりかねないうことで、散々悩んだ挙句、やめたのだった。


 もし、いつかあたしに娘が生まれたら…歌って聞かせよう。蜂蜜色の巻き毛の王子とのひと時と、ヴァーゴの聖女の物語を。


 蒼水晶を返す気にならなかったのは、そんな気持ちになったからだ。


 さよならは、言わない。さよならを言えば、もう一度逢わなくちゃならない気がするから…。 


 蒼真を鞘に収め、首から下げた麻ひもを引っ張りだした。ひもには指輪がひとつぶら下がっていた。


 ガルディエルから渡された酒宴の装身具の中にまちがって入っていた、本来ガルディエルのもののはずの銀と緋水晶の小さな指輪。


 子供の頃に使っていたのだろう。その小さな指輪は、シルヴェーラの指でさえ入らなかった。


 その指輪が、なぜだかとても愛おしくて…、返せずにいたのだ。そしてそのまま、シルヴェーラの麻ひもに通されている。


「これは、おまえの代わりにもらっていくよ…」


 シルヴェーラは指輪に口接けをして、右耳に残った耳飾りを外して指輪と一緒に括り付けた。


 出ていく自分に、耳飾りをつけ続ける資格はない。けれど、置いていくには辛すぎた。


「急ぐ必要もないし、あとは街で買えばいいか…」


 野営用品しか入っていない使い慣れた皮の荷袋を肩に担ぐと、入り口で部屋を振り返った。


 …見納めだ…。


 初めてガルディエルと出会った部屋を名残惜しそうに、瞳に焼き付けた。ひと月の間、シルヴェーラのために与えられた豪華な部屋。


 目覚めてすぐに抱き締められて、驚いたっけ…。


 扉を開けて部屋から出ると、そこにはついさっき別れたはずのガルディエルが壁にもたれて立っていた。


 シルヴェーラは立ち止まり、気まずさに目を逸らした。


「そんな気がしたんだ。きっと、俺には黙って出ていくって…」


「なら、話は早い。恨まれるのは覚悟の上だ。あたしは、今から旅に出る」


 顔を背けて前を通り過ぎようとしたシルヴェーラの腕を、ガルディエルは痛いくらい力強く掴んだ。


「なぜ、目を逸らせる!?俺を見ろ、いつものように不敵な光を宿した瞳で!雇用関係が終わったというのなら、俺がまた雇う!」


 むっとして、シルヴェーラはガルディエルの手を乱暴に振り払った。


「…何が雇うだ。ふざけるのも大概にしろ。金にものを言わせて、人を振り回すな。あたしは金の聖魔剣士だ。一ヶ所に留まっていたら、仕事にならない」


 手を払われて呆然としているガルディエルに向かってきつい口調で言うと、シルヴェーラは一番言いたくなかった、最後の台詞を口にした。


「なぜ、あたしがここに留まらなければならない?」


「なぜって!言ったじゃないか…あいして」


「おまえがそんなにまでして止める理由が、あたしに関係あるのか?」


 遮るように、言葉を割り込ませた。


 ここに留まって、父に会ってほしいとガルディエルが言ったのは、もう昔の話。


 あたしは最初から、承諾なんてしていなかった…。


 愛してる。そんな言葉を言ってくれる男、出会えるなんて思っていなかった。それだけで、幸せだったよ。


「耳飾り、外したんだな…」


 一瞬ガルディエルは目を見開いて、悔しそうに顔を逸らせた。


「…行けよ…。留まる理由なんて、どうせおまえには関係のないことなんだろ?」


 その声は、悲痛な叫びに聞こえた。


「そうだ、あたしには関係ない。じゃあ、元気で…ヴァーゴ国王…」


 カツン、とシルヴェーラは水晶宮の出口に足を向けた。


 今度は、止められなかった。


 目一杯、傷つけた。


 でも、もうかまわない。


 後戻りするつもりなんて、初めからないから…。    



 踏切をつけるため、シルヴェーラは一度も振り返らずに王宮地内を抜け出した――。




 終章 帰還



 すでに太陽は西に傾き、東からは藍色の闇が迫ってきていた。


 今は日没が遅い。これから街に出て宿を探してから、食料と地図を買えばいい。


 ここはメルカルス大陸の大国ヴァーゴ。元々魔導士の多いラトリアナ大陸に向かっていたのだから、ついでに他の国を回ってデュマを探して…。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、街に向かうため城壁を曲がった時だった。


「やはり、旅に出るのか?シルヴェーラ」 


 町へとつながる橋の袂の柱に背を預け、ふと顔を上げた懐かしい瞳に、シルヴェーラはどさりと荷袋を落としてその場に立ち尽くした。


「もう顔も忘れたか?二年も一緒にいたというのに」


 シルヴェーラはつんのめるようにして駆け出し、その背の高い細い体躯にがっしりとしがみついた。


 ティファ・ビシシェナエントの化身———


「…デュマ!」


 忘れるはずがない、この優しい翡翠色の瞳を…!


