9-3. 舞踏会③
【いや、だから俺は悪霊で】
唐突なルイーゼの申し出に、ザクスベルトは狼狽えた。
よく見れば、隣のミニテーブルに置かれた空の発泡酒のグラスが、1、2、3、……
彼女は、会場係の回収も間に合わないほどのハイペースで飲んでいる、ということになる。
あまりにもお上品にやってたから、気づかなかったのだ。
【飲みすぎじゃないか、ルイーゼ】
「あら、ザクス兄様。わたくし、もう大人ですのよ? お酒も飲めるのです。ですから、踊りましょう?」
なにが 『ですから』 なのかはよくわからないが、ルイーゼが酔って、少しばかり大胆になっていることだけは、わかった。
「ね? 踊りましょう、兄様」
困ったことに、そんな従妹もまた、可愛い。
とろんとした流し目に、思わずぞくぞくしてしまう。ほかの男に見られてないだろうな。
【俺はほとんどの者からは見えないんだぞ? そんなことしたら、ルイーゼの気が狂ったと思われる】
「かまいませんわ。そうしましたら、リュクス王太子様の婚約も穏便に流れるかもしれませんもの。あら、存外にいい考えです……
そうね、気が触れたように装うという手も、ございますね」
【俺が困るよ。ルイーゼがヘンに思われるのは、困る】
「では、外で……」
【俺のせいで悪天候だぞ、外は】
「ならば、なおのこと、都合が良いでしょう? きっと、どなたも、いらっしゃいませんもの」
ルイーゼに、引き下がるつもりは一切なかった。
せっかく、酒の力で、普段ならできそうにないお願いがすいすいできているのだ。
そのうえ、一生に一度のデビュタントである。
―――― この機会を逃し、聞き分けのいい良い子になど、なってなるものか。
「誰にも見られませんもの、ね?」
【…… わかったよ】
ザクスベルトとしては、物凄く抵抗し、葛藤した末、のつもりだった。
だが、もしほかの者が見ていたらこうツッコむに違いない。折れるの早っ。
ルイーゼが嬉しそうに、ザクスベルトの腕をとった。
「感謝いたしますわ、ザクス兄様」
【少しだけだぞ】
「…… 聞こえませんでした」
ルイーゼとザクスベルトがこっそり会場を抜け出したのを見た者は、ほぼ、いなかった。
―――― ルイーゼとそっくりの黒髪に、黒い瞳の聖騎士以外は。
彼は、その美しい顔面に非常に難しい表情を浮かべ、ふたりの後を追ったのだった。
※※※※
時折射し込む雷光が、黒い空に重く垂れ込めた雲をほの白く照らし、細かな雨をきらめかせる。
星の見える夜ならば、あずまややそこここの木陰に見える舞踏会の熱に浮かれた男女も、この天候では全く姿を見せない。
人ひとり、いや、生きて動くものは何ひとつ見えない暗がりで、ふたりは踊っていた。城から漏れ聞こえるのはワルツの調べ。
雨が、おろしてサイドに流した黒髪を濡らす。
ドレスの裾をしめった土と草で汚しながらも、軽やかにターンするルイーゼ。楽しい。
【もう、戻らないと。風邪をひく】
「そのようなことしかおっしゃれないのでしたら、まだ戻れませんわ、ザクス兄様?」
【…… とてもきれいだよ、ルイーゼ】
「兄様も。まるで銀色のオオカミみたい。建国の聖なるオオカミ」
【悪霊だがな!】
くすくすと笑うルイーゼを、ザクスベルトが横抱きに抱き上げた。
【もう戻ろう。本当に、風邪引いちゃうから。心配だから……】
「ではキスしてくださったら、戻ってもよろしくてよ」
【こら。悪ノリしすぎだ】
「だって、ウキウキしているのですもの。以前にこんな気分になったのがいつだったか、思い出せないほど久しぶり…… って、え?」
ルイーゼの視界が色のついたモヤのようなもので塞がれ、額に柔らかな冷たい感触があった。
「……………… えええええ!?」
一気に、酒の酔いが冷めた瞬間であった。
(わたくしったら、今、兄様に、なんという、恥ずかしいお願いを……!?)
いや、だってなんか、嬉しくて楽しくて、調子に乗っちゃってたんだもん。
それに、これまでのザクスベルトの様子からして、こういうお願いはスルーされると思ってたんだもん。
「ままま、まさか本当に、兄様ったら……」
【今回だけだ。一晩寝たら忘れるよ。まぁその、俺の存在そのものが、幻みたいなものだから……】
気まずそうに言い訳するザクスベルト。
―――― やっちまった、という気分である。
つまりは、彼女がかわいすぎて、これまでの自重を一瞬、ウッカリ、ついつい…… 忘れてしまったのだ。悪霊なのに。
突然、城の上に青白い光の柱が立ち、耳をつんざくような音が空気を震わせた。落雷だ。
【戻ろう。城の中は安全だから】
さっとルイーゼを抱え上げて、王城のほうへと歩くザクスベルト。
彼にはもちろん、ルイーゼの内心の悲鳴はわからなかった。
(忘れられるわけが、ないでしょう!?)
さて。
ふたりが戻っていった後 ――――
なおいっそう激しくなる雨の中、あずまやの陰から、ひとりの男が姿を表した。
彼は、何か考え込みながら、足早に王城とは反対側、中央神殿へと歩いていった。