26-2. 異変②
神々からの時戻りの意向など、ルイーゼが感じたこともないのももちろんだが、それ以上にできないのは、『自らの命を捧げる』 ことだ。
―――― 1度めの人生であれば、やすやすとできた。
ルイーゼの生命は、ルイーゼだけのものだったから。
ルイーゼ自身にもルイーゼがいる世界にも、何の価値も無かったから。
けれども、今度の人生では、それが怖い。
『自らの生命を捧げる』 とはつまり、己に心を掛けてくれた人たち、全ての思いを踏みにじり、彼らを否定することにもなるのだ。
エルヴィラも、パトラも、母も、ファドマールも、それに、叔父のゴットローブにメアベルク領の少年領主エカード、辺境で知り合った大勢の人たちも。
―――― 1度目の人生で、ルイーゼのために命を捧げて、秘儀を行ってくれた、誰かをも。
―――― そして、ザクスベルトはきっと、己が時を戻るためにルイーゼが生命をかけることを、喜ばないだろう。
自身の生命が惜しい。
そうした気持ちも奥底にあるのかもしれない。
しかしそれ以上に、今のルイーゼには、親しい人を悲しませることが怖かった。
ルイーゼのために秘儀を行ってくれた誰かを、失望させることが怖かった。
ザクスベルトをガッカリさせるかもしれないことが、怖かった。
―――― 1度目の人生では、ルイーゼにとってどこまでも透明な檻に過ぎなかった世界は、今度の人生では、不可視の、たくさんの人の想いで紡がれているものに変わっていた。
かつて、何をしても変わるはずのなかった世界は今、1歩進むだけでも何が起こるかわからない場所に変わっていた。
―――― 不安定で、不安な世界。
だが、どこまでも見透せる何も無い場所であるよりは、こちらのほうが良い、とルイーゼは思う。
おそらくこれは、幸せなのだ。
幸せは、かつてルイーゼが思い描いていたほどには明るく輝くものではなかった。
幸せは常に、少し重くて、怖い。
―――― もし、ザクスベルトがもう2度と戻ってこなければ……
きっと今度は、彼のそばに逝きたい気持ちと、ルイーゼが現世で繋いできた絆との間で、身が引きちぎられるような思いを味わうことだろう。
(いいえ、大丈夫…… 未来は、変わってきているのですもの。兄様は、戻ってこられるはず)
ルイーゼは、首に掛けた火の神殿の護符をぎゅっと握りしめた。
未来は、前の人生とは明らかに変わってきている。
―――― 1度目の人生のとおりなら、そろそろ原因不明の病で倒れているはずの母、聖女リーリエは相変わらず元気。
ロペスが貴族にばらまく予定だった、ネヴァディア産ダムウッド入りのお茶も、全て回収済みのはずである。
―――― その代わりのようにリュクスが亡くなり、ルイーゼが聖女の後継ばかりか王太子にまでなることは、予想もつかなかったが……
望むことばかり、起こっているわけでは、ないが。
(それでも、きっと…… 望む未来を、引き寄せてみせます……)
とんとん、と扉が叩かれ、「失礼します」 と声がした。侍女のパトラだ。
「ファドマール様が、お見えになりました」
「どうぞ」
「失礼いたします」
ルイーゼとよく似た艶やかな黒髪と黒い瞳、女性と見紛うほどの美貌の聖騎士は、入ってくるなり挨拶もそこそこに、こう切り出した。
「悪い知らせとより悪い知らせ、どちらから聞きたいですか?」
「でしたら…… 悪いお知らせのほうからお願いいたします、ファドマール様」
「悪霊が見つかりました」
「ザクス兄様が?」
「はい、冥神の森を見廻っていた際に…… おっと、飛び出すのはやめてください。後程、お供いたしますので」
ファドマールにとっては、『悪い知らせ』 はどうやら、冗談ではないらしい。神経質そうな眉の間がぐっと狭まっている。
―――― 悪霊などすぐにでも聖剣でぶった斬ってやりたい、と思っているのだ。
すればルイーゼが悲しむから、しないだけで。
「そうしましたら…… より悪い知らせ、というのは?」
「国王陛下が、お倒れになられました」
「まさか……」
ルイーゼは息を呑んだ。
恐れていたことが、ついに来てしまったのか……
(まさか…… 国王様を直接、狙うというのでしょうか……
それにしても、リュクス様に続いて、国王様までだなんて…… いいえ、まだ、決まったわけではありません。しっかりしなければ……)
ファドマールが気がかりそうに、ルイーゼの顔を見つめた。
「大丈夫ですか? ご気分は?」
「ええ…… すみません、少し取り乱してしまいました。国王様、朝の謁見の折には、お元気でしたのに……」
「昼食の後、急に、眩暈がするから横になりたい、とおっしゃったそうです。すぐに医師が呼ばれましたが、原因不明……
今は悪夢を見ておられているようで、しきりに苦しそうに呻き、何かから逃げようとするように身をよじったりなされているようです」
「ファドマール様は、どこでそれを?」
「王妃様から聖騎士団に使いがあり、聖女様とルイーゼ様をお呼びするように言付かりました」
「すぐ、参ります。お母様は?」
「すでにお支度をしておられます」
「…… パトラ。わたくしたちも、急ぎましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
ルイーゼは小さくタメイキをつき、立ち上がった。
すぐにでもザクスベルトに会いに行きたいが、こうなってしまっては、国王優先にするしかない ――――