「すまなかった、何も言わずに一人で行って…。急なことだったから、おまえに詳しく伝える暇もなかった。許してくれ…」


 デュマはそっと背中に手を回し、シルヴェーラを優しく包み込んだ。


「もう、いいんです…。大魔導士デュマ・アルセウスが忙しいのは、当前のこと。あたしが甘えていたから、いつまでも離れられなかったのですね…」


「知っていたのか…」


 溜息のようにデュマが呟いて、シルヴェーラはデュマをふり仰いだ。相変わらず、亜麻色の髪に翡翠色の瞳は優しい光を帯びていた。


 いくつなのだと聞いてもはぐらかす、年齢不明の大魔導士デュマ・アルセウス。額にはシルヴェーラと 同じように銀糸の額飾りがあり、普段は階級紋を隠している。


 見た目は二十代半ばにしか見えないのだから、最上級魔導士、大魔導士と言われても一般人は疑いの眼差ししか向けない。


 大魔導士となると、依頼されている仕事は山のようにあるはずなのに…。


 それでも、一緒にいてくれた貴重な二年間。


 その時間があったからこそ、シルヴェーラはデュマと離れた後もギルドに所属することもなく、独り立ちして依頼を取れるほどに力をつけたのだ。


「まったく、一年もシルヴェーラと離れるとは思わなかったよ。四大陸の魔導士協会が対立してしまってね。各大陸から代表を選出し、年単位で総代表を受け回るということになってね。運悪く初代総代表に任命されたというか、押し付けられてしまって。おかげで一年、中央の魔導士協会本部から、内輪もめの後始末のためだけに飼い殺しだったよ」


 通りで一年探し回っても、どこにも噂すら耳にしなかったはずだ。


 魔導士協会は認定試験を受けるときに赴くこともあるが、上層部が務める中央本部は実に閉鎖的だ。


 しかも認定試験は各国の魔導士協会支部でも受けられるので、中央本部がいくら閉鎖的でも何ら問題はない。


 デュマの行方を支部に問い合わせもしたのだが、そんな噂など、終ぞ聞いたこともなかった。


 大魔導士デュマ・アルセウスの情報など、極秘中の超極秘なのだ。一介の魔導士になど情報が回るはずもない。


 おかげで空振りの旅を続けることになったのだが…。


「デュマを探して旅をしてたんです。見てください。これ」


 シルヴェーラはデュマが贈った銀糸の額飾りを、指輪をしている左手でそっとずらした。


「望月紋にマグノリアの金の指輪じゃないか。デュマと別れた時はまだ半月紋と銀の指輪だったはず。一年で成長したな」


 デュマの言葉に、シルヴェーラは素直にふふっとほほ笑んだ。


「五芒星紋まで、あと少しだと思っていたんですけど、まだまだだとわかったんです。修行させてください。これから、一緒に行けるのでしょう?」


 また、一緒に旅をしよう、デュマ。そしていつかマグノリアに帰って、親父の墓に花を供えてやろう…。


「ああ、当面は大丈夫だ。全くまとまりのない初代総代なんぞ面倒を押し付けられたのだからな。これから先十年は仕事を入れてくれるなと誓約させておいた」


 力を使えず飼い殺しにされたことがよほど気に入らなかったらしいデュマが、めずらしく目が笑っていない涼やかな笑みを浮かべた。


 それで十年仕事放棄を許させるところが豪傑である。


「その前に、聖魔剣士協会へ行かねばなるまい。魔族を仕留めたのだから、メルカルスの白金の指輪をもらわなければ」


「登録もしていないのに、階級すっ飛ばして認定してもらえるでしょうか?」


 ラトリアナを経由して入るどころか、いきなりヴァーゴ国内に転移して王宮入りしてしまったため、メルカルスの聖魔剣士協会へは階級登録を申請いないシルヴェーラだ。


 もちろん魔導士として戦闘記録も残しているため、口頭で説明するなどという面倒なことはしないで済む。


「ガルディエル新王とデュマの口添えがあれば問題ないだろう。メルカルスだけでなく、おまえは四大陸にとって宝になる。魔族と戦って生きて帰る者など、片手で数えるほどしかおらぬのだぞ」


