④
「あの子は、オマエの腕なんかじゃねーよ」
きっぱりと突きつけられた、ハルの断言。
少女は、突きつけられたハルのその断言に、打ち抜かれたように全身を激しく震わせる。あの、腕が入っていないシャツの右袖を震わし、その不在を強調させながら、唇は噛み締められていた時の赤を残し、微かに開いたまま震えている。顔からは、唇の赤以外の色が失われ、生きている事実を失ったように見えた。
ただ、唇より激しく振動する睫毛の動きだけが、まだ生きている事実を覚えているようで。
有り得ない現実が、ここにあるのだと理解するしかなかった。だって、ハルの断言に対する少女の反応が、ハルの断言の正しさを肯定してしまったのだから。つまり・・・、組み合わせがない神経衰弱が、ここに誕生していたらしい。
少女は、一歩、震えながら左足を下げた。しかし追随しようとした右足は、何かの力によってその場に釘付けにされ、下がることを許されない。握り締められているスカートの端は、たぶん、あと少しで引き千切れるだろう。
こんな緊迫した状況でさえなければ、そのスカートは僕にもう少し男子中学生らしい感情を呼び起こしただろうに。
「・・・か、えしてよ。返して。私のよ・・・、私の、だもの。私のじゃないなんて、なんで、アンタなんかに・・・」
「言えるに決まっているだろ。分からないわけないんだから」
「私のよ! 返して! 返してよっ!」
開かれた唇から、剥き出しになった白い歯が見えた。歯軋りまでする少女は、まるで手負いの獣のように歯茎までが微かに見えて、予想よりずっと赤黒いその様に、そしてハルが放つ断言に気が触れたように叫び出す少女の声に、一気に全身に鳥肌が立つ。腰が、引けた。少しでも気を抜くと、へたり込みそうになる。
でも、辛うじてその場に踏み留まることが出来たのは、へたり込むなんて情けない姿を晒さないですんだのは、人の理性を失っているとしか思えない少女の様にすら動揺せず、少女の左足が引いた分を追い込むように一歩踏み込んだハルの、物凄い頼りになる姿があったからだった。
この背に庇われている限り大丈夫だと思うような、力強さ。この場に現れて以来、一度もぶれることないその力強い姿に、もう僕の心臓はときめきっ放しだ。
ヤバイかもしれない。なんか、もう色々ヤバイかもしれない。いっそハルの背の力強さを無視してでも、座り込んでしまった方が良いのではないかと思うほどのヤバさだった。
真っ直ぐに、突きつける指先。右手の、人差し指がまるで突き刺すように少女の空虚な右袖に向けられ、眼差しは決して少女の瞳から離されず、全身は今にも少女に飛びかかり、その嘘を成敗する為に暴力を行使するのではないかと思うほどの気迫を纏っている。
正義の味方が、悪を倒す為の正義という名の暴力を震いそうな気配が。
ハルは、何か必殺技でも発射するのかと思うほどの態度で突き刺した指先をそのままに、たぶん、必殺技としての台詞を放ったのだ。
「オマエのじゃないんだから、返さないし、渡さない」
俺の目は、誤魔化せないんだぞ──、
オマエのその、首筋から肩までのライン──、
そのラインから、あの子は繋がらない──、
ラインが、オマエは固め、あの子はもっと柔らかい──、
厚みだって、違う──、
骨の太さと、肉の量が違うんだ──、
色だって、違う──、
あの子は自然な白だけど、オマエは色んな手を掛けすぎている白さだ──、
「全然違う、全然、違うんだっ!」
おまけに、腕の長さも違う──、
左腕と比べれば一目瞭然だ──、
服の上からだって、何枚重ねたって分かるんだぞ──、
オマエより、あの子は少しだけ肩から肘までの長さが短い──、
肘から手首のまでの長さも短い──、
