第三話 歩き巫女はここにいる
「『古今東西に問わず、来訪神とは一年に一度、決まった時期に共同体を訪ねてくる神性のことである』……ね」
既に深夜となった研究室で、開かない箱と悪戦苦闘しながら、ぼくは萌花くんの論文を精読していた。
冷めたコーヒーと、件の木乃伊も机の上には乗っている。
余談だが、乙瀬くんはぼくのデスクを『惨状だ アニメーターの 机かな』などと例えたことがあった。
……いかん。本気で余談だな、これは。
閑話休題。
えーっと。
額月萌花、彼女は概要を説明するのが上手いのだが、残念なことに具体例を参照するのが得意ではない。
例えば来訪神について語るのなら、有名どころであるトシドンやボゼ、あるいは男鹿のナマハゲなどを引き合いに出して、比較するべきだろう。
比べるということは、どこが違うのかを知るために重要なことだ。
そう、誤解を招きやすいが、ナマハゲとは本来神様のことであり、鬼を指す言葉ではない。あれもまた、厄を祓う神性なのだ。
一見して怖ろしいものも、本質は神であるということを忘れてはならない。
「『来訪神はその土地の住民を脅かし、あるいは噛みつき、泥をかけ、脅かすが、住民はそれをもてなすことで無病息災や、子宝、財を得る。この神性の多くは男神で、ヨギホトも例に漏れない。略式で行われる通年の祭祀と違い。十一年に一度のみ執り行われる伊賦夜島のオイデ型神幸祭〝目合ひ祭り〟では、海からやってきたヨギホトの偶像を島民達は歓待し、巫女はウロブネと呼ばれる祭祀堂で偶像と一晩を明かす。これによって島は漁業の成功を約束され──』」
──っと、まあ。
ここまで書けるのなら、その類型は来訪神歓待説話であるという但し書きが欲しいところだ。
どこでも爪弾きにあって、相手にされなかった神を、その地域の住人だけが手厚く歓待したことで財を得る。
恩返しの話であることを、彼女は明記できないでいる。
ヨギホトという来訪神も、草稿を読む限りこの形であるのは明白だ。
一方で先ほど引き合いに出したナマハゲは、悪事をいさめるためにやってくる神であるため、正反対であるともいえる。
少々奇異なのは、巫女と神が祭祀堂にて同衾するというものだが、似たような話がないわけでもない。
ただ、非常に独特である十一年周期の祭りという部分と同じく、詳細がまとめられていないのでなんともいえないのだ。
萌花くんには、確かに民俗学的素養があり、箱を餌にぼくを動かすような賢さを秘めているが、決定的に経験が足りていない。
一皮剥ければ大化けするような潜在能力を、彼女はきっと秘めている。
未来ある若人には、なんとか頑張って欲しいところである。
「興味深いのは、ヨギホトが海から来て無事に山へ登ると、翌年の漁が大漁になるという部分だ。これは、なんというか、恵比寿信仰に似ている気がする。だが、これもまた論文の中では言及されていない……」
箱の模様を、指先で薄くなぞりながら思索を巡らせる。
恵比寿といえば、世間一般的には七福神だが、漁業を生業にするものや孤島に住むものにとっては、漂着物をあらわしもする。
漂流物、寄り物、座礁した鯨やイルカ……流れ着いたものは、集落の共同財産として扱うという風習だ。
「なにより、恵比寿信仰の起源は〝ヒルコ〟にある。原初の神の失敗作、海に捨てられた最初の神……それは、ぼくにとっても思い出深いものだが──ん?」
そこまで考えたときだった。
ほとんど無造作に弄んでいた箱が、手の中でカチリと音を立てた。
これまで何をしても微動だにしなかったそれが、はじめてひとかけらだけ、横にずれたのである。
まるで。
まるでなにかが、呼応したように。
「…………」
隙間。
箱に開いた、わずかな隙間。
蛍光灯の光も射し込まない隙間の中は、奈落のように昏く。
けれど、気がつけばぼくは。
魅了されたようにその中を覗き込んでいて──
──目が、遭った。
ギョロリと剥いた虹色の眼。
箱の中に収まるはずもない巨さの眼球が。
確かに、確かにぼくを見つめ返して。
「──やめとけよ。そっから先は地獄だぞ?」
好奇心のまま、さらに箱を開けようとしたとき、背後から警告が飛んだ。
錆び付いたヴァイオリンのような、しゃがれた声だった。
「っ」
息を呑み、ハッと振りかえれば、そこに奇っ怪な何者かが立っている。
蛍光灯の灯りが及ばない薄暗がりにいるのは、フードを目深に被った、やけに小柄な人物。
ほんの数秒前まで、確かにこの部屋にはぼくしかいなかった。
にもかかわらず、妖しげな影がそこにいる。
「警戒するのはいいが、おててがお留守だぜ……?」
ぷらぷらと両手を振る怪人物の手には、例の箱と、いましがたまで読んでいたはずの論文が握られていた。
「な、いつの間に!?」
「いつの間にかっていえばよ、あっという間にさ。なになに? 『伊賦夜島の来訪神ヨギホトさまと現代河童の共通点について』? ふーん、ほーん。現代の河童ってのは、面白い着目点だな」
〝それ〟は、ドカリとぼくのデスクに腰掛けると、勝手に論文を読みふけりはじめた。
手の届くところにいる謎の人物。
無理だ、好奇心を抑えきれない。
ぼくはほとんど職業病で、その人物を観察してしまう。
少女。
それは少女だった。
目深に被ったフードの下にある顔つきは、酷く整っていて少年のようでもあり、しかし少女にしか見えず。
やさぐれ、悪びれた顔立ちには、不思議な愛嬌もあるが。
それらを差し置いてなお異質なのが、彼女の眼差しだった。
少女の虹彩は、白目がみえないほどに大きく、瞳孔は虚無。
のっぺりと張り付く異様な闇が、あるいは殺意にも近い険しさが、その瞳にはひたすらに宿っている。
そして、それはあくまで左目の話であり。
右目は大仰な眼帯によって、完全に閉ざされているのだった。
「……河童ってのは、乱雑なくくりだ」
薄い──恐ろしく薄い、いっそ骨がないような体つきの少女に。
ぼくは、いつの間にか見蕩れていた。
だから彼女が口にした言葉を理解するまで、しばしの時間が必要だった。
「河童は個体を現す名称じゃない。総称だ。そいつを多くの学者様は知りもしねェ。多種多様な水生動物を〝魚〟だと一括りにするぐらいの乱暴さだぜ? 強引にまとめた明治の研究者の功罪だが、おかげで河童の中にカテゴリーエラーが生じちまった。山に登る種類を河童だと照会するんだ、当然だよな?」
「キミは」
「冬、河童は山に登り、別のものに変化する。山童とか、ひょすべとか、セコとかだ。このヨギホトって神様も、同じように海からやってきて山へと上がり、性質を変える。問題は、だ。どう性質を変えるのか、この論文は論じきれていねェってことだよ」
き、キミは。
「解るのかい……その論文の内容が! どこに落ち度があるのかが?」
「あン?」
少女は、器用に片眉だけを跳ね上げ、愚か者を見るような顔で嘲笑した。
「あったりまえだろ。だっておれは、この街で唯一の〝歩き巫女〟なんだからな」