 よくやった、とデュマはシルヴェーラを力強く抱きしめた。 


 片手の筆頭は、もちろんデュマ・アルセウスである。


 戦った数は一桁では収まらないとかどうかという噂は、何度聞いても本人がのらりくらりとぼけるので定かではない。 


 憧れ追い続けたその恩師に一歩近づいたのだと思うと、シルヴェーラはうれしく思った。 

 

「ところで、いいのか?おまえは紛れもない、聖女セレフォーリアなのだぞ?」


「…知って、いたのですか…?」


「セレフォーリア嬢に見えたことはないが、その容姿と突如消えた噂、蒼水晶の話はな。カインリックが知らずに育てていた娘がおまえだったと知ったときは、驚いたよ」


 そうか…親父は、知らずに育ててくれていたんだ…。


 シルヴェーラはセレフォーリアの名に強く首を振った。


「あたしはシルヴェーラ…マグノリア大陸の聖魔剣士で、アデルバイドの鍛冶屋カインリックの娘…。今までのは、蒼真の蒼水晶が魅せていた幻…」


 あれは幻。セレフォーリアの蒼水晶が魅せていた、蒼い幻…。


 王家の人間が持つ緋水晶とのみ共鳴する…ひと時の緋い夢。


 だから、たとえあたしが指輪を持っていたとしても、王家の人間さえいなければ、もう見ることはない…。


「…そうか。では、帰ろう、マグノリアへ。メルカルス魔導士協会へは通達を出しておく。この国の魔導士強化と武術師強化、騎士団の早期結成について、王家に進言せよと。当面の警護要請もな」


 デュマはガルディエルの王政に負担がかからぬように手を貸すことを良しとし、シルヴェーラを安心させた。


「心配ない」


 デュマはそれ以上何も言わず、とんとんとシルヴェーラの背中を叩いた。


「マグノリア、親父が名付けてくれた場所に…」


 これ以上留まるわけにはいかない。魔族の最高神官というディアゴ・ヴァルシュを倒したのだ。


 これからいつ何時、魔族がシルヴェーラに報復にやってくるかもわからない。


 ガルディエル一人を護っても、ヴァーゴの国中の人を護る力などシルヴェーラにはない。


 だからといってデュマに守られて、ガルディエル共々おんぶにだっこ状態などシルヴェーラの誇りが許さない。


 セレフォーリアと認めない以上、ヴァーゴ国に残ったところで、一介の聖魔剣士がガルディエルと婚姻など許されるはずもない。


 かと言って、ガルディエルが他の誰かと結婚する姿を黙って眺めていることなど…。心が、壊れてしまいそうだ。


 その上、蒼真の蒼水晶がセレフォーリアのものだと、いつ発覚するかとびくびくして過ごすのも、シルヴェーラの性には合わない。


「シルヴェーラ、逢いたくなれば、いつでも言うがいい」


 最上級魔導士なら転移魔導も容易いこと。デュマの能力を持ってしてならば砂漠の中で蟻一匹でも見つけられるのだ。


「そんなこと、頼まないさ…」


 シルヴェーラは夕日が照らしだす宮殿に、もう一度振り返り、そっと目を閉じた。


 ごめん、ガルディエル…。一度も言わなかったけど…惹かれていたんだ。初めて出会ってから、ずっと…。


 屈託なく笑う素直さ、大らかな優しさ、人としての暖かさ。シルヴェーラが失っていたものを、すべて持っていたガルディエル。


 その蜂蜜色の柔らかな巻き毛も、朱金の双眸も、鍛えて逞しくなった体躯も。子供のように無防備に眠る姿も。


 すべてが、愛おしい。それは紛れもない事実。


 …愛してる…セレフォーリアでもシルヴェーラでもなく、ただの一人の女として…。 


 耳飾りを贈られ何も知らないまま求婚されて、うっかりそれを受けてしまい、客に祝福されたとき…正直、うれしかった。


 つい無効だなんて、言ってしまったけれど。

 

 口接けられて、抱きしめられて、その腕に抱かれて、どれほどの幸せを感じたか。


 おまえには、わからないだろう?ガルディエル…。


 シルヴェーラはそっとお腹をさすり、娘だったらいいな、と呟いた。


「行こう、デュマ」


 さよなら、あたしを愛してくれた人…。


 シルヴェーラはデュマと肩を並べて歩き始めた。


 



 夕闇を背に、シルヴェーラと名を受けた大陸、マグノリアへ向けて―――。







     了




聖魔剣士(せいまけんし)次元流砂(じげんりゅうさ)蒼真(そうま)蜂蜜(はちみつ)紅玉(こうぎょく)蒼玉(そうぎょく)半月紋(はんげつもん)望月紋(もちづきもん)五芒星紋(ごぼうせいもん)六芒星紋(ろくぼうせいもん)三日月紋(みかづきもん)





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