でも、指の長さはあの子の方が長い──、
節だって、あの子の方が少し太い──、
掌も少しだけ広いんだ──、
「つまり、オマエの腕よりあの子の方が歩いた時に力強い優美さがあるっ!」
オマエみたいに、不健康な美しさじゃない──、
オマエみたいに、細さだけを追求した美しさじゃない──、
オマエみたいに、女の子らしい柔らかい可愛らしさを失ってない──、
「分かるかっ! 分かるのか! あの子は、オマエとは似ても似つかない美しさと可愛らしさがあるんだぁ!」
ハルの絶叫が、僕達三人しかいない夜道を怖ろしい集団のように駆け抜けていった。駆け抜けていった? いや、抜けてない。駆けてきた集団のうち、何割かがこの場に残って残響として居座っている。少なくとも、僕の目には見えていた。三人いる中で僕だけにしか見えていないのだろうけど、絶対に居座っていた。
それだけ凄い力があったのだ。ハルの絶叫、必殺技には、必殺なだけあって、僕が漠然と想像していた以上の、とてつもない力がそこにあって・・・、冷たいアスファルトの上に、静かに、力なく崩れ落ちたのだ。
・・・僕が。
ハルに庇われ、あれだけ怖ろしい思いをしながらも踏み留まっていた僕の足の力が、一切の力を失って芯をなくしたようになり、僕はその場に両手をついて崩れ落ちた。それは丁度、全ての始まりの日、ハルの部屋で僕の身に起こった状況と、僕の心情的にはとてもよく似ている。本当に、とても、とてもよく似ている。
もう、少女がどんな反応をしているのか、攻撃を放ち終わったハルがどうしているのか、確認する余力は僕にはなかった。両手をつけたアスファルトに視線を据えて、それ以上、自分が崩れ落ちないように支えるだけで精一杯だったのだ。
でも、その努力すらも長くは続かない。何故なら必死で開いている目から涙が滲み始め、視線を据えているはずのアスファルトの黒すら遠退いてしまったからだ。
掌から、アスファルトの冷たさが伝わってきた。身体が、小刻みに震えていく。でも、それは感じる冷たさの所為じゃない。内側からの冷たさで震えているのだ。いや、もしかすると、冷たさじゃなくて熱さなのかもしれない。
燃え上がる熱さじゃなくて、燃え切れなかった燃え滓に残った熱による震えか?
それとも冷たさか熱さか、どちらか分からないがそれを感じる傷みの所為か?
・・・って、もう何を言っているのかよく分からなくなってきた。でも、もういい。ぶっちゃけ、今は何も分かりたくない。
だって、もう分かっていたけど改めて知りたくはなかった事実を突きつけられてしまった今、どんな事実も知りたくないのだ。
あと少しでも何か、よからぬ攻撃を受けたら、涙を流すどころではなくなってしまう。本来は僕に存在しないはずの攻撃性が目を覚まし、力を失った足にも新たな力が生まれ、全力で生まれた力を解き放ってしまいそうだった。
・・・勿論、ハルに向かって。
ヒーロー・・・、だと思った。というか、思いそうになった心をどうにか宥めようとしたのに、宥めきれずに胸がときめきさえしていたはずだった。開いてはいけない扉すら開きそうになり、必死で扉を塞いだくらいだったのに・・・、どうして、なのだろう? 本当に、どうして今、僕はこんな惨めな姿を晒しているのだろうか?
一体、僕が何をしたというのだろう? 神様は、どうして僕にだけこんなにも辛く当たるのだろう? もしかして、僕が全く神様を信じていないから、天罰的な意味で辛く当たるのだろうか? っていうか、冷静に考えたら僕に辛く当たっているのは神様じゃなくて、僕の味方のはずの存在じゃないだろうか? コイツは、僕を助けに来たんじゃなかったのだろうか? どうしてコイツは、僕を更なる窮地に追い込んでしまうのだろうか?
