0-2. プロローグ~婚約破棄と処刑~②
意外にも、甘い。同時に、舌が痺れるような強い痛みがある……
毒の正体はこの痛みだろう、と考えながら、ルイーゼは執行官に杯を返した。
「寝台に横におなりください。まずは眠くなります。眠りの中で、苦しまずに逝けるでしょう」
杯の中身は 『慈悲の毒』 。
けしから取った阿片と、毒草のみから蜂に集めさせた蜜毒との混合物であり、貴人の死刑にしか使われないものである。
慈悲に感謝いたします。
舌の痺れからうまく話すことができず、ルイーゼは無言でうなずいた。
「では……1時間後に参ります」
1時間後には、ルイーゼはもはやこの世の人でない。
執行官が去った後、言われた通りに寝台に寝転んだルイーゼはすぐにうとうとと眠り出した。
―――― 大したことのない人生だった。
公爵家に生まれたが、男の子ではないことでガッカリされた。
人並み以上の暮らしと教育を与えられたが、子どもらしい遊びはしたことがない。
幼い頃は 「できるとお父様が喜ばれます」 という教師や侍女の言葉を鵜呑みにして、何事にも励んだが、父親からほめられたことなどない。顔を合わせたこともほぼ無いのだから、当然か。
母親とは、話をした記憶がない。
国女神をまつる中央神殿の中で祈り、魔族から国を守る結界を紡ぐ聖女であった母が、その役目を離れられる時間は、ほとんど無かったからだ。
(そういえば、昔は…… 普通にお父様とお母様がいる子が羨ましいと思っていたのでした)
記憶はあるが、その時の感情は全く思い出せない。気づいた時には感情というものは、ルイーゼの中から消えていた。
無くても、困りはしなかった。
感情は、正しい判断を損ない、無駄ないさかいを生むものだから、要らない ―― そう、思っていたのだ。
だから、公の場で王太子から婚約破棄を宣言された時にも、何も感じなかった。
その直後にアッディーラの末姫の首に手を掛けたのは、怒りや悲しみのためではない。
錯乱したからでも、ない。
―――― あの時、ルイーゼの手足は、何者かに操られていたのだ。
面会に来た侍女が憤りながら知らせてくれた。
―――― あの場に、魔族の国アッディーラにしか生息しない特殊な蜘蛛の糸が残っていたのだ、と。
見えない糸で人や物を自在に操る、操糸術だったに違いない、と。
「必ず真実を明かします!」
「今はカシュティールとアッディーラの講和が優先です。アッディーラ側の機嫌を損ねるわけには参りません」
必死に言い募る侍女を諭したのは、適正な判断だった。
誰もが、そう言うだろう。
真実など、意味はない。
意味があるのは、役立つ駒であるかどうか……
「ぐっ……」
不意に、ルイーゼの喉から、呻き声が漏れた。
―――― 胃が、焼けつくようだ。
喉がしまって、息ができない。
心臓が、早鐘のように打っている。
苦しい、苦しい、苦しい、あつい、苦しい、あつい ……
傍目には眠っているように見えても実際には苦しいものなのだと、ルイーゼは知った。
眠りの中で苦しまない…… その定説は、執行官の罪悪感を減じるために唱えられたものだったのだと、初めて悟った。
その、途端。
閉じた瞼の裏で何かがぱん、と弾け、赤く燃え上がった。
叫びが、脳内を駆け巡り、占拠する。
(嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!)
それは、ルイーゼが心の底にしまったまま忘れていた、怒りだった。
(許しません……! このわたくしを騙した者も、利用した者も、好きに操った者も! わたくしは決して許しません……! 地獄に堕ちても呪って差し上げましょう……)
繰り返す、声にはならない悲鳴の中で、ルイーゼの意識は途切れ、闇に落ちた。
―――― できれば、幸せに、なりたかった。…… さま、と
最後に想ったのは、今はもうこの世に亡き人のこと。
(…… きっと、もうすぐ、お会いできますね…… ザクス、兄さま……)