・・・そう、窮地だ。これは、もう絶体絶命に近い窮地だ。
涙が、何粒も落ちた。
たぶん、アスファルトがその黒さを増していると思うのだが、次から次へと涙が滲んでいる僕の目では、もうそれすらも分からない。何も分かりたくないので敢えて分かろうとはせず、ゆっくりと、静かに顔を上げていく。
とてもゆっくりと顔を動かしたはずなのに、また何粒か、動きに堪えきれず零れ落ちた。
堪えきれなかったことにまた虚しさを感じながらも、僕はどうにか顔を上げきり、今、そこに広がる現実を視界に映す。ただ、正直に言えばもうそこにどんな現実が広がっているのかに興味はなかった。どんな現実も知りたくなかったし、知る気力もなかったから。
だから映そうとして映したわけではなく、顔を上げたら、視線を向けたら、ただ映ってしまった、というだけのこと。
少女は、そこにいなかった。一体どういう流れで消えたのか、消えた時にどんな様子だったのか、それらは一切、分からない。分かりたくもないし、考えてみたくもない。だから消えた少女に対するコメントは一切口にせず、意識の外からも押し出す。
そしてその代わりに、静かに顔の向きを前方から斜めにずらすと、消えていないもう一人にその視線を向けた。
ハルは、そこにいた。そこに、いたのだ。
ゆっくりと、下から上にその姿を確認していくと、ハルは先と変わらぬ堂々とした、力強い姿でそこに佇んでいた。
少しだけ広げた足でしっかりアスファルトを踏み締め、先まで上げていた右手を下ろし、左手と揃えて腰を掴むように当て、胸を僅かに反らし、顎も心持ち上げた、何か、妙に自信満々のスタイルで、そのスタイルに相応しい、自信満々の表情に微かな笑みを刻んでそこに佇んでいたのだ。
勝利のスタイル、勝利の笑み、というヤツか。
じっと見つめる僕の視線の先で、ハルは静かに、瞼を閉じた。そして笑みを刻んだままゆっくりと首を左右に振ると、軽く、溜息を零す。疲れ切っていたり、何かを諦めたりする時のものとは違う、溜息。それは何かを達成した心地好い疲れの中、その満足感に包まれながら零す溜息だった。
そしてその溜息を吐ききった口をもう少し開くと、ハルは静かに、それこそ溜息を吐き出すような呟きを零した。
「勝利とて・・・、虚しいものだな」
「・・・あほかぁー!」
全力の、絶叫が迸った。勿論、僕の口からだ。
ヒーローが悪を倒した後、その戦いの虚しさを零すかのような台詞に、とうとう僕の中の何かが限界を迎えてしまったのだろう。間違いなく、それは堪忍袋の緒的な何かだったのだと思うのだが、その真偽のほどを問い質すだけの時間も余裕も僕には存在していない。
一度、叫んでしまった以上、感情は一気に高まり、もう止めようがなくなってしまうからだ。
火山が噴火するかのように、人間の意思だけではどうにも止めようがなく、科学の力を持ってしても、ある程度、噴火の力が収まらない限りは手の打ちようがない、という状況にとてもよく似ていたかもしれない。つまり、僕自身にもどうにもならない、という状態。
僕には、顔を上げ始めた段階でこうなるだろうという予測があった。でも、こんな事態は想像すらしていなかったらしいハルは、僕の絶叫を聞いた途端、驚きのあまり目を見開き、跳ねるようにして僕の方に向き直ったのだ。表情を困惑の形に変え、訳が分からないといわんばかりの空気を纏って。
・・・きっと、本当に分からないのだろう。ハルに僕のこの絶叫の意味が、気持ちが分かるようならば、最初からこんな虚しい事態は起きていなかったのだから、この事態が起きてしまっているということは、つまりハルには分からない、ということなのだ。
それは分かっている。分かっているが、しかし今は、そんなハルの心境や表情すらも憎らしい。
だって、全てはハルの所為なのにっ!
目が釣り上がっていくのが、鏡を見なくともはっきり分かった。こめかみに、血管すら浮き出していたかもしれない。唇はわなわなと震え、肩も同じくらい震え、もしかすると髪の毛が何本か立っていたという可能性もある。
あるいは、湯気とかが身体から立ち上っているのかもしれない。怒りという、湯気が。
もし出来ることなら、この熱でコイツを熱してやりたいと思いながらも、僕は震える足に力を入れて、立ち上がる。そして未だに驚きの表情を浮かべているハルに向かって、心の底からの、渾身の叫びを解き放ったのだ。
「きっ、気持ち悪すぎるんだよっ! オマエはぁ!」
「・・・はぁ? 何がだよ!」
「何がもなにも、分かりきってることだろう! オマエ、人の顔は覚えないくせに、どうして部位の特徴だけはそこまで詳細に覚えてるんだよっ! 詳しすぎて、気持ち悪いっつーの! 引くわ!」
「何で覚えているのかも何も、あれだけ素敵な相手なら、毛穴の数まで覚えているに決まっているだろ?」
「決まってねーわ!」
「ってか、俺、オマエが頭のおかしそうな嘘つき女に絡まれてたから、助けに入ったのに・・・」
「その助けてくれた感動をぶちこわしにしたのはオマエだろ! つーか、頭のおかしさをオマエが語るな!」
放った叫び声に合わせて、涙が零れ落ちた。俺の感動を返せという気持ちと、分かっていたけどやっぱり変態だったという事実に対する辛さと、しかも分かっていた以上に変態だったという知ってしまった真実に、どうしようもない絶望のようなものが体中から吹き出してきそうだった。
しかし僕の渾身の叫びを、ハルが理解することはない。僕の叫びに不本意そうな顔をするハルの様を見るまでもなく、それは分かっていることだった。叫ばれたくらいで理性を取り戻してくれるのなら、変態は変態ではないのだから。
・・・全ては、分かりきっていた。だからこそ、僕の燃え上がっていた熱は、もしくは下がりきっていた熱は、全てを出し切ったところで諦めを滲ませて緩やかにその動きを止める。同時に、この十数分で一番の溜息が零れた。身体からも力が抜けてしまい、当然、気力も失われていって。
情けなかった。本当に、情けなかった。
この変態をヒーローだと感じてしまっていたことも情けなかったし、その変態に助けてもらった事実も情けなかったけれど、一番情けなかったのは、今、全ての力と気力を失っていることだった。
全力の雄叫び、それを放っただけで力尽き、それ以上の糾弾が出来ないでいる、僕自身の根性のなさが情けなくて仕方がなかったのだ。
どうして僕は、いつもハルにほんの少しでも抗議の爪痕を残せるまで頑張れないのか、と。
「っていうかぁ・・・、あのウソツキ女、とりあえず嘘がバレた所為だと思うけど、どっかに走り去ったからさ、もう行かね?」
爪痕の一切ついていないハルは、たった数秒前の僕の渾身の叫びや、そのやり取りを綺麗さっぱり放り投げ、あっさりと話題も行動も自分が持っていきたい方へ持っていってしまった。一切の、未練無く。
力が抜けて動けない僕の手を、ハルはあっさり手にとって引っ張るようにして歩き出す。あの少女に会いさえしなければ進んでいたであろう方向、その少し先にある曲がり角に向かって僕を引き摺っていくハルは、僕の抗議は気にならなかったようなのに、あの少女の嘘だけは気になって・・・、というか、腹立たしさが収まらないらしく、独り言のように名も知らぬ少女に対する悪態を呟いていた。
「あんな不細工のくせに、真白を騙るなんて信じられないよな」だとか、「っていうか、不細工だから真白を狙ったんだろうな。きっと、真白をつけて美人になろうとしたんだぜ」だとか、かなり頭の沸いた邪推を呟きながら歩くハルに引き摺られながら・・・、力を失って怒ることを止めた脳に、とても自然に一つの疑問が浮かぶのが見えた。
そして浮かんだそれに、当然の結論として口が問いを零していたのだ。
「っていうか・・・、結局、あの子、誰だったのかな?」